人の言葉の中での修行 2018年11月14日 | 法理 私たち衆生には、「何か目的を持って生まれてきた」という人は一人もありません。 「不知不識生(知らず語らずに生まれた)」なのです。 また、「無目的という目的」があって生まれてきたという、そういうこともありません。 本当に「縁」に因って生じ、縁に因ってこのような営みが出来ているということです。 そこにはよくいうように、意義付けることも、意味付けることも、何もありません。 ですから出来るだけ「人の言葉の中での修行」ということを止めないといけません。 « 無我とは4 | トップ | 刹那1 »
4 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 出家について (keisuke) 2018-11-15 10:40:44 コメント投稿より失礼をいたします。私は現在32歳ですが、数年前より坐禅をしており、自分に付いていた思い込みの苦しみから大分解放されてきた実感を得ております。まだ色々なことを考えで追ってしまう所もあるのですが、自分が救われてきたことで、一人でも苦しんでおられる方にお伝えできたらと思っております。僧堂に入って資格を取ることが禅を伝えることではありませんが、後にお伝えしようとした時に僧侶であった方がいいのでは、一度俗世を捨てた環境に入った方がいいのでは、と出家を考えるようになりました。僧侶として何十年と仏道を精進されておられるご住職のご意見・ご忠告などを伺えましたらと、こちらから投稿させて頂きました。もし可能でありましたら、ご返答願えませんでしょうか?どうか宜しくお願いいたします。 Re:出家について (後藤抱道) 2018-11-15 23:39:29 コメント有り難く拝見いたしました。在家のままか僧堂へ行き坐禅修行をするのかの二者択一でお考えならば、私見で恐縮ですが、現在の僧堂(道場)には貴方が正しく満足できる指導者は残念ながら見受けられません。参師聞法(さんしもんぽう)というお言葉がありますが、貴方が本当に納得できる師を求めて「法(道)」を聞かなければならないと思います。道元禅師の御言葉を拝借すれば「発心正しからざれば万行(まんぎょう)空しく施す」になってしまいます。どうか「坐禅修行」を志すのであれば僧堂にこだわらず、「明眼(めいがん)の師」を求めて下さい。 ご返答ありがとうございます。 (keisuke) 2018-11-16 17:02:26 お忙しい中、ご意見をお聞かせくださり心より感謝いたします。私は主に葬儀や法要をしたいという訳ではなく、一瞬でも、何もしなくても救われている時があることを、坐禅を通していつか伝えられるようになりたいという想いでおります。そのいつかの時に、資格があった方が耳を傾けて頂きやすいかと思っており、在家か出家か、二者択一でずっと考えておりました。。しかしながら、僧侶という肩書きをお持ちでも、ご住職のような方ばかりではないことも、色々なお寺に行って存じ上げております。ご住職のご意見ありがたく頂戴いたします。今後も拝読させて頂きます。本当にありがとうございました。 Re:ご返答ありがとうございます。 (後藤抱道) 2018-11-16 18:34:34 こちらこそ大変有り難うございました。 規約違反等の連絡 コメントを投稿 ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
私は現在32歳ですが、数年前より坐禅をしており、
自分に付いていた思い込みの苦しみから大分解放されてきた実感を得ております。
まだ色々なことを考えで追ってしまう所もあるのですが、
自分が救われてきたことで、一人でも苦しんでおられる方にお伝えできたらと思っております。
僧堂に入って資格を取ることが禅を伝えることではありませんが、後にお伝えしようとした時に僧侶であった方がいいのでは、一度俗世を捨てた環境に入った方がいいのでは、と出家を考えるようになりました。
僧侶として何十年と仏道を精進されておられるご住職のご意見・ご忠告などを伺えましたらと、こちらから投稿させて頂きました。
もし可能でありましたら、ご返答願えませんでしょうか?
どうか宜しくお願いいたします。
在家のままか僧堂へ行き坐禅修行をするのかの二者択一でお考えならば、私見で恐縮ですが、現在の僧堂(道場)には貴方が正しく満足できる指導者は残念ながら見受けられません。
参師聞法(さんしもんぽう)というお言葉がありますが、貴方が本当に納得できる師を求めて「法(道)」を聞かなければならないと思います。
道元禅師の御言葉を拝借すれば「発心正しからざれば万行(まんぎょう)空しく施す」になってしまいます。
どうか「坐禅修行」を志すのであれば僧堂にこだわらず、「明眼(めいがん)の師」を求めて下さい。
私は主に葬儀や法要をしたいという訳ではなく、
一瞬でも、何もしなくても救われている時があることを、坐禅を通していつか伝えられるようになりたいという想いでおります。
そのいつかの時に、資格があった方が耳を傾けて頂きやすいかと思っており、在家か出家か、二者択一でずっと考えておりました。。
しかしながら、僧侶という肩書きをお持ちでも、ご住職のような方ばかりではないことも、色々なお寺に行って存じ上げております。
ご住職のご意見ありがたく頂戴いたします。
今後も拝読させて頂きます。本当にありがとうございました。