「大自在の世界」が「智慧」です。
無辺の世界が「智慧」です。
限られないのが「智慧」です。
「大自在」というのは彼方と此方が一つに成る」ことです。
この時小さい自己がなくなります。
「天地一枚の全自己」が「自覚」されるのです。
天を見れば天と一つに成る、世界を見れば世界と一つに成る、この
「自在力(じざいりき)」は最も大きな「大自在力(だいじざいりき)」です。
「大自在の世界」が「智慧」です。
無辺の世界が「智慧」です。
限られないのが「智慧」です。
「大自在」というのは彼方と此方が一つに成る」ことです。
この時小さい自己がなくなります。
「天地一枚の全自己」が「自覚」されるのです。
天を見れば天と一つに成る、世界を見れば世界と一つに成る、この
「自在力(じざいりき)」は最も大きな「大自在力(だいじざいりき)」です。
「般若の智慧」というのは、大きなことをいうのです。
絶対無辺なるものを「般若」と称するのです。
それは、人は「智慧」を好むものですから、その好む「智慧」を「囮(おとり)」
にして「智慧」といったのです。
私たち衆生に具わっているおおきな「智慧」ではありませんか。
私たち衆生の「心」である「摩訶(まか)」ということを知らせんが為に
私たち衆生の愛している「智慧」という字を借りたのです。
物を知るということとは違います。
即ち「己れを忘じて無辺の世界と一つに成る」というのが「般若」の意義
なのです。
必ず、「宇宙総がかり」にならなければ聴こえないのです。
それが大きな聴き方です。それが、「智慧」です。
「因と縁と合して」聞くのです。
「縁」は「宇宙」です。
「宇宙」を「縁」とし、「此方」を「因」としているのです。
「縁」というのは宇宙総がかりです。
「此方の因」に「宇宙の縁」を添えて初めて聞くことが出来るのです。
私たち衆生に「音波」が「耳」に感じて「聞く」ということは、私たち
衆生に「聞くという因」があるからです。
「聞くという原因」がなければ聴けませんが、「此の原因」ばかりでも
聴かれるものではないのです。
「彼方に縁」がなくては聞かれるものではないのです。
「我が心」というものはそんな「魂」のあるいまいましい意ではありません。
「我が心」は「宇宙」に偏在しているのです。
「小さな我が心」というものはないのです。
腹が立たないのです。
何事でも腹が立たないのです。
何故ならば「彼方」の相手は「皆我が心」のあらわれだからです。
「因」というものは「此方」にあります。
「此方」にありますが「因」というものは「魂」とは違います。
「因」とはものの原因です。
「原因が結果に成る」には必ず「此方の縁」によって成り立つのです。
電車の音を聞くのでも、何ものも聞くという考えはないのです。
「魂」という名を聞いたから「魂」が聞くと思うだけなのです。
「魂」はないのです。
「己れ」はないのです。
「唯因縁に依って聞くという事実」があるのみなのです。
「此方」ばかりでは聞くという「事実」はないのです。
「此方」に聞くものがあると思うのが「迷い」なのです。
「此方」に「魂」があると思うのが「迷い」なのです。
これは余程考えなければなりません。
何故ならばそれを「心」と思っているからです。
「皆我が心なり」といっています。
それでは我々は迷っているのです。
行かんとすれば即ち行き、坐せんとすれば即ち坐するではありませんか。
衆生そのままと見れば衆生という邪見があるのです。
要するに「名」は便宜上つけたばかりで「名」というものは、ものにはないのです。
「難波の芦は伊勢の浜荻」
伊勢の浜荻は難波の芦という役で、芦そのものに「名」はないのです。
凡て「見」ということは、その物と二つになります。
一心なれば見るものと見られるものがないのです。
常に変化して止まないところに一心の妙味があります。
「常見」の起こされない処です。
変化しつつ、心はいつも変わらないものなのです。
何もないものと見れば「断見」、仏を見れば「仏見」となります。
「見」は迷いなのです。「邪見」なのです。
「仏」というのは「ほどける」ということです。
あなた方は何ものか。
そこに悟れるものがあれば「自然(じねん)」にほどけるのですが、悟る
ものがなければそれは「仏」ではありません。
ただ名をつける「仏」というのは「邪見」です。「仏見」です。
そのままを守るというのが「心」なのです。
外に求めるから迷いなのです。
外道なのです。
耳でものを聞き、鼻でものを嗅ぐということ、口でものを食べるということ、
心にものを思うということは皆「心」なのです。
皆「心」ですから、その上に説明も研究も要らなくなるのです。
只、働けばよいということになるのです。
覚者は「分別即自己」を絶滅するために「無」を説いたのです。
分別が迷いを生ずるのです。
道歌に「分別を分別せずば、分別も分別ながら分別はなし」と。
かくて「無」の字を説いて分別ながら分別を取って、分別を無分別 光として
使う処を忘れては「断見」になるのです。
とにもかくにも迷うのは「心」なのです。
即ち私たち衆生が朝から晩まで活動する、そのことが即ち「心」なのです。