活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

般若の智慧2

2019年05月12日 | 般若心経

「大自在の世界」が「智慧」です。

無辺の世界が「智慧」です。


限られないのが「智慧」です。

「大自在」というのは彼方と此方が一つに成る」ことです。


この時小さい自己がなくなります。

「天地一枚の全自己」が「自覚」されるのです。


天を見れば天と一つに成る、世界を見れば世界と一つに成る、この

「自在力(じざいりき)」は最も大きな「大自在力(だいじざいりき)」です。



般若の智慧1

2019年05月11日 | 般若心経

「般若の智慧」というのは、大きなことをいうのです。

絶対無辺なるものを「般若」と称するのです。


それは、人は「智慧」を好むものですから、その好む「智慧」を「囮(おとり)」

にして「智慧」といったのです。


私たち衆生に具わっているおおきな「智慧」ではありませんか。


私たち衆生の「心」である「摩訶(まか)」ということを知らせんが為に

私たち衆生の愛している「智慧」という字を借りたのです。


物を知るということとは違います。


即ち「己れを忘じて無辺の世界と一つに成る」というのが「般若」の意義

なのです。


此方3

2019年05月09日 | 般若心経

「縁」というのは宇宙総がかりです。

「此方の因」に「宇宙の縁」を添えて初めて聞くことが出来るのです。


私たち衆生に「音波」が「耳」に感じて「聞く」ということは、私たち

衆生に「聞くという因」があるからです。


「聞くという原因」がなければ聴けませんが、「此の原因」ばかりでも

聴かれるものではないのです。


「彼方に縁」がなくては聞かれるものではないのです。



此方2

2019年05月08日 | 般若心経

「我が心」というものはそんな「魂」のあるいまいましい意ではありません。


「我が心」は「宇宙」に偏在しているのです。

「小さな我が心」というものはないのです。


腹が立たないのです。

何事でも腹が立たないのです。


何故ならば「彼方」の相手は「皆我が心」のあらわれだからです。


「因」というものは「此方」にあります。

「此方」にありますが「因」というものは「魂」とは違います。


「因」とはものの原因です。

「原因が結果に成る」には必ず「此方の縁」によって成り立つのです。


此方1

2019年05月07日 | 般若心経

電車の音を聞くのでも、何ものも聞くという考えはないのです。

「魂」という名を聞いたから「魂」が聞くと思うだけなのです。

「魂」はないのです。

「己れ」はないのです。


「唯因縁に依って聞くという事実」があるのみなのです。

「此方」ばかりでは聞くという「事実」はないのです。


「此方」に聞くものがあると思うのが「迷い」なのです。

「此方」に「魂」があると思うのが「迷い」なのです。


これは余程考えなければなりません。

何故ならばそれを「心」と思っているからです。


「皆我が心なり」といっています。


一心 2

2019年04月18日 | 般若心経

それでは我々は迷っているのです。

行かんとすれば即ち行き、坐せんとすれば即ち坐するではありませんか。

 

衆生そのままと見れば衆生という邪見があるのです。

要するに「名」は便宜上つけたばかりで「名」というものは、ものにはないのです。

 

「難波の芦は伊勢の浜荻」

伊勢の浜荻は難波の芦という役で、芦そのものに「名」はないのです。


一心 1

2019年04月17日 | 般若心経

凡て「見」ということは、その物と二つになります。

一心なれば見るものと見られるものがないのです。

 

常に変化して止まないところに一心の妙味があります。

「常見」の起こされない処です。

 

変化しつつ、心はいつも変わらないものなのです。

何もないものと見れば「断見」、仏を見れば「仏見」となります。

 

「見」は迷いなのです。「邪見」なのです。

「仏」というのは「ほどける」ということです。

 

あなた方は何ものか。

そこに悟れるものがあれば「自然(じねん)」にほどけるのですが、悟る

ものがなければそれは「仏」ではありません。

 

ただ名をつける「仏」というのは「邪見」です。「仏見」です。


「無」を説く2

2019年04月16日 | 般若心経

そのままを守るというのが「心」なのです。

外に求めるから迷いなのです。

外道なのです。


耳でものを聞き、鼻でものを嗅ぐということ、口でものを食べるということ、

心にものを思うということは皆「心」なのです。


皆「心」ですから、その上に説明も研究も要らなくなるのです。

只、働けばよいということになるのです。


「無」を説く1

2019年04月15日 | 般若心経

覚者は「分別即自己」を絶滅するために「無」を説いたのです。

分別が迷いを生ずるのです。


道歌に「分別を分別せずば、分別も分別ながら分別はなし」と。

かくて「無」の字を説いて分別ながら分別を取って、分別を無分別 光として

使う処を忘れては「断見」になるのです。


とにもかくにも迷うのは「心」なのです。

即ち私たち衆生が朝から晩まで活動する、そのことが即ち「心」なのです。