「境遇は結果」です。
「結果」はどうすることも出来ないものです。
「結果は即ち、真理」です。
この事を仏教では「因縁生空」といっています。
私が「因」であり、貴方が「縁」なのです。
貴方と私とが因と縁によって結びついた処が「結果」なのです。
即ち「私たち衆生はその境遇に満足しなければならない」のです。
「私たち衆生は全く一つの物」です。
「空」とは「一つの物」ということです。
離れることはどうしても出来ないのです。
「境遇は結果」です。
「結果」はどうすることも出来ないものです。
「結果は即ち、真理」です。
この事を仏教では「因縁生空」といっています。
私が「因」であり、貴方が「縁」なのです。
貴方と私とが因と縁によって結びついた処が「結果」なのです。
即ち「私たち衆生はその境遇に満足しなければならない」のです。
「私たち衆生は全く一つの物」です。
「空」とは「一つの物」ということです。
離れることはどうしても出来ないのです。
物心が付く頃に「相対的認識」が芽生えて来ます。
それが「自我」の始まりです。
しかし、そういう「自我」が発達するのも「法の働き」なのです。
「自我」そのものは、実体の無いものです。
「実体の無い物」ということは人類史上おシャカ様が初めて気づかれたものです。
これは非常に矛盾したことですが、「自我」が無ければ「迷い」はありませんし、「悟り」もありません。
他の動物は人間(にんげん)ほど相対的認識が強くないので「自我に因って迷い、自我に因って悟りを開く」という事は不可能です。
すべてのものに「法」は有(在)るのですが、人間(にんげん)だけが「法」を自分で納得のいくものとして受け取ることが出来るのです。
死というものが怖いという人います。
これは自分というものを持って、亡くなった事を想像するからです。
人の死でも同じ事がいえます。
この物全体が死ぬのですから、自分が死ぬという事が分かるはずがないのです。
いわゆる人の死は、死だけではありません。
私たち衆生は、今そうしているうちにも生死「しょうじ」と謂うものを、繰り返しているのです。
何時でも何をしていても、何処にいても生死を繰り返しているのですから、間違っても人の機能が働かなくなって体が冷たくなった様子だけを、人の死と思って頂かないようにしないという事になります
修行していく態度というのは、自分の考えというものを一度忘れていただかなければなりません。
何故ならば、「自分という物の考え方」は、小さいからです。
法(道)を得ると今度は、皆さんがお持ちのそれぞれの素晴らしいお考え、そういうものを、広く大きく深く広げていけるようになります。
「自分を無にするという本来の意味」は、自分を考えないでいいんだとか、考えてはいけないんだという事では、ありません。
「自分を大きくすること」です。
天桂禅師曰く「人人(にんにん)事(じ)を明むる時は、皆 涅槃に到るかと言うと、実に明むるは本より涅槃とていう物無きなり」と。
「涅槃」というのは、「楽に成る」事です。
遠くから見る桜と、山の麓から見る桜という物は、大いに趣きが違います。
吉野山の奥にたくさん桜を植えたので、吉野の桜というものが出来たのであって、唯一本有(在)っただけでは、何でも無いのです。
それを遠くから見るからきれいなのです。
「生死(しょうじ)」という物もそれと同じです。
思惑さえ切ってしまえば、後には何も残る物は、無いのです。
生まれる時は、「縁起」に因って生まれるのです。
死ぬ時は「縁起」に因って死ぬのです。
此れが「生死即涅槃」です。
私たち衆生は、本来自分を捨ててしまった生活に生きているのです。
それをそのまま「自覚」すればいいのです。
そう言う状態に有(在)る姿を知らず識らずに、実生活しているからです。
実生活をしたいと思ったら、計らずも実生活をしていたという事なのです。
今迄は、「念(心)が起きなかったのに、(動かなかったのですが)「心(意)一念」が、起きたのです(動いたのです)。
それで「心(意)一念」が起きる前の状態を、「心(意)一念」が「自覚」出来るのです。
後から無門という和尚さんが次のような寸評を加えています。
「余りにも趙州の答えが親切すぎて、そのまますぎて、かえって新米の和尚の所得(悟り)に至るのを遅くするのではないか」と。
禅門では気付くことを「省(しょう)あり」と呼んでいます。
「省あり」とは「大悟(だいご)」に至る前の段階の事であり「途中のもの」です。
それが落とさなければならない処なのです。
もう一つ落とさなければ悟り(大悟)には至らないのです。
「明眼の師」がいなければ落とせない処なのです。
私がブログを開設してから使用してきた「悟り」とは「大悟」の事です。
一つの真実(一つの本当の事)も、捉える人の思いや感性に因って、様々に変化してしまうのが実情なのです。
「物事」は、一方から見たり考えたりするのではなく、「多角的」に見たり考えたりすることが必要となり、場合に因っては、疑ってかかる事も必要ではないでしょうか。
執着を手放さなければ、「この世」を只、さまようだけの「浮遊霊」となります。
黄泉の国に旅立つために、現世に思いを残さないように、人生を送って来たかどうか、満たされる事の無い思いや、自分に対する自身の無さは、「自己愛の不足」になっていくのです。
それにも「思い」を手放す事です。
然し自己愛を大切に思う心を持たなければ、「あの世」への旅立ちの妨げと成ります。
共感は、他人を思いやる心です。
同情は、思いやりです。
共感の心を持った人は、死を迎えた時間はかかってもそれを受け入れることが出来ます。
同情する心を持った人は、自分自身が不幸になることを想定していないため、死を受け入れません。