河童の歌声

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弁当箱の思い出

2018-05-08 11:52:29 | 日記




私が(弁当箱)なる物を持って行ったのは、
中学校の3年間だけだったと思うのです。
小学校の時は、皆さんもそうだったと思うのですが、
6年間というもの、完全に給食だけでした。

中学に上がると、給食は無くなって、
みな家庭から弁当箱を持って登校したのですが、
それは(自分がひとつランクアップしたんだ)そんな意識が感じられたものでした。

その時代は、みな、こういったアルミ製の物でした。
それも黄色いアルミ製(アルマイト?)の物でした。
ただ蓋が被せてあるだけでしたので、汁がこぼれて、
その匂いが教室中に充満し、昼時になると、
その美味しそうな匂いで、腹がグーッと鳴る・・そんな感じでした。

母親たちはそんな汁漏れを何とか防ごうと、
新聞紙で包んだりしたのですが、
大体はそんな親の気持ちを無視して、汁の匂いは教室に溢れるのが、
私達、中学校の風景だったのです。

そう言えば、昼前に空腹に耐えられずに授業中に、
先公(先生)の目を盗んでは盗み喰いしてた猛者も居たな~。

当時は日本はまだ貧乏だった時代でしたので、
弁当のおかずといっても大した物など入っていなく、
女子たちなどは、弁当を食べるにしても、
蓋を大っぴらに開けるという事はせずに、
中身を隠す様に蓋で隠しながらひっそりと食べたものでした。
今にして思うと、何といじらしく可愛かった時代なんでしょう。



せめて、この程度の弁当だったら、
どんなにか胸を張って、蓋を大っぴらに開けて食べられたものを、
母親たちは苦労して我が子が惨めな思いをしなくてもいい様にと、
無いおかずを、さも豊富に有る様に見せようと頑張っていたんでしょうね。


高校生になると、学食(学校食堂)があったので、
私はもう弁当を持って登校する事は無かったと思うのです。
よくは覚えていませんが、
母親は仕事をしていたしで、弁当を作る事から解放される方が良かったのでしょう。

それ以降は、もう弁当とは無縁で、
結婚してからも妻から(愛妻弁当)など作ってもらった記憶はありません。
妻は甲斐甲斐しく弁当を作るタイプでもなかったし・・







社会人になってから、
道を歩いていると昼時に、大工さんなどが工事現場で、
昔の弁当箱とは格段の差で、いわゆるジャーと言うのか、
保温式の大型の弁当箱を広げ、温かい味噌汁と温かいご飯で、
美味しそうに昼めしを食べている風景を眺めたりする事がよくありました。

それを見ると(愛妻弁当)という言葉をよく連想したものです。
愛妻弁当を食べられた男は幸せですね。

現在は、そういった現場仕事の職人さん達も、
愛妻弁当ではなく、コンビニ弁当で済ませる人が多くなっている気がします。
昔はなかったコンビニがあちこちにあって現場でも買うのに困る事はなく、
コンビニ食は下手な食堂よりよほど美味しいのですから、
家庭の奥さんも、頑張る必要はもうありませんね。

(愛妻弁当)
私は現在の妻からそれを作って貰った事はありません。
きっと、俺に対する愛情が薄いのかも知れません。
っと、これは冗談。
そんな状況は無いのですから、作り様がないのですね。

でも、弁当箱から想われる様々な歴史とか、
その物に対する(愛情・想い)を感じます。

弁当箱・・それを食べる人、作る人。
みんなそれぞれ色々な思い出をきっと持っているのでしょうね。




コメント
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