九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

         NHKさん、あれこれあるでしょうが……              只今                   

2012年05月18日 21時32分04秒 | Weblog
 18日(金)NHK19時の『ニュース7』は、
 「3、11の原発事故に関連する自殺者は61人」と報じた。
  あぁ、61人! と、初めて聞くその数字を口ずさんだ。

  しかし、2時間後の『ニュースウオッチ9』では、自殺者の数は13人と変わっていた。
  61がなぜ13になったのか。
  一言の訂正、釈明もなかった。
  何があったのか。

  「ニュースウォッチ7」では、
  「焼身自殺したフクシマ避難者の遺族が東電を提訴」のニュースと併せて、
  “ げんぱつさえなければ ”と壁に書いて命を絶った酪農家のことを報じてくれた。
  そのことに敬意を表し、併せて望みたい。諸兄姉の奮闘を。
  
   
  
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

保安院の大罪(67) 「被害後遺症の誤魔化し開始か!」  文科系 

2012年05月18日 15時49分12秒 | 国内政治・経済・社会問題

 今日の中日新聞に僕が恐れていた言葉で言えば標記のような記事が載っている。15面のほとんどを使った「甲状腺検査で不安は消えず」。1面のこの記事紹介名では「甲状腺検査 募る不信感」とある。以下に、まずこの記事を要約する。中日新聞を読んでいるのは全国的には限られた人だから、意味が大きいと思うのだ。そして、次に、こういう動きの「意味」を書いた、以前の拙コメントを再掲したい。以前5月3日だったかの只今さんエントリ-「関電は、はっきり言った。再稼働と電力不足は関係ない」でこんなことを書いたが、この文中最後4行のことが現実となって始まっていると、僕はこの記事をそう読んだ。

 まず、記事の要約。【 】文章は本文から取ったもの。
 事故時18歳以下であった子ども36万人について、甲状腺の超音波検査を行うことになっている。そして、線量が高かった警戒区域13市町村、38,114人の子どもについて3月末に検査結果が出て、それが発表された。【5ミリ以下のしこりや20ミリ以下ののう胞を認めたもの35.3%】、【5ミリ超のしこりや20ミリ超ののう胞を認めたもの0.5%】、【直ちに二次検査を要するもの0%】という結果であった。さて、その扱いとか、親の質問への対処とかを記者が追跡して【「甲状腺検査 募る不信感」】をあちこちで確認したと、これがこの記事の趣旨である。まず、どんな不信があったか。
 要するにこういうことだ。
 家庭への結果報告では【「しこりなのか、のう胞なのかも分からない。健康な子どもにも存在するのか、なんらかの異常なのか。次の検査は2年ごと言われても・・・・」】。そこで、0.5%に入った検査を受けたある子どもの母親ユキ子さんが、実際に県の委託検査機関福島県立医大に問い合わせた例が載っていた。その返事がこう。「担当の先生は忙しくてすぐに返事できない」から、「説明は裏面を読んで」だけ。こんな記事文も見られたものだ。
【ユキ子さんは検査に付き添ったが、医師の説明はなかった。その理由を聞くと「隣の人に聞こえてしまうので」。納得できなかった】

 極めつきはこのこと。県立医大の副学長が、1月16日付で日本甲状腺学会会員の医師にこんな文書を出したらしい。
【2次検査の対象にならない子どもの保護者からの問い合わせや相談には「次回の検査を受けるまでの間に自覚症状が出現しない限り、追加検査は必要がないことをご理解いただき、十分にご説明いただきたく存じます」】
最後に、チェルノブイリ事故後遺症に詳しい医師などを登場させて、その発言。
【「チェルノブイリ事故後に18歳未満の子を対象とした検査結果で、直径5ミリ超のしこりとのう胞がそれぞれ約0.5%現れたとの文献がある」(中略)「しこりについてはチェルノブイリと同程度と言える。しかし、のう胞をより大きな20ミリ以下と20ミリ超で分けており、直径の比較ができない」(中略)「少なくとも半年に一回は経過を検査する必要がある」】
 また別の医師は、影響がない地域の子どもを調べ比較する方法も、やる気があればできるはずだと語り、さらにこんな言葉を重ねていた。
【「チェルノブイリでは5年以上の潜伏期間を経てがん発症が増えだした。他の病院の検査を望む人も多いはず。県立医大が、問い合わせがあっても2年後まで検査は必要ないと説明するよう求めた文書を出したのは本末転倒だ」】
 
 次が、5月3日に書いた拙コメント。
【 自民党もそうだけど、官僚こそ原子力村の本当の主と、判明した。これは、佐藤栄佐久氏がその長年の闘いを描いた著作で、「驚いたことに、本当の狢は官僚だった」と既に書いている、その通り。
 そして、選挙で入れ替わる政治家と違って官僚は、滅多に辞めさせられないのだからたちが悪いこと甚だしい。それを百も承知だからこそ、歴史的に築かれてきたその強固な組織を上げて、ムラの廃止に今でも抵抗しているのだ。これに抵抗し始めたから、菅はあっと言う間に辞めさせられたのだし、小沢へのそのシウチを見ると、彼らに抵抗する実力政治家はむしろ不要だと考えているということだろう。
 事務屋が今や政治の主になって、自民党長期政権を潰し、民主党を割らせたと、振り返ればこれが今の日本政治の歴史的現状と言える。不法にも使用人が政治権力を乗っ取って、その揚げ句が福島という政治的大惨事に突き当たったということだ。それでもなお、その責任をうやむやにすべく、この不法大権力を行使している真っ最中なのだと思う。
 これを逆に語ればこういうことだろう。福島大惨事責任がうやむやのまま再稼働が続けられるならば、彼らの不法政治大権がさらに深化するということ。「毒を喰らわば皿まで」。悪を隠せばさらなる大悪しか生まれない。それが、物の道理というもの。
 これから起こってくる事故の後遺症、放射能被害者、ガン患者などの数も、誤魔化し、隠し続けるのが必然。今の再稼働無理押しもそんな流れであって、この一事が万事というのがこれからの日本政治。そんな連中が政治家と違って辞めさせられないというのだから、本当に大変な国になったものだ。】
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説 「母が僕らに遺したもの」③終わりです  文科系

2012年05月18日 09時54分13秒 | 文芸作品
母が僕らに遺したもの その3 

 この時また、籐椅子の父が見えてくる。するとそれを見た当時の僕の感じがさらにまた蘇って来た。いや、夢そのものが、当時のことになってしまった。夢の舞台は籐椅子だけ、登場人物はもちろん六十代の父だけだ。僕は当然三十代なのだが、夢自身には登場していなくて、この夢を目として見ながら、心として感じ、考えているだけの存在だ。
 まだ父の顔には精気が残っている。だけど、一日中そこに座っている。時に本や碁石の定石書なんかを開くが、それもあまり続かない。母が傍らのテレビを点けても、ドラマの途中で寝入ったりしている。母は、父のこの籐椅子姿がイヤでイヤで、「あれを見ていると、私が病気になりそうだ」と吐き捨てるような愚痴を言っていたものだ。僕が何か病的なものを感ずるほどの、ある種の感情がこもった愚痴だった。まあ、当時の母も加わったこんな場面が切れ切れのスローフィルムのように続いたのである。
 そして僕は考えている。父は、やることがなかった? 時間を費やす術がなかった? 度々行けるような外出先も碁会所ぐらいだし、友だちは居なかったし。家で暇な時にいつでも始められ、何時間かを費やせるというものがなかった? 
 するとそのとき、不意に思いだした。昔の「籐椅子の父」に因んで、当時の僕に湧いたある一つの想念、仮説のようなものを。要約すればこんな感じになるだろう。
 健全で、素直で、一途な父にとっては、職場での評価が人生の全てだったのだ。そもそも、辺境で恵まれない貧乏子だくさんの家に生まれたのに、職場最強学閥の大学院卒のような学歴を得ていたのだし、力はあったし、努力もしたし。事実として節目節目を最高の評価で乗り越えてきたみたいだし。戦前の若いうちから職場の周りの人々にも日々「そういう者として」接されてきたことだろうし。さてそれ以降、彼に「その刺激」に並ぶものがあったろうか。そもそも、それ以外の刺激を育くむ機会が、彼にありえただろうか。今はもう、この六十代半ばで父は既に余生を暮らしているのだ。母は父のこの「余生」に一時呆然とし、やがて怒りだしたんだろう、きっと。
 これが、三十代の僕が父の藤椅子姿を巡って感じ取ったものだった。
 
 「余生でもいいよなー、父さん。母さん二人は怒るだろうけど?」
 八十の心だけの僕がなぜか突然そう問うている。と、これも八十の顔に戻った父が僕の方に例のどこか恥ずかしげな微笑みを振り向けて、答え返す。
 「母さんは、毎日怒ってたよ。それも八十前には、くるっと変わったけどな。急に怒らなくなったのは、多分自分をも嫌い始めたからだ、きっと」
 「人は遅かれ早かれいつかどっかで、自分の老いと折り合いをつけなきゃということだね」
 「そうそう、そんなに頑張らんでもええじゃないか。私はもう頑張ったし、やることもない、とね」
 「母さんはもっと頑張りたかったんだよ。それに父さん、飯や洗濯ぐらいやれんと、そういう母さんを邪魔することになる。ずっと共稼ぎだったんだし」
 「それは分かってますよ。だから母さんには最後までずっと頭が上がらなかった」
 「そうそう、世話されてる限り結局言い負かされるから、よく『母さん、貴方は偉い』とか大声出して、ふてくされちゃってたね」
 「おまえは何でもできるから、言い負かされないんだろう? 私らと違って仲も良さそうだし」
 「母さんがそんなこと聞いたら笑うよ。いつも僕が負かされてるのを知って、不憫とさえ思ってたはずだから。やっぱりやることの絶対量が僕とはちがうし、女性は明治生まれより昭和の方が注文の口もうるさいし、きついきつい」
 「そうだろうなー、生まれた時から参政権与えられることになっていた戦後昭和の共稼ぎ女というようなもんだからなー。でもな、明治生まれの共稼ぎ男には、特別な辛さもありますよ」
 「そうだろうねー。・・・・うちの二人はとにかく特別。育った時の苦労というか努力というか、その質も量も違ってた」
 「なるほど、なるほど。それじゃおまえもなかなか大変だったわけだ。はっはっはっ」

 おおむねこんな会話を残して、父の籐椅子姿は消えていった。
 僕の眼前はまた秋の夕暮れ時で、「古い骸骨」の白木蓮が見えている。だだっ広い家に一人ぼっちの八十過ぎ、広縁に置かれた籐椅子に横になった夢の初めに戻っている。もちろん連れ合いが死んだばかりの、新米の男やもめだ。
 〈父さんも、籐椅子の上ではいつも、昔の人たちとこんなふうにしゃべり合ってたのかなー。それでも父さんは、現実の母さんに甘えられたわけだし、晩年は僕らの家族も一緒だった〉
 また訪れた慣れることのできないと感じている静けさの中で僕はそうつぶやくと、ふーっと小さく息をはく。
 こんな静かな一人よりも、いくらうるさくても少々労力が必要でも、連れ合いがいたほうがどれだけ良いことか。そんな情念を、うっすらと開けた目に天井をうつしながら何度も反芻している。そして、気付いた。籐椅子の上で目を開けたのではなく、朝の寝床でなのだと。目を覚まし、現実の天井を実際に見ていたのである。

   
 何かあわてて耳を澄ましてみると、連れ合いが起きている気配を感じる。ちなみに僕らは、別々の部屋に寝ることにしているのだ。すぐにダイニングへ飛んで行き、いつものように昨朝の出し殻が残ったコーヒーメーカーを外して、キッチンへ持って行く。これを三往復ほどして、コーヒーやトーストや既に器に用意されていた果物入りのヨーグルトなどを食机に並べ、やがて二人で食べ始める。僕はいつものように新聞を読みながら。
 しばらく後、「今日、ジム行こうか?」、これもそうすることになる日のいつもの僕の発言だ。「うん、五時半ごろね」。彼女は、テレビニュースに目をやりながら、いつものように応え返す。こんなふうにして、近所のスポーツクラブへ週一度ほど二人で歩いていくことになる。そして、一人で通うのが各一回ほどで、これらは彼女にとっては、糖尿病対策にもなっている。
 そしてまた、それぞれの沈黙。ほどなく、僕がまたしゃべっている。「今度の小説、一昨日やっと終わり方が見えてきたから、できたらまた読んでくれるかなー?」。彼女は母に次ぐ読者なのだ。ただ、母に比べたらうるさい、うるさい。母は本を受け取ったその日のうちに必ず読むくせに読んだということすらすぐには伝えて来ないのに対して、こちらはやっと読んだと分かったそのときには、ほとんど字句上のことを取り上げて細々と切りがない。僕は文法にはほどほどの自信があり、むしろ内容や構成上の話がしたいというのに。ちなみに、彼女は国語の教師で、退職した今も元の学校に週何日か通っている。
 今日に限ってなんとなく僕の話題が多くなって、さらに次の話を持ちかけている。
 「ギター、やっぱりあの先生の所へ通うことにするわー」
 最近下見に行ったあるギター教師のことを持ち出したのである。
 「開放弦を清んだ音で弾くというだけで一時間実演、講義してもらってあれだけ興奮できるんだったら、習いに行くのは幸せなことだよ。楽しみなんでしょう?」
 「ホント、わくわくするとはこういうことだったなーってね。あの音を作るだけで、フルートなみに単音楽器としても通用すると言いたいぐらいだもんな。あーこれ、前にももう言ったことだった」
 ちなみに彼女は、あるフルート兼リコーダーの教室に通っている。その教室は、年に一度クリスマスホームコンサートを開き、僕も毎年聴きに通ってもう二十年近くになろうか。子どもとお母さんたちが中心の教室で、「古楽研究会」に属する先生やその友人も演奏するから、出演者の腕は年齢以上にバラバラで、それがまた楽しい。コンサートの後にはいつも欠かさずパーティーも待っている。関係する家族すべてが各二皿ずつ持ち寄った得意料理が洋食、和食、中華、エスニックなど色も様々に机に溢れ、各国のワインなども取りそろえられてあるというパーティーである。我が家がここ5年ほど提出しているのは「牛肉のワイン煮」二皿。作者は僕、盛りつけが連れ合い。表面を焦がした牛肉の塊四百グラムほどを、ワインと水にウスターソースと醤油を加えた圧力釜で三分ほど揺すらせ、肉とソースを分けて冷やしてからまた合わせて、一夜以上漬け置きするという僕の晩酌への定番だ。料理が多すぎてかなり余るという、全員の舌による優勝劣敗の試練のなかを5年も生き延びた作品である。もっとも、最初の時に連れ合いが「とーさんの作品」と触れ回ってくれたからつとに有名で、好奇心半分の試食者も毎年多いのだろう。
 お金をかけずにこれほど十二分に人生を楽しむ場所を作りあげ、持続させてきた賢いお母さんたち。こんな光景の展開を、僕は始終体を揺すってにこにこしながら毎年享受している。さて、すでにここで一番の古株の一人になっている我がかーさんであるが、母と同じようにこれから八十までこの場所に来ることができるだろうか。

 母が居なくなって半年、このごろふっと思うのだ。退職後の僕ら夫婦のこんな生活も、同居した晩年の母と父とを見ながらこの十数年かけて大小の取捨選択を少しずつ重ねてきた、その結果ではなかったか。

 (おわり)

注 ここに述べた僕のスポーツ観とそっくりと感じられるものに最近出会った。この作品をほぼ書き終わったころに。考え方の構造だけでなく、用語まで似ていて驚きかつ嬉しかった。そして、こういう分野に興味のある方全てに、この本を心からお勧めしたいと思いたった。NHK出版、玉木正之氏の「スポーツ解体新書」である。なお、僕の当作品該当部分を、玉木氏のこの著作によって一部でも修正するということは、あえてしなかった。断りを入れて、修正した方が分かりやすくなったのかもしれないが、僕のオリジナルを崩したくはなかったからである。
コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする