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忘れてはならぬ「桜」の本質  文科系  

2021年07月31日 06時42分51秒 | 国内政治・経済・社会問題

 安倍晋三が「不起訴不当」になった。公職選挙法違反とか政治資金規正法違反とかがその理由だが、この事件にはこれよりもはるかに大きな国政への罪が存在していることを忘れてはならないと思う。「国政功労者を祝い励ます会」を「政治家個人選挙の功労者を祝い励ます会」に換えてしまっていたことである。今や誰でも知っている何よりの証拠がこれ。

「桜には、山口県人がいっぱい」という事実である。

 ちなみに、この「桜」は税金を使った国家行事だった。どうだろう、税金を使った国家行事で、自分らの選挙功労者を毎年祝って、その人数をどんどん増やしてきたのである。この国政私物化は、「秘書がやったこと」と逃げられる公選法などとは違って、安倍が識らぬわけもないものであって、この重大な罪はどうなるのか。この罪が重大すぎるからこそ、桜がすぐに取りやめになったのではなかったか。桜に毎年使ってきた税金を返せ!

 さらには、ここに呼ばれた山口県人らはよほど胸に手を当てて反省すべきである。ご自分らが安倍によって「不当な国政功労者」として税金を支給されていたことを。なのに今でもこの後援会員であり続けているとしたら、恥ずべき事ではないか! 安倍によって、国政を汚す出汁にされたのである。

 

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選挙だけ政治の自公政権   文科系

2021年07月30日 00時06分29秒 | 国内政治・経済・社会問題

  国家の政治に託された使命で最も大事なことは「国民の命を守る」こと。社会の安心、安全という国家任務も、何よりもまずこのためにこそあると言える。これが大量に損なわれたら、例えば国防予算の意味などもゼロの上にゼロということになる。ところが、今の政府はこの国民の命を五輪開催という賭けのカタにしてしまった。しかも、国民の極めてまっとうな質問にも、こう応えてきたその上でのこと。

「このコロナ下で、国民の命をカタにして五輪をやる意味がどこにあるのか?」
「世界の祭典自身の意味が大きく、どうしてもやりたい。安心安全にやりますから・・・」

 さて、これが答えになっているだろうか。こうまでして五輪をやる本心を隠していると皆が思うのは当然である。世界の祭典に主催国家首脳がしゃしゃり出ることによって、秋の総選挙を有利にしようとしている、とか? だがどっこい、関東のコロナ患者は過去最多になってしまった。賭けは完全な失敗に終わったようだ。
 さて、ここまでして政府は五輪に異常な執着を見せてきた。国民の命を無視したに等しい上に、そういう説明責任ゼロの政府の大失敗、大失態である。

 なぜこんな政府ができてしまったのか。たった一言、政治などまともにやる気は無く、次の選挙に勝つことがすべてという権力亡者になり果ててしまったと観るしか無いだろう。なんせ、「国家・国政功労者を祝い励ます、国家主催の桜を見る会」を「政権党の幹部らの個人選挙功労者を祝い励ます会」に換えてしまった安倍・管政権なのである。

 こんな政権が戦後日本最長って、日本国民もよほど考えないといけない。こんな政治の結末こそ、国民の命をカタにして自分らが目立ち、顔を売る五輪を無理無理やることになってしまったのだから。民主主義の名において、酷すぎる政府と言うべきだろう。命や営業など、コロナ予防、対策の無能すぎる失敗連続に悩まされて来たすべての国民が秋の選挙で鉄槌を下すことである。そもそも二世議員こそどんどん増えていくという事実も、「議員になりたいだけ、それがすべて」を証明しているはずだ。

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安倍晋三、過誤の根深さ   文科系

2021年07月28日 13時24分27秒 | 国内政治・経済・社会問題

 安倍・管政権がやったことは、特にこの五輪強行をこそ含めて、今後のためによくよく総括が必要だ。まともな職が全くなくなったとか、日本人一人当たり購買力GDPが目も当てられないほどに続落、韓国にも追い抜かれたとか、こんなどん底の時代だからこそ、「一体、何をやってきたのか?」ということで。

 管は官房長官時代も含めて「人事で政治をやる」と広言してきた。これは、反対者は排除するということだ。こんな事を始めたら、周囲はイエスマンばかりになって、自身は全く無能な裸の王様が出来上がる理屈である。裸の王様には「無能な裸の大様だ」と語る純真、正直な子ども出てくる理屈で、そういう人々をもどんどん叩き続けて、超長期政権ができあがった。そうなったからこそ、安倍、管は、近代民主主義国家では手を付けてはならぬとされた人事にまで、介入し始めた。検事総長人事や学術会議人選問題は、そういう成れの果て、大きすぎる問題性をはらんだものである。

 安倍は何故、検事総長人事までを自分が握るという、その寸前まで至ったのか。三権分立の長期的根本的意味も分からなかったのだろうが、ただ自分のやりたいことを続けた成れの果てと言うだけだったと確信する。これが民主主義国家の最後の防衛線であって、ここを揺るがそうとすると自分自身もどうなるかというその意味も含めて理解が難しい問題なのだ。それどころか、こう考えていたと、僕は確信する。
『三権分立、そんなのどうでも良い。おれが三権の上に立って日本会議路線を実現していくことこそ、日本を良い国にできる道なのだ』
 三権分立って抽象的すぎて、目の前の問題だけという実際的思考には理解できない事項と思う。「俺が独裁者になる?? まさか」というだけ。

 日本学術会議問題も同じこと。何故学問の自由が大事なのか。これは凄く抽象的な問題だ。そもそも学者というのが、特に人文社会系の学者は、「今のここの」問題を考える人々ではない。それどころか、人類史を研究して、30年後50年後をも考えたいというような人々である。そういう学術会議人事問題を「今俺らを批判している」という問題意識だけで手を突っ込んだのは明らかである。これは、学者の力を削ぐことであり、こんな思考は自然科学や応用科学でさえその基礎的基盤を崩していくような思考である。これは、国力が長期的・根本的に損なわれるということでもある。

「検事総長人事改変」や「学術会議6人拒否」について、ただわがままで、無自覚にして無教養すぎる安倍には「三権分立破壊」とか、「焚書坑儒」とかの意識は全く無かったのだろう。ただ、「当面の問題を自分の望むように一歩進める」と意識していただけで。がしかし、これは確実に三権分立破壊とか、焚書坑儒のルビコンを渡ることになっていくことなのである。そういう恐ろしさを安倍が無知なだけに無視できたのだろうと思う。

 美濃部事件とか滝川事件とかは、このような流れのすぐ鼻先のことに過ぎなかったはずだ。あの東條英機でさえこう語っていた。
 独裁者にも「(自分が先頭に立って作ってきたのに)もう止められなくなった時流」というものがある、と。ある独裁的政治家が最初何気なくやったことが民の中に熱狂の時流を作っていき、それが自分をいっそう独裁者に育て上げていって、気づいたら独裁者にも止められぬ流れができていたと、あの東條が語っていた。戦前の「東條熱狂支持時代」の初めの頃には、「自分が引っ張らなければ、国に重要なことを何もできない」と語っていた彼にして、こうなのである。

 

 今の「無理筋」五輪自身も、こういう流れの成れの果てと感じるばかりではなく、安倍・管がこの五輪に込めた思いの通りに次の選挙に勝てば、間違いなく「東條時代」がくる。反対者を刑務所に入れるということのない「民主主義」的全体主義だけに、怖いと思う。以上のように政治的無教養な安倍が日本最長政権になったという歴史自身にもうこの怖さが潜んでいるのではあるが、だからこそ検事総長人事も学術会議人選問題も起こったのだった。これらの事件が、後世美濃部事件、滝川事件のように語られる時が必ず来ると思いたい。裁判への起訴権を握る検事総長人事を内閣が握ろうとした、学術会議会員を内閣が決めようとした、政治にとって最も重要な日本や世界の多数の命を賭けていると誰の目にも明らかな五輪を開いてしまった。

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八十路ランナーの手記(364) 今の走力、サイクリング力   文科系

2021年07月27日 12時18分13秒 | スポーツ

 市営ジムの30分時間制限があるマシン30分2回の距離で21日8・4キロまで来たが、23日には8・6キロになった。13日の7・4キロを初めに次第に上げてきて、ここまで来たわけだ。ちなみに、23日はウオームアップ込みの前半が4・1キロに対して、後半は4・5キロだ。時速9キロで30分ということだから、僕の場合はもうこの辺りからこういう上り一本調子では無く、間にLSDだけの日をたくさん入れていかねばならないだろう。例年のように、夏はマシンでLSDを積み秋に備えるというわけだ。身体自身の方も、11日の360回目に書いた「最強の抗酸化健康物質の宝庫、野菜スープ」で極めて快調のようだ。この抗がん剤の研究者が書いた本にもあるように、腕の老人斑が薄くなってきたようにも感じている。白内障が改善される人もいるのだそうだ。

 25日には、片道12キロのサイクリング往復をやってきた。日本有数のギタリスト松尾俊介さんの、聴衆は20名ほどという小さな小さな贅沢ホームコンサートに行ってきたもの。僕のギター友達主催のコンサートで、駐車場が難しそうな時の何かの行事では、僕はいつもこれ。「場違いなサイクリングスタイルですけど、ちょっと失礼」にも、随分慣れてきた。
 久しぶりの遠乗りのせいか、往きの初め20分ほどは低速でもほんのちょっとだが息苦しい時もあって驚いた。帰りは快調そのもの。最高時速40キロで、35キロ前後の突っ走りとかもかなりできて、信号も多い名古屋北東部のこの距離でも30分かからなかったはずだ。楽しかったー! こうして、改めて思ったのがこれ。1時間ちゃんと走れれば時速35キロもちょっと続けられるし、抑えて走れば1日に100キロサイクリングも可能だな、と。ただし、昔のような重めのギア比はもう無理になっている。僕の最高ギア比は52の13だが、今の僕がこれを使うのは下り坂だけで、普通はこの後ろギアを真ん中ほどまで落として走っている。いわゆる「回転で走る」というサイクリングの王道になっている。

 帰ってきてこんな事も考えていた。走法をガラリと換えて1年半たったが、これは自転車には良かったのかどうか? 「地面を蹴って跨いで走る」から「骨盤の下に持ってきた前脚を伸ばして地面をつついたその反動で走る」に換えたわけだが、やはりちょっと膝の疲労が多いかなという気がしている。でもまー、正式なスクワット百回なども続けているのだから、大過はないだろう。

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今の日本理想のサッカー、メキシコ戦  文科系

2021年07月26日 00時23分17秒 | スポーツ

 五輪サッカー、昨夜のメキシコ戦を端的に言えば、「こんな強い日本、観たことない!」。この言葉は、相手のメキシコ・マスコミもこの文末に示すとおりに、そう講評していたものだ。
 何が強いって、サッカーの基本として、「強い相手に、何もさせなかった」。その心は、たった一言、「球際で全部勝っていた!」のである。この点ではこのゲームの選手全員が殊勲賞である。

 僕は中でも先ず、FW林のチェイシング、相手ボール追っかけを押したい。最前線での相手ボール潰し、追っかけが厳しいと、後の皆が相手マークにしっかり付けるのである。このことではチームとして最大約束という意思一致があったらしく、「球際で闘え」というのが、ゲーム後に監督がゲームプラン第一としてあげた声だった。
 林の他にも「球際」の皆が光っていたが、CBでは板倉。流石にプレミア・マンCが取った選手だけのことはあるし、「MVPは遠藤!」とは、ゲーム後内田篤人の講評であった。このゲームの遠藤はとにかく凄かった。ドイツ1番となったデュエルでは絶大だったし、あの重そうな身体で意外にも走り負けないのには驚いた。

 得点について、観てみよう。
 1得点目は、右サイドで酒井が前に出した堂安へのスルーパスが良かった。堂安が余裕を持ってこれを受けられたから、中央での鋭い走り込みをよく観ることができて、久保へのギリギリドンピシャリのクロス。久保もあの早いクロスに、敵と競り合いながらよく決めた。
 2得点目は、左からスピードに乗った相馬得意のドリブル侵入からのマイナスクロスを止めようとした相手選手が1発PK。このPKは、VAL確認から出たものだったが、これによって取ったペナルティーキックを堂安がど真ん中に決めた。PKが出る程に、左ゴールポスト近くまでの相馬の侵入が厳しかったということだから、これは相馬の得点と言って良い。このプレー、相馬が最も得意とする形なのだ。これがあるからこそ、Jリーグを席巻して来た左サイド・三笘薫を押しのけて相馬がこの大事なゲームの先発を果たすことになったと言える、まさにそのプレーなのである。なお、ゲーム後の相馬はこのプレーについてこんな言及をしている。日本同士の事前ミニゲームで対面相手の酒井に教えてもらったとおりにプレーした、と。この件については、このブログの7月12日にエントリーがある。「五輪代表ミニゲーム、ワクワクしたある光景」がそれだ。

 相手メキシコも実に良いチームだった。ブラジルのように個人スキルが高く、ブラジルよりも組織的で、潰しも強い。が、日本がゲームの入りから激しく示した連携し合った潰しに、組織として後手を踏んでしまったというのが敗因になるはずだ。サッカーというゲームは、本当に怖いと改めて思ったものである。

 僕のこのゲームのMVPも、内田篤人と同じで、遠藤航である。こんなに強い上に速さもある日本人サッカー選手はかって観たことがない。同じドイツで尊敬さえされている同じ浦和の先輩日本人、長谷部誠からあらゆるものを吸収してきたに違いないのである。

 このチームがこの調子でやっていけば、優勝も夢ではないと、正夢になると、確信させてくれるようなゲームだった。ちなみに、サッカーダイジェストのサイトが、メキシコのあるマスコミのこんな講評を伝えている。
『フランスを4-1で一蹴していたメキシコにとっては手痛い黒星だ。メキシコの全国紙『MILENIO』はこの日本戦を速報で伝え、次のようにインプレッションを示した。
「終わってみれば、前半序盤の2失点が大きく響いた。日本はうまく試合に入れなかったメキシコを一気に押し込み、クボが巧みなショットで恐怖の一撃を放ってゴールをこじ開ける。それでも日本は手を緩めず、さらにメキシコからPKをもぎ取ったのだ。まさに極上の15分間と言えるほどの圧倒ぶりで、日本はこんなに強かったのか、と選手たちも驚いている様子だった」』

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五輪が暴いた「日本の問題」と、ドイツ紙   文科系

2021年07月25日 10時41分31秒 | 国内政治・経済・社会問題

 クーリエ・ジャポンというサイトに、以下の南ドイツ新聞記事が紹介されていた。島国「日本」の希有な特徴がこの五輪にもよく現れているというのである。 

『 ドイツ紙が指摘「五輪によって、普段は気づかれない日本の問題が明らかになった」
7/24(土) 18:30配信 クーリエ・ジャポン

スキャンダル続きで開幕した東京五輪だが、発覚した数々の問題は、問題を根本的に解決しようとせず、表面的に対応してやり過ごそうとする日本の姿勢が現れただけだとドイツ紙は指摘する。さらに、本大会の強硬な実施は、五輪自体の危うさを示しているという。

外国人が批判しなければ見過ごされた問題
独紙「南ドイツ新聞」では、東京特派員のトマス・ハン記者が、東京五輪について「課題に充分対処しない日本の姿勢を多く露呈する。その姿勢は、日常のなかでは気づかれないものだ」とコメントしている。

開閉会式のショーディレクターであった小林賢太郎が、過去にユダヤ人の大虐殺をあざけ笑うコントをしていたことで開会式前日に解任されたが、それは一連のスキャンダルによる辞任に続くものに過ぎず、「世界のスポーツ界は、東京大会の次のスキャンダルが何かと見ている」という。

開会式の音楽制作担当だった小山田圭吾の過去の障がい者へのいじめ問題による辞任、渡辺直美の容姿を侮辱した演出ディレクターの佐々木宏の辞任、女性蔑視発言をした森喜朗前会長の辞任と、スキャンダルが続いた。

これらのスキャンダルは、新しい担当者を入れることで対処されてきた。「このように日本においては、通常すぐに対応できる解決策が好まれる。しかし、根底にある問題に目が向けられているのかはわからない」と指摘する。

「結局、女性差別やいじめ、反ユダヤ問題などは、ただの間違いではない。これらの問題は、島国の日本では外国人が批判したときにのみ問題になるのだ」と述べ、非倫理的な発言や行いが日本では普段見過ごされ、充分な対応が取られていないと批判的だ。


改善のチャンスを逃した日韓関係
さらに、「国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長は、東京大会を『連帯』の機会にしようと言ってきた」のに、その反対の現象が「歴史や領土問題で対立する」日韓の間に起きたことを指摘する。

「韓国の文在寅大統領は、開会式の間に菅首相と話がしたいと考えていた。しかし、成功の見込みがないことから来日を取りやめた」と韓国政府は発表した。

「日本の政治家はこの機会を、韓国との対話の機会に活用せず」、それどころか韓国の反感を買ったのだ。「ソウルの日本大使館の相馬弘尚総括公使が、文在寅政権の対日外交姿勢を軽蔑するような言い方をした」と報道された。

そして韓国団は「福島の食品を信用しないために独自の食品を持ち込み」、「16世紀の日韓の間の戦争を彷彿とさせる言葉を含む横断幕を、選手村の外壁に掲げ」、日本側の反発を買うような動きがあった。

横断幕は「五輪憲章に反するとIOCが判断して」取り下げられたが、根深い日韓の対立が、五輪でさらに浮かび上がってしまった。

「これほどまでに日本の問題があぶり出されたのは、驚いた」とハン記者も述べている。


IOCは人類のためになっているのか
一方、ハン記者は「南ドイツ新聞」の別の記事で、「何が起きても試合を行う」という精神で押し通された今回の大会は、五輪の危うさを露呈させ、その意義を問いかけるものになったという。

「世界中で死者の数は増え続け、医療の専門家がスーパースプレッダーイベントになりうると懸念を示すなか」での大会では、「選手はパンデミックを気にしないでいる」しかない。「五輪によって人々の健康がおびやかされ」、「世界は廃墟と化しているのに、テレビの中の競技はすべて無傷」であるかのような極端さがある。

一方、懸念があるのに開催を強硬したことで、「スポンサーも悪評を恐れて五輪から距離を置くようになり」、商業的にもマーケティングの関係者さえ喜びにくいものになってしまった。

さらに、「感染予防対策がとられているにもかかわらず、感染者の数は増え続け、試合に出られなくなった選手も相次いでいる。感染が充分防げていないことは明らかだ。そして、「これまでのニュースを見る限り、現在のパンデミックにおいては、超大型イベントは機能しない」ことが示されたことになると書いている。

「もし五輪が、過去から続くその象徴する精神をどんな時でも示さなくてはいけないものであり続けるならば、そのうち誰も五輪を求めなくなるだろう」とし、世界が求めるものと現在の五輪は一致していないとを指摘する。そして、「IOCは、人類のためになっているのか」、世界は問いかけるべきだと言う。

「マーケティングやハイテク技術、あるいはメダルの祝福などの小手先の対応では、グローバルに起きている問題は隠せない」のだ。』

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「IOC五輪開催はやめた方が良い」  文科系

2021年07月24日 11時27分38秒 | スポーツ

 昨夜の開会式は全く無視しましたが、五輪が始まっています。そんな今、人間文化としてのスポーツの評論家として僕が尊敬し、色色読んでもきた玉木正之氏の京都新聞談話記事を読む機会がありました。特にIOCに対して、大事な論点だと思います。やはりこれが、「IOCとしてのコロナ下のこの強行の原因」と読めたものでした。

 

『 組織存続のための五輪開催、根本は商業主義と肥大化 玉木正之さんが問う大義 7/23(金) 20:01配信

 祇園の実家の電器店で小学6年の時に1964年の東京五輪を見て大感激したことがスポーツライターになったきっかけでもある。69歳の今までこの職業を続けてきて2回目の東京五輪が行われることになり、招致の時は大賛成してシンポジウムやイベントに参加したが、これほどまでに人気のない五輪になってしまった。ものすごく残念です。

 振り返れば公式エンブレムの盗作や国立競技場の建て直し問題があり、全体予算も当初より膨らんだ。大会組織委員会前会長の女性蔑視発言もあり、事件だらけでうんざりしていたところに、最後にコロナでとどめを刺されたという感じ。

 国際オリンピック委員会(IOC)に対して全く支持できない立場になった。反戦を掲げながら自分たちの経済効果を考え、組織存続のために五輪を開催するというのが透けて見える。かつては『公共事業』の顔をして世界で五輪を盛り上げようとうたっていたが、お金を集めるシステムをつくり、国際的なイベント屋になっている。組織委に800億円ぐらいを援助しているが、IOCの子会社に900億円ぐらい支払わないといけない。なんじゃこりゃ、と思う。

 根本にあるのは商業主義と肥大化だ。商業主義のきっかけとなった1984年のロサンゼルス五輪は、税金を1セントも投入せず組織委は黒字を出した。そのやり方をIOCが奪い、権利も自分たちのものにしてどんどん大きくなった。

 首都圏は無観客となったが、去年の時点で中止すべきだった。コロナ禍の困難を克服して開く大会に一体どういうレガシー(遺産)が残るか。IOCが主催する五輪はやめた方がいい、というのが残れば良いのかもしれないが。

 コロナ禍で国や選手の置かれた環境に差が出る。スポーツの大前提となる公平性が担保されない面があるなら、IOCはメディアに対し国別メダル数の発表を控えてと言った方がいい。そもそもIOC憲章には「国対抗の競技大会ではない」と書いてあるんだから。(談)』

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随筆 ザ・ボディビルダー   文科系

2021年07月23日 13時17分22秒 | スポーツ

  僕が通っているジムには、ボディビルダーさんたちの一群がランナーと同じほどいる。皆熱心なのだが、なぜかそのうち多くの方は下半身がトレーニング不足で貧弱であって、筋肉が良く付いた上半身も人様々に脂肪が被さってぷっくりと見える人が多い。いくら筋肉を盛り上がらせても、有酸素運動をしないと脂肪は落とせないのである。何故走らないのだろう。こんなに熱心にやっていることが、望みと矛盾している……。

 さて、よく見たら、ボディビルダーさんたちにも、いつもきちんと走っている一群がいる。その内お一人の走行フォームがどうにも気になって仕方なかったので、先日とうとう初めて声をお掛けした。人もまばらで殺風景な、更衣室での会話である。
「一応ランナーの端くれとして、お宅のフォームのこと、ちょっと喋っていーですか?」
 五五歳ほどとお見受けしたその胸には胸筋が優に二センチ以上は浮き出ていて、割れた腹筋に覆われた腰はギリシャ神話の「豹の腰」。背は低めだが細めの身体がむしろ気に入って、かつ本格的ボディビルダーに見えたから、声をお掛けする気になったのである。予測通りににこやかに「どうぞどうぞ、お願いします」と来た。向こうは向こうで当然、僕が来る度にマシン隣同士も含めて、いつも十キロほどを走っている者と知っているはずである。

「あのーですねー、ちょっと上半身が二重に前に曲がっていると思います。腰の上辺りからヘソを前に出すような感じで起こして、他方顎をこう引けば首の下の背中もこう伸びます。アマチュアはこのように臍辺りの骨盤をやや前傾させても上半身は自然に立った姿勢の方がうんと楽に走れるはずなんで、僕はいつも心拍計を付けて走ってますが、これだけのことで同じスピードでも心拍が十近く下がりますよ」
「ありがとうございました、確かに、覚えがあります。普通でも猫背と言われますし。そうですか、そうすればそんな楽に走れると」
「ビルダーさんも、コンテストの前は特に走らないといけないと聞きました。脂肪を削げないと筋肉が浮き出ないから成績が付かないと……」
「そうですそうです、確かにその通りなんで、長く走れないビルダーは太い筋肉の上に脂肪が付いてくるから、唯のデブになる。助かりました。やってみます」
 快く、聞いていただけた。そこで、改めて僕から、
「あなた、毎日来られてますよね。それであれだけのトレーニングと、ランまでやられるって、ご立派。まだ現役なのにねー」
  次の返事には、とにかく驚いたのなんの、こう返ってきた。
「いやーっ、とっくにリタイアーしてますよ。……七一歳ですから」
 他人の年でこれだけ見誤ったのは、僕の人生まず初のこと。一五歳は若いのである。脂肪はないし、筋肉があるぶん顔も引き締まってつややかな小顔、その上の髪も僕よりかなり……と、とにかくそのお顔を改めて仰ぎ見ていた。そんな僕は口をポカンと開けた苦笑いだったかも知れない。彼も僕の眼を見て笑っているから、二種の微笑みの交錯という絵である。その歳までこの身体を維持してきたって、ランナーとしても僕よりはるかに大先輩だ。ランナー大先輩に、たかだか十数年の僕が説教たれてきたってことになってしまった。

 

(2014年1月、所属同人誌に初出)

追記 このビルダーさん、今も全く同様に続けていて、この作品中の会話を経た上に、この作品自身を彼に贈呈して以来、同じジムの仲良しになりました。そして強調したいのは、今でも昔とほとんど変わらない体形、容姿なんです。顔だって筋肉が多いから皺も増えていない。つまり、今年79歳になるはずの今でも、どう見ても65歳にさえ見えないお方です。

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八十路ランナーの手記(363) 順調に復調、今の目標   文科系

2021年07月22日 09時18分21秒 | スポーツ

  毎年夏は無理せずマシン走だけのLSDに徹してきたうえに今年はブランクなどいろいろあって調子が落ちていたが、マシン30分2回の距離でこのように走り直し始めた。ちなみに、いつも前半の初めにウオームアップ緩走を込みにしたタイムである。13日から21日まで1日置きでジムに行き、7・4キロ、7・6キロ、7・9キロ、8・2キロ、そして21日8・4キロと。このように走ってくると、日々好不調と感じるいろんな波はあってもまだきちんと復活できるととてもよく分かった。問題は、次のシーズンにこれをどこまで伸ばしていくかということ。それも、9・0キロから先が問題になっていく。

 近年のこれと同じ30分掛ける2回の最長距離は、16年が春に9・9キロ、17年は前年後半の前立腺癌陽子線照射治療の後で全く不調。18年9・6キロ、19~20年9・4キロ、今年に入っては21年1月に9・3キロというのがある。と振り返ってみて、目標はウオームアップ歩行込みの前半4・5キロ、後半5・0キロの9・5キロまで、今年中に何とか行きたいと今は目論んでいる。19年末から1年ほどかけて合理的な走法に換えてきた結果、同一スピードでの心拍数が5~10落ちてきたので、可能性はあると今は考えている。この走法変更というのはここに何度も細かく書いてきたことだが、要するにこういうものだ。「後ろ足を蹴ってその膝を前に出し跨いで走るような走法から、前脚で地面をつついてその反動で骨盤を前に持っていく以外には、無理に脚を前に出さないピッチ走法」。このやり方で夏の間にピッチ170以上のLSDをしっかり走り込んで、この冬に何とかと考えている。この走法で僕の問題は、左右のストライドがどうしても揃わないと感じられること。これは、若い頃に左脚付け根の椎間板ヘルニアを手術したその後の色んな後遺症から来ているもので、左脚のツツキが弱いのである。だから、右のつつきを弱めて、左右均等ストライドのピッチ数を多くして走る練習にここのところずっと励んで来た。180ほどのピッチ数にできるのが今の僕の理想だが、過去ずっと160ピッチの跨ぎ走法で走ってきた僕には、なかなか難しいことなのである。

 ともあれまー、僕は今、ランニングをこのような自己流儀で楽しんでいるということだ。

 

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八十路ランナーの手記(362)走れる価値、年取っても走れるようになる方法   文科系

2021年07月20日 01時17分01秒 | スポーツ

 暑い中で外走りをやめてジム・マシンに専念。これがおのずから走力低下を招くのは分かっていたこと。それからややあって、大腸内視鏡検査で三つのポリープを取って中8日のラン停止命令を経た後、先週やっと走り直し始めました。市営ジムのマシン制限時間30分を2回で、13日が7・4キロ、15日7・6キロ、17日は7・9キロ、そして19日8・2キロまで来ました。15日は右脚に違和感が起こりましたが、17日は極めて好調。19日は、ウオームアップ走行を含んだ前半30分の4・1キロが今はまだ走りすぎだったのでしょう、後半に疲労感がありました。終わりの方の心拍数も高くなって、時速8・5キロほどなのに150ちょっとと、僕としてはこの速度の通常よりも10近く高くなっていました。因みに、僕の10分ほど持続可能な最高心拍数は165ほどです。

 さて今日は、ここにも何度か書いてきたことを標記のように改めてまとめて書いてみます。色んなスポーツをやった僕ですが、58歳からランニング入門をして今に至るまで学び、実体験してきたその内容です。その途中では、「慢性心房細動・カテーテル手術」による3年間の完全ブランク(69歳から72歳までのことです)と、そこからの復活という体験もありました。つまり以下の内容は、58歳からのランニング入門と72歳からの復活との両方から学んだことでもあります。走れる価値を以下のように実体験してきたからこそ頑張れたということも含めて。

 先ず長距離走の価値について。と言うよりも、サイクリングなども含めて、有酸素運動が人体、人生に与える価値と言った方が良いでしょう。
①有酸素運動が得意な高齢者は循環機能が強いから、ダイエットも自由自在。多量の酸素吸入によって生じる最大の人体細胞老化物質、活性酸素を中和するポリフェノール摂取さえ努めていれば、全身の細胞が若いのです。ちなみに、ウエートトレーニングだけやっていて走れない若者は、結局太っていくだけでなんのフィットネスにもなりません。ポリフェノールの宝庫となる料理のことは、このシリーズ最近の360号に書かせていただきました。

②有酸素運動で強い循環機能によって細胞が若いということは、以下の価値があります。肩も腰も凝らず、視力や聴力も衰えにくく、虫歯も少なく、皮膚も若くて、アチラの力も強い、などなどと。ちなみに、80歳の僕ですが、今でも毎日パソコンに4時間連続して向かい続けても目も含めてなんともないという身体です。血流の強さが、疲労物質を代謝してくれて、細菌などに対する免疫力も強くしてくれるということだと、掛かり付け歯科医が説明してくれました。

 次に、中年以降になっても走れるようになる方法ですが、以下を識らないからもう走れないと思い込んでいる人が実に多いと見てきました。なお、ここで走れるというのは、いくらゆっくりでも1時間も走れるという有酸素運動ランを指しています。
① 時速6キロ程でも6・5キロでも良いが、自分の最大歩行速度で30分歩けるようにまず努力します。次に、その30分の後の方で、歩いたのと同じスピードで初め5分走ってみます。するとやがては10分とかも走れるようになっていきます。これを週2度ほど続けて、速度はいくら遅くとも良いからとにかく30分「歩き15分・走り15分の形」まで続けられるようにしていきます。このトレーニングには瞬間スピードが分かった方が良いから、市営ジムのランニングマシンやランニングウオッチを使うことをお勧めします。
 
② その走り方ですが、足先を前に出す気持は少なくして、後ろ足で床や地面を蹴りもせず、なるべく小股が良いのです。その小股ですが、骨盤をやや前傾させて、前に来た脚の膝を伸ばし気味にして足裏全体で地面をつつき、その反動でやや前傾している骨盤全体を前に持って行き、その骨盤の「真下に」持ってきた前脚の膝を伸ばしてまた地面をつつくというような走り方が最も合理的なのだと思います。やや前傾した上半身の前脚で地面をつついた前への反動以上には下半身を前に出さないと言ったら良いでしょうか。 

③ ①の意味ですが、走れるというのは筋肉の問題というよりも血管を含めた循環機能の問題であって、これは循環器を長時間使うことによってだけ伸びたり、復活したりしていくものということです。また、①で30分の前の方の歩行は自分の今の循環機能を目一杯働くようにするウオームアップの意味があります。年をとると自分の循環機能が正常に働くまで、20分もウオームアップが必要な身体になっていくのですが、このことを識らなくて初めから速く走りすぎて5分も持たず、「俺はもう、走れない身体になった」と思い込んでしまうのが周囲を見てきたふつうの心境みたいでした。

④ 時速6キロとかいくら遅くとも、30分走れるようになってこれを続けていれば、その速度の心拍数が次第に下がってくるものです。そしたら、初めの頃の6キロ時走行心拍数まで速度を上げることができるんです。ということを重ねるのが、ランニング入門で速度を上げていく方法です。この「同一心拍数持続走行を重ねて速度上げ」は、スピードを落として走り込めば走り込む程大きくなっていきます。つまり、同じ6キロ時でも、30分より1時間のほうがずっと心拍数が下がってくるということです。

⑤ なお、以上によって(有酸素運動)筋肉も、そこの毛細血管の復活とともに次第に付いてきますから、これを柔らかくするためのストレッチが欠かせません。特に下半身や腰回りのストレッチを、物の本などにあるとおりに身につけていきます。これを怠ると筋肉(周辺)が固くなって、ランニング故障が多くなります。因みに、有酸素運動筋肉とは魚で言えば回遊魚の赤身魚の肉、無酸素運動筋肉が白身魚の肉です。この区別を人間で言えば、ランナーと、相撲取りや重量挙げ選手との筋肉の区別ということになりましょう。さらに一言、無酸素運動だけの人は最大の細胞老化物質・活性酸素への抗酸化システムが弱くなって早死にする運命にあります。痩せられない相撲取りがみんな早死にするのはそういう理屈です。現代科学によれば、走れない身体のままで無酸素運動に子どもを導くのは、罪作りじゃないでしょうか。「俺は太く短く生きたい」と豪語する大人の相撲取りを止めるつもりはありませんが。

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このブログ16年、歴史や現状など  文科系

2021年07月19日 15時53分06秒 | その他

  このブログは2005年11月29日に、「名古屋市昭和区憲法9条の会」の姉妹ブログとして始まった。始めたのは、この9条の会の幹部の1人K・T君と、M・K君である。いずれも僕文科系の大学時代からの親友であって、お互いのお連れ合いさん共々、結婚式の実行委員会をやり合ってきた仲であり、僕自身は発足直後に彼らに誘われて参加した。

 以来3人が依頼したいろんな人がエントリーを書いてきたが、K・T君、へそ曲がりさん、只今さんら3人の書き手が亡くなり、M・K君など病気や怪我で書けなくなった人も多い。これらの人々の努力で、今日現在までの累計アクセス1,168,536、累計閲覧数6,118,732となっている。ここは非常に長文のエントリーが多いのが特徴だが、その割に閲覧数がアクセス数の5倍を超える多さとずっと示されてきた。これは、「このブログの人気記事、ベスト10」とかカテゴリー欄から入ったり、「バックナンバー」欄のカレンダー日付から入ったりして、過去ログを遡って読まれる方々が多いのだろうと推察して来た。
 ちなみに、週間累計アクセス数の過去最高は4,631(2020年8月30日~9月5日の週)で、その週の累計閲覧数は14,755となっている。また、直近の2021年7月11日~17日ではそれぞれ2,257の6,865である。

 また、他のブログのことは分からないが、このブログのエントリー名称それぞれを青転して「Web検索」にかけるとほぼすべてが、Microsoft Bingの検索面に紹介されているから、それなりの内容と認められているのだと、勝手に解釈してきた。なお、この「Web検索」の意味が分かる方がいらっしゃったら、是非教えを請いたいと思って来た。

 僕も今年5月で80歳になった。いつまで書き続けられるか分からないが、K・T君らの遺志を継いで、書ける間は書いていきたいと決意している。それもずっと示してきたように、ほぼ毎日、多領域に渡るそれなりの内容の長文を。

 今までここを読んで下さった多くの皆さん、今後もご愛顧のほど、よろしくお願いします。

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八十路ランナーの手記(361) 走り直し・・・   文科系

2021年07月18日 03時23分23秒 | スポーツ

 毎年のことだが、暑い中では外走りをやめてジム・マシンに専念。これがおのずから走力低下を招くのは分かっていたことだったが、その後まもなく大腸内視鏡検査で三つのポリープを取ったところから一週間のラン停止命令が出て、今週やっと走り始めたばかり。故障を警戒して大事を取り、ゆっくりゆっくりと走り直し始めた。
 市営ジムのマシン制限時間30分を2回で、火曜が7・4キロ、木曜7・6キロで、本日土曜日は7・9キロまで行った。前半が3・9キロ、後半が4・0キロである。木曜日には走行中の右脚に尻外側、膝など違和感が出たから、相当弱っていると改めて分かったのだが、この日の頑張りがあったせいか土曜日は極めて好調。走り終わった後に、いつものウエイト・トレーニング一式をやった上に、正式なスクワットをきっかり百回やって帰ってきた。こうして、「初めから走り直し」というのが今の僕には正解だったと分かったのだが、大きな怪我が無くて幸いだった。これから後は、1日置きで走ってこの1時間の距離をどれだけ延ばしていけるかとやっていくつもりだ。
  これぐらいのスピードだと1分間のピッチ数は160~170程で、心拍数も普通時にちゃんと戻っている。僕の場合はつまり、8キロ時で140bpmほど、9キロ時で150bpm弱というところ。走力の回復度合いから考えてみて、まだまだ老いてはいないと思えて、嬉しかった。

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勘違い安倍政治の淵源、「私が国家ですよ」  文科系

2021年07月17日 12時00分19秒 | 国内政治・経済・社会問題

 桜で安倍晋三を不起訴にした特捜検事が検察審査会の事情聴取を受けた。河井克行から賄賂を受け取った議員らの不起訴を不当として、検察審査会への訴えが起こされた。この問題では、自民党本部から安倍が出したと言われる異常な大金、1・5億円も問題にならざるを得ないはずだ。森友関連の文書不開示は違法との訴えにもこの16日に二審判決が出て、違法であるばかりではなく「この文書管理は極めてずさんであった」として、訴えた学者に33万円の損害賠償が命じられた第一審判決が支持された上に、控訴まで棄却されるという始末であった。安倍前首相を巡ってはどうしてこんな事件ばかりが起こるのだろう。その淵源について、安倍の勘違い首相観という一つの考察をしてみたい。

 2019年、2月28日の衆議院予算会議でこんなやり取りがあった。
>長妻昭議員「統計問題を甘くみない方がいい。扱いによっては国家の危機になりかねない、という認識はあるのか。」
>安倍総理「いま、長妻委員は国家の危機かどうか聞いたが、私が国家ですよ。」

 このやり取りに示された考え方こそ、安倍晋三氏の数々の愚かな勘違い言動の淵源だと思い至っている。国家の最重要要素には主権者国民も憲法もあるのに、その国民の四分の一をちょっと超えた程度の支持があったからということで、「私が国家ですよ」などと考えて行政をやって来たのである。因みに上のやり取りで長妻氏が言う「統計問題は・・・国家の危機になりうる」などは、安倍氏には理解できないものだろう。でなければ、勤労統計やGDP計算式などなど、永年続いてきた国家統計計算式を替えるなど、思いつくわけもないことである。

 さて、安倍の勘違い言動の数々は、すべて安倍のこんな「私が国家ですよ」から出ているのだと思う。「五輪に反対する人は反日」などと、国家主権者の一部を国民ではないかのように言えるのは、自分が国家だからなのだ。同じく、国会答弁に何百回かの嘘、誤魔化しを連発してまともに答えて来なかったのも、国家である自分が認めない考えは無視して良いと考えているのでもあろう。さらには、コロナ下の五輪強行で国、国政にとって一番大事な国民の命が損なわれても良しとしてきたのも、同じくコロナ下五輪強行のために義務教育を含む学校の長期休暇を「要請」してきたのも、裁判への起訴権を握る検事総長人事や日本学術会議人事の選考制度・慣行をねじ曲げて来られたのも、これらすべて自分が国家だと考えているからできたことなのではないか。

「私が国家ですよ」はこうして、容易に独裁に繋がっていくものだ。憲法を変える運動を首相が先導するなどは、そういう独裁者の行為そのものである。近代憲法というのは、主権者国民が自分らの諸権利を守らせるべく為政者を縛るものとしてうまれたものと言うのが定説なのだから。ちなみに、この憲法定説を安倍は認めていないのだと、僕は観ている。

 こういう独裁言動の数々の間に、「国民生活を向上させる」と称したアベノミクス最大の柱、2%目標はいつまでたっても達成できず、この目標自身をすでに下ろしてしまったも同然なのである。そこに残ったものは、そんな経済実態もなく膨らみすぎた官製バブルとGDPの倍を超えた国家借金だけ。この結末を、安倍政権党は一体どうつけるつもりなのだろうか。

 

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「桜」特捜検事を、検審が意見聴取  文科系

2021年07月16日 11時49分42秒 | 国内政治・経済・社会問題

 「桜を見る会」夕食会の費用補填問題では、国会などでも嘘、誤魔化しを連発してきたのが、安倍晋三氏。「事実5,000円で済んだのだ」とか、「個別に領収書を出した」だとか、果ては「ホテル領収書は無い」とまで言って罪を逃れようとしてきた。その結末は秘書が略式罰金刑で、安倍は不起訴。
 ところが、今新たに検察審査会が標記のことで動いていると、今朝の新聞にあった。「捜査の経緯や不起訴と判断した根拠について説明を求めたもようで、近く議決を出すとみられる」と報道されている。
 民主党新政権誕生時に、首相になると見られた小沢一郎の単なる「期日ずれ収入」問題で起訴、不起訴があれだけ長引いた事を思い出すと、この問題の扱いはあまりにも軽すぎる。「国政功労者を祝い励ます会」を「政権党幹部の個人選挙功労者を祝い励ます会」に換えてしまって、そこに出てきた最大多数の山口県人こと安倍晋三後援会幹部らで開いた前夜祭への補填金問題なのである。因みに罰金刑となった秘書は、今ではもう幹部秘書として地元で大活躍なのだそうだ。このように大々的な国政私物化の出汁にされながら、この秘書を許しているやの山口県人達、後援会幹部らもどうかと思うのだが、とにかく安倍晋三は、我が物顔に国政を汚しすぎてきた。

 検察審査会申し立てに関連して本日、河井克行氏による買収事件で不起訴となった地方議員関連の報道もあった。彼らの不起訴は不当であると、検察審査会に申し立てがなされたと。この事件でも安倍氏が行ったとされている自民党本部資金1・5億円支給が問題になっている。この「理由不明、異例の大金」が自民党本部から出ていなければ起こらなかった河井賄賂事件なのであるから、安倍氏や自民党などが調べられるのも必然なのである。とここでは、安倍晋三氏は、自民党を私物化しているという勢いである。

 今日最後の重要なまとめになるが、これらの事件の遠因は、こんな所にあるとすでにはっきりしている。「私が国家ですよ」とか、「五輪反対の人々は反日である」とかの愚かすぎる勘違い発言がある。国民の四分の一を超える程度の賛成によって自民党、国会、官僚を握った上に、裁判の起訴権を握る検事総長人事までを掌握して三権分立をさえ壊そうとしていた独裁者の高揚感! このことを何よりも示しているのが、桜に見えた「国政功労者=個人選挙功労者」ではなかったのか?!

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随筆  戦争信仰   文科系

2021年07月15日 20時40分39秒 | 文芸作品
 
 あるブログの共同運営を大学時代からの友人に頼まれて十五年やってきたが、そこでいろんなネット右翼諸氏とやりあってきた。ブログ名称に「憲法九条」が入っているゆえなのだろうが、こういう方々の訪問が絶えなかったからだ。たとえば、
『平和を願い、母国を愛する一未成年から反論させていただきたい。…………以上、反論があれば随時丁重にお返しさせていただく故、フェアに品のある議論を望む』
 これは「平成の侍」と名乗られたお方が僕の文章に寄せてきた長文コメントの冒頭と末尾だが、たった一回僕が出した回答に対して、もうお返事が何もなかった。僕の文章内容が彼が考えたこともないようなものだったから再回答のしようがなかったのであろうが、はてこれは「フェアに品のある議論」であったのかどうか、難しいところだ。

 こんなふうに知識も思考力も様々な方々を相手にしたこの十五年、実に多領域の勉強をさせられたし、いろいろ考えさせられつつ今日まで来た。慰安婦問題は明治維新以降百年の日朝関係史学習にまで拡がっていったし、南京虐殺や「連合国史観」は「アジア・太平洋戦争史」の復習に繋がった。こちらが学んでいくごとに「これだけ稚拙な知識しかない相手が、どうしてこれだけ自信ありげに頑張れるのだろうか」と気付き始めた。その度に訝り、考え込んで来たのがこのこと。これだけ確信ありげに語るのは、世界も狭いからというだけではなく、自分を納得させ、確信させる信念を何か持っているからだろうが、それって何なんだろうかと。これらすべてにおいて、同じ人間という生き物に、どうしてこれだけ見解の相違が生じるのだろうかと、そんな哲学的問題意識をも温めつつ、相手の言い分を観察してきた。
 そこで最近になってようやく気付いたのが、これだ。

 さて、戦争違法化が、二十世紀になって世界史上初めてその国際組織と法が生まれたりして着手されたが、地上から戦争はなくせるのだろうか。この問題で極めて簡単な正しい理屈が一つある。戦争はずっとなくならないと語る人は「その方向」で動いていると言えるのだし、なくせると思う人はそういう方向に「参加していく」のである。つまり、戦争が未来になくなるか否かという問題とは、民主主義時代の世界にとっては何か宿命的に決まっているようなものではなく、今及び将来の世界の人間たちがこれをどうしようと考え、振る舞うだろうかという実践的な問題なのである。世界の政治課題というものは、人間が決めるものだと言い換えても良いだろう。ところが、人間が決めるものだというこの真理を意識せずして否定する以下のような「理論」に最も多く出会えたのだと理解してから、僕の頭はすっきりした。

 社会ダーウィニズムという今は誤りだとされた社会理論がある。その現代版亜流の世界観が存在するようだ。「動物は争うもの、人間もその国家も同じだろう。そうやって、生物は己自身を進化させてきたのであるから」。この理論で言えば夫婦ゲンカも国同士の戦争も同じ(本質の)ものになる。そして、夫婦ゲンカは永遠になくならないから、戦争もそうだろうと、大威張りで確信できるわけだ。
『動物の争いは永遠になくならないのだから、人間も永遠に争うものである』
『人間は争うものだから、国家の戦争も無くならない』
 これが、ネット右翼諸氏の世界と政治を観る無意識の出発点なのである。最近、そう気付いた。対案はこれしかない。「二十世紀には人類史上初めて戦争違法化に向けた国際法、国際組織も生まれたではないか」、「国王などだけの意思で戦争を起こせた過去に対して、20世紀以降は為政者が国民を説得しなければ戦争はできない」、「身分や人種差別があった過去に対して民主主義が広まった今は、戦争は相手をも殺すという意味も含めて、嫌われるようになった」などなどの歴史的事実と、戦争はなくせるという世界観とを広めていくこと。その実を例え少しずつでも、粘り強く作り広げていくこと。

 以上ありふれて見えるようなことを書いたが、正面からは案外批判されてこなかった誤った戦争に関わる信念が巷に溢れていると言いたい。この日本には特に広く。集団主義ムラ社会の中で激しい競争を演じてきた団塊世代以降では、自然に持つ世界観なのかも知れない。
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