九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

「九条を世界遺産へ」の書評紹介      ネット虫

2007年01月31日 | Weblog
憲法第9条を棄てるとき、日本人は限りなく堕落していく!
 
「現行の憲法は、日本が占領されている時代に制定され、既に六〇年近くがたちました。新しい時代にふさわしい憲法の在り方についての議論が、積極的に行われています」――これは安倍首相の所信表明演説の一節である。私はこのような発言を聞くたびに、何か日本がとても小さなものになった気がする。それはこの文脈のなかの「憲法」を、「私の家」とか「この町の下水道」とか「村の公民館」と入れ替えても少しもおかしくないからだ。これを「倭小化(わいしょうか)」というのだろう。理想というものを古い、新しい、誰が作った、という次元に引きずり下ろしてしまう人々が、この世にはいるのである、日本の功利主義はここまで来た。そういう思いを抱きながら過ごしている目の前に、この本〔(『憲法第9条を世界遺産に』大田光・中沢新一著/集英社新書)〕が登場した。・・・・・・

 ・・・・・・本書には九条を表現するキーワードがいくつも出てくる。「奇蹟」「珍品」「無茶」「面白い」「常軌を逸している」「正気を失っている」「瞬間の輝きとともに世界に出たもの」「二度と取り消しがきかないもの」「先住民族の影響を受けたアメリカの建国精神と日本の合作」「人間の限界を超えようとする挑戦」「たった一つ日本に残された夢であり理想であり拠り所」「ドリームタイム(根源の場所)」等々。これらは今まで憲法九条について語られてきたものと異なっている。メツセージは「憲法九条はふつうでない」ということだ。ふつうの国になりたいような国にはもったいない憲法だと思える。
面白いと思ったのは中沢新一の次の言葉だ。「憲法九条は修道院みたいなものなんですね。……たとえ無茶な場所であっても、地上にそういう場所がある、ということを、いつも人々に知らせている……普通に考えたらありえないものが、村はずれの丘の上に建ってるというだけで、人の心は堕落しないでいられる」――私も常々、憲法九条問題は人間の堕落について考えさせる問題ではないか、と思っていた。時代の変化に従い、社会の実情に合わせて理想を改変しよう、という考えを「堕落」という。憲法九条問題は、人が堕落しないでいられるその仕組みを、社会が失ったところに立ち上がってきた。憲法九条の存在は唯一の俗を越えるものとして、私たちの生活の中に措定できるものなのかも知れない。だとするとこれすらも失ってしまったとき、日本人の精神はどうなるのだろうか?・・・・・・

(田中優子さんは法政大学教授)

毎日新聞10月掲載『憲法第9条を世界遺産に』書評


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現代経済批判の常識  文科系  

2007年01月31日 | Weblog
書いてある内容はこういうことだ。
実質成長率2%台半ばで景気拡大6年というけれど、その実感は乏しい。一般消費が低迷しているからだ。その原因はハッキリしている。大企業が史上最高益を謳歌する一方で、賃金は昨年半ば以降低下しているし、雇用は増えていても非正規労働者がほとんどであるからだ。経済を強くしようというのであれば「今大事なのは需要サイドへのてこ入れなのだ。簡単な話、賃金を上げたり、正規雇用を増やしたりすることだ」。賃上げ抑制策ではなく、「節度ある範囲内で、一定水準以上にする逆所得政策がありうるかも知れない」。

僕は思う。資本主義は結局常に、供給だけ増やして、それに追いつくだけの需要は作れない。そこから恐慌や戦争が起こる。これはカール・マルクス以来の識者が指摘したところである。それをあまりにも激化はさせないという「管理」だけには現代の諸政府は長けてきたようで、これはまずめでたいことだ。が、それで頭に乗ったのか「株主資本主義」の野放し状態になってしまった。「株主資本主義」の世界制覇、このグローバリズムの元で、需要もないのに株価だけ上がる。こんな「好景気」って、一体何なんだろう?そして、いつまで続く?
また、需要などいくらでもあるではないか。金を普通の人々にとって真に有効に使おうとだけ考えるならば。アフリカの飢餓対策、エイズ対策、先進国にあふれる失業者対策、地球環境対策、アメリカでさえ医療行政不備から来る病人対策、などなど、などなど。ただし、武器輸出合戦には励んでも、これらはいっこうに「需要」にはなっていかない。「支払えないところ」には「株主資本主義」は洟もひっかけないというだけのことである。
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九条問題、経済人の良識。       まもる

2007年01月30日 | Weblog
平川克美氏(リナックスカフェ社長)

   憲法改正9条、「理想論」で悪いのか 。

 国論を二分するような政治的な課題というものは、どちらの側にもそれなりの言い分があり、どちらの論にも等量の瑕疵(かし)があるものである。そうでなければ国論はかようにきっぱりとは二分されまい。国論を分けた郵政法案の場合も、施行60年を迎えて近頃かまびすしい憲法の場合も、重要なのはそれが政治課題となった前提が何であったかを明確にすることである。

 政治は結果であるとはよく言われる。仮に筋の通らぬ選択をしたとしても、結果において良好であればよしとするのが政治的な選択というものだろう。ただし結果は結果であって、希望的な観測ではない。米国のイラク介入の結果を見るまでもなく、しばしば自分が思うことと違うことを実現してしまうのが、人間の歴史というものである。

 その上で、憲法改正の議論をもう一度見直してみる。戦争による直接の利得がある好戦論者を除外すれば、この度の改憲問題は反対派も賛成派も平和で文化的な国民の権益を守るという大義によってその論を組み立てている。

 9条をめぐって護憲派は、広島、長崎に被爆の体験を持つ日本だからこそ、世界に向けて武力の廃絶を求める礎としての現行憲法を守ってゆくべきであると主張し、改憲派は昨今の国際情勢の中で国益を守るには戦力は必須であり、集団的自衛権を行使できなければ、国際社会へ応分の責任を果たすこともできない、と主張する。

 なるほど、どちらにもそれなりの正当性があり、等量の希望的な観測が含まれている。しかし将来起こりうるであろうことを基準にして議論をすれば、必ず両論は膠着(こうちゃく)することになる。

 では、確かなことはないのかといえば、それは戦後60年間、日本は一度も戦火を交えず、結果として戦闘の犠牲者も出していないという事実がこれにあたる。政治は結果と効果で判断すべきだというのであれば、私は、この事実をもっと重く見てもよいのではないかと思う。これを国益と言わずして、何を国益と言えばよいのか。

 「過去はそうかも知れないが、将来はどうなんだ」と問われるであろう。現行の憲法は理想論であり、もはや現実と乖離(かいり)しているといった議論がある。私は、この前提には全く異論が無い。その通りだ。確かに日本国憲法には国柄としての理想的な姿が明記されている。理想を掲げたのである。そこで、問いたいのだが、憲法が現実と乖離しているから現実に合わせて憲法を改正すべきであるという理路の根拠は何か。

 もし現実の世界情勢に憲法を合わせるのなら、憲法はもはや法としての威信を失うだろう。憲法はそもそも、政治家の行動に根拠を与えるという目的で制定されているわけではない。変転する現実の中で、政治家が臆断に流されて危ない橋を渡るのを防ぐための足かせとして制定されているのである。当の政治家が、これを現実に合わぬと言って批判するのはそもそも、盗人が刑法が自分の活動に差し障ると言うのに等しい。

 現実に「法」を合わせるのではなく、「法」に現実を合わせるというのが、法制定の根拠であり、その限りでは、「法」に敬意を払われない社会の中では、「法」はいつでも「理想論」なのである。

2007年1月13日朝日新聞「私の視点」
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どこかが狂っている。この果ては!!?  文科系

2007年01月30日 | Weblog
30日毎日新聞にもこんな記事が載った。題して「イラン『米が攻撃』に警戒拡大」と。

イラクがあんな風だからイラン戦争など普通では到底不可能なはずだ。なのに、アメリカ行政府の最近の動きは、単なる脅しとも見えないほど深刻な物がある。イスラエルもクライスター爆弾とか「新型『サド』爆弾」とか、常軌を逸しているような行為に及んで憎しみの連鎖を増やしているようだし、何かが狂っているとしか表現できないような深刻さがうかがわれてならない。
国際原子力機関エルバラダイ事務局長も「両者は衝突に向けたコースに進んでいる」、「軍事的な解決策があると考えるのは狂気のさただ」と警告したらしい。
まさに、そういう「狂気の沙汰」が起こりかけているように見える。

ペルシャ湾に空母を並べられたイランの疑心暗鬼は、当たり前だろう。大統領の命令一下で即、重点爆撃なのだから。こんなイランがイラクのシーア派やレバノン、パレスティナ支援を必死に強めるのも、分からないではない。
ところがここに来てブッシュが23日、一般教書演説でこう叫んで見せのだという。
「イスラム教シーア派の過激派が米国にとってアルカイダと同程度の敵になっている」
次いで英米メディアまで、米政権からと見られる、こんなリークを流しているらしい。
「イランが北朝鮮の協力で地下核実験の準備を進めている」
「イランが弾道ミサイルを改良したとみられるロケットで近く人工衛星を打ち上げる」

 こんな事ばかりが続くと、悪循環、憎しみの『眼には眼を』の果てに、イランやアメリカの為政者すら今は望んでいないような米イラン戦争が起こらざるをえぬようになっていくかも知れないと、心から心配している。
戦争なんて案外、最後はそんな風にして起こるようだと考えている。

また、愚か過ぎるブッシュならこんなことにさえ考え至るかも知れないと、僕は恐れてもいる。
「このまま『イラク戦争を泥沼にした大統領』という汚名を歴史に残すよりも、いっそイスラム全体を大きく叩いてしまえ。『狂信の徒』、『女性蔑視』、『非民主主義』、どんな理屈でも大きく付ければよい。毒を食らえば皿まで、小悪人と言われるよりも『大悪』にも見える正義の人と振る舞えば、後世の人々は偉人にも見てくれようか!!」



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それでも ブッシュはプッシュ。      まもる

2007年01月29日 | Weblog
 【ワシントン27日共同】米国の首都ワシントンで27日に行われた大規模反戦集会は同日午後、参加者が連邦議会議事堂周辺をデモ行進して「イラクからの米軍即時撤退」を訴え、散会した。参加者数は数万人(警察推計)で、主催者側が見込んだ数数十万人には及ばなかった。
 集会には、ベトナム反戦運動の「闘士」として知られた女優のジェーン・フォンダさんも参加。「反戦集会に出るのは34年ぶりだが、いまだに(戦争反対の)声を上げなければいけないなんてとても悲しい」と、ブッシュ政権がベトナム戦争失敗の教訓を何も学んでいないと批判した。
 「沈黙を続けることはもはや選択肢ではない」として「米国にもまだ希望があることを世界の人たちに分からせる」活動を共に続けていこうと呼び掛けると、参加者から大きな拍手がわき起こった。

 

 アメリカ人もやっと事の重大さに気が付いたらしい。
 ブッシュさんの支持率は二十パーセント台に。

 しかしである。
 早期撤退計画の勧告も無視。
 二万人の派兵を始めるは、イラク工作員とみなせば即殺しの指令。
 ペルシャ湾への艦船の増派。
  イラクで泥沼が続けばイランの空爆まで予想される事態。
 自分の名誉?とネオコンの後押しで地獄の選択。

 しかし 恐いのは日本政府の姿。
 久間防衛相の発言で・・つい本音が。

 「イラク戦争の出発点が間違っていようが、いまいが、イラク復興のため、政局の安定のため、イラク特別措置法の延長をしなければならない。」

 ブッシュに引きづられて地獄の道行きは真っ平だ。

 安倍が憲法を争点にするなら、イラク派遣をまず争点にせよ。




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「この世界に僕たちが生きてこと」を見て  落石

2007年01月28日 | Weblog
ドキュメンタリー番組を見て制作者と話し合う会に
参加してきました。
番組は「この世界に僕たちが生きてこと」
豊田市の筋ジストロフィーの若者が、
周囲の人たちの笑顔を110枚描くことを決心、
そのプロセスを追った番組でした。
彼が笑顔を描こうとしたキッカケは、
同じ病気の双子の弟が亡くなった時のこと。
600人を超える人々がお別れに来てくれたことからでした。

制作者の人からは、どのように番組をつくっていってのか?
どういうメッセージを伝えたかったのか?
など興味深いお話が聞けました。



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母が僕らに遺したもの その3(終わりです) 文科系

2007年01月27日 | 小説・随筆・詩歌など
 この時また、籐椅子の父が見えてくる。するとそれを見た当時の僕の感じがさらにまた蘇って来た。いや、夢そのものが、当時のことになってしまった。夢の舞台は籐椅子だけ、登場人物はもちろん六十代の父だけだ。僕は当然三十代なのだが、夢自身には登場していなくて、この夢を目として見ながら、心として感じ、考えているだけの存在だ。
 まだ父の顔には精気が残っている。だけど、一日中そこに座っている。時に本や碁石の定石書なんかを開くが、それもあまり続かない。母が傍らのテレビを点けても、ドラマの途中で寝入ったりしている。母は、父のこの籐椅子姿がイヤでイヤで、「あれを見ていると、私が病気になりそうだ」と吐き捨てるような愚痴を言っていたものだ。僕が何か病的なものを感ずるほどの、ある種の感情がこもった愚痴だった。まあ、当時の母も加わったこんな場面が切れ切れのスローフィルムのように続いたのである。
 そして僕は考えている。父は、やることがなかった? 時間を費やす術がなかった? 度々行けるような外出先も碁会所ぐらいだし、友だちは居なかったし。家で暇な時にいつでも始められ、何時間かを費やせるというものがなかった? 
 するとそのとき、不意に思いだした。昔の「籐椅子の父」に因んで、当時の僕に湧いたある一つの想念、仮説のようなものを。要約すればこんな感じになるだろう。
 健全で、素直で、一途な父にとっては、職場での評価が人生の全てだったのだ。そもそも、辺境で恵まれない貧乏子だくさんの家に生まれて、職場最大学閥の学歴を得ていたのだし、力はあったし、努力もしたし。事実として節目節目を最高の評価で乗り越えてきたみたいだし。戦前の若いうちから職場の周りの人々にも日々「そういう者として」接されてきたことだろうし。さてそれ以降、彼に「その刺激」に並ぶものがあったろうか。そもそも、それ以外の刺激を育くむ機会が、彼にありえただろうか。今はもう、この六十代半ばで父は既に余生を暮らしているのだ。母は父のこの「余生」に一時呆然とし、やがて怒りだしたんだろう、きっと。
 これが、三十代の僕が父の藤椅子姿を巡って感じ取ったものだった。
 
 「余生でもいいよなー、父さん。母さん二人は怒るだろうけど?」
 八十の心だけの僕がなぜか突然そう問うている。と、これも八十の顔に戻った父が僕の方に例のどこか恥ずかしげな微笑みを振り向けて、答え返す。
 「母さんは、毎日怒ってたよ。それも八十前には、くるっと変わったけどな。急に怒らなくなったのは、多分自分をも嫌い始めたからだ、きっと」
 「人は遅かれ早かれいつかどっかで、自分の老いと折り合いをつけなきゃということだね」
 「そうそう、そんなに頑張らんでもええじゃないか。私はもう頑張ったし、やることもない、とね」
 「母さんはもっと頑張りたかったんだよ。
それに父さん、飯や洗濯ぐらいやれんと、そういう母さんを邪魔することになる。ずっと共稼ぎだったんだし」
 「それは分かってますよ。だから母さんには最後までずっと頭が上がらなかった」
 「そうそう、世話されてる限り結局言い負かされるから、よく『母さん、貴方は偉い』とか大声出して、ふてくされちゃってたね」
 「おまえは何でもできるから、言い負かされないんだろう? 私らと違って仲も良さそうだし」
 「母さんがそんなこと聞いたら笑うよ。いつも僕が負かされてるのを知って、不憫とさえ思ってたはずだから。やっぱりやることの絶対量が僕とはちがうし、女性は明治生まれより昭和の方が注文の口もうるさいし、きついきつい」
 「そうだろうなー、生まれた時から参政権与えられることになっていた戦後昭和の共稼ぎ女というようなもんだからなー。でもな、明治生まれの共稼ぎ男には、特別な辛さもありますよ」
 「そうだろうねー。    うちの二人はとにかく特別。育った時の苦労というか努力というか、その質も量も違ってた」
 「なるほど、なるほど。それじゃおまえもなかなか大変だったわけだ。はっはっはっ」

 おおむねこんな会話を残して、父の籐椅子姿は消えていった。
 僕の眼前はまた秋の夕暮れ時で、「古い骸骨」の白木蓮が見えている。だだっ広い家に一人ぼっちの八十過ぎ、広縁に置かれた籐椅子に横になった夢の初めに戻っている。もちろん連れ合いが死んだばかりの、新米の男やもめだ。
 〈父さんも、籐椅子の上ではいつも、昔の人たちとこんなふうにしゃべり合ってたのかなー。それでも父さんは、現実の母さんに甘えられたわけだし、晩年は僕らの家族も一緒だった〉
 また訪れた慣れることのできないと感じている静けさの中で僕はそうつぶやくと、ふーっと小さく息をはく。
 こんな静かな一人よりも、いくらうるさくても少々労力が必要でも、連れ合いがいたほうがどれだけ良いことか。そんな情念を、うっすらと開けた目に天井をうつしながら何度も反芻している。そして、気付いた。籐椅子の上で目を開けたのではなく、朝の寝床でなのだと。目を覚まし、現実の天井を実際に見ていたのである。

   
 何かあわてて耳を澄ましてみると、連れ合いが起きている気配を感じる。ちなみに僕らは、別々の部屋に寝ることにしているのだ。すぐにダイニングへ飛んで行き、いつものように昨朝の出し殻が残ったコーヒーメーカーを外して、キッチンへ持って行く。これを三往復ほどして、コーヒーやトーストや既に器に用意されていた果物入りのヨーグルトなどを食机に並べ、やがて二人で食べ始める。僕はいつものように新聞を読みながら。
 しばらく後、「今日、ジム行こうか?」、これもそうすることになる日のいつもの僕の発言だ。「うん、五時半ごろね」。彼女は、テレビニュースに目をやりながら、いつものように応え返す。こんなふうにして、近所のスポーツクラブへ週一度ほど二人で歩いていくことになる。そして、一人で通うのが各一回ほどで、これらは彼女にとっては、糖尿病対策にもなっている。
 そしてまた、それぞれの沈黙。ほどなく、僕がまたしゃべっている。「今度の小説、一昨日やっと終わり方が見えてきたから、できたらまた読んでくれるかなー?」。 彼女は母に次ぐ読者なのだ。ただ、母に比べたらうるさい、うるさい。母は本を受け取ったその日のうちに必ず読むくせに読んだということすらすぐには伝えて来ないのに対して、こちらはやっと読んだと分かったそのときには、ほとんど字句上のことを取り上げて細々と切りがない。僕は文法にはほどほどの自信があり、むしろ内容や構成上の話がしたいというのに。ちなみに、彼女は国語の教師で、退職した今も元の学校に週何日か通っている。
 今日に限ってなんとなく僕の話題が多くなって、さらに次の話を持ちかけている。
 「ギター、やっぱりあの先生の所へ通うことにするわー」
 最近下見に行ったあるギター教師のことを持ち出したのである。
 「開放弦を清んだ音で弾くというだけで一時間実演、講義してもらってあれだけ興奮できるんだったら、習いに行くのは幸せなことだよ。楽しみなんでしょう?」
 「ホント、わくわくするとはこういうことだったなーってね。あの音を作るだけで、フルートなみに単音楽器としても通用すると言いたいぐらいだもんな。あーこれ、前にももう言ったことだった」
 ちなみに彼女は、あるフルート兼リコーダーの教室に通っている。その教室は、年に一度クリスマスホームコンサートを開き、僕も毎年聴きに通ってもう二十年近くになろうか。子どもとお母さんたちが中心の教室で、「古楽研究会」に属する先生やその友人も演奏するから、出演者の腕は年齢以上にバラバラで、それがまた楽しい。コンサートの後にはいつも欠かさずパーティーも待っている。関係する家族すべてが各二皿ずつ持ち寄った得意料理が洋食、和食、中華、エスニックなど色も様々に机に溢れ、各国のワインなども取りそろえられてあるというパーティーである。我が家がここ5年ほど提出しているのは「牛肉のワイン煮」二皿。作者は僕、盛りつけが連れ合い。表面を焦がした牛肉の塊四百グラムほどを、ワインと水にウスターソースと醤油を加えた圧力釜で三分ほど揺すらせ、肉とソースを分けて冷やしてからまた合わせて、一夜以上漬け置きするという僕の晩酌への定番だ。料理が多すぎてかなり余るという、全員の舌による優勝劣敗の試練のなかを5年も生き延びた作品である。もっとも、最初の時に連れ合いが「とーさんの作品」と触れ回ってくれたからつとに有名で、好奇心半分の試食者も毎年多いのだろう。
 お金をかけずにこれほど十二分に人生を楽しむ場所を作りあげ、持続させてきた賢いお母さんたち。こんな光景の展開を、僕は始終体を揺すってにこにこしながら毎年享受している。さて、すでにここで一番の古株の一人になっている我がかーさんであるが、母と同じようにこれから八十までこの場所に来ることができるだろうか。

 母が居なくなって半年、このごろふっと思うのだ。退職後の僕ら夫婦のこんな生活も、同居した晩年の母と父とを見ながらこの十数年かけて大小の取捨選択を少しずつ重ねてきた、その結果ではなかったか。           (おわり)



注 ここに述べた僕のスポーツ観とそっくりと感じられるものに最近出会った。この作品をほぼ書き終わったころに。考え方の構造だけでなく、用語まで似ていて驚きかつ嬉しかった。そして、こういう分野に興味のある方全てに、この本を心からお勧めしたいと思いたった。NHK出版、玉木正之氏の「スポーツ解体新書」である。なお、僕の当作品該当部分を、玉木氏のこの著作によって一部でも修正するということは、あえてしなかった。断りを入れて、修正した方が分かりやすくなったのかもしれないが、僕のオリジナルを崩したくはなかったからである。

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母が僕らに遺したもの その2 文科系 

2007年01月26日 | 小説・随筆・詩歌など
 週に複数回走ることを続けてきたほどのランナー同士ならばほとんど、「ランナーズハイ」と言うだけである快感を交わし合うことができる。また例えば、球技というものをある程度やった人ならば誰でも分かる快感というものがある。球際へ届かないかも知れないと思いながらも何とか脚を捌けた時の、あの快感。思わず我が腿を撫でてしまうというほどに、誇らしいようなものだ。また、一点に集中できたフォームでボールを捉え弾くことができた瞬間の、体中を貫くあの感覚。これはいつも痺れるような余韻を全身に残してくれるのだが、格闘技の技がキレタ瞬間の感じと同類のものだろうと推察さえできる。スポーツに疎遠な人にも分かり易い例をあげるなら、こんな表現はどうか。何か脚に負荷をかけた二、三日あと、階段を上るときに味わえるあの快い軽さは、こういう幸せの一つではないか。これらの快感は、たとえどんなに下手に表現されたとしても、同好者相手にならば伝わるというようなものだ。そして、その幸せへの感受性をさらに深め合う会話を始めることもできるだろう。こういう大切な快感は、何と名付けようか。イチローやナカタなどこのセンスが特別に鋭い人の話をする必要があるような時、このセンスを何と呼んで話し始めたらいいのだろう。音楽、絵画、料理とワインや酒、文芸など、これらへのセンスの存在は誰も疑わず、そのセンスの優れた産物は芸術作品として扱われる。これに対して、スポーツのセンスがこういう扱いを受けるのは希だったのではないか。語ってみればごくごく簡単なことなのに。スポーツも芸術だろう。どういう芸術か。聴覚系、視覚系、触覚系? それとも文章系? そう、身体系と呼べば良い。身体系のセンス、身体感覚、それが生み出す芸術がスポーツと。スポーツとは、「身体のセンス」を追い求める「身体表現の芸術」と言えば良いのではないか。勝ち負けや名誉とか、健康や体型とかは、「身体のセンス」が楽しめるというそのことの結果と見るべきではないだろうか。そういう理念を現に噛みしめているつもりの者からすれば、不摂生のためすっかり体型がくずれてしまったかに見える体協の役員の方などを見るのは悲しい。勝ち負けには通じられていたかも知れないが、「身体のセンス」はどこか遠くに置き忘れてこられたように見えるから。その姿で「生涯スポーツ」を説かれたとしても、「言行不一致」を免れることはできないだろう。(注)

 長々とスポーツのことを語って来た。スポーツを巡る僕の幸せの略歴や内容を表現したかったからだ。そしてこれらが、厳しい「敵」、反面教師として、両親にその源のところで育てられたものだからだ。熱心な反対は無視とは別物で、良いものをそのように掘り下げていくエネルギーにも転化していくと、今なら言える。まなじり決した執拗な反対があったからそれだけ燃えたし、守ったものを大事にしてきたと言っても良かろう。ただ厳しい反対に抗って創造が続けられるためには、対立しあった双方が切れてしまわない限りという条件が付くのではないか。だからこそ今、僕のスポーツ生活全てに関わって、夜毎の修羅場周辺をうろうろしていた母自身が、懐かしい。その時の両親を表現するなら、父は何か狭くて、頑なだったけれど、母のこの「うろうろ」にはぎりぎりの所で情というものが感じられた。そしてこの時の情の感じが、時を経るごとに大きなものになっていき、看病の五年間で最も多く思い出された母との過去の一つになっていた。これは、母から観ても同じだろう。苦労した子ほど可愛いとよく言われるから、この夜毎の「うろうろ」が母の中でも太い糸になっていて不思議はない。
 三人兄弟一姉妹で次男の僕が結局、晩年の両親と同居することになったのは、今振り返ればこの太い糸が後にますます太く育っていった、その末のことだったという気がする。例えば、同居以前も我が家が母の避難場所であったという事実がある。母は晩年の父とよくけんかして家出をしたが、その逃げ込み先のほとんどが僕の家だった。あの母が子の家へ避難するというのはよくよくのことなのである。たまに人間くさい本音が漏れて出るように振る舞うことはあるが、普段は、また子どもに対しては特に、いつも襟を正しているというような所があったから。年を取って弱くなったということもあろうが、僕ら夫婦には自分の弱さを出すことができるようになっていたのではないか。それも、あの「うろうろ」を典型として感情がもつれたような場面に、誰よりも僕と出会わすことが多かったからのことではなかったろうか。


 さて、こんな生活が半年近く続いたある明け方、僕は夢をみた。冷夏の分を秋の入り口に来て取り戻そうとでもいうような、寝苦しい一夜の未明のことである。
 夢の僕は八十過ぎの老人だ。子ども二人はもう同居していない。一人は同じこの市に住んでいるようだが、もう一人はどうも日本にはいないらしい。そして何よりも、連れ合いがいない。亡くなったばかりなのだ。原因とかどんな経過でとかについては、糖尿病が絡んでいるらしいという以外には何の感じもなくて、ただ喪失したという事実だけが、僕の夢によくあるあのリアルな寂寥感とともに存在していた。こうしてつまり、両親から相続しただだ広い家に住んでいるのは僕一人。母の好みで花木ばかりが多い庭はまあ辛うじて見える程度には剪定され、父の生前から二階の窓際の定位置にある藤の長椅子に横になって、僕がそれらを見ているというシテュエーションである。
 十メートルほど向こうに、暮れ始めた秋の陽に当たって、背の高い白木蓮が見える。なぜか上半分ほどはもう葉がついていない。古い骸骨みたいだなーと感じている。ごつごつと曲がって痩せ細り、水気も感じられない灰色、おまけに所々に節くれはあるし。
 あの木は、母さん(母のほう)の剪定が悪くて、幹に穴が開いて死にかけてた奴。ぼくらが穴の手当をしたら、幹までどんどん太っていったんだった。同居を始めたばかりのころ、この手当はかーさん(連れ合いのほう)の提案だった。もう寿命なのかなー。

 と、突然、打って変わったように強い日差しがあって、白木蓮の太い枝の付け根に座り込んでいる五十前後の僕が見えてきた。すると、籐椅子にいる僕が晩年の父にすり替わっている。彼は珍しく目を閉じていなくて、木の上の僕を眩しそうに見ている。木の下でうろうろしてるのは、あー母さんのほうだ。やはり両手で目の上に日よけを作って僕を見上げている。かーさんが向こうに、何か道具をもって現れた。小刀のようだな。僕がさっき頼んだんだろう。ピアノが聞こえる。あの曲は、高校へ入ったばかりの娘の、    発表会の直前なんだ、同じ一箇所がもう何十回も繰り返されている。これら全体を見ているようなもう一人の僕の耳に、この音が転がってしばらく止まない。

 と、また突然、木の上の僕もこれら全体を見ている心だけの存在であるような僕も、元の八十歳で一人住まいの籐椅子姿へと戻っていった。
 「おーい、かーさん」、八十の僕が言いかけた。続くはずの言葉は「お茶しようか!」のようで、一瞬首を回して、もう腰をあげそうになっている。ちなみに、母も子ども二人も居た昔からお茶は僕の当番、煎茶も玉露も紅茶も。そして毎朝のコーヒーは、生前の母のベッドサイドに出勤前の僕がいつも持って行ったものだ。しかし、今はこの提案に誰の返事が合わされることもない。何を喋っても、独り言にしかならない家の中なのに、習慣的言動を条件の変化に合わせてなくするということがいつまでもできないのだと噛みしめている。こういう言動はどうもボケの始まりと言うらしいが、会話ゼロの深閑とした生活の中で急に深刻さを増しているのだという実感も、はっきりと湧いていた。 
 どんどん『昔を生きる人』の深みにはまっていく。そう言えば、同じこの藤椅子にいた父さんは、それが早かったなー。六十半ばからもう一日中ここに座ってた感じ。僕が声をかけるとゆっくりと振り向いて、にそっと笑い返してきたから、眠ってたわけじゃない。恥ずかしいというような、何か遠慮しているというような良い笑顔だったけど、あのときは例えば母さんとの新婚時代なんかでも思い出してたんだろうか?

(その3に続く)
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母が僕らに遺したもの その1 文科系

2007年01月25日 | 文化一般
 母が死んだ。僕ら夫婦の退職を待っていたかのように死んだ。左脳内出血の突発以来五年三か月と四日。右半身麻痺、感覚性全失語症という後遺症と闘い、麻痺はほとんど消えて、一時はほぼ自立というところまで持ち直したこともあったのに。歩行訓練や起立訓練など周囲が課すことにもちゃんとついてきて、母らしく頑張ってきたのに。僕らも同じ年月を、共働きを続けながら一緒に努めてきたというのに。僕らが定年を過ぎて同時に退職して十二日目で、居なくなった。
 こんな母の声が聞こえてくるようだ。
 「お前も随分、家事に慣れてきたねぇ。体が自然に動くようになったもの。それを生かして、けんかを少なくして、自由になった時間を二人で楽しく暮らしていきなさい」
 九十二歳と七ヶ月ちょうど。人は大往生と言い、僕らもいちおう覚悟はしていたものの、死などというものはやはりどこまでいっても「突然」という他には表現のしようがないものだ。いわゆる痴呆ではなかったし、つい二日前までは僕と簡単な会話も交わしていたのである。病院生活などで家にいない期間が長かったからまだどこかに居るような気がして、朝の寝床で「さあ母さんとこ行かなきゃ」などと一瞬構えている僕が居る。生きている方からは、死んだ者への様々な「構え」がいつまでたっても抜けないようだ。

 二人分の年金があり、借金がないこともあって、働く気はもともとないから、いくつかの活動を準備してリタイヤー生活を手ぐすねひいて待ち構えていた。さらに、通夜、葬式、支払い、答礼、相続手続きの相談、母の持ち物の整理開始などなど、こんな一切が済んで、さて、一日平均して四時間ほどになっていた通院までが消えていた。ちなみに、母の所へ行くのは実子である僕の方が良いという決まりが五年間実行されてきたが、この仕事が突然なくなったというわけだ。こういう新生活になってから、以前より増えていったのがギターを弾く時間だった。
 退職の半年ほど前から、ぼろぼろになったカルカッシ教則本を引っ張りだして、昔から時々思い出したようにやってきた下手な一人習いのおさらいを始めていた。そして、この退職前のいわば準備段階で既に左手が故障した。指先はもちろん、関節や掌まで痛んで、マッサージをしたり、氷で冷やしたりしながらだましだまし弾いてきた。特に悪いのは左手薬指で、朝起きるとスムーズに動かず、延ばす時のある時点でバネが働いたような感じに跳ねる。母のことが済んで、まず早速医者に行った。薬指内側の付け根に注射を打たれ、その翌日からは、多少の違和感以外は全て何ということはなし、憂いなく続けた。もっとも、それまでに身につけてしまった音の悪さや雑音の多さは自分でもどう直して良いか分からないという悩みはあったけれど。
 母に会いに行く時間が全てギタ-に消えていったという程度ではない。一日平均すると約五~六時間にもなろうか、それを二回ほどに分けて弾く。一日三回のときなど、八時間を越える日もあった。仕事がギター練習に転じたみたいなこんな生活がもう半年近く続いている。連れ合いからは「ちょっとおかしいんじゃない?」と言われ始め、あげくの果ては「どっか感情が狂ってるんだよ」と不思議がられても、「別に悪いことしとるわけじゃない。今日の家事はすんだよ」と答えては、そのまま続けるという調子だ。「日頃掃除し残した家の恥部のような部分も順番にぴかぴかにしたし、食事作りやその片付けなども二人並んでやってるんだから、その上でこれほどに魂が入った芸術活動、むしろ魅力と言ってほしいね」という、そんな積極的反論も言行ともに備えてあった。こうして、僕なりに、本当に僕なりにということなのだが、過去一番の腕前になったとは言える。しかし、そこでさて、考え込んだことがある。
 〈それにしても、今までに覚えもないこの熱中。一体なんなんだろう?〉
 僕は確かに、この素朴で、憂わしい音色に引かれてギターを始めた。このたびはさらに、この音色を生かした和音や分散和音をよく聞きながら励んで、この多彩な六弦の協力のようなものにまた新たな良さを見つけられたような気もする。「なるほど、フラメンコダンサーがこの楽器を侍らせるわけだ!」とか、「ベートーベンが小さなオーケストラと呼んだ楽器だそうだが、わかるなー」とか、改めてつぶやいたりもした。しかしこれらだけなら、「感情の狂い」と診断されるまでには至らなかったと思うのだ。
 こういった自問自答の中から、ふっと浮かび上がってきた映像があった。母が八十歳近くまで三味線の発表会に出ていたときの、背中を丸めて小さく座ったその姿である。〈あれほど練習して、回りの人に四苦八苦でなんとかついていく。「生きなきゃー」って感じだなー〉と当時は見えたものだ。加えてもう一つの感慨、〈それにしても八十だ。いくつになっても「鑑賞」じゃ済まなくて、自分で「表現」して前進を確認していきたい人なんだなー〉。こんなふうに見えた昔の母と対照したとき、初めて今の自分が分かるような気がした。「時間さえかければ、まだまだなんとか」と、母を破壊し尽くしてきた老いの兆しを自分に見つけだしては、それを懸命に払い除けようとしているといった感じだろうか。それにしても、両手十本の指の速く、細かい動きから老いを払い除けて、「まだまだなんとか」を実証するのは、なかなかの骨だ。だから時間がどんどん飛んでゆく。それも七月に入ったころ全てテンポが遅すぎると気付いて、メトロノームのせめて八十ぐらいにはと改造作業が続いている、その真っただ中。さらに際限もなく時間が飛んで行き、挫折かさらなる前進か、こういった現在というようにも見える。
 これら全てが、母がいなくなったのと定年退職との前後のことなのだ。「感情の狂い」という連れ合いの診断はあながち的外れではないのかも知れない。そんな彼女が最近はこう宣告する。「ギターなんて細かい動き、そんなことすぐ進まなくなるよ。悲嘆に暮れてる貴方が見えるようだ」。それを聞いた僕、今度は一曲終えるごとにそれをテープに残し始めた。その時初めて意識したことだが、〈そう言えば、母自身の三味線稽古テープも十本くらいはあったかなー〉。

 リタイヤーに備えたもう一つの「表現活動」は、所属同人誌の文章創作だった。こちらは当初、僕にとっては全く未経験の白紙分野、この十年かけて準備してきたものである。これにちなんでも当然、母との想い出は多い。真っ先に浮かんだのはこんな場面だ。
 広島の江田島から原爆を見た後、僕ら家族は父だけを彼の職場に残して、母の故郷へ疎開した。僕の四歳の時、故郷とは渥美半島の田原である。三軒家と呼ばれたど田舎の森の中の家、裸電球の下、七歳と五歳(もうちょっと後だったかも知れないが、その後数年で名古屋に来たから、いずれにせよそんなころからのことだ)の少年が二人、ちょこんと座って母の読み聞かせにぽろぽろ涙をこぼしている。読まれた本は「小公子」、「小公女」とか「家なき子」とか、僕の文字、読書に関わる原風景で、年下が僕である。
 その後小学生の間、なぜか読書から遠ざかって年齢より三歳くらいは幼いような文章しか書けなかった僕を、この原風景に押し戻してくれたのが、また母だった。中学生の頃、日記を書く習慣を励ましてくれた。この習慣は、とぎれとぎれではあっても、基本的には今現在まで続いている。漫画でない読書の習慣が現れたのは他人よりも遥かに遅くて中学生後半だが、子どもの本は母が最も出費を惜しまない買い物の筆頭だった。
 僕自身のいままでの文章生活がこんなだったから、母の関与がどれか一つでも欠けていれば、やがて五十を越えて同人誌活動に加わるなどということは、まずなかったろう。これらも、この数年に母とのことを振り返ってみて、初めて気付いたことだ。親とは損なものである。ちなみに悪い親ならば、得しちゃったということも多いのだろうか。
 なお、僕の作品をこの世で最も熱をこめて読んでいたのが、発病前までのこの母だった。これは断言できる。僕の作品のみならず、僕の同人誌の全作品をなめるように読んでいたと思う。彼女がことさらそう報告したわけではなく、日常会話の話の端々にそのナメテイル様子がうかがわれて、驚くことがあった。気に入った同人の、性別、年齢、時には名前まで出てくることがあったのだ。

 リタイヤー生活に備えたもう一つの活動は、スポーツである。これも母と似て、「鑑賞」だけでなく「表現」であって、ここ五年ほどは年齢相応にランニングとスポーツサイクリングという有酸素運動の形で、現在の日常生活の中に残っている。ランニングはジムに週二回ほど通う。なんとか十キロ走って、最大五百メートルほど泳いで一回分、僕が泳ぐのは走り続けるためだ。自転車は一人でまたは仲間たちと、月に一、二日、三十キロから百キロほどロードレーサーをころがす。こういう僕のスポーツ活動にも母が関わってくるが、今度は「敵」、反面教師としての関わりである。
 四人兄弟のなかで、兄も弟も僕の記憶に間違いなければ、高校の時いったん入ったクラブを間もなく止めさせられている。確かそれぞれボート部と卓球部のはずだ。こんなに時間を取るのでは学業に障りがあるからということらしい。妹は卓球部をずっと許されたが、女だからということだろうと僕は解釈した。これも何か両親らしい。両親と言ってもこの場合、主導したのは父だ。母は消極的に父に賛成した。庇ってくれたこともあったから、そう感じた。確かめたわけではないが、まず間違いないだろう。
 さて僕の場合、山場では夜毎にけんかである。父の手が出たことも一度ではないといった、激しいけんかだった。そんな時の母は、僕と父との周辺を心配そうにただうろうろしていた。結局僕は、バレーボールを三年間守り通して、大学でも一年でレギュラーになった。その年、愛知の大学バレーボールリーグ一部中位に属するけっして弱くはないチームで。こうして当時の僕にとってバレーボールは、家からの『自立』であったと同時に、大きな誇りにもなった。ただそんな僕もスポ-ツを、今理解するような意味において捉えることはできていなかった。奇妙な表現だけれど、僕の頭の中では、僕の感情や行動におけるほどにはバレーボールを大切なものと意識してはいなかったのである。すごく好きだったし、行動上の熱中度も周囲の他の誰にも負けないという自信があったのだけれど、意識の上では当時それを、僕にとって数少ない「面白いこと」の一つと観ていただけだった。今だったらこんなスポーツ観を付け加えることができる。

(続く)
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県知事選アンケート・・平和・基地・について・・  まもる

2007年01月24日 | Weblog
質問 ①

ご存知のように航空自衛隊小牧基地からは、イラク特措法により航空自衛隊員約200名とC130輸送機3機がクウエートに派遣され、イラク国内のバグダッド、タリル空港など複数の空港に多国籍軍の兵員や物資輸送をしています。このことについてどのようにお考えでしょうか。

回答 神田氏
航空自衛隊のイラクへの派遣は、イラクの国家再建を通じてわが国を含む国際社会の平和と安定の確保に資することを目的とした「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」に基づくものと承知しております。

回答 石田氏                                                                                                     イラク特措法は、限定的(時間的にも空間的にも)な法律のはずですので、拡大解釈や事実の追認という形の解釈を生む可能性があります。そこで、立法者意思に戻り、たえず再吟味していく必要があると思っております。

回答 あべ氏                                                    自衛隊が、戦闘状態にあるイラクで、多国籍軍の兵員や武器、物資を運ぶこと自体が、憲法9条が禁止している「武力の行使」にあたり、憲法9条に反する行動なので、反対です。

質問②

小牧基地には昨年10月機動衛生隊が配備され、さらに2007年2月には空中給油輸送機に配備が始まります。このような一連の配備は基地機能の強化にあたるとお思いますがいかがお考えですか。

回答 神田氏
地元市町がこれらの配備を問題視する声は聞いておらず、私も同様に思っております。

回答 石田氏                                           「強化」の意味内容は、①それだけの能力があり、②使おうとする意思が有り、③更に使う相手が現にいるーという三点が明確になってはじめて「強化」といえると思います。現在のところ、このうち一つが想定されるだけですので、どちらともいえません。しかし、目を離さないでおきましょう。

                                                                   回答 あべ氏                                                機動衛生隊の配備も空中給油機の配備も、これまでの輸送部隊の業務の機能強化・拡大の範囲にとどまらず、従来にない新たな「機動衛生」「空中給油」の機能を持つことから部隊も新設され、明らかに基地機能の強化にあたります。すでに自衛隊の空中給油機配備を前提に、自衛隊員が乗り込んだ米軍の空中給油機に支援された自衛隊機が、対地攻撃の訓練を実施していることからも、単なる“輸送業務の拡大”と説明することには無理があります。空中給油機の配備により外国への自衛隊機による攻撃が可能となります。また米軍との一体化によりその空中給油機体制を補完する役割も予測されます。このような一連の配備は自衛隊の海外派兵の態勢を強化するものであり、小牧基地をその出撃拠点にするものです。

質問③

2006年2月に春日井・小牧・豊山の周辺二市一町の市長町長は、防衛庁・防衛施設庁に対し、以下の4項目の要望書を提出しました。県としては周辺自治体のこのような意向に対し、どのような具体的な対処ができるとお考えでしょうか。

1. 小牧基地については、航空自衛隊の編成に基づく航空支援集団及び航空教育集団として行う、航空輸送及び航空教育を中心とする現行の業務を変えないようにされたい。

1. 現行の業務を行うためであっても、小牧基地への新たな自衛隊機の配備や改造、部隊の新設などを行う場合は、周辺市町と事前に十分協議されたい。

1. 県営名古屋飛行場において、他基地所属の自衛隊機による定期的業務以外による利用及び米軍機の利用などがないようにされたい。

1. 基地周辺住民の民生安定及び良好な住環境の確保を図る観点から、特定防衛施設周辺整備交付金の増額など基地周辺の対策を充実されたい。

回答 神田氏
 地元には基地機能強化に対する強い懸念がありますので、防衛庁(省)においては、こうした懸念を十分に配慮し、地域の理解が得られるようにしていただく必要があると考えております。 

回答 石田氏                                            四つの方針を吟味してみますと、県民の生命・財産・生活を第一にせよ、というようにまとめることができると思います。その方向で努力します。

回答 あべ氏                                             県として国に対し、周辺自治体の意向を十分に汲み取るよう強く要望します。憲法9条を守り暮らしに生かすために、平和県宣言を踏まえ、周辺自治体と共に名古屋空港や中部国際空港の米軍使用や軍事利用に反対する立場を明確にします。県独自としても、小牧基地や県営名古屋飛行場において周辺自治体が危惧していることが行われていないか、基地強化に反対し、事故や騒音公害の徹底した防止など点検、調査し、必要な措置をとります。特に、機動衛生隊と空中給油機の配備は基地機能強化に当たるものであります。
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愛知県知事選に思う。      結集の風同人

2007年01月24日 | Weblog
  愛知県知事選を巡る分裂の真相を色々な方面からから知りましたが、共産党の自主支援まで拒絶するというのは本当に驚きですね。
  いくら儲かっているからといえトヨタも下請け労働者の問題など深刻なのに、トヨタの労組がこのような反共の態度を示すことは理解しかねます。

 社民党は護憲の政党だし、個別の社民党員、民主党員には頑張っている人もいると思いますが、共産党が候補を下ろして自主支援でもだめというのは、社民党・民主党の側に問題があると言わざるを得ないでしょう。
 私も最初は共闘ができないのは共産党の側に原因があると思っていたのですが、護憲・平和運動に広く根付いた反共意識(反共産党という意味です)も大きく共闘を妨害しているのではないかと考えるようになってきました。
 社会民主党宣言を改めてHPで読み返しましたが、共産党が日頃主張し、取り組んでいる立場とほとんど変わりはありません。

しかし社民党が民主党との共闘はできるけど共産党との共闘はできないというのは大問題だと思います。
  共産党というだけで拒絶するのは偏狭な反共主義であり、結局のところ戦前から戦後にかけて政府・公安・自民党が貫いてきた反共政策の縛りを未だに脱却できていないことになると思うのですがどうでしょう。

  保守勢力にとっては正論を掲げ、かつ非暴力・民主主義的態度を貫く共産党は戦後一貫して最大の脅威であり、平和運動がこれまで幾度となく分裂したのも保守勢力側が持ち込んだ反共産党的偏見によるところが大きいと思います。
  残念ながら市民や非共産系護憲勢力の中にも、共産党とつながりができることを恐れる傾向が根強く残っていると思います。(逆のことは共産党にもある程度言えますが)
  どれほど政策的に近くても、共産党の支援を受けて立候補することをためらう市民派、知識人、共産党以外の政党の候補は多くいます。

  もちろん共産党の側にも問題はあるしこれまで過ちを犯したこともある(例えば異端派を排除してきたことなど)ことは認める必要はありますし、共産党のやっていることが何でも正しいわけではありません。
 しかし、だからといって共産党を絶対悪のように考えるのは平和運動にとって何の利益もないと考えています。
 幸いなことに、市民は政党に比べて柔軟に動きやすいというメリットはあります。
 なんとか再び革新共闘の時代にしませんか!
  このセクト主義の克服こそが「平和・革新への結集」の大目的であるという原点が、最近特にあやふやになっているのではないかと感じています。

 



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「国民投票法阻止」で出来る事は!!  まもる

2007年01月23日 | Weblog
 下記は本日の「毎日新聞」の報道です。

「国民投票法案:成立強まる 修正なら賛成、民主が党内調整」

 民主党は22日、憲法改正の手続きを定める国民投票法案について、25日召集の通常国会で与党が民主党の主張を取り入れた修正をした場合は賛成する方向で党内調整に入った。与党と民主党は昨年暮れ、「18歳以上に投票権」など民主党の主張の一部を盛り込んだ修正で合意している。与党はこれに沿った修正案を提出するとみられ、同法案は通常国会で成立する可能性が高まった。

 安倍晋三首相は任期中の憲法改正を目指しており、憲法改正問題を参院選の争点にしたい考え。首相は同法案を通常国会の最重要法案の一つと位置づけており、与党は早期成立を目指している。これに対し、もともと同法案の必要性を認める民主党内では、参院選での争点化を避けるため、5月3日の憲法記念日前の成立を容認する意見も強まっている。

 同法案をめぐっては、改憲阻止を掲げる社民党が「自民党に手を貸すことはない」(福島瑞穂党首)と反対を民主党に働きかけている。これを受け、民主党の小沢一郎代表は参院選の野党共闘に大きな影響が出ないよう慎重な対応を鳩山由紀夫幹事長らに指示。民主党はこれまで与党と共同修正案を提出する方向で修正協議を続けてきたが、共同修正には応じない方針に転じた。

 一方で民主党は「憲法改正の手続き法は必要」と主張してきた経緯があり、党執行部は「反対のための反対は国民に理解されない」と判断。社民党に配慮する形で民主党として法案成立に積極的には動かない姿勢を見せつつ、与党が修正案を提出して採決に踏み切った場合、賛成せざるを得ないとの意見が党内で強まった。

 与党と民主党はこれまでの修正協議で(1)投票権者の年齢を18歳以上とし、選挙権が引き下げられるまでは20歳以上とする(2)投票14日前から有料の広告放送を禁止するなどメディア規制(3)施行期日を公布から3年後とする(4)運動を禁止する公務員を選管職員に限る(5)公務員、教育者による地位を利用した運動を禁止するが罰則は無し--などで合意。国民投票の対象に憲法改正以外の国政の重要問題を含むかや、白票の取り扱いなどについては最終的な合意には至っていない。【須藤孝】

毎日新聞 2007年1月23日 3時00分

国民投票法案:成立強まる 修正なら賛成、民主が党内調整 3:00
国民投票法案:成立公算大 民主「痛しかゆし」 3:00

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◎ 選挙前です、政党・政治家が一番世論を気にする時期です。
 緊急に民主党への電話やFAXでの要請をお願いします。1人でも多くの要請が影響を発 揮すると思います。
本日、明日の働きかけが重要と思われます。

「与党の改憲手続き法案は問題が多すぎます。多くの市民は法案の内容をほとんど知らさ れていません。この国会で急いで採択させるべきではありません」

等々の文案でどんどん送り込んだらどうでしょう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

小沢一郎代表 電話03-3508-7175 FAX03-3503-0096
菅 直人代表代行 電話03-3508-7323 FAX03-3595-0090
鳩山由紀夫幹事長 電話03-3508-7334 FAX03-3502-5295
枝野幸男党憲法調査会長 電話03-3508-7448 
            FAX03-3591-2249
平岡秀夫陰の内閣法務相 電話03-3508-7091 
            FAX03-3508-1055

  
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起て! 筑紫哲也!     待切無蔵

2007年01月23日 | Weblog
 いま、重要なことは、「石原都政NO」で一致する「統一候補」を1日も早く実現させることだと私は思います。そのためには、民主党サイドの思惑で動いてはいけないのです。同じように、共産党サイドの思惑で動いてもいけないのです。また同じように、社民党サイドの思惑で動いてもいけないのです……

 それを許せば必ず分裂選挙になります。分裂選挙になれば、十中八九、石原に負けるでしょう。

 石原に勝つためには、まず「統一」です。「統一候補」をなんとしても実現しましょう!!

 うがった見方をすれば、下記記事は、「革新」を分断させようとする敵方の
策略であるかもしれません……

 しかし 敵が恐れているのは確かです。「統一候補」に筑紫氏を担ぎたい。

===============================
■筑紫哲也が東京都知事選出馬を検討…STOP石原へ民主が打診
(サンケイスポーツ、2007年01月23日)

 4月の東京都知事選で3選を目指す石原慎太郎知事(74)=顔写真=の対抗馬として、ニュースキャスターの筑紫哲也氏(71)が出馬を検討していることが22日、政界関係者らの話で明らかになった。民主党から打診を受けたもので、近く出馬するかどうか最終決断する。石原氏は選挙に圧倒的な強さを誇るが、筑紫氏が出馬を決断すれば、大物著名人同士の“東京大決戦”となる。

 「与党の惨敗は大変なこと」「権力は腐敗しやすい。そういう時は野党の存在
が大事」。

 22日夜のTBS系報道番組「筑紫哲也 NEWS23」。キャスターの筑紫氏は「多事争論」コーナーで、21日の宮崎県知事選でそのまんま東氏(49)が当選したことに触れて、このようなコメントを残した。

 まさに意味深-。実は3月22日告示、4月8日投票の東京都知事選で、民主党から独自候補として出馬のオファーを受けていたからだ。

 知名度は申し分なく、石原知事に対抗できる「顔」になりうる。タカ派色の強い
石原知事と対照的にハト派的で、対決色も明確に打ち出せる。政治・行政経験はないが朝日新聞社の政治部や外報部などで豊富な取材経験があり、政界をはじめ国内外に人脈が広い。

 筑紫氏は民主党の菅直人代表代行(60)と親交が深く、政界関係者によれば、
菅氏サイドから出馬の打診があったという。

 ただし筑紫氏の連絡窓口となっているTBSの同番組宣伝担当者は「打診自体がない」と否定。筑紫氏本人への取材を試みたが、担当者は「打診があったとは聞いていないので」と拒否した。

 民主党は、都知事選の候補者選びに難航してきた。菅氏をはじめ、海江田万里前衆院議員(57)、小宮山洋子衆院議員(58)、蓮舫参院議員(39)ら同党関係者、さらに小沢一郎代表に近い前長野県知事の田中康夫・新党日本代表(0)、
山田宏・杉並区長(49)らの名前も取りざたされた。

 だが菅氏は出馬を否定。他も出馬に意欲を示す人は出ていない。

 石原知事は昨年、2016年五輪の東京招致を宣言。その上で昨年12月の都議
会で「五輪招致を投げ出すわけにはいかない」と正式に3選出馬を表明、自民党も
推薦を決定した。一方で、高額な海外出張費や自身の四男を都の文化事業に関与
させたことなどが批判を浴び、逆風も吹く。

 筑紫氏は番組キャスター歴が丸17年以上に及び、こちらの勇退説も流れる。後
任はタレント、みのもんた(62)が夜の報道番組を希望する発言を自らしているほか、フリーアナウンサーの福澤朗(43)らの名前が挙がっている。

 筑紫氏に出馬意志さえあれば、民主から“異論反論”は出ないはず。夏の参院選
を占う大一番に向け、最後の調整が急ピッチで進んでいる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

サンスポさえ脅威に感じる人材です。
是非、筑紫氏に立候補決意の条件を提供して勝利し、首都から石原軍団を追い払い、日本革新の狼煙をあげようではありませんか。

 
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退院しました   へそ曲がり

2007年01月23日 | Weblog
 地獄の入り口まで行きましたが、閻魔様に追い返され、自宅へ帰ってきました。1月3日に退院する予定だったのですが、年末・年始の外泊許可が出たため、事実上は12月29日に退院ということになりました。
 いまは週3回の「丸山ワクチン」の接種と月2回の主治医先生の診断、それに月1回の内科の先生の診断というような通院生活を送っています。
 通院も自分で車を運転して行けるようになりました。但し、助手席に監視人(女房)が付いています。暖かい日には家の周辺を少しずつ歩いています。これにも監視人が付きます。
 ただ「ダンピング現象」(「胃」を全摘出し「小腸」と「食道」を直結したことから発生する食物摂取への拒否反応)は一応治まったものの、栄養の補給が十分に出来ず、体力の回復までには至りません。体重も下げ止まったものの、入院前に比べ10キロほど減ってしまいました。
 ここしばらくは皆様の投稿やコメントを読ませて頂くだけになるかと思います。早く回復出来るよう努力します。宜しくお願いします。
 皆様からの励まし、有難う御座いました。
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ドキュメンタリーを見て製作者と話す会  落石

2007年01月22日 | Weblog
日本ジャーナリスト会議・東海のイベントをお知らせします。

番組は、NHK名古屋制作「この世界に 僕たちが生きてること」と
ABC(元NBN土江真樹子さん)制作の「国の隠し事」

NHK名古屋制作の「この世界に 僕たちが生きてること」は
筋ジストロフィー症を患いながら絵の制作に取り組む28歳の青年の
絵画への思い、命への思いを描いてものです。

もう一つ、沖縄返還をめぐる日本政府とアメリカとの密約を報道して
「公務員法違反」に問われた西山太吉さんが国に損害賠償を求めている
裁判にからんで、当時の交渉役吉野文六アメリカ局長に迫り、
密約を告白させたインタビューを含め、国家のウソを暴く、
元名古屋テレビの土江真樹子さんの作品(30分)です。


  日時 2007年1月28日(日) 午後1時30分~
  会場 名古屋市中生涯学習センター第三集会室
     (地下鉄上前津駅⑥出口から南(金山方面)へ250m
      下前津交差点右折れ)
    ※ 会場費として200円をご用意ねがいます。

                   
以上です。お時間があればお出かけ下さい。(落石)

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