今日再び浅間神社へお参りに行った。
浅間神社境内に、文化財資料館があって寄ってきた。
昔は無料だったけど、今は拝観料が200円だ。
京都の拝観料に比べたら、比較にならないから良しとしよう。
中には古い絵馬や賤機山古墳から出土した土器や装身具など少々の展示があった。
徳川家康直筆の書状等々。
その中に行基さん、これまた直筆の般若心経があった。
紺地の布に金の筆で丁寧にかいてある。
この字なら読めそう・・という丁寧な字だった。
ちょっと行基さんについての説明をしよう。
行基さん (668~749年)
奈良時代、社会事業に尽力した法相宗の僧。
父は百済からの渡来子孫にあたる豪族、高志氏の子として、和泉国(今の大阪府)母の家で、天智天皇の7年(668年)に生まれ、15歳で出家、大和の寺で修行と学問に専念した。
後に大和薬師寺の僧となり、土木技術の知識を学び、各地に橋を架け、道をつけ、堤を築き、池や溝を掘るなどして、世の中のために尽くした。
また税や病気に苦しむ人々を救うために施設を作ったり、薬を与えたり、道場を作って民衆への伝道にも努めたので、行基を慕って従う者が1000名にも及び、行基菩薩と称せられた。
さらに聖武天皇の大仏造営に際しては、民衆への大きな影響をもっていたことにより、大仏造営費の勧進に起用された。
天平17年(745年)78歳で仏教界における最高位である大僧正という、日本で初めての地位を授けられた。
行基さんは、大仏完成の3年前天平21年(749年)82歳で没した。
行基さんは、大仏建立の勧進に全国を回られて、豊かな方ばかりでなく、貧しい民百姓からも尊い勧進をすすめられた。
大仏には鉛もつかわれたので、鉛中毒で亡くなった方もおられただろう。
でも今も奈良には大仏がおられ、日本中や世界からもお参りに来て下さる。
大仏建立寺に命を落としたとしても、その功徳は末代までも残っているんだね。
今年の5月に京都に行ったけど、数年前は奈良の唐招提寺にも行って来た。
・・ということは、そうなのか。
その後、受戒の師を求める聖武天皇の懇請に答えて、天平勝宝6年(754年)鑑真和上が幾多の困難を乗り越えて日本に来られた。
2つの資料だと、こう繋がってしまうんだけど、これで合ってる???