ジーン・ウールの不思議な旅

ジーン・ウールは不思議な女性です。姿を変えて過去にも未来にも現れます。
もしかしたら貴方の友人や奥様かも知れません。

店主ご挨拶

ようこそお越し下さいました。 昨年(2010)、3ヶ月の雲水修行に行ってまいりました。 私は働き者で(自己申告)、精舎は朝は早く夜は遅く「朝瞑想」の時間は、気がつくといつも寝ておりましたが・・。 私の人生の1ページに、思いがけないご褒美を頂けたような日々を過ごさせて頂きました。・・ま、主婦でも決心ひとつで如何様な道も開けるんですね。 今も精舎に行くと「実家に帰った」ような気がします。 このブログ管理人は、最近物忘れ症候群中につき、おいで頂いた感謝を申し上げ、コメントを頂いても書いたり書かなかったり、付き合いが悪いことのご無礼をお許し下さいませ。

『マレーシアとイスラム教』 その2

2011-09-29 22:43:30 | ご講話・ヘラトリ・リバティ 

『マレーシアとイスラム教』
(その2)

(本稿は、2011年9月27日北海道正心館七の日講話のエッセンスをまとめたものです。)

涙ぐましい努力?

 二点目に、イスラム教は、少なくともその発祥時においては、
「キリスト教、ユダヤ教と両立・融和できるように、涙ぐましいまでの努力をしていたことが、『コーラン』を読むとよくわかる」ことを挙げたいと思います。

「モーセやイエスに降りた神と同じ神(アラー)が、ムハンマドに臨んだ。そして、ムハンマドが最後の(但し最大の)預言者であった」というのが、イスラム教の立場であることは、ご存じの方も多いと思います。

実際、それを実証するために、『コーラン』を読むと、おびただしい量の新約・旧約の聖書からの引用(特に旧約からの)が出てくることに驚かされます。
前述の井筒俊彦教授によると、「日本人で、『コーラン』を一番良く理解できるのは、キリスト教徒だろう」という話があるくらいで、実際、聖書に関する基礎知識がないと、ちょっと分かりづらいだろうと思われる気もします。

『コーラン』は全部で114章あるのですが、その中に、「ヨセフ」(ユダヤ教3代目の族長)だとか、「アブラハム」(初代開祖)だとか、「聖母マリア」だとか、「天使」という名前を付された「章」が、続々と登場してくると、「これは一体、聖書の解説書なのか?」と思ってしまうくらいです。

「同じ神の啓示なのだ」ということを、繰り返し、繰り返し、その中で述べているのですね。
第19章が、「マルヤム」(聖母マリア)という章なのですが、そこでは、「まだ子供だったイエスが、"私はアラー〔主〕の僕(しもべ)です"と言ったのだ」とか、「モーセは、実に誠実な預言者であった(私(アラー)の言葉をよく伝えた)」という話が出てきます。

さらには、イドリースという人物のことを褒めたたえ、「彼は実に正直な預言者であったので、我々(アラー)が、彼を高い世界に昇らせて(還らせて)あげた」という話が出てきます。イスラム教の神秘主義(スーフィズム)の方では、「この"イドリース"というのは、ヘルメスのことだ」と説明されているのですね。

以前も渋谷精舎でお話したことがありますが、世界の三大宗教は、表の顕教(けんきょう)は、それぞれ別の顔をしていますが、密教の部分(キリスト教→グノーシス派・一部ヘルメス思想/イスラム教→スーフィズム/仏教→真言密教)は、相互につながっています。
「南インドで密教を興したときに指導したのは、実はヘルメスである」というお話は、中国正心館の御法話の中に出てきます。

「スーフィズムを興したときに指導したのは、ヘルメスとオフェアリスである」というお話は、沖縄正心館の御法話の中にありますね。
そして、スーフィズム自身の中で、「ユダヤ教の中に登場してくるヘルメスの名前を挙げて、「これが実はイドリースのことなのだ」とした上で、これらの霊存在の霊界での名前が"ヘルメス"である」ということを言っているのです。

同じく沖縄正心館の御法話の中で、「ムハンマドに"塹壕戦"と"弓の一斉射撃"というインスピレーションを与えて、絶対勝てないと思われた戦い(624年の"バドルの戦い"と思われる)に勝利をもたらしたのは、ヘルメスである」とありましたから、このスーフィズムの主張には、説得力があります。

それから、中東に関心の薄い日本の国では、あまり知られていませんが、622年のムハンマドによる、メッカからメジナへの「ヒジュラ」(聖遷:転戦のこと、実際はメジナへの脱出)というのがありますが、このイスラム教を立て直したメジナという場所は、実は、ユダヤ教徒の町だったのです。
そこでユダヤ教と共存しながら、ある時は彼らを味方につけ(最終的には離反)、ある時は協力を得ながら、多神教(クライシュ族)の聖地だったメッカへの反転攻勢を期していたのですね。

その過程で、随分、ユダヤ教徒(キリスト教徒)への説得・融和が試みられ、その努力の跡が『コーラン』の内容にもにじみ出ているわけです。
(しかし、ユダヤ・キリスト教徒からの迫害は止まず、最終的には彼らを責めることになってしまったのは、「ムハンマドの霊言」で説明があったとおりです。)


意外と自由にやっている

 ここまで理知的な話が続きましたので、多少"閑話休題"的な話をしますと、皆さんも、イスラム教というのは、「ガチガチの戒律で大変だ」という印象があるでしょう。
確かに、原理主義的な宗派の一部には、そういうところもありますが、最近会内でも、中東に出かけて行って、彼らに啓蒙(伝道?)する人が増えてきましたので、その方々のお話を聞くと、「意外とそうでもない」というのですね。

特に、石油王等の大富豪であるとか、最近は、欧米や日本とも取引をする経営者なども多いですから、そういうセレブ系の人達の場合は、こっそり教えてもらったところによると、
「メッカの方角に向って、日に5回(ムハンマドの時代は3回だった)やる礼拝は、実際には1回しかやっていない人が多い」のだそうです。
これは分かる気がします。私も長い間密かに、「5回もやったら、仕事にならないだろう」、
「その間に、ライバル・メーカーにお客さんを取られてしまうではないか」と思っていましたので、こういうバランス感覚(常識)が働くというのは、よく分かります。

一回目の「ムハンマドの霊言」にもありましたけれども、特に欧米・日本と仕事上の関係を持っている人達は、「自分達の教え(戒律)の限界をよく理解しており、幸福の科学の主張する「宗教の時代適合性」という考え方が、よく分かる人達だ」とありました。
そういえば、昨日(9/26)も、「サウジアラビアの国王が、とうとう女性の選挙権と立候補権を認めた」という報道が、世界を駆け巡っていましたが、これなどもまさに、「自由の神」(エル・カンターレ)の力が、背後で働いているのを実感させる出来事です。

エジプトやリビアの動きを見れば、「先手を打って、自由化・民主化の動きを取り込んでいかないと、自分達自身が追い出されてしまう」と考えていることが、よくわかります。「ムハンマドの霊言」でも、「政治・軍事と宗教を切り離す(一体となった体制は解体する)ところまでは持っていく」と言っていましたから、その流れの中で、思想信条(信教)と言論の自由が生まれてくる未来を見据えて、我々も、啓蒙(伝道)活動に取り組まなければならないでしょう。
(「その3」に続く)


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「異常に巨大な天災地変による原子力損害」については原子力事業者を免責とする

2011-09-29 06:15:50 | Weblog
   
原子力賠償法では、「異常に巨大な天災地変による原子力損害」については原子力事業者を免責とする・・。

私達 保険にはいろいろ 入っている。

入る時に 気がつくのは 免責事項があること。

例えば 戦争や 天災地変 台風やら 何やらによる災害には 免責・・とある。



今回3月11日の東日本大地震で 枝野さんが 東電が補償します と即座に答弁した。

あれ ?  って思いました。

これって 可笑しいでしょ。

何か 分からないけど・・ 違うでしょ。


長い目で見たら・・ 経済が落ち込んでいくのが 予測される。

確かに 被災者は 皆で支えていこうと 思う。

でも 増税 による  景気の冷え込みは・・


例えば 急に寒くなって 風邪をひいた。

病院に行ったら・・ みんな なぜだか 肺炎に なっていてね。

肝心のお医者様も 寝たきりなの。

外には 北風が ヒューーーー


なんて 感じかな。

訳が分からない???   



・・・ 昨夜は 寝てしまった  


今朝 パソコン画面を 眺めて・・・

とりあえず


up しておこうかな  と  !









リバティにね。

こんなことが書いてありました。

東電は 巨額の 賠償額に耐えられなくなり 東電は破産する  と  東電は 国営になる。

すると 全国の 原発は 

『マレーシアのイスラム教』

2011-09-28 10:47:30 | ご講話・ヘラトリ・リバティ 

『マレーシアのイスラム教』

(本稿は、2011年9月27日北海道正心館七の日講話の内容のエッセンスをまとめたものです。)

 ご案内のとおり、去る9/18(日)に、マレーシアの首都クアラルンプールにて、総裁先生の大講演会、『The Age of Mercy』(「慈悲の時代」)が、大々的に開催されました。

この内容は、シンガポールでの御法話、
『Happiness and Prosperity』(「幸福と繁栄」)と共に、10/1(土)から全国の精舎で開示されますので、ぜひ、御拝聴ください。

 少しでも、イスラム教のことをご存じの方であれば、この「慈悲の時代」というテーマと、御法話の中で強調しておられた、「"慈悲"とは、神の別名にほかならない」という御言葉の重みが、おわかりになると思います。
『コーラン』の聖句は、各章ともに、必ず、「慈悲深く、慈愛あまねきアラーの御名において…」で始まります。

また、今月開示になったムハンマドの霊言、『中東で何が起きているのか』の中でも、語られているとおり、「アラーとは、色々な名前で呼ばれていた」とありますが、その色々な名前(呼び方)の代表格の一つが、「慈悲深き神」なのですね。

つまり、「"慈悲"とは神の別名である」と言ったときに、それがイスラム教徒にとって、特別な意味を持つことを十分意識された上での「ご発言」だったのです。
(アラーの証明orエロヒムの証明)

この「ムハンマドの霊言」を聴いていただければ、「これから、イスラム教徒への伝道(中東への伝道)がどれほど大切になるか」が、お分かり頂けると思います。
それを考えるに当たっても、まずは、「先入観を無くす」ことが、とても大事になります。

確かに日本にも、オサマ・ビン・ラディンのような過激派はいます。(ex.革マル派)
しかし、日本人全員が「革マル派」だと言われたら、さすがに怒り出すでしょう。
けれども、私達も、同じような目で、「十羽ひとからげ」で見ているようなところはありますね。
ですから、白紙の目で、無用に恐がったりしないで、真実を観ていく必要があります。そうすると、私達にとって、「イスラム教は、意外と身近な存在だ」ということが分かります。
今日は、それに資する話を3点ほどしたいと思います。


キリスト教徒より "霊言"がわかる!

 一点目は、「ムハンマドの霊言」の中でも出てきましたし、御帰国後の、とある「リーディング」の総括の中でも、主が仰っておられましたが、「そもそもイスラム教が始まった『コーラン』は、当会と同じ"霊言方式"なので、彼らは、「霊言による宗教」というのが、実によく理解できる」というのです。

「今回、マレーシアで講演してみて、それを痛切に感じた」とおっしゃっていました。
「キリスト教徒に向って、"今イエスが、総裁先生の言葉に臨んでいる"と言っても、なかなかスパっとは理解してくれないが、イスラム教徒なら、それがわかる」というのですね。

確かに、今回の講話に当たって、『コーラン』全巻を改めて通読してみましたが、「なるほど、もの心ついた頃から、これを読み聞かされ、自らも読み続けていたら(『コーラン』とは「読誦せよ」の意)、『幸福の科学の運動は霊言から始まった』という言葉の意味が、よくわかるだろうなぁ」と、「痛感」しました。

中には、ほほ笑ましい"くだり"もあって、私達も初期の頃、「霊言が口語体である」ことに対して、お経や昔の聖書みたいな「文語体」ではないので、「荘厳な感じがせず、宗教じゃないみたいだ」と批判され、それに対して、「多くの衆生に教えを広めるには、こちらの方が良いのだ」と、よく反論していましたが、全く似たようなムハンマドの反論が、『コーラン』の中にも、よく出てくるのです。

これは、『黄金の法』講義にもありましたけれども、「『コーラン』の中に出てくる譬え(たとえ)は、「クモ」だとか「イナゴ」だとか、上品でないものが多く、イエスのたとえ話のような、洗練された"文学的香り"がしない」と、当時批判されたそうですが、
(その割には、それらは数か所しかなくて、「騒ぐ程の話でもない」と感じましたが、)
これも、当時メッカのクライシュ族(『黄金の法』参照)の使っていた口語体アラビア語に照準を合わせたからだそうで(名訳者・故井筒俊彦慶大教授による)、何となく、ムハンマドの苦労がしのばれます。

「現在進行形の啓示型宗教のみが持つ悩み」なのでしょうね。
 そして、もっと驚くのは、イスラム教が、「キリスト教やユダヤ教に、どれだけ配慮してきたか」ということが、実際に『コーラン』に目を通してみると、「痛いほどよくわかる」ということなのです。
(「その2」に続く)

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通化事件に学ぶ国を失うことの過酷 ねずきちのひとりごとブログより  

2011-09-27 14:18:43 | 本の話・素敵な話
   
通化事件に学ぶ国を失うことの過酷
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1129.html

ねずきちのひとりごとブログより
2011/1/4

新年早々、いさささきつすぎる話となるかもしれないけれど、仕事初めとなる今日、気持を引き締める意味で、通化事件について書いてみようと思います。
なにがなんでも日本を守らなきゃなんないからです。

広島の平和公園には「過ちは繰り返しません」という文字があります。
「繰り返してはならない過ち」というのは、どういうことを言うのか、以下の文で、是非、お考えいただければと思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~


通化事件(つうかじけん)というのは、終戦の翌年である昭和21(1946)年2月3日に、かつての満州国通化省通化市で、日本人に対して一週間にわたって拷問と銃殺が行われ、あるいは凍死させられ、軍とは何のかかわりもない民間人二千人(一説によると数千人)が殺害された事件です。

加害者は、支那共産党軍と朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊)、被害者は日本人です。

通化市というのは、いまの北朝鮮と支那の国境付近にあった市です。

終戦時の通化は、中華民国(蒋介石・国民党)政府の統治下に置かれ、満洲国通化省王道院院長を務めた孫耕暁が国民党通化支部書記長に就任し、満州国軍や満州国警察が転籍した中華民国政府軍によって治安が維持されていたのです。

治安が維持されていたから、満洲の奥地から日本に帰国しようとする多くの在留邦人や引き上げのために集まった日本人、17000名が滞在していました。

男は、満洲にソ連が侵攻した際の戦いに出自し、辺境で命を落としたり、シベリアに連行されたりしています。
命がけで、女子供や老人を逃し、そのために命を犠牲にして戦った。

ですから当時の通化にいたのは、男たちが戦って時間をかせいでいる間に、必死に逃げさせた女性や子供、老人たちだったのです。

しかし、彼女たちや老人たちは、無事に逃げおおせたわけではありませんでした。

落ちる途中で、支那人や朝鮮人たちによって、ようやく持ち出した手回り品やわずかばかりの財産全部を奪われ、暴行を受け、強姦に遭い、厳寒の地で衣類さえも奪われ、麻袋に穴を空けたものをわずかに身に着けただけの姿で、ようやく一定の治安が保たれている通化にたどり着いたのです。

通化では、在留邦人がそうした日本人避難民に衣服や住居を提供するなどしていたのだけれど、その通化市居留の日本人ですら、家屋や家財を強制的に接取されるなどしていました。

そこに昭和20(1945)年8月24日、ソ連軍の将校20人、兵士200人が進駐し、市内の竜泉ホテルに司令部を設置します。

この連中も悪かった。
日本人居留民の家屋に押し入り、財物や衣類を奪い、奪うモノがなくなると、日本人女性や少女を強姦し、抵抗する男性や老人は平気で暴力をふるい、殺害しました。

武装解除されたとはいえ、通化市にあった日本軍憲兵隊は、ただ手をこまねいていたわけではありませんでした。

原憲兵准尉は、ソビエト兵が白昼の路上で日本女性を裸にして強姦していた現場に駆け付け、女性を救おうと制止してもソ連兵行為を止めないため、やむなく軍刀でその強姦兵を一刀のもとに斬り捨てました。しかしその場で原准尉は、別のソビエト兵に射殺されている。

そしてこの事件以降、日本人は、憲兵といわず民間人といわず、日本刀も没収の対象となっています。

完全に丸腰となり、身を守る術を持たなくなった日本人遺留民に対し、ソ連の軍司令部は、公然と日本人女性を慰安婦として供出せよと命じてきました。

ご存知の通り、朝鮮半島における従軍慰安婦などというのは、まったくのデタラメな捏造でしかありません。
朝鮮人の女衒たちが、同国人の女性をさらって独身男性が大量にいる日本軍兵舎横で売春宿を開いていただけの話です。
売春が合法だった時代です。

日本兵はちゃんと金を払って彼女たちを買っていました。
ですから、日本兵の給料が将校クラスで25円、兵隊クラスで15円が相場だった時代に、彼女たち売春婦は、2年もすると3~5万円の貯金ができたのです。
当時のお金で3~5万円というのは、いまの貨幣価値にしたら3~5億円の大金です。ですから一家のうちの女の子が日本人相手の売春婦になるというと、当時の朝鮮人は、一族をあげて大喜びした。

しかも日本は、彼女たちによって性病がまん延するのを防ぐために、公費を使って彼女たちの健康診断までしています。
ついでにいうと、当時荒稼ぎできた成功体験から、韓国ではいまでも売春がさかんです。
韓国で床屋に行くと、マッサージ嬢というのが出てくる。売春婦です。床屋でさえ、それが「サービス」になっている。
要するに彼らにとって、売春は成功体験になっている。

世界の常識は日本の常識とは異なります。

戦いに勝てば、負けた側の財産や女を略奪し放題にする。それが兵士たちの稼ぎになるというのが当時の世界の常識です。

白ロシアという地名があります。これはベラ・ルーシュの訳です。ベラというのは処女の意です。つまり白ロシアというのは、処女のロシア(ルーシュ)という意味の地名です。

なぜそういう地名になったかというと、かつてモンゴルが攻めてきたとき、湿地帯である白ロシア地方は、馬での交通が不便だったために、その地を避けて通った。そのため、そこの地は強姦被害に遭わなかったから、ベラ(処女)ロシア、と呼ばれるようになったのです。

負けた側に対しては、何をしても許される、それが当時の世界の常識でもあったわけです。

だから日本が朝鮮半島を侵略し、朝鮮人女性をセックス・スレイブ(性奴隷)にしたといわれると、多くの大陸系の人たちは、ウン、なるほど、と簡単に信じてしまう。
なぜなら、それが彼らの常識だからです。
しかし、それは彼らの常識であって、日本の常識ではない。

しかし、もし日本人がそういう非道を行う人種だったら、台湾でも、南洋諸島でも、東南アジアでも、かつての大日本帝国の版図になっていた地域には、必ず性奴隷がいて、現地人と日本人の混血孤児が大量に生まれていたはずです。
けれど、そういう話は、まったくない。
なぜか。日本人は、そのような非道をしなかったからです。

話が脱線しました。
ソ連の通化市への進駐軍は、日本人から武器を奪い取るだけでなく、女性の供出を求め、さらに日本人が外部の情報を得ることがないように、ラジオを全部没収します。

さらに支那共産党軍は、ソ連進駐軍の下請けとして日本軍の脱走兵狩りを行い、男性600人を検挙し吉林へ連行してしまいます。

つまり、通化市を、日本人の女子供と老人ばかりにした。

ソ連軍が撤退すると、通化の支配を委譲された支那共産党軍は、通化市の市役所の幹部職員全員を連行し、旧満州人の役人全員を殺害します。つまり日本人社会の行政機能を奪った。

さらに清算運動と称して、旧満州人たち通化市民の家宅に片端から侵入し、民族を問わず金品を掠奪します。

そして昭和21(1946)年9月22日には、支那共産党軍が、公式な連合国軍であった中華民国政府軍に攻撃を仕掛けて、通化市から駆逐してしまいます。

10月23日になると、支那共産党軍の一個師団が新たに通化市に進駐してきます。

11月2日には、支那共産党軍劉東元司令が着任します。

そして同日付けで、支那共産党軍は、17000名を超える日本人遺留民に対して、収容能力5000名以下しかない旧関東軍司令部へ「全員、移動せよ」と命令します。

移動した日本人遺留民に対し、支那共産党軍は、即日「遼東日本人民解放連盟通化支部(日解連)」の設立を命じました。

日解連は、日本人に対する中国共産党軍の命令下達や、日本人への共産主義教育を担当する支那共産党の下請け組織です。

このことは大事なポイントなのですが、およそ民族支配をしようとする者たちは、必ず民族の分断工作をします。

欧米列強が東南アジア諸国を支配するに際して、最貧層だった少数民族の華僑を利用したり、日本を占領したGHQが、在日朝鮮人を利用して武器を与え朝鮮進駐軍を名乗らせたのも、そうした分断工作のうちです。

満洲の通化でも、日本人遺留民の分断工作のために、支那の共産主義を受け入れる者にある種の特権を与え、同民族同士での分断工作が行われました。

それが日解連だったわけです。

日解連は、日本人のスパイとなり、支那共産兵に、どこぞの日本人宅には、これこれの財産がまだ隠されている、誰々の家には、美人の娘さんがいるなどの情報を与えた。

しかし、恐怖に縛られ、この手のいわゆる裏切り(分断工作)に応じた人たちも、結局は被支配者であり、しょせんは奴隷にすぎない。

日解連は、支那共産党軍の指示に従い、日本人遺留民の財産を全て没収しようとします。
これに対し、日本人遺留民たちは、正々堂々、最低限の衣類や食糧の確保の嘆願を続けます。

すると支那共産党は、没収を見合わせる条件として、日本人全員が共産主義者になることへの誓約を要求します。

そして11月17日には、支那共産党に応じない元満鉄総裁の大村卓一を、満鉄総裁であったことを罪状として逮捕、投獄した。

この間も、支那共産党の兵士たちは、武器捜索を名目に、日本人の家屋に押し入っては、略奪・暴行・強姦を、連日続けています。


12月23日、日解連の通化日本人遺留民大会が、通化劇場で開催されます。

劇場には、中国共産党万歳、日本天皇制打倒、民族解放戦線統一などのスローガンがおどっています。

大会には、劉東元司令を始めとする支那共産党の幹部が列席し、日解連幹部らも檀上に勢ぞろいした。そこに日本人遺留民3000人が出席します。

議長は、日解連幹部で元満州国官吏の井手俊太郎が務めます。

彼は、「自由に思うことを話して、日本人同士のわだかまりを解いてもらいたい」と、冒頭に発言した。

日解連幹部たちは、自分たちのこれまでのやり方の手ぬるさの謝罪が行われ、「我々が生きていられるのは中国共産党軍のお陰です」などと、連日乱暴狼藉を働く支那共産党に媚びた発言がなされます。

しかし発言を求められた日本人遺留民たちは、その席で、日解連を堂々と非難したのです。
そして明治天皇の御製を読み上げ「日本は元来民主主義である」などの発言を、次々に繰り広げます。

そして山口嘉一郎老人が、
「宮城遥拝し、天皇陛下万歳三唱をさせていただきたい」と提案しました。

会場に、満座の拍手が沸き起こります。

議長が苦い顔で、賛意を示す者に起立を求めました。
会場のほぼ全員が起立した。

そして高らかに、宮城遙拝と天皇陛下万歳三唱が行われます。

万歳のあと、山口老人は、

「我々は天皇陛下を中心とした国体で教育され来たので、いきなり180度変えた生き方にはなれません。ですから徐々に教育をお願いしたい」と述べます。きわめて常識的な発言です。

大会は、日本人有志の正々堂々とした発言で会場を取り仕切られました。
しかし、その日の翌日以降、大会で発言した者は、全員、支那共産党によって連行され、殺害されてしまいました。


大会から1週間が経過し、年が明けた昭和21(1946)年1月1日、支那共産党の工作員であった内海薫が、殺害されます。犯人はわかりません。

1月10日、支那共産党は、日解連幹部の高級官吏や日本人遺留民の指導者ら140名を、内海薫を殺害した容疑であるとして連行します。
そして全員を抑留した上で、日解連も強制的に解散させてしまった。

1月21日、支那共産党は、日本人4名を市中引き回しの上で、渾江の河原で公開処刑します。
日本人たちが見ている前で、彼らは遺体を何度も撃ち、銃剣で突き刺し、ハチの巣にしたうえで、切り刻みます。

日本人遺留民たちの怒りは、徐々に高まっていきます。

そして昭和21(1946)年2月3日、通化事件は起こります。

この通化事件の情況については、筆舌に尽くしがたい艱難辛苦の末、やっとの思いでどうにか無事祖国にたどり着くことができた外科医婦人中郷三己枝さん(当時27歳)の手記がありますので、まるごとご紹介します。

出典は、高崎弥生氏の著書「実録、遥かなる回想」です。

~~~~~~~~~~~

中国八路軍のことごとに理不尽な暴圧に堪えかねた旧日本軍の一部と、在留邦人の中の抗議派の人々が、国府軍と手を組んで、ついに立ち上がった。

その中心人物は藤田大佐で、かつて戦車隊長として雷名をとどろかせた猛将として有名だった。
昨年6月、通化にやってき今利中将ひきいる第百二十五師団の参謀長だった。

この人たちが、どのような手段で決起したのか知る由もなかったが、総勢、約千名が、2月3日の未明を期して一斉に蜂起した。

それは暴動のようなものではなく、それぞれ攻撃目標を定めた組織的な反乱だった。

しかし、たのみの国民党軍は呼応しなかったし、同時に立ち上がる予定の航空隊は、八路軍(支那共産党軍)の先制攻撃を受けて参加できず、それ以上悪いことに、反乱軍の動きは、八路軍のスパイによって探知されていたため、奇襲攻撃はことごとく失敗に終わった。

部分的に要所を占領した部隊もあったが、それも数時間で壊滅してしまい、敵弾にたおれ、傷ついて捕虜になった者も多く、壮絶な戦死を遂げた者もすくなくなかった。

この反乱は、わずか数時間の後に完全に鎮圧されてしまった。

血に彩られた旧正月の朝は明けた。
おびただしい死体が各所に散乱していた。

この事件は八路軍に大きな衝撃を与え、日本人に対する怒りは頂点に達した。
これは日本人弾圧の絶好の口実となった。

やがて恐ろしい報復が行われ始めた。
元旦を祝って家族がささやかな朝食についたとき、八路軍の兵士が侵入し、夫たちを引き立てて行った。

通化市内では、16歳以上60歳までの日本人男子は、ことごとく八路軍兵舎その他に集合せよと眼入れされた。市内は恐怖のるつぼと化した。

八路軍側は、抗戦派だけでなく、すべての日本人に対して、仮借なく復讐しようとしたのである。
この反乱にまったく無関係の者も、反乱に反対だった者も、ほとんど差別されなかった。

とくに兵舎の前に集合させられた数百名の日本人は、身震いしておののいていた。
そこにひとりの将校があらわれて、絶叫するように叫んだ。

「今朝、日本人を主とした反乱軍のために、わが軍は多大の犠牲を受けた。諸君は同胞として、その罪を免れることはできない。わが軍は報復として、ただちに諸君を銃殺に処する」

その瞬間、兵舎の窓から十数台の機関銃が一斉に火を噴いた。みるみるうちに、ばたばたと倒れた。

重傷を負って死にきれない者に対しては、容赦なくピストルが撃ち込まれた。

死体は待機していたトラックに次々と積み込まれ、一部は渾江の橋の上から凍結した川面に投げ捨てられ、一部は近くの谷間に投げ込まれた。

逮捕拘引された日本人は、およそ三千人に及び、元憲兵隊の監獄や、公署の防空壕の中に分散監禁された。

~~~~~~~~~~

監禁された日本人は、狭い部屋に何十人も押し込まれ、身動きすらできない中で大小便垂れ流しのまま5日間もの間立ったままにされた。

苦しさのあまり「出してくれ」と叫んだ者があると、銃弾が撃ち込まれてくる。
発狂する者もあれば、中には立ったまま死んだ者もあった。

しばらくして取り調べがはじまると、ひとりひとり引き出され、反乱軍との関係の有無を詰問される。
そのとき態度が悪かったり、言葉に詰まったりすると、こん棒や革のムチで容赦なく、力いっぱい打ちのめされた。

その場で悲鳴をあげて倒れる者、全身を殴りつけられて意識を失い、ついに動けなくなった者も少なくなかった。

そうすると、そのまま戸外に放り出されてしまう。
酷寒二月のことである。たちまち寒気のために不動のまま凍死してしまった。

やがて材木のようにトラックに積まれ、谷間に投げ込まれる。

するとどこからともなく貧民が集まってきて、硬直した死体から着衣をはぎとってゆく。
全裸の死体は、荷物のように運ばれて、渾江の橋の上から投げ込まれる。
これが毎日のように行われた。

なんという地獄絵図だろうか。

一週間目ごろから、ぽつぽつ釈放者が出るようになったが、帰って来た人も、無傷な人はいなかった。
手を折られた人、足を折られた人、杖にすがってやっと家にたどり着いた人。
帰ってからも発熱のために苦しむ者。凍傷のため、廃疾者同然になった者などが大部分で、五体満足で帰って来た人はわずかであった。

(同上)
~~~~~~~~~~~

抑留中は精神に異常をきたし声を出すものなどが続出したが、そのたびに窓から銃撃され、窓際の人間が殺害されました。

殺害された者はそのまま立ったままでいるか、他の抑留者の足元で踏み台とされました。
また、数百人が凍傷に罹り不具者となりました。

拘束から5日後、部屋から引き出されると、朝鮮人民義勇軍の兵士たちにこん棒で殴りつけられ、多くが、その場で撲殺されました。

撲殺を免れたものの多くは、骨折した手足をぶらぶらさせていました。

その後、支那共産党軍による拷問と尋問が行われ、凍結した川の上に引き出されて虐殺が行われました。

女性にも多数の処刑がされました。

渾江川の上には、服をはぎ取られた女性の裸の遺体が転がっていました。

男たちが拘束されている間、支那共産党軍の兵士たちは、日本人住居に押し入り、家族の前で女性を強姦することもあり、凌辱された女性の中には自殺するものもありました。

事件後、3月10日になると、市内の百貨店で支那共産党軍主催の二・三事件の展示会が開かれました。

戦利品の中央に、蜂起直前に拘束された孫耕暁通化国民党書記長と、2月5日に拘束された藤田実彦大佐が見せしめとして3日間に渡り立たせられました。

3月15日に藤田大佐が獄死すると、遺体は市内の広場で3週間さらされました。

渾江(鴨緑江の支流)では、夏になっても中州のよどみに日本人の虐殺死体が何体も浮かんでいました。

この年の末、国民党政府軍が通化市を奪還します。
国民党は、事件犠牲者の慰霊祭を行ないました。

しかし翌年には、再び通化市は、支那共産党軍が占領しています。


通化事件というのは、大東亜戦争がすでに終結したあと、日本に帰国するために比較的治安のよかった通化市で起こった事件です。

日本に帰国しようとする避難民に対し、支那共産党は略奪強姦の限りを尽くし、我慢の限界を超えた日本人が、武器も持たずに一斉蜂起(2月3日)すると、彼らはこれを鎮圧しました。

そして蜂起とは何の関係もなかった日本人を含め、3千人とも4千人ともつかない日本人を、零下30度の極寒の中で、両手を上げさせて銃剣で追い立て、一部を殺害し、一部を監禁。

監禁された日本人は、せまい部屋に120人ごとに押し込め、さながら満員電車のような身動きできない空間で、酸欠で口をパクパクしている人達を、窓からライフルで撃って殺した。

5日間にわたって、大小便垂れ流し状態で死体とともに立ったまま部屋で監禁されていた日本人たちは、ようやく息も絶え絶えに部屋から出されると、こんどは朝鮮人たちが、こん棒で好き放題に殴りつけました。ある者は殺害され、生き残った者も手足をぶらぶらさせていました。

一週間にわたる拷問と銃殺、あるいは凍死によって、一般の民間人二千人(一説によると数千人)近くが殺された、この通化事件は、支那が捏造している南京事件と異なり、完全な事実です。

しかも、ときは戦時中ではなく、戦争が終わった後、それも武器を持たない一般市民に対して行われた暴虐です。

ちなみにこの事件の際、支那共産党に媚を売り、日本人の密告や財産の強奪の手引きをしていた日本人の共産党工作員がいました。

彼ら工作員は、日本人避難民が乞食同然の生活苦でいたときに、立派な服を着て街を闊歩し、罪のない日本人を売って得意になっていました。

しかし通化事件のとき、その日本人共産党員も、他の日本人と同様、殺され、監禁され、手足の骨を折られています。

悪に魂を売って、一時的な利益を得ても、結局は悪によって滅ぼされる。

いま、日本を売り、個人の利得を得ようとしている日本の政治家も、いずれ彼らの思惑通りに日本に外国人参政権が誕生した際には、真っ先に、裏切り者として糾弾され、財産を没収され、殺される運命にある。

世の中とは、そういうものだと思います。


通化事件は、たいへんな死傷者を出した大事件です。
記録にもあるように、この事件では、日本人が二千人(一説によると数千人)も殺され、その死体は、夏になっても渾江川に浮かんだ。

大規模な殺害があれば、そういう証拠がいつまでも残るものです。

まして支那や反日主義者が主張するように、南京で日本人が30万人も虐殺を行ったとするならば、その記録や証拠が、いくつも残らなければおかしい。
しかし、そんな証拠はまったくないし、証拠として出されているものも、それが捏造である事実がことごとく暴かれています。

戦後の反日左翼主義者、反日思想家たちは、この通化事件について、日本軍が乱暴狼藉を働いたために、その騒動に一般の日本人民間人が巻き込まれ、たいへんな被害に遭ったと説明しているようです。

しかし、上に述べたとおり、日本人の旧軍人たちが蜂起したのは事実ではあるけれど、彼らは武器すら携帯していなかった。軍刀すら没収されて持っていなかったのです。

そして事件までの半年間、財産を奪われ、家屋に押し入られ、女性たちを強姦され、あるいは殺され、暴行を受け、無理やり共産主義万歳と唱えさせられ、もうどうにもならないところまで追い込まれて、彼ら軍人は、蜂起した。

それに対する支那共産党の報復は、蜂起した軍人の逮捕ではなく、一般人の虐殺だった。

事件が起こったのは、昭和21年です。すでに戦争は終わっています。
日本と支那は、このときすでに交戦状態ではなかったのです。

つまり暴動が起きた、それも武器を持たない市民(旧軍人もこの時点では一般市民)の蜂起であったとすれば、鎮圧は国内の治安維持活動であるはずです。

にも関わらず、支那が行った行為は、暴行であり虐殺でした。

これが非道にあらずして、何をもって非道というのか。


それともうひとつ。
通化事件で、日本人は、たいへんな目に遭いました。

国が亡くなる、支那共産党に支配される。するとどういうことが起こるか。
その実例がこの通化事件にあります。

日本は良くない国だ、という人たちがいます。
支那と仲良くすることが良いことだと言う人たちがいます。
支那、朝鮮、日本を東アジア共同体として、ひとつの国にまとめあげようという人たちがいます。

しかし、実際にそうなったときの実例が、通化事件にあります。

そんなことは何十年も昔の話だろう、という人もいます。

しかし、天安門事件、あるいはウイグル弾圧、チベット弾圧等々。
いまも昔も、支那共産党はなんら変わらない。

家庭を守る。それは夫ならあたりまえに思うことです。

家族の平穏と安全、子供たちがすくすくと育つ環境。平和な社会。
それは、私たち普通の市民が、普通に思う心です。

しかしそうした家族の平穏、安全、社会環境、平和の一切は、国家がきちんとしていてはじめて成り立ちうるものです。

国を失うということ。
それがどんなにみじめでたいへんなことなのか。
通化事件は、そのことを、私たちに教えてくれているように思います。

私たちは、絶対に日本を失っちゃならない。
日本をもっと大事にしなきゃならない。
この国を守るために、必死に戦ってくれた先人たちに、もっと深く感謝しなければならない。
そして未来のために、私たちの子や孫のために、この日本を守り抜かなきゃならない。

ボクはそう思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。





今 中国は日本の国を属領化しようとしている・・と言っても

ほとんどの人は信じない。  考えたこともない。

日本人の常識は、世界の非常識。

日本

こんな素晴らしい国民性を持った国が 世界にどれだけあるでしょう。

私達は もっと 歴史を 学ばなければ なりません。

子供たちの未来を心配するならば  福島原発の放射能を恐れるよりも 

隣国の 歴史から 学ぶことが あるはずです。

通化事件、天安門事件、ウイグル弾圧、チベット弾圧など今もあります。

シナ共産主義の国が 理想的な国だと言えますか。

マスコミを信用してはなりません。

自分の目と耳と 五感をフル活用して 先人が 命を賭けて守ってくれたモノが何であるのか 

もう一度 立ち止まって 振り返って みませんか。


インパール作戦と パル判事  4/4

2011-09-27 13:37:18 | 本の話・素敵な話

4/4
英国にも日本の武士道に匹敵する騎士道精神が息づいています。

命を賭けた日本の将兵の戦いぶりに接したとき、たとえそれが国益であったとしても、英国の将兵たちは、果たして自分たちがインドを治めていることに、なんの意味があるのか、そんな気にさせられたのではないか、ということです。

作戦の全体を見る者、実際に日本兵と干戈を交えた英国の騎士たちは、インパールで日本の武士たちが示した、その「心」に気付いた。

実際、インパール作戦のあと、英国のインド駐屯隊が示したインド人の独立運動(英国軍に対する反乱軍)への対応は、当時の世界の常識からみて、あまりにも手ぬるいのです。

まるでやる気が感じられない。

ガンジーたちの非暴力の行軍に対して、銃を構えたまま、ほとんど発砲すらせずに、これを通しています。
それ以前の英国軍なら、デモの集団のド真ん中に大砲を撃ち込んでいる。

そして大東亜戦争のあとに行われた東京裁判では、なんと英国は、まだ独立も果たしていないインドから、わざわざ代表判事を送り込んでいます。
そうです。パル判事です。

そしてそのパル判事が日本を擁護する判決付帯書を書くことについて、当時の英国はまったくこれを容認しています。

なぜでしょうか?
どうして英国はパル判決を黙認したのでしょうか。

そもそも、植民地のカラード(有色人種)を、わざわざ判事に指名してきたのは、英国だけです。

その英国は、米国と同盟関係にあります。
ですから、東京裁判では、英国判事を出しています。

けれども英国は、自国の判事だけでなく、わざわざ有色人種のパル氏を判事として東京裁判の裁判官に名を連ねさせているのです。

およそ企業でも軍隊でも、用兵というものは、どういう人物を起用するかで、ほぼ決まる、といいます。

インド独立を希求するパル氏が判事となった場合、どういう判決を書くかは、裁判が始まる前から「わかる」話です。

加えて、英国にしてみれば、もし、英国領インドから送り出した判事が「気に入らない」なら、いつでも首をすげかえる、誰かに交代させることができたはずです。

けれど英国は、東京裁判という茶番劇(あえてこう書きます。はじめに結論ありきなら、それは裁判の名にさえ値しないからです)において、英国人判事には、米国との同盟関係に配慮して、連合国万歳の判決を書かせたけれど、植民地支配するインドの代表判事には、ちゃんとした「事実と正義」を判決として書かせています。

そこに、英国の「何か」を感じることはできないでしょうか。

インパール作戦当時の英国のインドのトップは、英国王室の人物です。
世界がどんなに歪んでも、わかる人にはわかる。

パル判決書は、インパールでメッセージを受け取った英国王室と、戦い、散って行った日本の武士たちがこの世に送りこんだ、正義の書といえるのではないでしょうか。

ボクには、そんな風に思えてならないのです。

おそらく、パル判事や、牟田口氏、インパール作戦の英国側指揮官ウィリアム・スリム中将に、「そうなのではないですか?」と問うたとしても、彼らは、笑って何も語らないと思います。

なぜなら彼らは、まさに武士であり、騎士であるからです。
そして武士であり、騎士であるからこそ、敵味方の将兵に多くの死者を出したことへの悔いを持ち、それがあるから、いっさいの言いわけをしない。

しかしだからと言って、彼らの行った事実を、うわっつらだけみて、安全な場所にいるわれわれ後世の人間が、感謝こそすれ、評価するのは間違いだとボクは思います。
それこそ卑怯者のすることです。

インパール作戦は、まさに世界史に残る「男たちの戦い」であった。

すくなくとも騎士道を持つ英国陸軍には、それがわかった。
わかったから彼らは、世界史に残る大会戦であるインパールの戦いについて、それを無用に誇ったり、記念日を作って祝ったりしなかった。

インパールの日本獅子たちは、私たち日本人の誇りだとボクは思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。

最後にもうひとつ。

インパール作戦の退却行は、誰ひとり民家を襲うような非道な真似をしなかったのだけれど、そのことを誇るような記述をした人は、戦後、誰もいない、ということは、見過ごせない部分だと思います。

誇るどころか、関係のない民家を襲わないなんて、そんなことは「あたりまえ」のことにすぎない。
それが日本人だ、ということです。
そして、そうやってきたのが私たちの祖父の若き日であった、ということです。

世界では、襲うのがあたりまえで、襲わないことがありえない。
日本では、襲わないのがあたりまえで、誰ひとりそのことを誇ろうとさえしない。

さらにいえば、あの苦しい退却行において、生き残った人たちの手記を読むと、途中でビルマ人の青年に助けてもらった、あるいは民家の人たちが沿道で食事を振る舞ってくれたということに、心からの感謝を捧げている。

それが、日本人なのです。

なお、インパール作戦について、本文では、「負けるとわかって戦った」という一般の考察をそのまま記載させていただきましたが、異説もあります。

それは、インパール戦が、前半まで圧勝であったという事実です。
日本軍は、インパール街道の入り口をふさぐコヒマの占領に成功している。
コヒマの占領は、味方の補給ラインの確保を意味します。
従って、この段階では、日本軍側に補給の問題はなく、戦線は日本側有利に動いています。

このあと、牟田口中将は、近くにある敵の物資補給の要衝であるディマプールをつこうとしてます。
これが成功していれば、インパール作戦は、日本の勝利に終わっています。

そのことは、戦後になって敵将が、はっきりと認めています。

戦後左翼のああだこうだの評論よりも、戦った相手の言う事と、その後、何が起こったのかをきちんと見ることの方がよほど真実に近いのではないかと思う次第です。


【参考記事】
◆勇敢で高潔で、誰からも好かれた日本軍人
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-712.html

◆チャンドラ・ボーズ
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-668.html


とても感動しました。

このお話に出会えて良かった。

日本人であることに 誇りさえ感じます。

インパール作戦とパル判事 3/4

2011-09-27 13:35:19 | 本の話・素敵な話
   
3/4
牟田口中将以下の日本の将兵は、戦いに負けることはわかっていた。
補給さえないのです。
そして牟田口中将は「皇軍兵士」という言葉を多発しています。

自分たちの戦いの相手は、騎士道精神を持つ英国軍本体です。
ならば、かならず伝わる、そう思えたから、彼らは死を賭した戦いをしたのではないでしょうか。

だから「負ける」とわかっている戦いに、敢えて臨んだのだし、最初から死ぬつもりで出撃した。

当時生き残った日本兵が書いたどの本を見ても、戦いの最初から最後まで、日本兵の士気は高かったと書いています。

たとえば、社員数10万人の大手の企業で、負けるとわかっている戦いをした。
実際会社はそれで給料も払えずに倒産したら、そりゃあ社長はボロカスに言われます。
しかしひとりひとりの社員が、あるいは社員全員とはいいません。

中間管理職のみんなが、「自分たちのしていることは、社会的に意味のあることだ」という信念を持ち続け、最後のさいごまで、日々の業務に誠実に取り組んだら、おそらくその会社は倒産しても社員たちは、それでも製品を作り続けるだろうし、士気も高い。

インパール作戦は、そもそも「インド独立運動を支援する」ために組まれた作戦です。

その頃の日本軍は、すでに退勢にたたされていたのであって、戦線は縮小の方向に向かっていた。

にもかかわらず、インドという大陸に、第十五軍は進軍した。
インドの独立のために。
自らを捨て石とするために。


もうひとつ大事なことがあります。
餓鬼や幽鬼のような姿で街道を引き揚げた日本の将兵たちは、誰一人、街道筋にある村や家畜、畑を襲っていない、ということです。

お腹も空いていた。
病気にもかかっていた。
怪我もしていた。

退路の街道筋には、ビルマ人の民家が点在しています。
そこでは、時間になれば、かまどに火がはいり、おいしそうな食事のにおいがあたりをおおいます。

屋根だってある。
場所は熱帯です。
猛烈な暑さ、湿度、スコール等々。
自然環境は厳しい。
怪我をした体に、屋根は本当にありがたいものです。

けれど、誰一人、民家を襲ったり、食い物を奪ったり、家畜を殺して食べちゃったりとかをしていない。

退路を引き上げる日本兵は、銃を持っているのです。
銃で脅せば、飯も食える。
屋根の下に寝ることだってできる。
怪我の薬を奪うことだってできる。
腹いっぱいになったら、その家の娘や女房を強姦することだってできたかもしれない。

世界では、銃を持った敗残兵が、そのようなことをするのは、いわば「常識」です。
自分が生き残るためなのです。
しないほうが、おかしいといっていい。

けれど、約6万人が通り、うち4万名が命を落とした街道筋で、日本兵に襲われた民家というものが、ただの1件も、ない、というのは、どういうことでしょうか。

インパール作戦について、いろいろな人が、いろいろなことを書いています。

それに対して、インパール作戦に参加し、生き残った人々からは、なんの反論もされていません。

しかし、ひとつだけいえることは、インパール作戦を生き残った人たちは、インパール作戦を、「インパールの戦い」とは、いっさい認めなかったということです。

他の戦いは、たとえば硫黄島の戦いにしても、拉孟(らもう)の戦いにしても、「戦い」です。真珠湾は「攻撃」です。

しかし、インパールはいまだに「インパール作戦」です。

「戦い」は、目的の如何に関わらず、敵が攻めてきたら防戦しなければならない。
だから「戦い」と呼びます。

しかし、インパールは「作戦」です。
「作戦」というのは、目的があるから「作戦」なのです。

その目的は、「インドの独立に火をつけること」です。

インパール作戦には、当初大本営はガンとして反対していた。
それにたいし、「どうしても実行を!」と迫ったのは、当時日本に滞在していたチャンドラ・ボーズです。

チャンドラ・ボーズは、インド独立の志士です。

そして大本営は、チャンドラ・ボーズの意思を受け入れ、「作戦」の実施を牟田口中将に命じます。

牟田口中将以下のビルマ駐屯隊の将官たちは、それが「どういう意味を持っているか」。
その「作戦を実施」することが、自分たちの運命をどのようなものにするか。

彼らは戦いのプロです。
瞬時にしてその「意味」も「結果」も悟ったであろうと思います。

そして、すべてをわかった上で、作戦命令を実行した。

だから彼らは、インド国民軍の主力をまるごと温存したのではないでしょうか。

自分たちは、ここで死ぬ。
あとは君達で頑張れ。
そこに、おおきなメッセージが込めれられているように思えてならないのです。

普通なら、世界中どこでもそうであるように、この種の戦いでは、むしろインド国民軍を先頭にします。それが世界の戦いのセオリーです。

なにせ、インドの独立のための戦いなのです。
インド国民軍を先頭に立てて、なにが悪い。

しかし、牟田口中将以下の日本の将兵は、それをしませんでした。
自分たちが戦いの先頭に立った。

軍だけではありません。
個別に数名のインド兵を率いた日本の下級将校たちも、みんなそうした。
それが史実です。

「この戦いで、日本は負けるかもしれない。
しかし、ここで戦った日本兵の心は、インドの人々の心に残り、かならずやインドの人々の決起を促すであろう」

インパール作戦は、まさに「肉を切らして骨を断つ」という武道の奥義です。
だから、インパールは「作戦」なのです。

そして「作戦」は成功し、間もなくインドは独立を果たしています。

このお話は、さらに続きます。


インパール作戦とパル判事 2/4

2011-09-27 11:16:15 | 本の話・素敵な話

2/4

このブログで、武道の心について何度か書かせていただいています。

欧米における格闘技は、敵を殺し、倒すためのマーシャルアーツです。

ところが日本武道は、試合や勝負における「勝ち」を、からなずしも「勝ち」としていない。

スポーツにおける「勝ち」は、試合に勝つことです。
そのためには、体を鍛え、技を磨く。

しかし、日本武道における勝ちは、試合に勝てばよいという考え方をとりません。
試合というのは、どんな場合でも、単に「模擬戦」にすぎない。
本当の勝利は「克つこと」というのが、武道における勝利の考え方です。

その場の勝ちだけでなく、最終的、究極的な勝ちをもって、勝ちとする。

たとえば、小柄な男性が、好きな女性とデートの最中に、大男に囲まれて、女性を差し出せと要求される。
小男が拒否する。
小男は、ハンゴロシになるまでボコボコに殴られる。
普通なら、寝転がって「うう・・」となってしまう。

しかし「心・技・体」、「心」を鍛えたこの小男は、殴られても殴られても何度も立ち上がる。
気を失っても、まだ立ち上がる。

いいかげん気持ち悪くなった大男たちは、帰っていく。
女性は暴行されずに助かる。

殴り合いの勝ち負けでいったら、このケンカは、大男の勝ちです。
小男は負けです。

けれど、大好きな女性を護りきったという点、(目的を達成した)という点からみれば、小男は「勝ち」です。

どっちが勝ったといえるのかといえば、両方勝った。
それが武道の心です。

武家に生まれたら、たとえ武芸に秀でていなくても、たとえ小柄で非力でも、たとえそのとき病んでいたとしても、すでに老齢になっていたとしても、戦うべき時には戦わなければなりません。

相手が野盗の群れのような大軍だったら、戦えば死にます。

しかし、たとえ自分が死んだとしても、野盗が盗みをあきらめて帰ってくれれば、みんなの生活の平穏が保たれる。

そのために自分が死んだとしても、みんなを護るためなら、喜んで戦い、死ぬ。
戦いでは「負け」たかもしれないが、みんなを守ったという点では「勝ち」です。
それが武道の「勝ち」です。

マンガ「明日のジョー」で、矢吹ジョーが、ホセ・メンドーサと試合します。
殴られても殴られてもジョーは立ち上がる。

ホセは、いいかげん気味悪くなって、さらに矢吹ジョーをボコボコに殴る。

ジョーは、もはやガードの姿勢をとることすらできない。
それでも立ち上がる。何度も立ち上がる。

普通、常識でいったら、タオルがはいって、試合はジョーの負けです。

マンガの試合結果がどっちだったかは忘れてしまいましたが、なんとなく覚えているのは、この試合でホセは、ジョーに対するあまりの恐怖のために、髪が真っ白になり、現役を引退してしまう。

リングの上の勝負ではホセが勝った。
けれども、その結果ホセは引退し、ジョーは、次の対戦に臨む。
ホセも勝った。ジョーも勝った。
ふたりともよく戦った。

要するに武道は「心・技・体」なのです。

スポーツは、逆に「体・技・心」。

なにがあっても負けない強い心、自らの死を賭してでも目的を貫き通す強い心を養う。それが日本の武道であり、武士道の精神です。

スポーツが単に体を鍛え、試合に勝つことを目的としていることに対し、武道は、心を鍛えるために技を習得し、体を鍛える。
まったく発想が逆です。

そうした武道の「心」からインパール作戦を考えると、巷間言われている筋書きとはまったく別なストーリーが、その「作戦」から見えてきます。

インパール作戦は、インド・ビルマ方面における、日本軍のほぼ全軍と、英国のインド駐屯隊のほぼ全軍が会戦した大会戦です。

実際、英国はインパールに15万の兵力を展開し、対する日本軍は9万です。
この時点でビルマにいたインド国民軍4.5万を合わせると、兵力はほぼイーブンです。

しかし牟田口中将は、インド国民軍の本体をインパールに参戦させていません。
そして、約4.5万のインド国民軍の兵士のうち、どうしても一緒に戦いたいと主張して譲らない6千名だけを連れて、牟田口中将はインパールへ出陣します。

インド国民軍を合わせれば、兵力はイーブンになるのに、わざわざインド国民軍をおいてけぼりにしているというのは、ふつうに考えて、あり得ないことです。

ただでさえ、火力が足らないのです。
これにさらに兵力不足が重なれば、これはもう、わざわざ負けに行くようなものです。

しかも補給がありません。物資がないのです。
食い物すらない。

「インパールは補給を無視した無謀な戦いである」などとよく言われますが、補給物資がすでにないことは、牟田口中将以下、軍の参謀たちも、参加した兵たちも、みんなはじめからわかっていたことです。
補給路の確保とかの問題ではありません。そもそも補給すべき物資がハナからないのです。

それでも日本軍は、ジャングルのなかを、遠路はるばる行軍します。
そして、インパールの戦場に向かった。

そして2か月を戦い抜いた。2か月というのは、ものすごく長い期間です。
かのワールテルローの戦いだって、たった1日の大会戦です。

補給がないということは、単に食料や弾薬がないというだけにとどまりません。
医薬品もありません。

場所はジャングルの中です。
山蒜(ひる)もいるし、虫もいる。
マラリアもある、デング熱もある、アメーバー赤痢もある。
日本の将兵たちは、敵と戦うだけでなく、飢えや病魔とも闘わなければならなかった。

そして戦いの早々に、日本軍の指揮命令系統は壊滅します。

それでも、ひとりひとりの兵たちは、ほんの数名の塊(かたまり)となって、英国軍と戦い続けました。

日本軍と撃ちあった英国軍の将兵は、銃声が止んだあと、日本の兵士たちの遺体を見て何を感じたのでしょう。

英国の兵士は、栄養満点の食事をとり、武器弾薬も豊富に持っています。
そして自分たちのために戦っています。

ところが日本の将兵は、他国(インド)のために戦い、武器・弾薬も不足し、食料もない。
ある者はガリガリにやせ細り、ある者は大けがをしている。
遺体は、まるで幽鬼です。

ガリガリに痩せ細り、まるでガンの末期患者の群れのような少数の兵士が、弾のない銃剣を握りしめてそこに死んでいる。
殺しても殺しても向かってくる。

最初のうちは、英国の将兵たちも、勝った勝ったと浮かれたかもしれません。
しかし、それが何日も続く。
何回も続く。

軍としての統制と機能は、とっくに崩壊しているはずなのに、ひとりひとりが戦士となって向かってくる。

降参を呼び掛ける。
でも、誰も降参しない。

弾も持たずに、銃剣ひとつで向かってくる。

そんな戦いが60日以上も続いたのです。
人間なら、誰もがそこに「何か」を感じる。

まして騎士道の誇り高い英国の兵士たちです。
彼らはそこに「何か」を感じた。

ようやく日本軍は潰走をはじめます。
街道を撤退しはじめた。

マラリアに犯され、敵弾を受けて怪我をし、食い物もないガリガリに痩せ細った姿で、街道をよたよたと下がり始めます。

そこには、日本の将兵の何万もの遺体が転がった。

インパール作戦について不思議なことがあります。
それは、現在にいたるまで、英国軍が日本軍を打ち破った誇りある戦いとしてインパールを「誇って」いない、ということです。




ねずきちさん

すみません。

待ちきれなくて 勝手に ねずきちさんブログから 持ってきてしまいました。
お許し下さい。


◆ インパール作戦とパル判事(1/4) ◆

2011-09-27 10:28:20 | 本の話・素敵な話

 ■□【1】インパール作戦とパル判事 (1/4)

『日本の心を伝える会』
<代表者ブログ>ねずきちの ひとりごと さんより


◆ インパール作戦とパル判事(1/4) ◆

今日から4日間にわたり、インパール作戦とパル判事についての記事をお届けします。

白骨街道というのは、ご存じのとおり、インパール作戦における退却路です。

インパール作戦で敗退した日本軍は、退却戦に入っても飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受けながら、退路地を退いて行きました。

飢えて衰弱した体でマラリヤや赤痢に罹患し、負傷して痛む体を引きずって、この道を約7万の日本陸軍の兵士たちが退却した。

そして街道で約4万人の日本兵が亡くなり、無事に帰還できた者はわずか2万名でした。

途中の退路には、日本兵の白骨死体や腐乱死体が点々と折り重なっていたところから、白骨街道の名前がつけられました。

その道筋では、亡くなって一か月経過した者は白骨となっています。

亡くなって一週間程度の屍はどす黒い汁が流れ、黒い大型のピカヒカ光る蠅が群がり、黒い大きな固まりがそこにあるように見えたそうです。

なにかの拍子に蠅が飛び上がる。
すると遺体がもぞもぞと動いて見えたそうです。
大量の蛆が、遺体を食べながら動いているのです。
すさまじい腐臭です。

その一体、一体が、尊い命です。
歓呼の声に送られて出征した、笑顔さわやかな頼もしい皇軍兵士たちです。

生きて生還できた小田敦己さんの談話には、次のような記述があります。

~~~~~~~~~~~~~
半日前とかー時間ほど前に息を引き取ったのか、道端に腰掛けて休んている姿で小銃を肩にもたせかけている屍もある。

また、手榴弾を抱いたまま爆破し、腹わたが飛び散り「真っ赤な鮮血が流れ出たばかりのものもある。

そのかたわらに飯盒と水筒はたいてい置いてある。
また、ガスが充満し牛の腹のように膨れている屍も見た。

地獄とは、まさにこんなところか・・・・ その屍にも雨が降り注ぎ、私の心は冷たく震える。

そのような姿で屍は道標となり、後続の我々を案内してくれる。

それをたどって行けば細い道でも迷わず先行部隊の行った方向か分かるのだ。

皆これを白骨街道と呼んだ。

この道標を頼りに歩いた。

ここらあたりは、ぬかるみはなく普通の山道で緩い登り下りである。
雨があがり晴れれば、さすかに熱帯、強い太陽か照りつける。

暑い。
衰弱しきった体には暑さは格別厳しく感じられる。

≪一兵士の戦争体験ビルマ最前線白骨街道生死の境 小田敦己≫
http://www.geocities.jp/biruma1945/index.html
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英国軍は、この退路にも、しばしば現れて、容赦なく銃弾を浴びせました。

撃たれて死んだ者、伝染病に罹患して餓死した者の遺体や動けなくなった兵は、集団感染を恐れて生死を問わずガソリンをかけて焼却したといいます。

インパール作戦というのは、昭和19(1944)年3月から6月にかけてインド北東部の都市インパールを目指してビルマ北部で展開された戦闘です。

日本は、この戦いで敗退しました。

作戦を指揮した牟田口中将も、
「戦場でもっとも大切な兵站を無視した無謀な戦いをした」
「牟田口中将はバカである」
「はじめから意味のない戦いだった」
等々、戦後あらんかぎりの罵声が浴びせられました。

実際、日本兵9万が出撃し、3万名が戦死、4万名が戦病死したのです。
「勝てば官軍、負ければ賊軍」は世のならいです。
まして多くの味方の人命が奪われる負け戦では、それを指揮した将校は、後々の世までボロかす言われる。
それはある意味しかたがないことかもしれません。

しかし、思うのです。
負けた戦いを、単に「負けたからアイツはバカだ」というのは簡単です。
けれどそんな「評価」をいくらしたところで、失われた人命が帰ってくるわけではありません。
むしろ後世を生きる人間にとってたいせつなことは、そのように歴史を「評価」することではなく、歴史から「何を学ぶか」にあるのではないかと思うのです。

インパール作戦についてみれば、後世の我々からみて不思議なことがいくつかあります。

昭和19年といえば、もはや戦局は厳しさを増してきているときです。
日本は、全体として防衛領域の縮小を図ろうとしていた時期にあたります。
にも関わらず、牟田口中将は、なぜあらためてインドへ向けて出撃しようとしたのか。

兵站が不足している。
それは行く前からわかっていることです。
にもかかわらず、敢えて、出撃したのはなぜか。

無謀な作戦、意味のない作戦だったというけれど、それならなぜ、英国軍はインド方面の総力ともいうべき15万の大軍を出撃させてこれを迎え撃とうとしたのか。
意味がないなら、迎撃する必要さえないはずです。

そしてまた、英国軍15万に対し、日本軍は9万の兵力です。
日本側には、インド国民軍の兵士4.5万人がいたけれど、なぜか日本軍はインド国民軍を6千名しか戦いに参加させていません。
4万のインド国民軍を温存したのです。
どうしてインド国民軍を、厳しい戦いとなることが分かっているこの戦いに参加させなかったのでしょう。

さらにこの戦いは、英国15万対日本軍9万という歩兵陸戦の大会戦です。

世界史に残る有名な歩兵大会戦といえば、ナポレオン最後の戦いといわれるワーテルローの戦い(フランス軍12万、英欄プロイセン連合軍14万)、明治3(1870)年のセダンの戦い(フランス軍12万とプロイセン軍20万の戦い)、日露戦争の奉天戦(日本軍25万、ロシア軍31万)などがあげられます。

インパール作戦は、これに匹敵する大規模な陸戦です。
にも関わらず、英国は、このインパール会戦について、「勝利を誇る」ということをしていません。

こうなると、巷間言われている、単に無謀な戦い、意味のない戦いというのは、なにか違和感を覚えます。


《明日のメルマガに続く》


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うーーむ

なぜ 英国は、このインパール会戦について、「勝利を誇る」ということをしなかったのか・・・

知りたいですね!!


さて
今NHKで国会やっています。

私は、こうゆうのは あまり見ないんです。
つまらないから。

でも、今日は面白かった。
今録画中。
何が面白かったかというと・・自民党の石破さんの質疑が 素晴らしかった。

思わず 聞き惚れた・・。

バシバシ 民主党を 正論で やりこめた と思うんです。

でも 野田首相 ドジョウのように ヌルヌルと 逃げるんだよね。

私は 幸福実現党を 応援しています!

石破さんも好き!

交番から  苦情 の電話が ありました。

2011-09-26 21:21:42 | Weblog


今日ですね。

交番から 苦情 の電話があったそうです。

ご近所から

我が家に  ・・

・・匿名 の電話があったらしい。


「なに ?  なに   ?」


聞いてみました。

そうしたら

毎朝 4時とか5時とかに シャッターを開ける 音。 

ガラガラガッシャーーン!!

やかましい・・そうです。

犯人は・・ 当然 我が亭主。


電話を受けたのも 当の本人。


「うーーん  電動にしなきゃ いかんかなぁ」

と言っていました。


・・たいした話題もなくて  すみません。

最近 事務所の仕事サボっていたのですが
今日は しっかり 事務所で仕事しました。





今 台風で 我が家は揺れています

2011-09-21 13:00:39 | Weblog


先日 雨漏りの話 しませんでしたか?

各地が洪水で 大変だった時

我が家の玄関の壁に 雨漏りどころではなく すだれのような 大量の雨漏りが・・

耳を澄ますと 壁の向こう側 壁の内側では ポトポトポト 音が聞こえる。

これは大変!

数日経って 家を建ててくれた業者に 電話した。

三階建てなので、ちょっと何かするにも 足場を組まなきゃいけないの。

この足場だけで 何百万円もしたんだよ。(一度建物の片面修繕したことあり)

だから亭主 電話するにも 渋々渋っていて 数日が経ったって 訳です。

・・こうゆうのは、雨漏りがしているときに、業者に見てもらうのが常識。

まあ、それで来て貰ったのです。

玄関  ・・こりゃ大変だ。

あれこれ見てもらって 一応原因は突き止めた。

修繕しなかった反対側の壁面は、隣地との境が少なくて、足場を組めないのです。

お隣は2軒あるのですが、古いコンクリートの屋根があって、雨水は その屋根・・というか出っ張ったところから跳ねた雨が、我が家の建物の側面に当たり、当たったところの壁面が・・なんと錆びている。

ちょっと どうしようもない感じ。

足場が組めないので・・町中はそういう建て方の家が多いそうですが・・こうした場合、家と家の隙間と、我が家とお隣の境に屋根を架ける・・つまり三カ所に壁を作る訳です。

「・・ 一番安上がりな方法なように思うけど・・」って言ったら

「そうだと思います」って その時に 来てくれた 業者さんが言っていました。


でも 今回の台風には 残念ながら 間に合わない。

また 玄関の壁に すだれのような 雨漏りに なるんだろうか。

雨漏りで済めば ま いいかな?



追伸

台風が去りました。

玄関は無事でした。・・風向きが 良かったみたいです。

雨が上がったので 三階のベランダに出てみたら 吹き飛ばされそうでした。

怖かった。

町内の商店街は 全部 シャッターが降りていました。

そして

看板が飛ばされてない所や どこかから飛んできた白い板が 風に乗って 走ってきた車の頭上を飛び越したりしていました。

何か用事があっても 危なくて 家を一歩も出られません。

バイクに乗って川のそばで転倒して川に落ち お亡くなりになった ニュースがありました。

小学生のお子さんが 用水路に落ちて 行方不明 のニュースもありました。

悲しいニュースでした。


風が 思ったよりも 強風なので 

皆様

お気をつけ下さい。


日本神道系の神々が 怒っておられる としか 言いようがありません。

今の政権になってから 天変地異です。

村山政権になったときに 阪神淡路大震災が起きました。


こんな時に 増税をしようだなんて ・・・

増税なんかしたら 経営者は 利益が残らないんですから

従業員を解雇せざるをえない 事態に なります。

幸いにして 解雇まで行かなかったとしても 給料はカットします。


給料をカットせざるを得なくなると 従業員は ローンを払えなくなり

最終的には 子供たちに しわ寄せがいくのです。


増税は反対です!