ジーン・ウールの不思議な旅

ジーン・ウールは不思議な女性です。姿を変えて過去にも未来にも現れます。
もしかしたら貴方の友人や奥様かも知れません。

店主ご挨拶

ようこそお越し下さいました。 昨年(2010)、3ヶ月の雲水修行に行ってまいりました。 私は働き者で(自己申告)、精舎は朝は早く夜は遅く「朝瞑想」の時間は、気がつくといつも寝ておりましたが・・。 私の人生の1ページに、思いがけないご褒美を頂けたような日々を過ごさせて頂きました。・・ま、主婦でも決心ひとつで如何様な道も開けるんですね。 今も精舎に行くと「実家に帰った」ような気がします。 このブログ管理人は、最近物忘れ症候群中につき、おいで頂いた感謝を申し上げ、コメントを頂いても書いたり書かなかったり、付き合いが悪いことのご無礼をお許し下さいませ。

『尖閣は、ルビコン川を渡ったか』

2012-05-18 17:17:51 | ご講話・ヘラトリ・リバティ 


『世界の目を醒ます
ヘラトリ・トピックス』
(第41号)


尖閣は、ルビコン川を渡ったか


 今週5/14-15に行われた日中首脳会談については、
「そこでの実際に交わされた両首脳(野田首相vs.温家宝首相)のやり取りと、その後、中国政府サイドから発表された会談内容の間に違いがある」
として、物議を醸す(かもす)報道が、日本のマスコミから相次いだ。
いわく、

「温家宝首相は会談の中で、ウィグルについては「中国の核心的利益だ」と断じて譲らない強硬な主張を示した一方、尖閣諸島については、「(石原都知事の購入宣言について)重大な関心事項だ」と表現を使い分けたのが事実関係(複数の関係者説明)だったのに、
会談後の中国新華社通信の発表では、「ウィグルも尖閣諸島も、中国の核心的利益だ」と、温家宝首相が強硬に主張した」

ということになっていたのである。
背景をご存じない方には、これは多少、説明が必要だろう。
中国政府の言う「核心的利益」とは、

「いかなる代償を払ってでも、中国政府が保持する(手に入れる)意志を明らかにしている地域」

のことで、具体的には、香港、台湾、ウィグル自治区などを指し、ベトナムやフィリピンと係争中(一部中国が実効支配中)の南シナ海の南砂諸島(スプラトリー諸島:膨大な海底資源が眠っている)に対しても、「核心的利益」という言葉を用いている。
尖閣諸島に対して「核心的利益」という言葉が、中国政府から公式に使われた記憶は、私の中にはこれまで無かった。確かに、今年の1月には、中国共産党の機関紙「人民日報」がその表現を用いたことはあるが、それはあくまで、党としての「見解表明」だった。
 ただ、懸念される事態は進行していて、今年3月に自民党の高村元外相が訪中したときに、習近平次期国家主席が、
「(石原都知事の動きについて)核心的利益という観点から懸念を表明する」
という趣旨の発言をしていたので、「オヤ?」と目についたのは確かである。



この夏、
あっと驚く事態!



 今週5/15(火)から公開されている、大川隆法総裁の「美女対談」(幸福実現党青年局長との対談:収録は5/8)の中で、大川総裁は、

「(今回の石原氏による尖閣購入資金の)募金が、次(夏)の騒ぎのもとになるだろう」
と予告され、続く5/13(日)の東京・赤坂ユートピア活動推進館での御法話「宗教立国の実現」の中では、

「間もなく、沖縄県民が度肝(どぎも)を抜かれるようなこと(自分達がいかに逆洗脳されてきたか分かるようなこと)が起きるだろう」
と予言された。

その予言の中身は、13日の御法話の中では詳らか(つまびらか)にされてはいないが、前述の「美女対談」の中では、その内容を示唆する発言が出てくる。
詳しくは「対談」をご覧いただきたいが(全国の幸福の科学の精舎/支部等で開催中)、その「対談内容」を裏付ける報道は、チラチラと出始めている。

雑誌「SAPIO」の直近号(6/6号)には、
「中国の外交政策決定の最高機関において、習近平副主席ら複数の関係者が、
「石原都知事の購入計画が現実のものとなれば、中国軍は軍艦を派遣して、それらの島々の実効支配に乗り出すべきだ」
と主張した」
と報道されていた。

「尖閣諸島は日米安保条約の適用範囲内」とアメリカ政府(クリントン国務長官)が表明している以上、現段階でいきなり、中国海軍(正規軍)の軍艦が直接行動に及ぶとは考えにくいが、それ以外の
「あっと驚く」
(度肝を抜かれる)
事態がこの夏勃発することは、十分考えられるところまで、既に状況は進展している。

「対談」の中で示唆されていた事態が起きれば、
「普天間基地の県外移設を主張していた沖縄県民が、真っ青になる」
のは、一瞬の問題だろう。


既にバブル崩壊は深刻 強硬路線に出てくるか

 一方、中国の経済に目を転じると、5/16付けの英フィナンシャル・タイムズ(FT)に、なかなかシリアス(深刻な)記事が掲載されていた。

 中国の次期首相が確実視されている李克強副首相が、かつてアメリカ大使に対して、
「中国のGDP統計は人為的に作られているので、私は信用していない」
と発言していたことが、あのウィキリークスの暴露によってばらされてしまったことは、このヘラトリでも一度紹介したが、今回FT紙は、それに続けて出た李克強氏の発言、

「下から上がってくる統計が信用ならないので、私は地方政府の長をしていたときは、
「電力消費量」、「鉄道貨物輸送量」、「銀行融資の実行額」という三つの「実体経済に直結する数字」を直接把握して、判断を間違えないように注意していた」
という発言を引用しつつ、その三つのデータを検証したのである。

それによると、中国政府のGDP統計によれば、今年第一四半期(1-3月)の経済成長率は、
「8.9%(昨年)から8.1%(今年)に微減(いずれも前年同期比)」
したことになっているが、さきほどの三つの指標を直接当ってみると、

(1)電力消費量の伸び率は、11.7%(昨年4月)から0.7%(本年4月)に激減、
(2)鉄道貨物輸送量(本年1-4月)の伸び率は、前年同期比で半分に激減、
(3)銀行の新規融資も、予想を大幅に下回る深刻な事態、
となっており、
かつての日本と同じく、"バブル崩壊"を直接表わすはずの「新築住宅の着工面積」に到っては、▲4.2%と、絶対額で経済がすでに「縮んでいる」現象が明らかとなった。

そして、これに対する専門家のコメントとして、
「かなり憂慮すべき事態」、
「悲惨な統計結果」
という言葉を紹介している。
経済の減速が緩やかであれば、「軍事費に回す余力が減る」という良い効果も見込まれるが、落ち込みが激しいときには、
「胡錦濤/温家宝という現体制(経済推進派)に対する風当たりがきつくなって、目先の権力闘争では胡錦濤派が習近平派に対して、一見、優位に巻き返しているように見えるものの、
軍の力を背景にした習近平(軍事優先派)が、経済不振を口実に一気に政府部内を制圧して、対外的にも軍事拡張路線に出てくる可能性は十分にある」
という大川総裁の指摘が現実のものとなる恐れが、ここに来て出てきた。

 いずれにせよ、6/2封切りの映画『ファイナル・ジャッジメント』で予告してきたとおりの展開に、いよいよ、この極東情勢が「はまってきた」のである。
この映画を通じて、多くの方に、「今、起きている現実」を曇りなき目で見ていただかなけれなならないときが、本当に来ている。(了)



北海道正心館
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橋下市長が「原発再稼動容認」に転向した本当の理由とは?

2012-05-17 10:19:16 | ご講話・ヘラトリ・リバティ 

橋下市長が「原発再稼動容認」に転向した本当の理由とは?
2012.05.17
リバティWeb 転載


橋下徹大阪市長が関西電力大飯原発の再稼働反対の姿勢から、一転して「再稼働容認」へと「転向」したが、その裏に何があったのか。


橋下市長は、大飯原発3、4号機のストレステストに政府が「妥当」と判断を下したことに反発し、再稼働に強硬に反対。大阪市が関電の筆頭株主であることを武器にして関電にも圧力をかけていた。

ところが、4月26日、一転して、「原発を再稼働させなくても(今夏の電力需要を)乗り切れるかどうかは関西府県民の努力次第。その負担が受け入れられないなら、再稼働は仕方がない」と述べ、再稼働を容認する姿勢に転じた。


その橋下氏の「転向」の前日の4月25日、幸福実現党が関西電力前で「原発の再稼動を求める市民集会デモ」を開催、約1000人が参加した。それと同時並行で、幸福実現党の立木秀学党首は大阪市役所前で街頭演説し、橋下氏に対して「政治家として無責任である」と指摘し、再稼動の必要性について説いていた。


この幸福実現党の主張と、橋下氏の転向とは関係があるのだろうか。そんな疑問への答えは、意外に早く明らかになった。

5月10日に大川隆法・幸福の科学グループ創始者兼総裁が橋下徹・大阪市長の守護霊を呼び、公開霊言インタビューを行った。

その中で、橋下氏の守護霊は、「脱原発」から「再稼働容認」への転向の理由について、次のように語ったのだ。

「立木党首が怒りよるからさあ。怒るんやったら、考え変えるのは1秒で変わるわね」



橋下氏の守護霊は、幸福実現党の主張や政策を自分の政策としてパクってきたことも明かしたほか、様々な「本音」を語った。


この橋下氏の守護霊インタビューは近日、幸福の科学の支部・精舎で公開され、書籍としては5月末に発刊される。また、本誌7月号(5月30日発売)でも徹底検証する予定だ。(小)



【関連記事】

2012年5月14日付本欄 「橋下首相」を煽る週刊誌

http://www.the-liberty.com/article.php?item_id=4282


2012年5月号記事 橋下「維新の会」は、幕末の水戸藩? - 編集長コラム

http://www.the-liberty.com/article.php?item_id=4022

左派の大統領誕生でフランスが直面する挑戦とは

2012-05-09 08:30:37 | ご講話・ヘラトリ・リバティ 

左派の大統領誕生でフランスが直面する挑戦とは
2012.05.09
リバティWeb 転載


左派の社会党候補、フランソワ・オランド氏がフランス大統領選で当選した。「オランドが選ばれたというよりサルコジが追い出された」と評される消去法的なこの結果により、フランスは今後いかなる道を歩むのか。


現職サルコジ大統領との大きな違いは、サルコジ氏の財政緊縮重視策に対抗するかたちで、オランド氏が成長・雇用戦略の重要性を訴えていることだ。オランド氏はEUの新財政協定の再交渉以外にも、EU域内のインフラ整備事業の強化や、年金受給年齢の引き下げなどを打ち出している。また、今後5年間の任期中に、教育分野で6万人、警察関係で5千人を雇用し、若者向けの住宅も新規建設することを公約していた。


これらを見る限り、インフラ整備事業は別としても、具体的経済成長策というより、まずは歳出拡大による雇用の安定を目指す気配が強い。下手をすれば目先の利益を供与するバラマキに終わりかねない。現政権に対する不満から、有権者がとにかく政権交代を望み、バラマキ的な公約を掲げる野党を政権につけたとなれば、日本人としては、子ども手当や年金の充実を目玉に掲げた民主党が政権についた2009年の衆院選を思い出さずにいられない。その後の民主党政権は、子ども手当も年金制度も公約通りに実行しない(できない)ばかりか、絶対に上げないと言っていた消費税増税を進めようとしている。


8日付の米紙インターナショナル・ヘラルド・トリビューンは「オランドにとっての巨大な挑戦」と題する論説を載せ、「オランドの社会党政権は、赤字削減と経済成長を両立させ、社会的正義と、勢いづいた右派の要求(移民規制強化など)をバランスさせることができるのか? それが、オランドが直面している挑戦だ」としている。17年ぶりに選ばれた左派の大統領が、日本のような混迷の政治に陥ることなく「国民全員の大統領」(オランド氏の言葉)として成功できるのか、民主党政権との比較も含めて注目したい。(司)


【関連記事】

2012年4月25日付本欄 【海外メディア】神なき国フランスの「アイデンティティ危機」

http://www.the-liberty.com/article.php?item_id=4167

自分で考えない橋下市長 「民意」がすべてなのか?

2012-05-07 16:42:07 | ご講話・ヘラトリ・リバティ 

自分で考えない橋下市長 「民意」がすべてなのか?

2012.05.05
リバティwebより 転載


北海道の泊原発3号機が停止し、日本国内50基の原発がすべて停止状態となったが、政府は、福井県の大飯原発3、4号機(関西電力)の再稼働を目指す。しかし大阪市の橋下徹市長をはじめ、滋賀県の嘉田由紀子知事、京都府の山田啓二知事など近隣の知事が強行に反対している。


この問題に関して、テレビ大阪で5日放映された番組「たかじんNOマネー」に橋下市長と松井一郎大阪府知事が出演し、レギュラーコメンテーターたちと激論を交わした。中でも独立総合研究所社長・青山繁晴氏は「大阪府市のエネルギー戦略会議には、テロ対策も含めて(そういう視点が)ない」と苦言を呈した。


しかし、橋下・松井両氏の主張はその部分ではかみ合わない。橋下市長は「(政府や電力会社に対して)有権者の声を背景に迫るしかない。自立する個人、責任を取る個人ということからすれば、府県民の皆さんが、計画停電や電気料金値上げも覚悟する、と言うなら、私は政府や電力会社と戦いますよ。どうですか、皆さん、計画停電していいんですか?」とまくしたてながら、出演者全員を指さして問いかける。


「日本の経済を弱くするから、それはダメだ」と青山氏が反論すると、「じゃあ、原発はやっていかなきゃいけないって話になるし、それは国民の皆さんに(決めてもらうことだ)」と言う。これが、橋下市長がよく口にする「民主主義的な手続き」というものの姿なのだろう。


白か黒か多数決を取って、多い方の意見を民意・国民の総意と位置づけ、自分の主張を押し通してゆくということか。学級会で、多数決で決めたことに対して、もし後で問題が起きても「だって、みんながいいって言ったじゃないか。嫌なら賛成しなければよかったんだ」とうそぶく子供の姿がダブって見える。


国民が判断するためのデータや理論を示さず、きちんと価値判断もしないまま、機関銃のように発される橋下氏の言葉に、われわれは「騙されちゃいけない」のではないだろうか。〈宮〉


【関連記事】

2012年6月号記事 原発停止問題 - 景気回復のためにも一刻も早い再稼動を - - Newsダイジェスト

http://www.the-liberty.com/article.php?item_id=4205



2012年6月号記事 軽薄短小から重厚長大へ - 弱電の凋落で日本の製造業は沈むか - Newsダイジェスト

http://www.the-liberty.com/article.php?item_id=4206

杉原千畝続報

2012-05-03 06:39:18 | 本の話・素敵な話

杉原千畝続報
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日心会メルマガ 転載です。


先日、メルマガNo.469で「杉原千畝の命ビザ」をお届けしたのですが、その続報です。
以下は、大切なポイントともいうべきものです。

まず第一に、杉原領事は、「外務省の訓令に反してビザを発行したのか」という点です。

外務省の命令に違反して発行したビザであれば、この文書は単なる私文書となります。
従ってビザとしての効力はありません。無効です。
無効なビザなら、ユダヤ避難民たちは、ソ連への入国ができません。
当然のことです。

杉原領事は、あくまで公文書としてビザを発行しています。
この発行に日本の外務省が「発行をしてはならない」といった内容の訓令をした事実はありません。

実際にあった話は、単に外務省は、「一度にあまり大量の発行をしては、ソ連に迷惑がかかるのではないか?」程度の話があったにすぎません。
これはどこの国でも同じことです。相手国に配慮するのが外務省の役割でもあるからです。

従って、杉原領事の発行したビザは、日本の外務省の認証を経た有効なものです。

なお、米国は当時、セントルイス号事件で知られているようにビザの発行を全面禁止していました。


つぎに、ビザを出したのは杉原領事だけだったのか、という点です。

ハンブルグの領事館でも800通におよぶビザが日本の領事館で発行されています。
良心をもってビザを発行し続けていたのは、当時、杉原領事だけではなかったのです。

このことは、ソ連経由で上海に逃げてきたユダヤ人たちが、上海で25000人にも上ったことでもわかります。
つまり、杉原領事以外にも日本の領事たちは、多数のビザを発行していたのです。
なぜなら当時の欧州のユダヤ人の外国脱出は、日本経由しかなかったからです。


三つ目に、杉原領事は処罰されたのかという点です。
敗戦前に杉原領事は、勲五等に叙勲されています。
これは罰とはいえません。


四つ目に、杉原領事の退職についてです。
日本がGHQによって占領されたとき、日本は「国」ではなくなりました。
東洋における一エリアというだけの存在になったのです。

当然のことながら、日本国の外国における公館もなくなりました。
このため、日本の外務省の職員で海外にいた者は、全員解雇となっています。

国を失うというのは、こういうことです。
いまの日本は、世界的に認知された「国」です。
いろいろ問題があったにしても、日本人が海外で何かトラブルにあえば、日本の大使館が何かと助けてくれます。
けれど、日本が「国」でなくなれば、こうした日本人への保護は、一切なくなります。

日本人は、名前さえないそこらの野良イヌや野良ネコと同じで、たとえ殺されても、誰も何も助けてくれない。
それが「国」を失うということです。

左翼主義者は、日本なんてなくなったほうがいいようなことを言いますが、実にとんでもない話です。


五つめに、ユダヤ人の満洲国通過についてです。
当時満州国の参謀総長をしていたのは、東條英機です。
彼は、すべて承知の上で、ビザを持ったユダヤ人を通過させています。
だからユダヤ人たちは、敦賀などに上陸し、日本経由で上海に移住できたのです。

日本陸軍がユダヤ人に好意的だったのにも理由があります。
日露戦争当時に、ユダヤ人財閥のシフ氏が戦争資金に困った日本の外債を買ってくれたことを恩に感じていたからです。
外貨が底をつけば大陸の日本陸軍は全滅していました。(高橋是清自伝参照)


※以上は、東近研の落合さんのご意見を参考に掲載させていただきました。



ねずきちさんより 日心会メルマガ が届いていました。
ありがとうございました。

続編として掲載致します。


  

上杉鷹山に見る繁栄のための精神  リバティwebより

2012-05-02 11:22:46 | ご講話・ヘラトリ・リバティ 

上杉鷹山に見る繁栄のための精神
2003.09.05
リバティWEBより


英国の探検家が目撃したアルカディア(桃源郷)

「米沢平野は、南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。『鋤で耕したというより鉛筆で描いたように』美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデア(桃源郷)である」

明治初期、日本の各地を見て歩いた英国の女流探検家イザベラ・バード(注1)は、旅の途中、かつての米沢藩の領地に足を踏み入れると、その美しさに思わずそう感嘆した。

「自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人びとの所有するところのものである。彼らは、葡萄、いちじく、ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮らしをしている。これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である」

米沢の地の豊かさと、人々の豊かな暮らしぶりは、当時、世界最大の経済大国であった英国人をも驚かせるに十分なものがあったのだ。

ところが、この“桃源郷”も、そのわずか100年前には、藩の財政が破綻寸前に陥り、貧しさのあまり領民が逃げ出す、痩せ衰えた土地だった。

その米沢藩を再建し、不死鳥のごとく生まれ変わらせたのが上杉鷹山である。


崩壊寸前の米沢藩

上杉鷹山が1767年にわずか15歳で上杉家の家督を継いで米沢藩主となったとき、藩は窮乏のどん底。領内の村は荒れ果て、貧民や流浪者があふれていた。

それもそのはずで、年間3万両の必要経費に対し、豪商からの借金の支払い額は4万両近くに上り、そのうち実際に払えるのはせいぜい1万両。積もり積もった借財の総額は20万両にも達し、一年の藩の収入でも利息を払えない有り様だった(注2)。

なぜなら初代藩主の上杉景勝の時代には120万石あった石高が、15万石に減っているにもかかわらず、家臣団は約5千人のまま横ばい。しかも初代の大藩時代の慣習やしきたりをことごとく踏襲したため、経費が財政を圧迫していたのである。企業でいえば、売上げが8分の1に減りながら、経費の削減をしないのだから、債務超過に陥るのは当たり前だ。

しかも、歴代の藩主たちは、収入を増やそうと重税を課したために、苦しめられた農民が逃散したり、子供を間引くなどして、最盛期に13万人いた人口が10万人程度にまで減少していた。

(注1) 明治11年に日本を訪れ、東北、北海道を旅行した女性探検家(左写真)。そのときの記録は、『日本奥地紀行』として出版された。

(注2) 一両を約20万円で換算した場合、借財総額20万両は現在の約400億円に相当する。


早わかり上杉鷹山

上杉鷹山が米沢藩主になったとき、領内の村は荒れ果て、藩の財政は崩壊寸前だった。

鷹山は、大倹約令を発し、自ら範を示しつつ、無駄な経費を思い切ってカットした。

一方、植林事業や灌漑用水の工事を積極的に展開、織物や焼物など、さまざまな産業を興した。

「民の幸福は治者の幸福である」と信じて必死の努力を続け、鷹山が亡くなるころには藩の借金はほぼ返済し終えた。


率先垂範の"コストカッター"

そんな状況のなかで上杉鷹山がまず取り組んだのが、「出ずるを制す」。すなわち自らが率先垂範し、徹底的な大節減を行うことだった。

まず「大倹約令」を発し、藩主の生活費である仕切料を年1500両から209両に一気に削減。身の回りの世話をする奥女中50余人を9人に減らした。日常の食事は一汁一菜、衣服も贅沢な絹から綿衣に限らせた。現代で言う"コストカッター"である。

人事にも手をつけた。例えば実力本意で人材を起用し、無能な代官はことごとく退け、不正を行なう者は罷免した。幹部に対しては、複数の役職を兼務させ、目一杯仕事をさせて、"お飾り"としての役職を許さなかったのである。

単なる経費削減だけでは、下手をすると組織はやせ細るだけだ。そこで同時に組織を鍛え上げて筋肉質に変えていったのだ。


情報開示と新産業の育成

むろん、鷹山はただ倹約に励んだだけではない。積極投資をはじめとする革新的な再建策にこそ、その真骨頂があった。

まずは情報公開。藩の収支決算を示す会計帳を家臣に公開、上杉家の財政がいかにひどい状態にあるかを包み隠さず明らかにした。現代でこそ「ディスクロージャー」が盛んに言われるようになったが、200年以上も前の封建時代に、すでに鷹山は情報公開を進めていたのである。

また、藩士からは政治改革の意見を募り、優れた意見を述べた者を次々と登用。領内には目安箱ならぬ「上書箱」を設置し、アイデアを吸い上げることに心を砕いた。

中でも最も力を入れたのは、「入るをはかる」殖産興業である。

例えば、米沢市の代表的な伝統産業である「米沢織」は、鷹山の時代に桑を植え、養蚕を奨励し、越後から職人を招いて縮布製造場を設けたことに始まっている。特に蚕のエサとなる桑やが取れる漆、和紙の原料となる楮などは、実に100万本の植え立て計画を打ち出した。

ほかにも今に受け継がれる成島焼、笹野一刀彫、相良人形といった特産物を生み出している。

また、他藩からの輸入に依存していた農業用の馬を、国産馬の開発に力を注ぐことで価格を下げ、農民を大きく潤わせた。江戸随一の学者を招いて薬草園を開き、製薬事業も起こした。


交通革命と大規模公共事業

さらに見過ごせないのが「規制緩和」だ。まず、米価安定のために米の領外への移出を自由にする法令を発布。次いで最上川上流の商船の航行を許可し、輸送力を強化。わずか6艘だった商船を36艘にまで増やしている。一種の「トランスポーテーション(輸送)革命」である。

そして藩の財政が大赤字にもかかわらず、積極財政も行なった。

黒井堰の大工事では、3年間で10万人以上の人夫や大工を動員。この灌漑用水の開通で、実に領内の33カ村が潤った。さらに20年もの歳月を費やして、飯豊山の標高1500mの高所にトンネルを掘った。領民を楽にし、豊かにするという試みには、惜しげもなく投資したのだ。

しかも、こうした一連の施策に魂を入れるために教育事業にも投資している。

当時一流の儒学者で、鷹山の師でもある細井平洲(注3)を3回にわたって招き、1776年には学問所として興譲館を創設。「教育投資など、この財政難では無意味だ」という周囲の猛烈な反対を押し切って、人材づくりに万金を惜しまなかった。

こうして見ると、鷹山はただ清廉潔白であったというだけでなく、現代で言えば、発想力豊かな「ベンチャー経営者」としての感覚を多分に持っていたことが分かる。

こうした一連の改革を30数年にわたって行なってきた結果、鷹山が亡くなるころには、膨大な借金をほとんど返済し、財政を黒字化させ、5千両もの蓄財ができるまでになったのだ。


民の幸福こそ治者の幸福

慎重な「倹約家」と大胆な「起業家」──。そうした鷹山の一見相反するような側面を貫くものが、彼の徹底した「自助努力」と「愛他・利他」を尊ぶ精神であった。

「自助努力」の精神の典型は、鷹山が就任して間もなく始めた「籍田の礼」だろう。藩主自らが田を耕し、農業の尊さを表す神事だが、これによって、米沢藩では以後、家臣をあげての耕地開発や用水のための堰堀、堤防修築が行われることになる。

藩窮乏の時には、武士であっても農民の年貢に徒食することなく、それぞれが「自助努力の精神」を発揮すべきである──そのことを身をもって示したのだ。

鷹山が師と仰いだ細井平洲は、常々次のように説いていた。

「経済とは経世済民の略であり、単なる銭勘定ではなく、その背後に民を愛する政治を行なう姿勢がなければならない。治者は民の父母でなければならない」

幼少時にこの教えに触れた鷹山は、涙を流して感動したという。それが鷹山の「民の幸福は治者の幸福」という思想に結実する。

後に藩主になってから、鷹山は、現在の行政官である郷村頭取や郡奉行に次のように語ったという。

「赤ん坊は自分の知識を持ち合わせていない。しかし母親は子の要求をくみとって世話をする。それは真心があるからである。真心は慈愛を生む。慈愛は知識を生む。真心さえあれば、不可能なものはない。役人は、民には母のように接しなければならない。民をいつくしむ心さえ汝にあるならば、才能の不足を心配する必要はない」──。

その「慈愛の心」は、「国民が貧しければ自分は貧しく、国民が豊かになれば自分が豊かなのだ」と、民の窮乏を見かねて仁政を施した仁徳天皇の精神にも通じるといえるだろう。


「信仰心」が生んだ理想郷

そうした鷹山の精神性の背景に、神仏への「深い信仰心」があったことを忘れてはならない。

鷹山が藩主になる日のこと、彼は人知れず次のような誓文を、自らの守護神と仰ぐ春日明神に奉納し、誓いを立てている。



一、 文武の修練は定めにし

 たがい怠りなく励むこと

二、 民の父母となるを第一 のつとめとすること

三、 次の言葉を日夜忘れぬ こと

 贅沢なければ危険なし

 施して浪費するなかれ

四、 言行の不一致、賞罰の 不正、不実と無礼、を犯 さぬようつとめること

 これを今後堅く守ることを約束する。もし怠るときには、ただちに神罰を下し、家運を永代にわたり消失されんことを



こうした鷹山の「信仰心」と領民への「慈愛の心」、人々が自助努力によって豊かになることを肯定する考え方。そこから生じる「智慧」(工夫とアイディア)、そして常に「あるべき姿」を求め続け、その実現に向けた不退転の決意と情熱──。それこそが、数十年にわたる長い藩政改革を成功に導き、窮乏の極みにあった米沢藩を、「アジアのアルカディア」へと変えた秘訣と言ってよいだろう。

◇   ◇
かつてない深刻な不況で苦しむ日本。そうした時だからこそ、「清貧の思想」だけでなく、上杉鷹山が身をもって実践した「繁栄のための精神」を、学ぶ必要があるのではないだろうか。



(注3)江戸時代の儒学者で上杉鷹山の師。その著『嚶鳴館遺草』は、後に吉田松陰が「この本こそ、治者の宝典である」と絶賛し、塾生にすすめたと言われる。


上杉謙信が鷹山を天上界から指導していた?


上杉謙信 何を悩んでおる。いかがいたした。

鷹山 私の考えは上杉家の格式に反しておりますか?

謙信 格式とはなんぞや。

鷹山 謙信公の生きざまでござる。

謙信 正義の為に戦う。それが上杉家の伝統。今、何が正義よ。

鷹山 今は米沢の窮乏を救うことこそ正義でございます。

謙信 ならば、おのれの信じる正義をつらぬくのだ。

鷹山 謙信殿……。


この会話は、米沢市立上杉博物館で上映している短編映画「鷹山シアター」の一部分。改革に取り組む鷹山が、家臣団の激しい抵抗に悩み、お堂に籠もった時、上杉家の藩祖・上杉謙信と霊的に会話し、その指導を得て改革を断行したというストーリーだ。

残念ながら、この“会話”は史実ではないが、仏神への篤い信仰心を持ち、民の幸福のために身命を賭した鷹山に、天上界の上杉謙信から霊的な指導が臨んだという設定は、興味深い。

ちなみに上杉謙信は、仏教で「毘沙門天」と言われる、あの世の高級霊の一人だ。


ジョン・F・ケネディが最も尊敬した日本人

「あなたが、日本で最も尊敬する政治家はだれですか」

「上杉鷹山です」

1961年、第35代アメリカ大統領に就任したとき、日本人記者団からの質問に、ジョン・F・ケネディは即座にこう答えた。日本の国内でも鷹山の名を知っている人が少なかった当時、ケネディはこの日本の小藩主をよく研究し、「自分の政治家としての理想像」を鷹山公に求め、「アメリカも大事なときであるから、私も十分頑張るつもりである」と話したという(注4)。

実際に鷹山の名前は、日本の有徳の為政者として、明治以降、欧米人に広く知られ、尊敬を集めてきた。

そのきっかけとなったのが、キリスト者・内村鑑三が、明治41年に発刊した英文の『代表的日本人』と言われている。内村はその中で、鷹山の業績と人格を、キリスト教的な「天の王国の実現」と「愛」、「信仰」の観点から描き、紹介した。

日露戦争以後、広く海外で読まれたこの名著を、敬虔なカトリック信者で勉強家のケネディが何らかの形で読み、感銘を受けた可能性は大いにある。

だとすれば、ケネディが大統領になってから、不況に苦しむアメリカ国民を救うために大減税を断行し、かつアポロ計画といった積極投資を決断したのも、鷹山の思想と行動がその背景にあったと言えるだろう。

日本の名君・鷹山は、米沢藩のみならず、現代のアメリカの繁栄にも影響を与えたのかもしれない。

(注4)『米澤藩行革の恩人 上杉鷹山公』(山田武雄著)より。