ジーン・ウールの不思議な旅

ジーン・ウールは不思議な女性です。姿を変えて過去にも未来にも現れます。
もしかしたら貴方の友人や奥様かも知れません。

店主ご挨拶

ようこそお越し下さいました。 昨年(2010)、3ヶ月の雲水修行に行ってまいりました。 私は働き者で(自己申告)、精舎は朝は早く夜は遅く「朝瞑想」の時間は、気がつくといつも寝ておりましたが・・。 私の人生の1ページに、思いがけないご褒美を頂けたような日々を過ごさせて頂きました。・・ま、主婦でも決心ひとつで如何様な道も開けるんですね。 今も精舎に行くと「実家に帰った」ような気がします。 このブログ管理人は、最近物忘れ症候群中につき、おいで頂いた感謝を申し上げ、コメントを頂いても書いたり書かなかったり、付き合いが悪いことのご無礼をお許し下さいませ。

ご法話 「創造的人間の秘密」 が面白そう~★

2011-08-31 11:27:04 | ご講話・ヘラトリ・リバティ 
   

【法話「創造的人間の・秘密」が説かれました・!】 HS 最新情報Vol.17

◆━━━ 2011/08/29 ━
おはようございます!
暑い日が続いたかと思うと、急に大雨になったり、気温の上下が激しいこの頃ですね。
現在、台風も近づいていますので、外出の際にはお気を付けください。

さて、今週のメルマガも最後までお楽しみに!

■大川隆法総裁 最新情報
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◆8/27 大川隆法総裁 法話「創造的人間の秘密」

8/27(土)、総本山・那須精舎で開催された学生部合宿の2日目に、大川隆法総裁による法話「創造的人間の秘密」を賜りました。

総裁は冒頭、雨模様の空を評して「勉強に適した〝いい天気“ですね」というユーモアをこぼされ、終始学生たちの熱気に包まれた法話となりました。

【主な内容】

・未来を創っていくのは「○○力」

・食パンや角砂糖に隠された「コロンブスの卵」とは

・逆説的な「長所の見つけ方」

・嫉妬に負けないコツ

・優れた人ほど陥りやすい恋愛パターン

・「小悪魔タイプ」の女性の正体とは

・数秒で世界中どこにでも届く「ある力」の秘密

・「ある力」さえあれば、魔法の杖は必要ない!

また、質疑応答では、外国人学生を含む3名の学生の質問にお答えくださいました。

・若くても人に認められ、尊敬と信頼を集めるリーダーになるために必要な心掛け
・40%の学生が経済的な理由で学業を続けられないという、フィリピン人学生に対するアドバイス
・5回読んだ本、7回読んだ本、10回読んだ本の違いとは
会場をぎっしり埋め尽くした大学生たちは、本法話から得たたくさんのヒントを胸に、実りある合宿を過ごしていました。

※この合宿は、幸福の科学の会員・未会員に関係なく、全国の短大生・大学生・専門学生が参加しました。
また、海外からも参加し、国際交流が行われました。

合宿の紹介ページはこちら
http://www.happy-camp.org/?from=hs-news幸福の科学の学生・社会人向けのコミュニティサイトはこちら
http://www.hs-befree.com/?from=hs-news━━━━━━━━━━━━
■今週のピックアップ
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◆新宿UFOフリートの映像などがテレビ放送!?
http://www.hs-group.org/topics/cosmo/3824/?from=hs-news

◆地域のみなさんが集まるコミュニティ
http://www.hs-group.org/yokuwakaru/building/181/?from=hs-news

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■行事予定 最新情報
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◆大川隆法総裁 経典セミナー「『不況に打ち克つ仕事法』講義」(9/4)@東京正心館

大川隆法総裁の経典セミナーが開催されます!
http://www.happy-science.jp/news/lecture/188A.html?from=hs-news書籍『不況に打ち克つ仕事法』の紹介ページはこちら
http://www.irhpress.co.jp/detail/html/H0328.html?from=hs-news

【日時】
2011年9月4日(日)
13:00~14:30前後

【本会場】 東京正心館

【衛星会場】
全国精舎、全国青年拠点(支部内青年学生拠点は除く)、一部精舎から遠方の支部精舎他

こちらのページに詳細が記載されています。
http://www.happy-science.jp/news/lecture/188A.html?from=hs-news

※詳しい開催会場についてはお近くの幸福の科学にてご確認ください。
http://www.happy-science.jp/shoja/location/?from=hs-news
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ピックアップ法話
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人間は ハングリー精神を失ったときに>若者ではなくなります。
その人が若者であるかどうかを分けるものは、このハングリー精神の有無なのです。

言葉を換えれば、「ネバー・ギブ・アップ」の精神です。

ネバー・ギブ・アップとは、「決して諦(あきら)めない」ということです。

たいていの人は途中で諦めてしまいます。

「もう、現状のまま、あるがままでよい」と思い、>惰性(だせい)に流されていきます。

それ以上、>向上の階段を上がろうとはせず、

それ以上、>難しいことをしようとはせず、

それ以上、>新しいことにチャレンジしようとはしなくなってくるのです。

これが、ハングリー精神を失った状態です。

年配の人たちは、>ハングリーな気持ちを持っていた若者時代を>もう一度、振り返っていただきたい。

同時に、>現在、青春真っ盛りのみなさまには、>ハングリーな気持ちを持ちながら成長していっていただきたいのです。

大川隆法総裁 法話「ハングリー精神を失うな」より

最後までお読み下さり、ありがとうございました。

今週も、ネバー・ギブ・アップな一週間を過ごせますように。



いかがでしたか?

なかなか面白い内容ですね。

「小悪魔タイプ」の女性の正体とは・・なんて 興味ありますねぇ

ネバー・ギブ・アップな一週間を 頑張っちゃいましょう。

野田首相の増税路線を警戒する市場

2011-08-31 11:03:35 | 石平チャイナ・政治・経済
   
[HRPニュースファイル]より
http://www.hr-party.jp/new/2011/10179.html

野田首相の増税路線を警戒する市場
2011年8月31日


2009年の「政権交代」から早くも三人目の総理大臣として、野田佳彦氏が指名されました。
野田氏は、直前まで財務大臣だったことも強く影響しており、外国為替市場からは「財政再建至上主義者」とも揶揄されております。

同じ金融市場でも、債券市場と外国為替市場では、新総理に対する評価が分かれています。
例えば、債券市場では、野田首相の財政再建路線への安心感が評価されており、今後は国債などへの投資が増えると予測されています。一方、外国為替市場では、増税による景気悪化への懸念から、相場は「先安観」が強いと判断されています。言い換えれば、野田首相の経済政策では、先々株式相場が上昇する可能性は低いと判断されているわけです。

その証拠に、野田首相誕生に併行して、株式市場は8月19日以来、約2週間ぶりに8900円台を記録しても、「ご祝儀相場ではなく、アメリカ株式市場が急伸したため」と見る投資家もいるほどです。

さて、上記の記述から分かる通り、幸福実現党の見方は株式市場に近いと言えましょう。
既に、ついき党首による声明文で触れていますが、わが党は野田氏の増税路線を批判しています。
理由は簡単で、デフレと不況が深刻化している際の増税は、家計の消費と企業の投資を冷え込ませるからです。
その結果、日本経済全体で不況が深刻化する可能性が高く、税収が伸びる見通しは低くなります。経済政策的には、海江田万里氏が主張した金融緩和の方が正しく、日銀の国債直接引受まで含めた対策を打てば、行き過ぎた円高対策にもなります。

大手証券からは、売り上げが増えない中での増税は、円高メリットを受けている業者をはじめとした幅広い銘柄にまで悪影響が出ると予測しています。この見方は実に正しいと思われます。復興増税を行えば、被災地の東北以外にも増税負担が及ぶ論理と同じで、増税による影響は、日本経済全体に及びます。短期的な財源確保としての増税は、復興を遅らせるだけではなく、日本経済まで萎縮させる愚行なのです。

このまま、野田首相が財務省の振り付けどおりの政策を実行すれば、デフレと円高の解決は遠くなることを意味しています。

経済に暗い総理が三代も続くことは、日本経済にとっては極めて深刻です。

国民を豊かにし、増税なき財政再建と経済成長を目指す政治家が求められているなか、現在の日本は真逆の選択をしています。一部を除き、マスコミも増税を支持する論調が強いのも問題です。そのため、国民の皆様が「増税やむなし」という意見に反映されています。このままでは、日本経済は貧しくなることを自ら選択しているようなもので、誠に奇異な行動をとっていると言わざるを得ません。

幸福実現党は、安易な増税路線を批判し、デフレ不況と円高、そして復興を見据えた大胆な財政金融政策を訴え続けて参ります。
そして、「まだまだ日本の繁栄は揺るがない」という信念でもって、政治活動を展開していく所存です。
(文責:中野雄太)


『21世紀の ウォーターゲートか?』 ヘラトリ・トピックス(第28号)

2011-08-31 10:43:05 | ご講話・ヘラトリ・リバティ 


『世界の目を醒ますヘラトリ・トピックス』(第28号)


『21世紀の ウォーターゲートか?』

(本稿の英訳は、ヘラトリ・トピックス英語版ブログ
http://heratri-topics.blogspot.com/ に掲載されています。
また、本号(第28号)の英語版の配信をご希望の方は、巻末の北海道正心館アドレスまでお申し出ください。)

 いよいよ、来たる9/10(土)、待ちに待った御法話、『ネバダ州米軍基地エリア51の遠隔透視に挑戦する~果たして宇宙人は地球に実在するか~』が、幸福の科学の全国の精舎で開示されます。

本御法話の持つ、圧倒的迫力の新論点の数々には、興味が尽きませんが、今日は、そのうちの最大論点の一つについて、予告編を流しておきたいと思います。それが、冒頭のタイトルの趣旨でもあります。
(可能であれば、9/10までに、もう一つの論点について、予告編を流す予定です。)

 本御法話は、大川隆法総裁が、公開の場で、アメリカのネバダ州にあるエリア51基地の地下の様子を遠隔透視して、その様子を語ったものです。
エリア51の地下基地については、これまでにも、「回収されたUFOの研究が行われている」「宇宙人とアメリカ軍が共同で、様々な研究・実験をしている」などの噂が絶えませんでした。

これらの当否について、御法話の中で何と語られているかについては、ここでは述べません。
ただし、一点、確実に言えることは、「この御法話は、すべての日本人に聴いていただきたい内容を含んでいることは勿論であるが、何よりもまず、次期アメリカ大統領選挙の選挙権を有する有権者(つまり合衆国国民)にこそ、聴いていただきたい内容である」
ということです。


来年の大統領選挙を直接のターゲットとして 事前に一点断っておくと、御法話のタイトルにある「遠隔透視」という言葉を、軽く受け取らないでほしいと思います。

アメリカの超能力捜査官や旧ソ連の特殊スパイが持っていた能力とは、次元が違うからです。
仏教に詳しい方はご存じですが、悟りを開いた仏陀が、"仏陀の証明"として持つ「六大神通力」の一つが、今回の『遠隔透視』となってあらわれています。霊体が肉体を抜け出して、自由自在にあらゆる場所を見分して回ることができることを言います。
つまり、覚者の悟りに付随する能力であることを銘記しておいて頂きたいのですね。

 さて、「ウォーターゲート事件」とは、ご存じのとおり、アメリカのニクソン元大統領が政敵の民主党本部に対する盗聴などに関与していたとして、辞任に追い込まれた事件です。
もし、本御法話の中で明らかにされたことが事実であるとすれば、~そして私はそれが事実であることを信じる者ですが~、これは、「かつてのウォーターゲート事件に匹敵する内容を含んでいる」と言うことができるでしょう。

もちろん、「オバマ現大統領が、そのようなことに関与している」などと言っているのではありません。オバマ氏が、そのようなことをするタイプの大統領でないことは、誰の目にも明らかでしょう。(「事柄の方向はむしろ逆だ」と言うことができます。)

 今回は予告編なので、間接的な表現を採っていますが、そこで起きている出来事は、2012年の大統領選挙を直接の対象とし、それに直結しています。
 民主主義をこよなく愛する一人の地球市民として、これは、私の眼には、「アメリカの民主主義に対する重大な挑戦」のように見えます。

アメリカの宇宙人問題は、とかく、「統治の正当性」との関連で論じられてきました。(難しい表現をしていますが、要は、「大統領や議会の全く知らないところで、国民に重大な影響を与える意思決定が行われてきた」ということです。)

私は、そのことを声高に主張して関係者を非難する方々とは、必ずしも同じスタンスに立っているわけではありません。しかし、少なくとも、次期合衆国大統領を選ぶ人達が、エリア51の地下基地で行われていることを知らないとしたら、「正しい判断が出来ず、民主主義の根底が切り崩されている(undermine)のではないか」と危惧している者です。

もちろん、アメリカ軍には、「中国の軍事力の増強による現実的脅威への対処」という切実な悩みが、背景にはあるのであろう、ということは理解できます。
しかし、「どこまでが正しいことで、どこから先が間違っているのか」を判断するのは、最終的には有権者であるべきだと私は思うのです。
本御法話が、「アメリカと人類の正しい未来の選択」に寄与することを期待してやみません。

●お問い合わせ・ご予約などは、電話・FAX、またはこちらのアドレスhokkaido@sj.irh.jpまでお送りください。
●メール配信をご希望の方は、「メル友希望、お名前、支部名、会員番号」をご記入の上、hokkaido@sj.irh.jpまでメールをお送りください。

北海道正心館
Tel:011-640-7577
Fax:011-640-7578

ブラックホール 銀河を揺るがす謎の天体  

2011-08-30 11:06:19 | 本の話・素敵な話

幸福実現党ニュース

[HRPニュースファイル] 日本の実験棟「きぼう」ブラックホールに星が吸い込まれる
瞬間を初めて観測
2011年8月29日


国際宇宙ステーションに設置されている日本の実験棟「きぼう」の観測装置が、地球から39億光年離れたブラックホールに星が吸い込まれる瞬間を世界で初めて観測しました。快挙です!

国際宇宙ステーションの日本の実験棟「きぼう」には、様々な天体から出されるエックス線を観測する装置が搭載されていて、今年3月28日、地球から39億光年離れた銀河の中心にある、ふだんは暗い天体から強いエックス線が出ている画像の撮影に成功しました。

同じ現象はNASAの観測衛星でも捉えられ、双方の観測結果を日本とNASAの研究チームが共同で解析した結果、この強いエックス線の画像はブラックホールに星が吸い込まれた瞬間を捉えたものであることが分かりました。

ブラックホールは太陽の100万倍以上の重さがあるため、重力が大きく、近くに来た星を吸い込んでしまいます。(下の映像は、ブラックホールに太陽と同じくらいの恒星が吸い込まれる瞬間をシミュレーションしたもの)

NASAと並んで世界の最先端を走る、日本の宇宙開発。宇宙時代を切り拓くためにも、宇宙開発にはより一層力を入れるべきでしょう。(文責・小島一郎)





















まだまだ つづく ・・ 様子

.「朝日」を操る“魔物”の正体

2011-08-29 17:53:47 | ご講話・ヘラトリ・リバティ 
   
「朝日」を操る“魔物”の正体
http://www.the-liberty.com/article.php?item_id=2702

2011.08.28

リバティWEBより 転載

2011年10月号記事


──戦後憲法学の泰斗・宮沢俊義霊は何を目指す?


なぜ朝日系メディアは民主党を徹底して支援するのか。その背後にある霊的存在が大川隆法・幸福の科学総裁のリーディングで明らかになった。「朝日や岩波は、私が指導し、『守護神』として守っているからな」と語るその霊は、戦後憲法学の泰斗だった。

 菅直人首相がようやく退陣することになったが、民主党政権は連立の形であれ、続くことになる。

 09年の衆院選で民主党政権を誕生させるのに大きな力を発揮したのが朝日新聞をはじめとする「左翼メディア」とされる。その蜜月ぶりは今も続いており、菅首相が「脱原発依存」を表明する7月13日の朝刊で朝日新聞は「提言 原発ゼロ社会」と題した社説特集を掲載。また8月初めに週刊朝日が菅首相に対する異例の単独インタビューを載せた。

 なぜこれほどまでに朝日系メディアは、民主党とガッチリ手を握るのか。


「朝日」をあの世から導く戦後憲法学の祖
 その“深層”が、このほど発刊された大川隆法著『現代の法難(4) 朝日ジャーナリズムの「守護神」に迫る』で明らかになった。

 詳細は同書を読んでいただきたいが、朝日新聞や週刊朝日の幹部にあの世から影響を与えている霊を大川隆法・幸福の科学グループ創始者兼総裁が呼び出したところ、戦後憲法学の祖である宮沢俊義・東京大学名誉教授(写真)の霊が現れたのだ。

 宮沢氏は、戦前から戦後にかけて東大法学部憲法担当教授を務めた。占領下では「八月革命説」を唱え、連合国軍総司令部(GHQ)が作った憲法の正当性を擁護した人物だ。

 宮沢氏の霊は現憲法について、「指一本触れてほしくないのよ」「民主党政権が続くかぎり、憲法改正はありえないんだよ」「憲法を護るためには、民主党を守らなきゃいけないんだよ」などと力説した。

 さらには「『私の憲法学が間違っていた』というようなことは、歴史上、許されない判定です」と、解釈変更も許さないと強調した。

 では、宮沢氏の戦後憲法の解釈とはどういうものなのか。


180度変節しGHQ憲法を擁護
「八月革命説」で宮沢氏は、米国などが日本に降伏を求めた「ポツダム宣言」受諾によって、天皇から国民に主権が移る革命が起きたと主張した。同宣言は「日本国民の意思によって政治のあり方を決められる」という趣旨を述べており、主権者の国民が新憲法を制定したから、GHQの強制ではないというわけだ。

 もともと宮沢氏は1945年の終戦直後、「明治憲法のままでいい」という立場だった。それが翌46年2月、明治憲法を全面的に書き換えるGHQ作成の憲法草案が日本側に示されると、同年4月、「八月革命説」を発表し、GHQの強力な代弁者となった。つまり180度の変節を見せたのだ。

 憲法学者や法学者で、宮沢氏に同調しなかった人たちも多かった。当時、枢密顧問官だった宮沢氏の恩師、美濃部達吉氏は枢密院での憲法改正案の採決の際、反対票を投じた。枢密院議長だった憲法学者の清水澄氏は新憲法施行後の47年9月、熱海で投身し、帝国憲法に殉じた。

 宮沢氏の態度の急変について、米国の占領政策を研究した文芸評論家の江藤淳氏は、「一つの人格が崩壊して別の人格が誕生した」とまで書いている(注1)。おそらくは「公職追放になるぞ」というようなGHQからの“圧力”に屈したということなのだろう。


「神々を政治から追放する」
 ただ問題は、東大法学部憲法講座の教授の変節は戦後、深刻な影響を及ぼしたことにある。

 宮沢氏は八月革命説を華々しく打ち出した雑誌「世界文化」46年5月号で、こう述べている。

「日本の政治は神から解放された。あるいは神が―というよりは神々が―日本の政治から追放せられたといってもよかろう」

 同氏が書いた憲法テキストではこうも述べた。

「神勅主権を否定するとは、つまり、政治から神々を追放することであり、政治を宗教から独立させることである」(注2)

 神勅主権とは戦前の「天皇主権」で、天皇をトップとする国家神道を追放したということを宮沢氏は言っている。

 しかし“ターゲット”は国家神道にとどまらない。

「宗教は、公権力とまったく無縁であり、純然たる『わたくしごと』とされる」(注3)

 憲法20条3項の政教分離規定(注4)も含めた解釈だが、宮沢氏は国家神道だけでなく、宗教全般を国家から完全に“絶縁”させなければならないと、主張したのだ。

 さらには、国家が宗教全般を優遇することは、無宗教の人たちを抑圧するとまで述べている(注5)。つまり、「無神論者、唯物論者の権利を積極的に守らなければならない」という考え方を戦後憲法学の中に打ち立てたことになる。


戦後無神論の風潮の出発点が宮沢氏
 宮沢氏は「政治から神々を追放した」だけでなく、人権の解釈からも神を追い出した。

「今日多くの国では、もはや特に神や、自然法をもち出す必要はなく、『人間性』とか、『人間の尊厳』とかによってそれを根拠づけることでじゅうぶんだと考えている」(注5)

 1779年のアメリカ独立宣言に見られるように、人間の権利は、「造物主によって与えられた奪いがたい天賦の権利」であることが世界的な常識だ。それを「神は必要ない。人間が人間であるから尊い」と切って捨てている。

「神々の追放」の結果、戦後、公立学校では宗教に基本的に一切触れないようになった。行政も宗教との関わりを断ってきたため、東日本大震災の被災地では、自治体の施設や行事では、僧侶ら宗教者による慰霊・鎮魂が行えない異常な事態が起こっている。

「国の機関」でもないのに、新聞やテレビは宗教を肯定的には取り上げない暗黙の了解がある。

 これらが国民の無神論・唯物論の傾向を助長しているわけだが、その出発点は、宮沢氏の1946年の変節にあったのだ。


「憲法は宗教に代わる戦後日本の基本教義」
 宮沢氏の憲法解釈の特徴としてもう一つ、徹底した平和主義がある。

「八月革命説」を発表したほぼ同じ時期、月刊誌の論文で「日本は丸裸になって出直すべき」と書いた。日本は真の平和国家の理想を追求し、「永久に全く軍備を持たぬ国家として立っていくのだという大方針を確立する覚悟が必要」だというのだ(注6)。

 こうした宮沢氏の学説は、東大法学部憲法講座の担当教授に受け継がれていった。

 宮沢氏の一番弟子は芦部信喜東大名誉教授。同氏が著した『憲法』(岩波書店)は、司法試験や公務員試験の受験者は必ず勉強する基本テキストだ。

 この中で芦部氏は「八月革命説」を支持し、人権の根拠も宮沢説を継承し、平和主義についても他国に「比類のない徹底した戦争否定の態度を打ち出している」と評価した。

 政教分離については、「国家と宗教とのかかわり合いを一切排除するものと考えるのは適当ではない」としつつも、宮沢氏の「政治からの神々の追放」の枠組みは忠実に守っている。

 全国の多くの大学の憲法学教授は、東大法学部出身者が占め、宮沢氏や芦部氏の学説が通説として大学で教えられている。裁判官や検察官、弁護士、国家公務員、地方公務員は、宮沢氏や芦部氏の憲法テキストを丁寧に学び、その枠内で司法判断や行政が執り行われる。マスコミ人の判断もそれに準じている。

 この結果が、公の場から宗教を追い出し、日本は非武装の「丸裸」でやっていくべきだと考える風潮を生み出している。

『現代の法難(4) 朝日ジャーナリズムの「守護神」に迫る』で、宮沢氏の霊は、「憲法ははっきり言って、もう、宗教に代わるものなんだ。戦後、日本国の基本教義は、憲法なんだよ」「実は、本当の御本尊は私なんだよ。ええ。私が御本尊です」と語った。そう言うだけの“実績”を残したことは間違いない。


宮沢俊義霊が目指す中国による日本の属国化
 一方で宮沢霊は、大川隆法総裁の書籍や幸福実現党の主張、その他の発刊物が「私がつくった戦後日本の憲法民主主義体制に挑戦してきている」と、幸福の科学グループへの警戒感をあらわにした。

 大川総裁は09年6月、新・日本国憲法試案を発表した。その前文はこううたっている。

「われら日本国国民は、神仏の心を心とし、日本と地球すべての平和と発展・繁栄を目指し、神の子、仏の子としての本質を人間の尊厳の根拠と定め、ここに新・日本国憲法を制定する。」

 国民が宗教心を持ち、宗教が積極的に国家、社会影響を与えることはよいことだという立場を明確に打ち出した。

 国防に関しては、同じく憲法試案で「防衛軍の組織」を明記し、憲法改正までは9条の解釈変更で中国や北朝鮮の脅威を抑止すべきだという立場をとっている。つまり、中国や北朝鮮が、現憲法前文の言う「平和を愛する諸国民」と言えない場合、戦力不保持などをうたった憲法9条の適用を両国に対しては見送るという考え方だ。

 これらは、ことごとく宮沢憲法学の根幹を突き崩すもので、戦後憲法体制の変革を迫っている。

 宮沢霊は、日本の首相が選ばれたら、北京政府から「日本国国王を命ず」と承認してもらう冊封体制でいい、という主張だった。

 宮沢氏の霊が“指導”する朝日ジャーナリズムと、その支援を受ける民主党政権が行き着く先は、「中国による日本の属国化」ということが明らかになったのだ。

 そのことを幸福実現党は09年の立党以来主張し、本紙でも毎号訴えているが、「神々の追放」の壁の前に跳ね返されがちなのが現状だ。

 結局は、国民に「このままでは日本は中国の支配の下に入る」ことを気づいてもらうかどうかにかかっている。本誌として、その努力を続けるしか道はない。 (本誌編集長 綾織次郎)


(注1)『占領史録3』(講談社学術文庫)巻末の解説。(注2)宮沢俊義著『憲法』(有斐閣全書)
(注3)宮沢俊義著『憲法講話』(岩波新書)
(注4)「国及びその機関は、宗教教育その他のいかなる宗教活動もしてはならない」(注5)宮沢俊義著『憲法Ⅱ』(有斐閣)

「朝日」を操る“魔物”の正体
http://www.the-liberty.com/article.php?item_id=2702
より転載

『How to spread this truth』  小林早賢館長からのメッセージ

2011-08-28 11:22:56 | ご講話・ヘラトリ・リバティ 
   
小林早賢館長からのメッセージです。


 9/3(土)より開示となる英語御説法、
『How to spread this truth』(この真理を如何に広げるか)

で説かれた重要論点三つのうち、最初に出てくるのがこのテーマであることは、ご存じの方も多いと思います。
 これは実は、我々日本人信者に重大な反省を迫る、非常に重要な内容を含んでいます。
海外の国と比べて、遅々として伝道が進まない理由として、「戦後日本が無神論国家になったから…」であるとか、「他の国に比べてマスコミの洗脳が強いので…」等々を、無意識のうちに心の中で並べて、ホンネでは、「外国のようなわけにはいかないよ…」
と思っている(かもしれない)我々に対して、
「本当にそうなのか?  真の原因は、自分の内側にあるのではないのか?」
ということを、厳しく問いかけてくる御法話であるからです。

「日本人は(つまり日本人信者は)、自分の意見を鮮明にしようとはしない。
それは、外国人に比べて、互いに頼り合って生きている傾向が、非常に強いからだ。
だから、自分の意見を鮮明にして、人間関係で葛藤(かっとう)が生まれたり、悪口を言われることを極度に恐れる。
それが、信仰告白がなかなか出来ず、伝道の言葉にも、なかなか説得力が出てこない本当の理由なのだ」

「しかし、自分の意見(信条)を明言できない人は、外国人の視点から見ると、"精神的に自立していない" とみなされる。
だから、自分が大人の(つまり成熟した)人間であることを証明するために、彼らは、こぞって、自分の方から、自らの意見を表明しようとする」
「そして、「精神的に自立していない」(人の意見、周りの意見に左右される)
というのは、実は、自らの精神世界において、

「本物の中心棒である十分な信仰が、実は立っていない」
ということを意味しているのだよ」 と。

「調和を重んじ、周囲に合わせる」ことは、先の東日本大震災でも、"日本人の美徳"であると言われてきました。
しかし、度を過ぎたその態度が、「伝道が進まないことの隠れ蓑(みの)」 になっているとしたら、我々は、根本的に考え方を改めないといけないと思います。

「伝道において、本当の意味で言い訳を排する」
とは、一体どういうことなのか。
この日は、皆様と共に、このテーマを真剣に考えてみたいと思います。
多くの方のご参加を、心よりお待ちしています。

[追伸]
昨日(8/27)の七の日講話
「ドラッカーと渋沢栄一」
では、生前の渋沢栄一の箴言(しんげん)の中から七つの言葉を選んで、それについての講話をしましたが、今日は、ご参考までに、そのうちの四つの言葉を、ここで紹介しておきたいと思います。

「真の智者は、「動」の中にあって、おのずから「静」があり、
真の仁者は、「静」の中にあって、おのずから「動」がある。」

「多くの葉を摘まんと思えば、
その枝を繁茂(はんも)させなければならない。
そして、その枝を繁茂させようと思えば、
その根を培養せねばならない。」

「実業においては、
軍事上の事務のように一々上官の命令を待っているようでは、
とかく好機を逸しやすい。」

「物事を悲観的に見るということは、
実は、他人に対して残酷になれる、
ということでもあるのだ。」



以上 でございます

「敵兵を救助せよ」

2011-08-28 06:47:20 | 本の話・素敵な話
工藤俊作・駆逐艦「雷」艦長  「敵兵を救助せよ」
「海の武士道」恵隆之介 著 より


あらすじ
 平成十五年十月十九日、日本の土を初めて踏んだ一人の元英国海軍士官がいた。

元海軍中尉サミュエル・フォール卿。

 フォール卿は、戦後、外交官として活躍。その功績によってサーの称号を受けている。外交官を定年退職後、一九九六年に自伝「マイ・ラッキー・ライフ」を上梓した際、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。
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 大東亜戦争の開戦劈頭、一九四二年二月二七日から三月一日にかけて、ジャワ島北方のスラバヤ沖で日本艦隊と英米蘭の連合艦隊が激。日本艦隊は三月一日までに、十五隻中一一隻を撃沈し勝利した。

 三月一日にスラバヤ沖で撃沈された英海軍の巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」の乗組員四百数十名は二日に渡って漂流を続け、生存の限界に達していた。このとき、偶然この海域を航行していたのが日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」である。


 当時、英国海軍中尉だったフォール卿は、「日本人は非情」という先入観を持っていたため、機銃掃射を受けていよいよ最期を迎えるものと覚悟した。
 しかし、駆逐艦「雷」は即座に「救助活動中」の国際信号旗を掲げ、漂流者全員422名を救助したのである。艦長・工藤俊作中佐は、英国海軍士官全員を前甲板に集め、英語で、「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」と健闘を称え全員に友軍以上の丁重な処遇を施した。
 戦闘行動中の艦艇が、敵潜水艦の魚雷攻撃をいつ受けるかも知れない危険な海域で、自艦の乗組員の二倍の敵将兵を救助したのだった。もちろん艦長の英断であった。
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 フォール卿はこの艦長への恩が忘れられず、戦後その消息を捜し続けてきた。しかし、昭和六二年、工藤中佐が八年前に他界していた事を知ると、自身の齢もすでに八十四歳を数えることもあり、意を決し「人生の締めくくり」として来日したのである。
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 フォール卿の来日を知った外務省や海上幕僚部は、海上自衛隊最精鋭の艦隊である第一護衛隊群に所属する四代目「いかづち」に卿を招いた。
 フォール卿は迎えいられた「いかずち」の士官室にて戦時中を振り返り、「自分や、戦友の命を救ってくれた『雷』艦長御遺族を始め、関係者に会ってお礼が言いたい。できれば工藤中佐の墓前に自分が著した書を捧げたい」と語る。

 フォール卿の来日の目的は、かなうことなら艦長の墓参をし、遺族に感謝の意を表明したいという積年の思いを遂げることであった。ところが、来日してみたもののその願いはかなえられず、フォール卿は恵氏に艦長の墓と遺族を探し出すことを依頼して帰国する。
  一九九八年四月二九日英タイムズ紙に、フォール卿が投稿し掲載された一文がある。それは翌月に天皇の英国訪問が予定されている時期であり、、それに対してかつて日本軍の捕虜となった退役軍人たちが中心となり反対運動が起きていた。捕虜として受けた処遇への恨みが原因であった。

 しかし、「元日本軍の捕虜として、私は旧敵となぜ和解することに関心を抱いているのか、説明申し上げたい」と前置きして、自身の体験を語ったこのフォール卿の投稿は、それ以後の日本批判の言説の数々を、全く精彩を欠くものとすることになった。
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 米海軍機関紙「プロシーデングス」昭和六二年新年号にも、フォール卿は「騎士道(Chiv-alry)として工藤艦長の行動を執筆した論文を七ページにわたって掲載し、米海軍軍人をも驚嘆させている。
 さらに 平成四年、スラバヤ沖海戦五〇周年記念式典がジャカルタで行われ、その式典にてフォール卿は記念講演を行った。ここでも工藤中佐の功績を称え、「日本武士道の実践」と強調した。会場からは、万雷の拍手とスタンディングオベーションが起こったという。
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■工藤艦長の生い立ち

 工藤俊作は、明治三十四年一月七日、山形県東置賜郡屋台村竹森、現在の高畠町大字竹森で父七次三十三歳(大正十一年、七郎兵衛襲名)、母きん二十九歳の次男として生まれた。

 工藤俊作は明治四十一年四月に屋代尋常小学校に入学。明治四十三年四月十五日に佐久間艇長乗り組む第六潜水艇の事故があり、当時屋代尋常小学校では、佐久間艇長の話を朝礼で全校生徒に伝え、責任感の重要性を強調し、呉軍港に向かって全校生徒が最敬礼した。
  工藤はこの朝礼の直後、担任の先生に「平民でも海軍仕官になれますか」と尋ねている。先生は「なれる」と言い、米沢興譲館中学への進学を勧めた。 この時代、小学校の身上書には「士族」か「平民」かを記載する欄が設けられていた。

 工藤は、三学年後半から、猛然と勉強するようになり、屋代尋常小学校創立以来の高得点を維持し続け「神童」と称されるほどになっていた。そして、工藤は米沢興譲館中学に大正四年四月七日に合格順位三位で入学した。

 明治に入り米沢興譲館中学は山形県立米沢中学校となり、米沢士族の間ではステイタス・シンボル的な学校であった。工藤は五年間、現在の上新田にあった親類の家に下宿して、約三キロの道のりを徒歩で通学した。当時、一流中学校の成績抜群で体力のすぐれた者が志すのは、きまって海軍兵学校への受験。次が陸軍仕官学校、それから旧制高等学校、ついで大学予科、専門学校の順であった。

 日本の兵学校の凄さは、欧州のそれが貴族の子弟しか入校できなかったのに比べて、学力と体力さへあれば、誰でも入校できたことである。しかも、入学資格は、中学四年終了程度とされていたが、戦前義務教育課程であった高等小学校しか出ていなくとも(現在の中学校卒業相当)、専検に合格さえすれば受験できた。 その所在地より英国のダートマス、米国のアナポリス、日本の江田島、これらは戦前世界三大海軍兵学校の代名詞とされていた。
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■海軍の教育方針

 工藤俊作は海軍兵学校五一期として大正九年に入校する。この時代は八八艦隊構想により、入学人員の大幅な増員により二九三名だった。


 海軍は徴兵制の戦前においても、一水兵に至まで志願制で、海軍独特のリベラリズムの気風があった。とくに海軍兵学校は「士官たる前に紳士たれ」とされ昭和二十年十月に閉校するまで継承されたライフスタイルは、長髪をゆるされ、英国流で洗練されていた。

 鈴木貫太郎中将(海兵一四期)が校長として赴任し、約半年の十一月末までであるが工藤たち五一期はその影響を強く受けていくこととなる。

 海軍兵学校校長に着任した鈴木は、大正八年十二月二日、兵学校の従来の教育方針を大改新を敢行する。

・鉄拳制裁の禁止
・歴史および哲学教育強化
・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)

 工藤ら五一期生は、この教えを忠実に守り、鉄拳制裁を一切行わなかったばかりか、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導していた。

 鈴木中将は 明治天皇が、水師営の会見の際「敵将ステッセルに武士の名誉を保たせよ」と御諚され、ステッセル以下列席した敵軍将校の帯剣が許されたことを生徒に語っている。

 昭和一九年夏、海軍兵学校を訪ねた鈴木は、時の井上成美校長に「井上君、兵学校教育の本当の効果があらわれるのは、君、二十年後だよ、いいか、二十年後だよ」と繰り返し言っている。
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■工藤俊作「雷」艦長に着任

工藤俊作は駆逐艦「雷」の艦長として、昭和十五年十一月一日として着任する。工藤は駆逐艦艦長としてはまったくの型破りで、乗組員たちはたちまち魅了されていった。

 着任の訓示も、「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する」というものだった。乗組員たちは、当初工藤をいわゆる「軟弱」ではないかと疑ったが、工藤は決断力があり、当時官僚化していた海軍でも上に媚びへつらうことを一切しなかった。

 また、工藤は酒豪で、何かにつけて宴会を催し、仕官兵の区別なく酒を酌み交わした。好物は魚の光り物(サンマ、イワシ等)で、仕官室の食堂にはめったにでないので、兵員食堂で光り物が出る時、伝令のと自分のエビや肉と交換したり、自ら兵員食堂まで仕官室の皿を持って行って「誰か交換せんか」と言ったりもした。

 工藤は日頃士官や先任下士官に、「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」と口癖のように言っていた。 見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めた。 このため、見張りはどんな微細な異変についても先を争って艦長に報告していたという。

二ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは、工藤を慈父のように慕い、「オラが艦長は」と自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになっていった。艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していった。
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■駆逐艦「雷」

 「特型駆逐艦」または「吹雪型」と称される大正十二年度の建艦計画で設計され、大正十五年から昭和八年まで二四隻が就航した、日本海軍建艦史の中で最多のシリーズである。
「雷」は特型・型、二三番艦として造られた。
基本排水量一六八〇トン 全長・全幅一一八・五メートル 一〇・三六メートル
速力三八ノット 機関艦本式タービン二基二軸
主要兵装 一二センチ砲六門 一三ミリ機銃二挺 六一センチ魚雷発射管九門、魚雷一八本
(「日本海軍総覧」新人物往来社 一九九四年刊より)
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日本海軍の武士道精神

昭和一六年一二月八日に大東亜戦争開戦。その大東亜戦争開戦の二日後、昭和一六年一二月一〇日、日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の「不沈艦プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈した。英国の駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助を始めたが、日本の航空隊は救助活動にはいると一切妨害せず、それどころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送った。さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰港する際にも、日本軍は上空から視認していたが、一切攻撃をしなかった。
 
  こうした日本海軍の武士道は、英国海軍の将兵を感動させた。工藤の敵兵救助とは、こうした武士道の表れであり、決して、例外的な行為だったわけではない。
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■敵兵を救助せよ!

  英国駆逐艦「エンカウンター」は日本艦隊の追撃を受け、撃沈された。この時、二〇歳の砲術士官だったフォール卿は、こう証言している。

「艦長とモーターボートに乗って脱出しました。その直後、小さな砲弾が着弾してボートは壊れました。・・・この直後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。」「間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けました。固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っていきました。」

 この時期には、米蘭の多くの潜水艦がジャワ海で行動しており、わが国の艦艇も犠牲になっていた。三月一日には、この海域で輸送船「加茂川丸」が敵潜水艦の攻撃を受け沈没。船長であった工藤の兵学校時代の教官であった清水巌大佐(海兵三九期)が船と運命を共にしている。戦闘詳報には二月二七日から三月一日にかけて、ジャワ海で「敵潜水艦合計七隻撃沈」の報告もなされている。それほど危険な海域なのである。敵の攻撃をいつ受けるか分からない状況では、国際法上は、海上遭難者を放置しても違法ではない。「エンカウンター」の乗組員たちは、約二一時間も漂流し、「エクゼター」の場合と異なり、沈没艦から流出した重油の海につかり、多くの者が一時的に目が見えなくなる。

「救命浮舟に五、六人で掴まり、首から上を出していました。見渡す限り海また海で、救命艇も見えず、陸岸から一五〇海里も離れ、食糧も飲料水もない有り様でした。この時、ジャワ海にはすでに一隻の連合軍艦船も存在せず、しかも日本側はわれわれを放置してしまうという絶望的な情況に置かれていました。」

「私は、オランダの飛行艇がきっと救助に来てくれるだろうと盲信しておりました。ところが一夜を明かし、夜明け前になると精気が減退し、沈鬱な気分になっていきました。死後を想い、その時には優しかった祖父に会えることをひそかに願うようになっていたのです」

「一九四二年三月二日の黎明を迎えました。われわれは赤道近くにいたため、日が昇りはじめるとまた猛暑の中にいました。 仲間の一人が遂に耐えられなくなって、軍医長に、自殺のための劇薬を要求し始めました。軍医長はこの時、全員を死に至らしめてまだ余りある程の劇薬を携行しておりました」

 このような情況の中、そこに偶然、通りかかったのが、駆逐艦「雷」だった。二番見張りと四番見張りからそれぞれ、「浮遊物は漂流中の敵将兵らしき」「漂流者四〇〇以上」と次々に報告がはいる。工藤艦長は「潜望鏡は見えないか」と見張りと探信員に再確認を指示し、敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、午後一〇時頃「救助!」と命じた。

「午前一〇時(正確には午前一〇時一〇分頃とおもわれる)、突然二〇〇ヤード(約180メートル)のところに日本の駆逐艦が現れました。当初私は、幻ではないかと思い、わが目を疑いました。そして銃撃を受けるのではないかという恐怖を覚えたのです」

「雷」は直ちに、「救難活動中」の国際信号旗をマストに掲げ、第三艦隊司令部高橋伊望中将宛てに「我、タダ今ヨリ、敵漂流将兵多数ヲ救助スル」と無電で発した。敵潜水艦に攻撃されるおそれのある中での救助である。それも、その救助する対象は敵将兵である。
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■工藤艦長 決断す!


ここで工藤は、日本海軍史上極めて異例の号令をかける。

「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」

 工藤は先任将校(浅野市郎大尉海兵六三期当時二九歳)に救助全般指揮をとらせ、航海長(谷川清澄中尉二五歳)に後甲板を、砲術長(田上俊三中尉二四歳)に中甲板における救助の指揮をとらせた。

 佐々木確治一等水兵(当時21歳)が回想する。

「筏が艦側に近づいてきたので『上がれ!』と怒鳴り、縄梯子を出しましたが、誰も上がろうとしません。敵側から、ロープ送れの手信号があったのでそうしましたら、筏上のビヤ樽のような高級将校(中佐)にそれを巻き付け、この人を上げてくれの手信号を送ってきました。五人がかりで苦労して上げましたら、この人は『エクゼター』副長で、怪我をしておりました。それから、『エクゼター』艦長、『エンカウンター』艦長が上がってきました。 その後敵兵はわれ先に『雷』に殺到してきました。一時パニック状態になったが、ライフジャケットをつけた英海軍の青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然となりました。この人は、独力で上がれない者には、われわれが差し出したロープを手繰り寄せて、負傷者の身体に巻き、そして、引けの合図を送り、多くの者を救助をしておりました。『さすが、イギリス海軍士官』と、思いました」

「彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。艦に上がってきた順序は、最初が『エクゼター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿が青年士官という順でした。当初『雷』は自分で上がれる者を先にあげ、重傷者はあとで救助しようとしたんですが、彼らは頑として応じなかったのです。その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』の乗組員として、カッターで沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、この光景と対象的な情景を目にしました」

浮遊木材にしがみついていた重傷者が、最後の力を振り絞って「雷」の舷側に泳ぎ着いて、「雷」の乗組員が支える竹竿に触れるや、安堵したのか、ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。甲板上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」と呼びかける。この光景を見かねて、二番砲塔の斉藤光一等水兵(秋田出身)が、独断で海中に飛び込み、続いて二人がまた飛び込んだ。立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻き付けた。

 艦橋からこの情景を見ていた工藤は決断する。

「先人将校!重傷者は、内火艇で艦尾左舷に誘導して、デリック(弾薬移送用)を使って網で後甲板に釣り上げろ!」

 この期に及んで敵も味方もなかった。まして海軍軍人というのは、敵と戦う以前に、日頃狭い艦内で昼夜大自然と戦っている。この思いから、国籍を超えた独特の同胞意識が芽生えたのであろう。甲板上には負傷した英兵が横たわり、「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいた。一方、甲板上の英国将兵に早速水と食糧が配られたが、ほとんどの者が水をがぶ飲みした。救助されたという安堵も加わって、その消費量は三トンにものぼった。便意を催す者も続出した。工藤は先任下士官に命じて、右舷舷側に長さ四メートルの張り出し便所を着工させた。
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■今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである

 「私は当初、日本人というのは、野蛮で非人情、あたかもアッチラ部族かジンギスハンのようだと思っていました。『雷』を発見した時、機銃掃射を受けていよいよ最後を迎えるかとさえ思っていました。ところが、『雷』の砲は一切自分達に向けられず、救助艇が降ろされ、救助活動に入ったのです」

「駆逐艦の甲板上では大騒ぎが起こっていました。水平たちは舷側から縄梯子を次々と降ろし、微笑を浮かべ、白い防暑服とカーキ色の服を着けた小柄で褐色に日焼けした乗組員がわれわれを温かくみつめてくれていたのです」

「艦に近づき、われわれは縄梯子を伝わってどうにか甲板に上がることができました。われわれは油や汚物にまみれていましたが、水兵たちは我々を取り囲み、嫌がりもせず元気づけるように物珍しげに見守っていました。それから木綿のウエスと、アルコールをもってきて我々の身体についた油を拭き取ってくれました。しっかりと、しかも優しく、それは全く思いもよらなかったことだったのです。友情あふれる歓迎でした。私は緑色のシャツ、カーキ色の半ズボンと、運動靴が支給されました。これが終わって、甲板中央の広い処に案内され、丁重に籐椅子を差し出され、熱いミルク、ビール、ビスケットの接待を受けました。私は、まさに『奇跡』が起こったと思い、これは夢でないかと、自分の手を何度もつねったのです」

フォール卿は当時の様子をそう語った。

 間もなく、救出された士官たちは、前甲板に集合を命じられた。

「すると、キャプテン(艦長)・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼をしました。われわれも遅ればせながら答礼しました。」
キャプテンは、流暢な英語でわれわれにこうスピーチされたのです。

You had fought bravely.
Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.
I respect the English Navy,but your government is foolish make war on Japan.

「諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである」

フォール卿はさらに、目を潤ませて語る。

「『雷』はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助してくれました」


 この日「雷」は422名を救助した。ちなみに、駆逐艦「雷」の乗組員は約150名である。

 この頃、我国にとってはまさに「石油の一滴は、血の一滴」といわれた時であり、また艦内の真水をつくるために造水装置も作動させるにも燃料を消費する。そのため、直接燃料を制御する機関長以下の機関科員は、絶えず燃料節約に努力し、また乗組員は真水を節約するため、洗面や飲料水にも細心の注意を心がけていた。それを、工藤艦長は、敵兵救助のために艦の停発進を繰り返して燃料を激しく消耗し、重油で汚染された敵兵を洗浄するため、アルコールやガソリンを使い、さらに真水まで使用している。

 海の中から上がった喜びも束の間、今度は赤道直下の灼熱の太陽が容赦なく敵兵を襲った。一時間も経過すると、身体の重油を落とすために使用したガソリンやアルコールが災いして、今度は彼らの身体に水泡ができた。そこで工藤艦長は全甲板に大型の天幕を張らせ、そこに負傷者を休ませた。艦が走ると風も当たり心地よい。ただ、これで全甲板の主砲は使えなくなった。
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■この光景は初めてだ・・・


 「雷」はもはや病院船となったと言っても過言ではなかった。

 「雷」の上甲板面積は約一二二二平方メートル、この約六〇%は艦橋や主砲等の上部構造物が占める。実質的に使えるスペースは、四八八平方メートル前後である。そこに、約三九〇人(約二〇人から三〇人は士官で、艦内に収容)の敵将兵と、これをケアーする「雷」の乗組員を含めると一人当りのスペースは驚く程狭いスペースしか確保できない。また、工藤艦長は敵将校たちに「雷」の士官室の使用を許可した。  

蘭印攻略部隊指揮官高橋伊望中将はこの日夕刻四時頃、「エクゼター」「エンカウンター」の両艦長を「雷」の付近を行動中の重巡「足柄」に移乗するよう命令を下した。舷門付近で見送る工藤と、両艦長はしっかりと手を握り、互いの武運長久を祈った。高橋中将は双眼鏡で、「足柄」艦橋ウイングから接近中の「雷」を見て、甲板上にひしめき合う捕虜の余りの多さに、唖然とした。

 この時、第三艦隊参謀で工藤俊作と同期の山内栄一中佐が高橋中将に、「工藤は兵学校時代からのニックネームが『大仏』であります。非常に情の深い男であります」と言い、高橋司令長官を笑わせた。高橋中将は「それにしても、物凄い光景だ。自分は海軍に入っていろいろなものを見てきたが、この光景は初めてだ」と話していたという。

 救助された英兵たちは、停泊中のオランダの病院船「オプテンノート」に引き渡された。移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、また、向きを変えてウイングに立つ工藤に敬礼して「雷」をあとにした。工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をしていた模様である。これに比べて兵のほうは気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感謝の意を表していた。

 「エグゼタ?」の副長以下重傷者は担架で移乗した。とくに工藤艦長は、負傷して横たわる「エグゼタ?」の副長を労い、艦内で療養する間、当番兵をつけて身の回りの世話をさせていた。副長も「雷」艦内で、涙をこぼしながら工藤の手を握り、感謝の意を表明していたという。
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■捕虜としての生活


その後のフォール卿の捕虜としての生活はどうなったのであろうか。

「オランダの病院船からマサッサルの捕虜収容所まで徒歩で行進しました。路上でみた住民たちはかなり親日的で、軒ごとに日章旗が掲揚されていました。それに反して、彼らは自分たちをかなり敵愾心をもって見ているようでした。

 捕虜収容所はオランダ軍の施設でした。当初は鉄条網もなく、さほどの束縛もありませんでした。土間に寝起きさせられましたが、後に、小さなベットと蚊屋が支給されました。ここには、英海軍、オランダ海軍、少数の米海軍(撃沈された潜水艦乗組員)の士官を含め兵卒もまじって収容されていました。

 ある時、オランダ海軍士官が脱走を試みました。ところが、買収したはずのインドネシア人が日本軍に通報し、それは失敗に終わったのです。これ以降、自分は英国海軍の上級士官から二度とこういう行為はするなと言われました。

 日本兵はわれわれが勉強することを許してくれました。そのため、私はこの環境を利用してオランダ語、マレー語、インドネシア語を学んだのです。このことは戦後自分の外交官活動に大変役立ちました。

 一九四二年の暮れ、ある日本人のジャーナリストが捕虜収容所を訪問し、私は取材を受けました。彼は長年の滞米経験があり、われわれに同情的でした。彼は私にインタビューし、その内容を東京放送で必ず放送すると約束してくれました。その時、私が語ったのは次のようなことでした。

 一、両親あて、私は現在日本の捕虜になっている。日本の処遇はいい。現在語学を懸命に学んでいる。

 二、恋人メレーデ(現婦人)へ、私の愛を君に送る。

 戦後になってわかったことですが、この放送はロンドンのアマチュア無線家によって受信され、両親に電話で知らされていました。 両親はすぐにこれが偽物でない事を確信しました。なぜならメレーデは、私のフィアンセの愛称だったからです。これは、当時スウェーデンにいたメレーデの兄にも伝えられました。

 その後、捕虜は分けられて、セレベスの東岸にあるパマラに移され、そこで終戦を迎え、一九四五年一〇月二九日にリバプールに帰還したのです」

 先に書いたようにフォール卿は、戦後、外交官として活躍し、定年退職後、平成八年に自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓し、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。
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■価値観の転換の中で・・・

 平成一五年一〇月、フォール卿は日本の土を踏んだ。八四歳を迎える自身の「人生の締めくくり」として、すでに他界していた工藤艦長の墓参を行い、遺族に感謝の意を表したいと願ったのである。しかし、あいにく墓も遺族も所在が分からず、フォール卿の願いは叶えられなかった。

 フォール卿から依頼を受けて、「敵兵を救助せよ」の著者・恵隆之介氏がわずか三ヶ月後に、遺族を見つけ出した。工藤俊作氏は終戦後、高畠にあったかよ夫人の実家にいて、苗木の挿し木などをして収入を得ていた。敗戦により陸海軍人に対する視点が一八〇度変わり、かっての職業軍人に戦争責任のすべてを転嫁する風潮が全国的に起こっていたのである。しかし、工藤俊作の出身地である屋代村村民は、戦前戦後の価値観の転換はなかった。

 村民は、工藤が駆逐艦艦長時代、碇泊中に郷党の兵が表敬のため舷門を訪ねると、階級にこだわることなく艦長室に招き入れ、歓待してくれたことを決して忘れなかった。とくに元海軍下士官の二階堂敬三氏(平成一二年、八一歳で死去)は、戦後、何度も感激をもって次の話を村民にしていた。

「水兵時代に『雷』を訪問し、『工藤艦長に表敬したい』と舷門にいる下士官に申告したことがあった。下士官は即座に『兵の分際で、艦長を表敬とは何事か』と怒鳴った。そこに、折良く工藤艦長が通りかかり、『二階堂君ではないか』と、艦長室に案内し、歓待してくれた」

工藤は高畠から自転車で、屋代村の兄家族を度々訪ねているが、途中、村人たちは農作業の手を止めて頭を垂れていた。

 昭和三〇年、工藤も敗戦のショックからようやく立ち直り、埼玉県川口市朝日に転居する。かよ夫人の姪が、この地で医院を開業することになり、工藤は事務を、夫人は入院患者の賄い婦としての生活が始まったのである。

 この頃になると、同期や、旧部下が、工藤の所在を探し当てて訪問するようになる。戦後まっ先に工藤を訪ねてきたのが、艦長伝令をしていた佐々木確治氏であった。その次が第一砲塔砲手の橋本衛氏であった。二人とも玄関で、「艦長、戦時中はお世話になりました」と発声するや、後は声にならずただただ、工藤に肩をたたかれて、涙を滂沱するだけであった。

 近所の人々もこの寡黙で長身の男が、かつて駆逐艦の艦長であることに気づく。少年たちは朝夕、挨拶し、工藤を畏敬するようになる。
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■晩年の工藤艦長

 工藤は海上自衛隊や、クラスが在籍する大企業からの招きも全部断わった。さらに戦後のクラス会には出席しようとしなかった。工藤の日課は、毎朝、死んでいったクラスや、部下の冥福を祈って仏前で合掌することから始まった。楽しみは、毎晩かよ夫人に注がれる晩酌と、毎月送られてくる雑誌「水交」に目を通し、先輩、後輩の消息を知ることであった。

 昭和五二年暮れ、病魔に冒される。胃ガンであった。

 昭和五四年一月一二日、七八歳の生涯を静かに閉じた。いよいよ最後という時、クラスの大井薫氏や、正木生虎氏が病室を訪ねた。付き添い中の夫人が、「大井さんと正木さんですよ」と耳元で囁いた。

「ああ大井か、正木か。貴様たちはおおいにやっているようだが、俺は独活の大木だったなあ」

と言いつつ、静かに目を閉じたという。

工藤俊作の甥・七郎兵衛氏は「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口外しなかった」と落涙した。我国海軍のサイレント・ネービーの伝統を忠実に守って、工藤中佐は己を語らず、黙々と軍人としての職務を忠実に果たして、静かにこの世を去っていったのである。

 現在、工藤中佐夫妻は川口市朝日にある薬林寺境内に眠っている



とても感動しました。

教科書問題・・

こうゆう話こそ 子供たちに伝えたいです。


失せ物が出た 奇跡がおきました

2011-08-24 13:11:42 | Weblog

我が家のできごとです。

今月の12日、亭主が請求書を切っていて

お客様から預かった、大事な権利証がないことに気がついたの。
担当者は夏期休暇に入ってしまって、休み明けに確認は遅きに失していたんですが・・

それから亭主殿 探した 探した

夜遅くから・・ 朝早くから・・ それで出てこなくて・・

もうタイムリミット。

「始末書じゃ済まない!」 ・・

それで、近くに浅間神社がありまして、朝の散歩にはぴったり・・歩いて20分くらいかな。

朝の会話

「浅間神社に行って来た」

「お願いした?」

「した」

「お賽銭は?」

「持っていかなかった」

「お賽銭あげてこなくちゃ ダメ お願いするんだもの」

それでね。 亭主、もう一度行ってきたの。

「いくらあげたの?」

「60円・・境内に入ったところで20円、その先の社務所のそばで10円、その先の・・」

「そんなに安くちゃダメ。お願いするんだもの・・
・・そうだ。 祈願した方がいい!」

「祈願なんてやってくれるのか??」

・・それでね。

今から行ってこよう・・と云うことになって、二人で歩いて行ってきました。

失せ物探しですが、社務所では「心願」・・ということで受け付けてくれました。

祈願者は、黄色い袖無し羽織を着まして、本殿に導かれ、祝詞をあげて貰いました。

「頭をお下げ下さい」と巫女さんから云われると
亭主、カエルさんくらいなお辞儀をしていた。・・真剣そのもの。

もちろん 私も 真剣にお願いいたしました。

依頼者の金融機関とお客様に詫びを入れ「始末書」で済む問題ではありません

そして休み明け、今日が限度だと思っていました。

私は、中部正心館に祈願に行ってこよう・・事務所の掃除が終わったら、そのまま車で行くばかりでした。

すると 亭主の声  ・・出てきた・・ 話し声の中に そんな言葉が聞こえた。

・・今から まさに 出かける 直前 探していた権利証が出てきたのです。 

友達が 「行こうと決心すると届くんだよ。ご指導が入ったね」 って言っていました。


これ

昨日の

「お父さん! お礼に行かなきゃ ダメだよ」

亭主殿は 「浅間神社」 で

私は 「中部正心館」 だけど

亭主を精舎に連れて行きたい・・が、私の夢。

   
追伸

昨日は、町内の地蔵尊のお祭りでして

いま パソコンを開けたら 送信していなかったので

今 送信です。


昨夜は ざんざんぶり の雨がふりました。

我が家は地蔵尊に近いので、ずらずらっっ・・と並ぶ屋台の真ん真ん中です。

我が家の前の露天は、かき氷・・揚げ物の屋台・・金魚すくい 等々

大雨で・・カミナリもゴロゴロ・・


地蔵尊に供えるお線香は 20円で買って・・

いつもは 煙 モクモク なのに 

お線香を立てる所が 池になっている

雨なのに 時々 花火も上がって ・・


音ばかり 


我が町内は財政難 


でも

お地蔵さんの花火代金は  50万円


祭りが終わると


夏も終わり です









左翼はなぜ経営できないのか・右翼はなぜ票が取れないのか

2011-08-22 23:27:17 | ご法話・心の指針
   
友人からメール頂きました。

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左翼はなぜ経営できないのか・右翼はなぜ票が取れないのか

左翼は反権力を標榜する。強い権力に対して抵抗することが正義と考えている。権力者を倒してその後どのようになったか、手当のばらまき、経費を削ることを考え、アメリカから離れようとし、中国寄りになった。

基本的に自分が悪いとは思わず、周りが悪いと考え自己責任がない。被害妄想、責任転換をする。
責任を持っていない人の発現は非常に危険であり、すべての責任は自分にあると考えない。責任をとる姿勢がないのに会社経営などできない。
無責任体制、責任転換でみんなで経営者になろう(無責任)と考えるが裏には責任を取りたくない傾向がある。例えば地方分権的考え方。

中国は過去の責任にしたがる傾向がある。
基本的に責任をとる姿勢が大事であるが、右翼も左翼も極端までいくと、弾圧するという点で共通している。
ハンナアーレントは右翼・左翼ともに両極端までいくと同根で、どちらも同じことやろうとする。粛清、弾圧、収容所送りなど。ヒトラー(右翼)スターリン(左翼)もやっていることは同じ。

菅首相はクレーマーで人に対しては、苦情やクレームはつけるが、自分は受けない。論理的に問題をすり替えて、自分の責任として受け止めない。
責任を取らない権力者は危険である。権力者としての自覚がない。ヒトラーがそうである。

ドイツ参謀本部は軍事のエリート集団で、秀才をシステム的につくり国を守ろうとする体制をつくったが、ヒトラーはこれに対して劣等感から反発しはじめる。ヒトラーは画家になりたかったが、画家としては成功しておらず、エリートに対して劣等感を持っていた。

ヒトラーは第1次世界大戦以降、ドイツの再建を成し遂げたことは事実であり、ここまでは優秀であった。しかし、しだいにドイツ参謀本部に逆らい始める。
ソ連の戦いが命取りになる。ソ連は中に引き込んで戦う。負けたと思わせて敵をどんどん追撃させて冬まで長引かせ、それに対しての準備、備えができておらずヒトラーは敗れた。兵線がのび敗れた点でナポレオンが敗れた戦い方に似ている。

天才は一代で発展させるが、それを持続、継続させるのはある程度、訓練された人でないと、続かない。
菅政権は、批判の矛先を原発に向けさせている。左翼は富や利益を憎んでいるので経済的に発展できない。確かに恵まれない人を助けるのは大事であるが、国レベルでは駄目である。一体誰が恵まれない人を助けるのか?それは、経済的に富んだ人である。
左翼は、貧しさの平等で、責任を取らない。利益を悪と見ている。知恵をだして努力した人を認めない。成功した人に対しての嫉妬心がある。


右翼が票を取れないのは軍国主義と取られやすく弾圧されると思われています。
右翼が悪くいわれるということは、宗教も悪くいわれる傾向にある。
安保世代は当時の時代背景的に外国に留学した人がいない。当時、海外に留学した人は右翼になって帰ってくる。国益を考える人になって帰ってくるが、安保世代の人たちは国の国益をまるで考えていない。

アメリカ国民は物事の大小を考えて、たとえ大統領のスキャンダルがあったとしても、国を豊かにしてくれる人を選ぶ。
菅総理は、国を貧しくして重税をかけて、ばらまきをしようとする。人間の平等が嫉妬心であるならばそれは神の平等ではない。神の平等は機会の平等であり、チャンスの平等である。
右翼の保守的な部分や、左翼の一部宗教的思想のところを大事にする。
一定の国益を考え、みんなにチャンスを与えながら国の利益を考えることが大事である。

以上


もちろん
しっかりとご法話拝聴して 人様にお話しできるように
ならなくっちゃ 

ガンバ!!

ご法話 「信仰と平和」 質問1

2011-08-22 22:49:18 | ご法話・心の指針

静岡西支部精舎ご巡錫 ご法話 「信仰と平和」 
2011・8・21(日)

質疑応答編は 面白かった。 こちらを先にUPします。

質問者1

先ほどのご法話のなかで、神のイノベーション運動が起こると 興味深く拝聴させて頂きました。
具体的にはどのような神がリストラになって(笑 リストラですか)霊界の神々の勢力図の様子は、どのように変化しているのか、現時点での様子をお聞かせ下さい。

A.
神々も怠け者であること許されない。忙しいんですよ。最近の当会のリーディングで紹介していると思いますが、中国の三国志時代の英雄たちが、多数生まれ変わっている。
明治維新に生まれてきて、死んで100年も経つか経たないかの人が、現代に生まれ変わっている。

なぜか宗教法人の方に多数入ってきているらしいと云うことが分かってきて、推定するに先の戦争で、明治の王政復古で、無血革命で新しい時代を開いたけれども、完成度が充分でなかったというところがあって、敗戦の結果、国体がグラッときたので、もう1回立て直しをやりたいと考えて、早めの転生でありますけれども・・だいぶ出てきているんだなと・・で・・ その神々の中心勢力になるのは、宗教運動と関係があるらしいな、と
当会は地球規模のグローバルなので、単なる国粋的な運動にはならないと思います。

日本の神々だって、今回の大イノベーションを失敗したら、みなリストラされる運命にある訳で、もうちょっとGDPの低いところへ、どうぞお生まれ下さいませ
タロイモを作っているところにお生まれになって、良き農法を指導して、灌漑の仕方とか、池の掘り方とか、二毛作の作り方とか、いろいろ指導して神さまになる道もあるでしょうと、格下げが起こる可能性はあるだろうなと思いますね。

だから、どの神々がリストラに遭う予定になっているか発表しにくいところがある。
現在進行形で、希望を胸にみな頑張っているので・・会社再建を目指して、みな頑張っているので・・

古代エジプトの神々もローマの神々も、今は機能していないのは明らかですね。
みな転生なされて、欧米圏に出ているし、アフリカや中南米等の神々は、なかなか姿分からないです。

最近出た霊言によれば、モンテスマというアフリカの王様が、アメリカのオバマ大統領に転生しているらしいと、あの時あっさりスペイン人に滅ぼされたと、悔しいと、もう1回やってみたいと、白人優位主義を壊してみたいという希望をもって大統領になった方もいて、アメリカの没落をさせるのが使命だと恐ろしいことを言っていたら、本当に没落し始めているので怖いものがありますが・・

リストラにあって、もう1回チャレンジして、リストラした方をリストラしたろうと思って頑張っている勢力だと思いますが、それもまた敵がいますね。

イスラム圏や中国圏に敵が出てきますので、あんまり自分の考えだけで出来ないところがありますね。

この世は、ある意味、文明の実験場であるので、どうゆう考えでやったら国が発展したり人々の幸福感が高いか、やってみないと分からないところがある。

三国志の時代だったら・・ここだけ光の天使が集中して、あとは悪魔の軍団だっていう訳ではないわけで、時代が古いから武器を使って人々を殺したことはあっただろうけども、それぞれ そこそこの人たちが、理想の国造りを目指して競争している。

仏法真理の価値を高めて、自由と平和を愛する人々が繁栄する国にしていき、それを圧迫する国や政府は凋落していく方向へもっていきたいと思います。
だから、仏教を信ずる国であって、軍事政権が幅をきかせる国であったら、民主化する方向へ応援したいと考えておりますね。
独裁的な指導者は、まずリストラされると考えて頂いて結構です。

質問2へ つづく