ジーン・ウールの不思議な旅

ジーン・ウールは不思議な女性です。姿を変えて過去にも未来にも現れます。
もしかしたら貴方の友人や奥様かも知れません。

店主ご挨拶

ようこそお越し下さいました。 昨年(2010)、3ヶ月の雲水修行に行ってまいりました。 私は働き者で(自己申告)、精舎は朝は早く夜は遅く「朝瞑想」の時間は、気がつくといつも寝ておりましたが・・。 私の人生の1ページに、思いがけないご褒美を頂けたような日々を過ごさせて頂きました。・・ま、主婦でも決心ひとつで如何様な道も開けるんですね。 今も精舎に行くと「実家に帰った」ような気がします。 このブログ管理人は、最近物忘れ症候群中につき、おいで頂いた感謝を申し上げ、コメントを頂いても書いたり書かなかったり、付き合いが悪いことのご無礼をお許し下さいませ。

【カンボジアの水道水】

2013-08-02 11:09:07 | 本の話・素敵な話
 【カンボジアの水道水】
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ねずきちさんブログ 転載


「日本の水道水は、蛇口からそのまま飲める世界でも珍しい例です。」
よく知られた話ですし、海外に行かれた経験をお持ちの方なら、それを肌で感じた場面があるかも知れません。
同じように水道水を、そのまま飲める国として「カンボジア王国」があることを御存知でしょうか?
今回は日本とカンボジア王国の水道水にまつわる話を紹介します。

カンボジア王国は、東南アジアに位置する熱帯雨林気候の国で、その豊富な降水量から「水の国」と呼ばれていました。
しかし、長年の内戦で水道インフラは破壊され、1990年代初頭は一日のうち、14時間も断水していました。

水質も悪く、水が悪ければ、おいしいご飯も炊けません。
水道水で炊いたご飯は茶色く色づいてしまったと言います。

おまけに漏水率も低く、その数値は72%。
つまり、供給された水道水のうち、7割以上が一般家庭に給水されるまえに途中の水道管から漏れだしたり、不法に接続された配管から水が盗まれていたのです。

特に首都プノンペンでは、政府高官が水を勝手に売って私腹を肥やす事態まで発生しました。
水道施設などのハード面でも、それを管理監督する人間のソフト面でも荒廃していたのです。

そこで救いの手を差しのべたのは、「北九州水道局」でした。
他の自治体にも打診はありましたが、「カンボジアは地雷の国」というイメージが強く、首を縦にふる自治体は現れませんでした。

主にJICA(独立行政法人 国際協力機構)の技術協力プロジェクトに参画することにより、まず首都プノンペン(人口約120万人)において、2003年から2006年にかけて浄水場の整備や水道管設置に大きく貢献しました。

その結果、以前は半日以上断水していた水道が24時間供給されるようになりました。
さらに2007年からは、カンボジア王国の主要都市(シェムリアップ市・シハヌークビル市・バッタンバン市・プルサット市・コンポンチャム市・カンポット市・コンポントム市・スバイリエン市)でも同様の技術協力事業を行っています。

また、現地に北九州水道局員を派遣するだけでなく、カンボジア王国からの研修生を北九州市に受け入れ、人材育成にも取り組んでいます。

もちろん困難もありました。
暴動に巻き込まれ、滞在していたホテルを焼け出されたり、帰国日前日の夜から翌日朝の出発ギリギリまで浄水場の捜査手順の確認をしたりと、現地での技術指導には、その国のならではのトラブルとの戦いもあったのです。

この技術協力のおかげで、プノンペンでの漏水率は2009年の時点で6.2%まで激減しました。
なお、ロサンゼルスは漏水率9%、ロンドンでも26.5%という数値です。
プノンペンでの漏水率がいかに優秀か、この数値でハッキリわかります。
(ちなみに東京は3%、これは世界最高水準です。)

漏水率が下がると、結果的に水道事業体の経営も改善され、サービスに還元されます。
つまり、「水道を設置したい!」と訴える住民が増え、普及が進み、それが水質向上につながる好循環が生まれたのです。

さらに、職員に制服を支給し、給与も上げて規律を高め、汚職も一掃。
水道料金も順調に徴収出来るようになりました。
水道水を供給する側にも、利用する側にも「蛇口をひねれば、すぐ飲める」という事が誇りになっていったのです。

こうした技術協力が成功するか否かは、現地の人々との信頼関係を築けるか否かが鍵になります。
上から目線で、「お前たちに与えてやる、感謝しろ。そのかわり儲けはよこせよ!」というスタンスでは絶対に信頼関係など築けるはずがありません。

お互いが同じ目標に向かって、共に汗をかき、共に苦労し、共に喜びを分かち合う。
このような姿勢が現地の人々に受け入れられたのでしょう。

任期を終えた北九州水道局職員が日本に帰国する際に、「またカンボジアに戻ってきてください」と、現地スタッフから寄せ書きが送られています。

また、プノンペン水道公社のエク・ソン・チャン総裁は、同公社事務所を訪ねた吉田一彦水道局長に対し、「私達は、北九州水道局を兄だと思っている。日本は経済成長のために、海外にどんどん進出すべきで北九州市は水道分野で、そのパイオニアだ」と挨拶されました。

日本の技術と支援が「信頼」という形になった何よりの証でした。

今日も、日本の技が生み出した透き通った水道水が、カンボジアの人々の喉を潤しています。




カンボジアには行ったことがあります。

2003年から2006年にかけて浄水場の整備や水道管設置・・とありましたね。

私がカンボジアに行った時期 調べてみます・・
北九州水道局員を派遣して 日本が貢献したなんて 嬉しいニュースじゃありませんか!

(タイム)
 
私がカンボジアに行ったのは、2008年4月でした。
地雷は取り除かれていました。
車よりバイクが多く、3人乗り していました。
道は交通が激しくて歩いて横断する勇気はありません。

水のことは覚えていません。
水道水は飲んでも大丈夫・・と  言われたかも知れないけど
ペットボトル・・1日1本サービスです。
ホテルでベッドの上に シルクのストールお土産に置いてあって

カンボジア語でホテルの名前が印刷してあるけど・・
今でも使っています。
2色の縞柄でお洒落なんです。
いいねぇ どこで買った? って聞かれます。

昼間は暑いので ホテルで昼寝タイムが あった。

余分な話になりました。


カンボジア アンコールワットの旅
http://www2.tokai.or.jp/shaga/trabel1/sub18.html




ランボーは日本人だった!・・・舩坂弘軍曹物語

2012-10-13 16:59:20 | 本の話・素敵な話

ランボーは日本人だった!・・・舩坂弘軍曹物語

ねずさんの ひとりごと より転載です



シルベスター・スタローンの「ランボー」といえば、2008年にも「ランボー最後の戦場」が公開された、いわずと知れた大ヒットシリーズです。
ところが映画の主役のジョン・ランボー顔負けの大活躍をした日本兵がいます。
お名前は、舩坂弘軍曹。大正9年のお生まれの方です。

昭和19年3月、23歳で除隊を目前にした舩坂氏は、宇都宮歩兵第59連隊軍曹として、パラオ・ペリュリュー島南西のアンガウル島に着任しました。
アンガウル島は、東西2.5km、南北3kmほどの小さな島です。
米軍はここを占領し、飛行場を作ろうとした。同年9月11日、米軍が来襲します。

開戦から5日間にわたり米軍は、まず空母ワスプから発進した爆撃機で島の絨毯爆撃を行った。次いで戦艦テネシーから、島の形が変わるくらいの激しい艦砲射撃をした。そして9月17日、米陸軍第81歩兵師団2万1千名が島の北東と南西の二面から海岸に上陸します。

このとき、島を守っていた守備隊の日本軍は、わずか1400名の中隊です。
小さな平たい島です。内陸部に誘い込んでの戦いはできません。日本軍は、はじめ上陸しようとする米軍を水際作戦で迎え撃ちます。
このとき舩坂軍曹は、擲弾筒および臼砲で米兵を200人以上殺傷します。しかし兵力差は15倍、装備も劣る日本側に勝ち目はありません。

水際作戦で中隊が壊滅するなか、舩坂軍曹は、筒身が真赤になるまで擲弾筒を撃ち続けた。
そうすることで米軍の足を止め、退却する中隊の隊員たちを守ります。
米軍は陸続と上陸してきます。日本軍は、大隊残存兵力を島の北西の洞窟に集結させる。ここから先はゲリラ戦です。

戦い3日目、舩坂軍曹はひん死の重傷を負います。米軍の砲撃で左大腿部を割かれたのです。場所は敵陣のど真ん中、味方が助けようにもすぐには助けれられない。
押しつ戻しつの戦いの中、米軍の銃火の中に数時間放置された舩坂のもとに、ようやく軍医がやって来ます。

傷をみた軍医は、あまりの傷口の深さと大きさに、もはやこれまでと、舩坂軍曹に自決用の手榴弾を手渡して去ってしまう。
おまえはもう死んでいる、と宣告されたようなものです。「負けるもんかっ!」舩坂は近くにあった日章旗で足を包帯代わりに縛り、夜通し這って洞窟の陣地に帰り着きます。
着いた時には、死体が這ってきたような姿だったのですが、この舩坂軍曹、並みの体力気力ではありません。翌日には、左足を引き摺りながらでも歩けるまで回復してしまった。

舩坂軍曹はその後も何度となく瀕死の重傷を負い、動くこともままならないような傷を負っても、不思議と翌日には回復しています。ご本人は「生まれつき傷が治りやすい体質なのだ」と笑っておいでだったそうですが、ほとんど人造人間もどきの体力です。

舩坂軍曹は、栃木県西方町の農家の三男坊で、子供のころからきかん気でガキ大将だったそうです。長じては剣道と銃剣道の有段者。また中隊随一の名射手でもあった。気迫と集中力の素晴らしい人だったようです。

舩坂軍曹は、絶望的な戦況にあってもなお、自身の重傷をものともせず戦い続けます。
ある日は、拳銃の3連射で3人の米兵を倒した。

ある日は、米兵から奪い取ったサブマシンガンで3人の米兵を一度に倒し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し、サブマシンガンを手にしていたもう1人に、その銃剣を投げて顎部に命中させ、突き殺した。まさに鬼神の如き奮戦です。

舩坂軍曹を見た部隊員は、舩坂を「不死身の分隊長」、「鬼の分隊長」と形容したといいます。

しかし、食料も水もない状況での戦いです。
洞窟の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生き地獄の様相となっていた。
舩坂自身も、敵の銃弾が腹部を貫通する重傷を負い、もはや這うことしか出来なくなってしまった。

さらに腹部の傷が化膿し、ハエがたかって蛆(ウジ)が湧いた。
舩坂軍曹は、蛆に食われて死ぬくらいなら最早これまでと、ついに自決を決意します。

このときの舩坂の体調は、死の瀬戸際です。立って歩けない状態になっていることはもとより、極度の栄養失調と失血で、両目もほとんど見えなくなっていた。彼は遺書を書きます。

「若年で死ぬのは、親孝行できず残念です。靖国に行ってご両親の大恩に報います。
国家危急存亡のときに、皇天皇土に敵を近ずけまいと奮戦したのですが、すでに満身創痍となりました。
天命を待たず、敵を目前にして戦士するのはくやしいけれど、すでに数百の敵を倒したので、自分は満足しています。
七たび生まれ変わって、国難を救わんと念願し、いま、従容として自決します。
思い残すことはありません。
 陸軍軍曹 舩坂弘」
【原文】若年ニテ死スハ、考ノ道立タズ遺憾ナリ。幸イ靖国ノ御社ニ参リ、御両親ノ大恩ニ報ユ、今ヤ国家危急存亡ノ秋ニ、皇天皇土ニ敵ヲ近ズケマイト奮戦セルモ、既ニ満身創痍ナリ、天命ヲ待タズ、敵ヲ目前ニ置キ戦死スルハ、切歯扼腕ノ境地ナレド、スデニ必殺数百ノ敵ヲ斃ス、我満足ナリ。七度生レ国難ヲ救ハント念願ス。今従容ト自決ス、思ヒ残スコトナシ

自決を決意した舩坂は、手にした手榴弾を引き抜きます。自爆しようとした。ところが手榴弾が爆発しない。思いに反して手榴弾が不発だったのです。
なぜ死ねないのか、なぜ死なせて貰えないのか。
舩坂はこのとき、深い絶望感を味わったといいます。

このときも洞窟には、絶えず米軍の爆撃・砲弾の音と振動がこだましています。
周囲は、傷の痛みに呻く声が満ちている。
数時間、茫然自失の状態に陥った舩坂は、絶望から気を取りなおします。そして、どうせ死ぬならその前に、せめて敵将に一矢報いんと、米軍司令部への単身での斬り込みを決意します。

そして拳銃弾から中の火薬を取り出すと、その火薬を腹部の患部に流し込み、火をつけた。貫通創です。腹部の前からうしろ(背中)に向けて穴が空いている。その両側から炎が噴き出します。このとき激痛のあまり意識を失い、半日ほど死線を彷徨したそうです。

意識を取り戻した舩坂軍曹は、まだ傷口が痛むなか、体に手榴弾6発をくくりつけ、拳銃1丁を持って、洞窟を這い出ます。

当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊、高射機関砲大隊など、総勢1万人が駐屯していた。
そのまっただ中を、舩坂は数夜這い続け、米軍前哨陣地を突破し、指揮所周辺さえも突破してしまう。そして4日目には、米軍指揮所テントにあと20Mの地点にまで到達します。

舩坂は、米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入すると決めます。
しばらくすると、テントにジープが続々と乗り付けてきた。指揮官たちが集まったのです。

舩坂は、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握りしめ、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し立ち上がった。突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に、発見した米兵もしばし呆然として声もでなかった。まるで血まみれでボロボロの幽鬼にしか見えなかった。

それもそのはずです。このときの舩坂軍曹は、すでに左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、右肩捻挫、右足首脱臼、左腹部盲貫銃創など大小合わせて24箇所の重傷を負い、更に連日の戦闘による火傷、全身20箇所に砲弾の破片が食い込んでいた。

全身血まみれ、服はボロボロ。人間に見えたら不思議なくらいです。

米軍の動揺を尻目に、舩坂は司令部目掛け渾身の力で20Mを突進します。
そして指揮所テントに到達し、手榴弾の信管を叩こうとした瞬間、首を撃たれて昏倒してしまう。

倒れた舩坂のまわりに集まった米兵たちは、あきらかに戦死と判断します。全身血まみれで首を撃たれているのです。生きていると思うほうがどうかしている。駆けつけた米軍軍医も、死亡と判断し、舩坂を野戦病院に運んだ。

このとき軍医は、手榴弾と拳銃を握りしめたまま離さない舩坂の指を一本一本解きほぐしながら、米兵の観衆に向かって、
「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語ったそうです。

死体置き場に3日間転がされていた舩坂は、そこで息を吹き返します。死体の山の中からむっくりと起き上った日本兵の姿を見た米兵は、あまりの恐怖に血が凍った。
そして舩坂に銃口を向けます。

その銃口にゆっくりと向かってきた舩坂は、銃口に自分の身体を押し付けた。そして「撃て! 殺せ! 早く殺せ!」とうなり声をあげた。

不死身の日本兵の話は、アンガウルの米兵の間で瞬く間に話題となり、伝説と化します。
米軍は、舩坂の無謀さに恐れをなしながらも、その勇気を称え、舩坂に「勇敢なる兵士」の名を贈った。

元アンガウル島米軍兵であったマサチューセッツ大学教授のロバート・E・テイラーは、戦後舩坂宛ての手紙の中で、
「あなたのあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。あなたのような人がいるということは、日本人全体の誇りとして残ることです」と、讃辞の言葉を送っている。

一命を取りとめた舩坂は、米軍の治療で数日で歩けるまでに回復し、となりのペリリュー島に送られます。闘志の衰えない舩坂は、そこに居並ぶ米軍の飛行機を見て「よし!いつかはあの飛行機をすべて破壊してやる」と心に誓います。

ペリリュー島に送られた2日目、重傷者であり監視が甘かったのを幸いに、舩坂は夜陰にまぎれてこっそり収容施設を抜け出した。ちょうどペリリュー島の日本軍最後の拠点である大山が占領される前の日の夜のことです。

舩坂は、千Mをほふく前進します。途中にあった日本兵の遺体の弾丸入れから、彼は小銃弾を67発集め、火薬を抜きます。そしてその火薬を導火線にすると、米軍の火薬庫に火をつけた。火薬庫は大爆発を起こし、次々に別の棟へ爆発が移った。島の米軍火薬庫の弾薬はすべて燃え尽きてしまいます。米軍は、犯人不明でこの事件を迷宮入りさせています。
舩坂は、火薬庫の爆発を見届けると、こっそりとまた収容所に戻ります。

収容3日目の夜、舩坂はこんどは歩哨を殺して銃を奪います。そして夜陰にまぎれて歩哨の背後に忍び寄った。あと5メートルというところで、背後から「ヘーイッ!」といきなりタックルをくらった。舩坂も必死に抵抗します。しかし相手は米兵の大男です。まだ怪我の治らない舩坂に勝ち目はない。

舩坂はぐるぐる巻きにされ、収容所の柱にくくりつけられた。米兵の大男が顔を真っ赤にして「死に損ないの気狂いめ」と英語で罵って舩坂に銃を向けます。銃殺される。これで楽になれる。そう思った舩坂は、目を閉じた。

ところが舩坂の耳に聞こえてきたのは銃声ではなく、たどたどしい日本語だった。
「神様ニマカセナサイ。自分デ死ヲ急グコトハ罪悪デス。アナタハ神ノ子デス。アナタノ生キルコト、死ヌコト、神様ノ手ニ委ネラレテイマス」
日本語を話すその大男は、舩坂をそのままにしてテントを出て行った。

翌日、縄を解かれて放置された舩坂は、懲りずに飛行場炎上計画を練り始めます。そして炊事係の朝鮮人のおっさんを煙草で釣って、マッチを手に入れた。マッチがたまったある日、以前自分を捕まえた大男がジープに乗ってどこかへ出かけていくのが見えた。歩哨にそれとなく聞くと、明日まで帰らないという。

今夜こそがチャンス。舩坂はその夜、秘かにテントを出ると、ほふく前進で有刺鉄線を越えます。
「よし、あとすこしだ。」そう思って頭を上げると、そこに例の大男が立っていた。舩坂は拳銃を突きつけられ、テントに戻されてしまいます。

「殺せ」という舩坂に、大男はこう言った。
「アナタガ歩哨ニ私ノ日程ヲ、タズネタコト、私ニ連絡キマシタ。アナタガ何カ計画スルトシタラ今夜ト思イ、私ハ仕事ノ途中ダケレド、切リ上ゲテ帰ッテキマシタ」
そして以前同じ箇所から脱走しようとした日本兵が射殺されたことを話し、こう続けた。
「アナタハ私ガ帰ッテコナケレバ、即座ニ射殺サレタコトデショウ。私ハソレガ心配デ大急ギデ帰ッテキタノデス。無事デヨカッタデス」

さらに大男は、舩坂の無謀な行動を戒め、「生きる希望を捨てるな」「死に急ぐな」と説いた。そして「アナタニハ私ノ言ウコトガワカラナイカ」と問うた。舩坂は「わからない」と意地を張った。しかし舩坂の心に、その大男の人間味あふれる言葉が心にしみいった。

舩坂ら捕虜は、ハワイへ送られることになった。一団を乗せた上陸用舟艇がペリリュー島を離れようとしたとき、いつもの大男がやってきた。
そして「軍曹、死ンデハイケナイ。生キテ日本ニ帰リナサイ。私ハ軍曹ガ無事ニ日本ニ帰レルヨウ神ニ祈リマス」そう言って彼は一枚の紙片を軍曹の渡した。それには彼の名前が記されていた。
「F.V.CRENSHAW」

舩坂はその名詞をポケットに入れたのだけれど、次の収容所でMPに取り上げられてしまった。
舩坂はペリリュー島捕虜収容所から、グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサスと終戦まで収容所を転々とし、昭和21年に帰国します。

帰国したは、舩坂は栃木の実家に帰った。実家では、舩坂は戦死したものと思われていた。
アンガウル島守備隊が玉砕したのは昭和19年10月19日。昭和20年12月には、舩坂の実家に戦死公報が届けられていたのです。

ボロボロの軍衣で帰還した実家で、御先祖に生還の報告をしようと仏壇に合掌したら、仏壇に真新しい位牌があって、そこに「大勇南海弘院殿鉄武居士」と戒名が書かれていた。
「弘って字があるけど、これ俺のこと?」
村の人々も、帰ってきた舩坂の傷だらけでボロボロの姿を見て、これは幽霊に違いないと噂した。しばらくのあいだは、物の怪の疑いで見られていたといいます。

そして舩坂が故郷に帰って一番初めに行ったことは「舩坂弘之墓」と書かれた墓標を抜くことだったそうです。

戦後、舩坂は、焼け野原となった東京・渋谷駅ハチ公前の養父の地所に、わずか一坪の書店を開きます。そしてこの書店が、日本で初めて建物を全て使用した「本のデパート・大盛堂書店」に発展する。

彼は書店経営の傍ら、「英霊の絶叫・玉砕島アンガウル戦記」「血風 二百三高地」「ペリリュー島 玉砕戦」「サクラ サクラ ペリリュー島洞窟戦」「硫黄島‐ああ!栗林兵団」「殉国の炎」「聖書と刀‐太平洋の友情」「関ノ孫六・三島由紀夫その死の秘密」などの本を著わします。

また剣道を通じて親交があった三島由紀夫には、自慢の愛刀、関の孫六を贈っている。
関の孫六は、のちに三島割腹自殺の際の介錯に用いられています。

また、ペリュリューで世話になった大男、CRENSHAW伍長にも何とか連絡を取りたいと考え、米軍関係者になんと110通もの手紙を出しています。ようやく連絡がとれたCRENSHAWとは、生涯の友となった。

舩坂は、他にもアンガウル島に鎮魂のための慰霊碑を建立し、以後、戦記を書いてはその印税を投じて、ペリリュー、ガドブス、コロール、グアム等の島々にも、次々と慰霊碑を建立した。書店経営の忙しさの中で、アンガウル島での遺骨収骨と慰霊の旅を毎年欠かさず行っています。

さらに他遺族を募っての慰霊団の引率、パラオ諸島原住民に対する援助、パラオと日本間の交流開発などを精力的に行っている。

舩坂が築いたアンガウルの慰霊碑慰文には、次のように記されています。
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尊い平和の礎のため、勇敢に戦った守備隊将兵の冥福を祈り、永久に其の功績を伝承し、感謝と敬仰の誠を此処に捧げます。
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まさに映画のジョン・ランボー顔負けの戦いをした舩坂弘軍曹。
そして戦後は一転して亡くなられた仲間たちのために生涯をささげられた舩坂弘氏。
かつての日本には、こういう男がいたのです。


回回回回回回回回回
<編集 配信>
日本の心を伝える会
<代表者ブログ>
ねずさんの ひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/



神秘の法 映画館で ご覧いただけましたでしょうか。
感動します。


話は繋がらないのですが
今週 三島由紀夫さんのご霊言 読んだばかり・・

たまたまねずきちさんから送られてきたメールの題を眺めていて、開いて読んだお話に 三島由紀夫さんと親交があったと書かれていた。

私は三島由紀夫さんが大好きで愛読者だったので、切腹事件はとても悲しかったことを覚えています。
三島由紀夫さん割腹自殺の際の介錯に用いられた刀が、舩坂さんが三島由紀夫さんに贈られたご自慢の愛刀、関の孫六だった・・と 書かれています。

飛ばして読まれた方、ぜひ お読みになって下さい。


もちろん 「神秘の法」 ものすごいです。
まるで ジェットコースター に乗ったような話の展開で
友人曰く 「100% 面白かった」 そうです。


■日本を変える力

2012-09-22 09:06:49 | 本の話・素敵な話

日本の心を伝える会
メールマガジンNo.522

 2012/6/20
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【転送歓迎】



■日本を変える力


戦前の時代と聞くと、多くの現代日本人は、軍国主義の時代、カーキ色一色に塗りつぶされた暗い時代といったイメージを持たれているようです。

本当にそうだったのでしょうか。

ラビ・バトラ(Ravi Batra)という人がいます。
パキスタンの生まれで、米国に住む世界的に有名な経済学者です。
彼はインドの大哲学者プラブハット・ランジャン・サーカー(ヨガの指導者としても有名)を師とし、サーカーが昭和34(1959)年に唱えたプラウト理論を継承しています。

プラウド論というのはひとことでいえば、社会を支配する階層が、戦士(Warrior)、知識人(Intellectual)、資本家(Acquirer)が順別に循環し、歴史が展開されるという階級循環論です。

で、そのラビ・バトラが、日本の明治から大東亜戦争までをどうみているかというと、これが実は、「知識人の時代」とみているのです。
戦後世代の私たちがイメージするような「武人の時代」ではないのです。

実際問題として、明治から昭和の大東亜戦争にかけての日本の支配層は、現代の我々からみても、ものすごく教養の高い人たちです。
たとえば東条英機首相は、陸軍の出身で軍人ではあるけれど、それ以上に実に教養豊かな人であり、数カ国語に通暁し、しかもその書はいまどきの日本の民主党内閣総理大臣などは及びもつかないほど立派です。

http://blog-imgs-46-origin.fc2.com/n/e/z/nezu621/20120513111741f58.jp
この写真は、東条英機首相がまだ陸軍大臣だった当時の昭和16(1941)年秋の頃に、「靖国之絵巻」の表紙に題字として揮毫されたものです。
実に見事なものです。
ちなみに背景にある絵は、横山大観です。
たいへん格調高く仕上がっています。

東条英機氏が、すくなくとも階級循環論でいう「資本家/富者」でなかったことは、他の誰でもない、GHQが証明しています。

戦争が終わりGHQが日本にやってきたとき、彼らは東条英機元首相の青森の居宅まで行って、しらみつぶしに家宅捜索したのです。

「あれだけの戦争をやってのけた日本の首相なのだから、さぞかし莫大な財産を持っているだろう」というわけです。
そしてその「莫大な財産」を没収するために、彼らは、東京の公邸から青森の自宅、親戚筋の居宅までも、徹底的に家捜ししたのです。
ところが何も出ない。

彼らGHQは、なぜこんなに何一つ財産らしい財産を持たない貧乏人が日本の総理大臣だったのかと、あまりにも不思議に思い、首をひねったといいます。
さらにいうと、東条家では、それだけ徹底的な家捜しを受けてさえ、なにひとつ財産がなかったことが、いまでもなによりの誇りです。

はっきりいえるのは、戦前の時代、私たちが軍国主義の時代とレッテルを貼って見ているその時代は、すくなくともカネ(=富者)が政権を担う時代ではなかった、ということです。

では彼らは、武人として、武力を背景に政権を担った人たちなのでしょうか。

なるほど東条首相は、陸軍の出身者です。
常住坐臥、死を覚悟しているという点では、まさに武人です。

けれど、彼は武力を背景にして政権を取ったわけではないし、国の内外で武力を弄して行動したという事実もありません。
そして何より、大東亜戦争の開戦に、もっとも慎重だったのが東条英機氏であったこと、だからこそ昭和天皇が東条君にと、総理の座を任命したという事は、歴史が証明していることです。

むしろ東条英機氏は、武人というよりも、非常に高い教養と知性で行動した人です。
すくなくとも、武器を手にして「強ければいい」「武力があれば何をやっても許される」という武力至上主義者の思考は、彼にはまったくありません。

そしてこのことは、当時の日本社会の支配層や、陸海軍の士官学校卒業生全員にいえることでもあります。
彼らは軍人である以上に、とてもつもなく優秀な知識人です。

当時の日本は、現実に外地に出兵し、戦争をしたではないか、これは武人の時代というべきではないか、という議論もあるかもしれません。

なるほど日本が軍を出動させ、戦争を行ったのは事実です。
けれど戦争前の海外出兵は、支那への派兵にしても、南洋への派兵にしても、国際条約に基づく約束事の履行です。

また戦争にあたっては、日本は逐一筋を通し、日清、日露、第一次大戦、大東亜戦争とも、丁寧に宣戦布告を行い、我が国の立ち位置と、戦争目的とその理由を明確に宣言しています。

これらいずれをとっても、単に武力を誇り、武力を持って相手を政治的に支配するという武人とは、あきらかに一線を画するものです。
むしろ考え抜き鍛え抜いた知性の発露として行われた国家行動というべきす。

マッカーサーは、昭和26(1951)年5月に、米国の上院軍事外交委員会で証言を行いました。
世に言う「マッカーサー証言」です。
米国において、上院軍事外交委員会というのは、最も権威ある最高の審議機関とされている委員会です。
なぜなら軍事外交は、国家レベルで最も重要な審議事項であるからです。

そこに召喚されたマッカーサーは、大東亜戦争について、次の通りの証言をしています。

Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.
(彼ら日本人が戦争を始めた目的は、従って、安全保障の必要に迫られたためである)

従って(therefore)」というのは、この言葉の前にマッカーサーが述べたことを受けての言葉です。
彼がなにを述べたかというと、

1 日本人は働くことの尊さを知っている国民である。
2 日本には蚕(かいこ)以外に資源がなく、国民は資源を他から求めるほかはない。
3 米国がその資源を絶つことは、日本においては1千万人を超える人々が働く場を失う恐れがあった。

と述べているのです。
マッカーサーは、これを受けて「therefore」と言っているのです。

そしてこのときの証言でマッカーサーは、日本が開戦に踏み切った理由は「by security」とはっきりと証言しています。

セキュリティのため、と言っているのです。
つまり大東亜戦争は、日本が軍事侵攻を目的としたものではなく、あくまで自衛(セキュリティ)のため、やむなく戦わざるを得なかったと証言しているのです。

「やむを得ないかどうか」を判断し決定するのは、武力や財力ではありません。
知性であり教養であり理性です。
武力を背景とした威嚇行動や、利益のための侵略行動ではない。

要するに、当時の日本の政治権力は、経済力でも武力でもなく、知性によって治世が行われていた、ということです。

実際、正直なところ、いまの日本人でさえ、「立派な軍人」とは、武力を背景に威張り散らす人ではなく、立ち振る舞いがキチンとしているプロフェショナルな知的な人というイメージを持っているのではないでしょうか。
いまでも私たち日本人は、単に武力や暴力を背景に権力を欲しいままにするような人を、誰も尊敬などしない。

この点、昨今の日本のようにカネがありさえすれば、少々人格に問題があったても「社長さん、社長さん」と人が寄って来るご時勢や、どこぞの国ように、少々人格に問題があっても武力があれば何をしても許されるという社会構造を持つ国と、日本の戦前の社会構造は、明らかに一線を画しています。

こう考えてみると、戦前の日本という国がどういう国であったのかが、明確に形となって見えて来ます。
戦前の日本は、まさに知性の花が咲きほこる、輝く知識人の時代であった、ということができるのです。

そして戦争が終わり、戦後の復興の時代を担ったのも、この「戦前の教育を受けた」知識人たちでした。
彼ら知識人たちは、またたく間に焼け野原となった日本を復興させ、終戦時には世界の最貧国となっていた日本を、わずかな期間で、世界第二位の経済大国にまで育て上げたのです。

けれど、日本が経済の繁栄を謳歌しはじめた頃、日本社会はこうした知識人たちではなく、単に経済力をつけた富者が時代を担うようになっていきました。

深い教養や自己鍛錬など、まるで関係がない。
ひとえにカネがあれば勝者であり、勝ち組であり、何をしても許されるという社会風潮は、いまや日本中に蔓延してしまいました。

いまの日本は、富者でありさえすれば、日本国籍のない在日外国人であっても一定の権勢を得ることができるという社会構造になっています。

まさにラビバトラ博士のいう、「富者の時代」です。

では、この「富者の時代」を変えるのは、どういう力なのでしょうか。
循環論では、富者の時代の次にくるのは、武人の時代だといいます。
頭の弱い乱暴者が日本の新しい時代を築くのでしょうか。

私はそうではないと思います。
なぜなら、「武人」の形が変わってきているからです。

大昔の人の武器は刀や槍、弓でした。
近世は、銃器などの火力です。
近代では、ミサイルなどがこれに代わる武器、兵器となりました。

現代ではどうでしょうか。
ミサイルを持つ者が政治権力を担うのでしょうか。
ちょっと違う気がします。

現代社会における最大の武器は、むしろ「情報」にあります。
現代戦では、情報を早く的確に掴んだ者が、戦争に勝ちます。

このことを明確に証明したのが、イラク戦争でした。
イラク戦争では、米ソの大戦車部隊が砂漠で決戦をしたのですが、世界最強を誇ったソ連製の戦車部隊を、またたく間に粉砕したのは、日本製のジャイロスコープとGPSです。

戦いは、わずか5分で終わり、ソ連製の戦車は、全台が破壊され、米国側戦車部隊はまったくの無傷に終わったのです。

つまり、現代戦は、ドンパチやる前に勝負がついてしまう。

そう考えると「富者の時代」の次にくる「武人の時代」とは、情報武装した者、ということができそうです。

自民党内閣が倒れ、民主党内閣が誕生しました。
日本は最低の選択をしたものだけれど、良く考えてみると、これは、自民党という当時の富裕者の代表であった政党から、情報を操作する者へのバトンタッチだったようにも思えます。

彼ら民主党は、子供手当などのバラマキ情報を垂れ流し、国民を騙して政権を奪いました。
要するに嘘の情報を垂れ流すことで選挙という戦争に勝ったのです。

もちろん、嘘はバレます。
ですから、民主党政権というのは、社会の中心が、富者の時代から情報の時代へと変化する、いわば過渡的な政権であったということがわかります。

では、次に来る政権は、どういうものでしょうか。

私はそれは、「情報の発信者となれる者」ではないかと見ています。
そしてその者は、金があるなしには関係がない。
むしろ、一昔前なら絶対に権力の場につけなかったような、お金に縁のない者が、新たな情報の発信者となり、世論を喚起し、政権を担う、そんな社会ではないかと思うのです。

ただし、情報は、「ただの情報」である限り、世間は動きません。
人は情報(=理屈)では動かない。
頭で理解するだけで、行動には結びつかないのです。

人は、「感じて」、動きます。
感じて動くを漢字にしたら、「感動」となります。

時代が変わるということは、時代の中心となる価値観が変わるということです。
つまり、情報が感動と結びつき、人々の価値観を変えるはたらきをするとき、新しい時代がはじまる。

私たちは今、大きな時代の境目に立っている、ということです。
そして次代を担うのは、情感に訴える情報の発信源となる者なのではないか。
そんな気がします。


回回回回回回回回回
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日本の心を伝える会
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ねずさんの ひとりごと
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ねずきちさんから 本当にいろいろ 教えて頂いています。

ねずきちさん 長生きして下さい。

神話を学ぶ意義

2012-09-21 10:03:50 | 本の話・素敵な話

★★★★★★★★★
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http://www.nippon-kokoro.com/

【転送歓迎】

ねずきちブログ様より
転載です


────────
■□【1】神話を学ぶ意義w)
────────

「歴史は学ぶためにある」というのが、日心会の基本的姿勢です。

そこで今日は「歴史を学ぶには、まずその背骨となる神話を学ばなければならない」ということについて書いてみようと思います。

戦後教育では、日本史は「旧石器時代」「縄文時代」「弥生時代」「古墳時代」から始まり、神話はまったく無視されています。
神話の時代は、記紀よりもむしろ支那の書物に日本がどう書かれているかが問題にされ、卑弥呼や邪馬台国などに注目と関心が集まっています。

このように書くと、多くの方は「神話というのは、物語であって歴史ではない」とお答えになります。
それが間違いなのです。
なぜなら、神話の理解なくして、その後の日本の歴史が「なぜそうなったのか」を知ることができないからです。

一例を申し上げます。
これは上智大学の渡部昇一先生が書かれていることです。
引用します。

~~~~~~~~~
たとえば、藤原氏と天皇家との関係である。

ご存じのように、藤原氏は平安時代に栄華を極め、藤原道長(九六六~一〇二七)のごときは三代の天皇の外祖父(母方の祖父)にもなった。
しかしそれくらいなら「なぜ自分が天皇になってしまわないのか」という疑問が生まれる。
その根拠が神話にあるのだ。

藤原家の先祖は、天児屋根命(あめのこやねのみこと)である。
天児屋根命は、天照大神(あまてらすおおかみ)が天の岩戸にこもってしまったときに、岩戸の前に祝詞(のりと)をあげた神であり、天孫降臨のときには瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に付き従ってきた神でもある。

つまり、神話の時代から藤原氏は天皇に仕える家であると決まっているのである。
その意識があるから、藤原氏の権勢がいかに強大になろうと、自分は天皇になろうとしない。
自分の娘を天皇の后(きさき)にするのが精いっぱいなのである。

また、武家として最初に日本を治め、守護・地頭という日本支配の制度を敷いた源頼朝も、ほかの国ならば当然、新しい帝王として君臨するはずだが、日本の場合、そうはならない。
第五十六代清和天皇(在位八五八~八六七)から分かれた源氏(清和源氏)の嫡流である頼朝には、神話時代から続いている皇室の系図に対し、「自分は天皇家の皇子の子孫であるから本家を侵してはならない」という意識が働くからである。

その後の日本の政治の実権を握った足利幕府にも、豊臣秀吉、徳川家康にも、その意識は脈々と引き継がれていくのである。

このように、神話というものがなければ、日本の歴史の背骨にあたる部分は変わっていたはずだ。
日本では歴史時代の人々も、神話を意識し、その流れにしたがって行動していた。
そのことを忘れてはならない
~~~~~~~~~

神話は「歴史を学ぶ際の背骨」であるというのが、この渡部教授の論説からもわかります。
では、そもそも神話とは、どういう意味を持ったものなのでしょうか。

私は、それは「日本人としての価値観の源泉」であると思っています。
何が正しくて、何が間違っているのか。
人はどうあらなければならないのか。

昔の日本人は、日本の歴史を築きましたが、私達もまた、未来の日本人からみれば「過去の時代を築いた人たち」です。
そしてその日本人の歴史の中心にある価値観の核をなしているのが、私は神話ではないかと思っているのです。

神話は、もともとは口伝です。
親から子へ、子から孫へ、孫からひ孫へと、長い年月をかけて語り継がれてきた物語です。

日本では、いまから1万6500年前という途方もない昔の世界最古の土器が見つかっていますが、土器があるということは、社会的分業があり、集落が存在し、言語があったという証拠です。
縄文時代は、いまから1万8千年前から3千年前までの約1万5千年続いた時代です。

記紀の成立までは約1万7千年。
ひとつの世代が交替するのがおよそ25年とすると、1万7千年は680世代が交替したことになります。
親から子へ、子から孫へ、680世代にわたって語り継がれた物語が神話です。

物語としての神話は、実は私たちが知るより、もっともっと数限りなくたくさんの物語があったかもしれません。
けれどその中で、世代を超え、長い年月を越えて生き残り、ついには成文化されたのが、私たち日本の神話です。
昨日今日できたものではないのです。

そしてその神話という物語が、私たちの日常の全ての活動における価値観の源となっています。
ですから、幼いころに日本神話を学ぶこと、あるいは日本の歴史を学ぶ際の冒頭に神話を学ぶことは、人としての価値観や、日本の歴史における様々な事件や出来事の理解に欠かせないものとなるのです。

スサノオは、地上に降り立ったとき、八岐大蛇を退治して少女とその両親を救いました。
もしこの物語が、少女だけを救う物語だったら、どうでしょうか。
美しい女性を守るために戦うという物語は、世界中に数多くあります。
けれど、日本神話では、少女だけでなく、少女を失いたくない両親までも一緒に助けています。

これは単に、自己の欲望のために女性を助けるということに価値観を見出すのではなく、家そのものを守ることで、その家に受け入れられ、妻を娶(めと)るのが正しい道であることを教えてくれています。
これが日本人の価値観です。
男女の恋を、単に当事者となる男女だけの問題とはせず、家としてのお付き合いまでを含む家族としての交際としているのです。

イザナキは、亡くなった妻を黄泉の国まで連れ戻しに行きました。
けれど黄泉の国で、死んだ妻の腐乱死体を見てしまいます。
恐怖にかられたイザナキは、驚いて逃げ出しました。
ようやく地上に出たイザナキは、比良坂の大穴の前で、妻のイザナミに「私は一日に千五百の産屋を建てよう」と約します。

亡くなった者は、もはや子をつくれません。
生きているから子を産める。
だから生きている者にとって、子供こそ大事だという教えでです。
もし、この比良坂での対話がなければ、単にイザナキ、イザナミだけの愛の物語となってしまう。
子をつくり、育て、子孫の繁栄を願うという価値観と、自分の恋心や異性への欲望の充足だけの物語とは、その背骨になっている価値観がまるで異なります。

大国主は、若い頃はいわゆるパシリでした。
徒党を組んだ兄たちにさんざんイジメられたのです。
けれど、彼は優しい心を失わず、兄たちが笑い者にした因幡の白兎を助け、その後も兄たちに何度も死ぬほどの辛い目にあわされるけれど、「母や女性たちの愛」に支えられることでいくども蘇り、最後には大いなる国の主となります。

この物語は私たちに、世の中には、徒党を組んで人をいじめる馬鹿者がいることをまず、教えてくれています。
そして同時に、どんなにつらいことがあっても、くじけずに生きることを教えてくれます。
もし大国主が、産まれたときから全ての力を持つスーパーマンだったなら、人は身分出自や力さえあれば、どんな欲望でも叶えられる、というまったく異なる筋書きとなります。

けれど日本神話は、一番苦労した者こそが、多くの人の上に立つ資格を持つのだと教えています。
だからこそ、身分の高い者は、常に誰よりも苦労し、いかなる中傷にも耐えて、努力をし続けなければならないという

二二六事件のとき、陸軍幼年学校校長だった阿南惟幾大将は次のように語りました。
~~~~~~~~
どのような忠君愛国の赤誠も、その手段と方法とを誤れば、大御心に反し、ついには大義名分さえも失うこととなる。
本気で憂国の情があるならば、先ずもって自己の本分に邁進しなければならない。
~~~~~~~~

この言葉は、人は誠実に自己の本分に邁進すれば、必ず大御心に赤誠が通じる、という大国主の神話が原点となる思想ということができます。
政治云々をする前に、日頃、自己の本分をしっかりと果たすこと。
どんなに辛いことがあっても、人の上に立つ将校であればなおのこと、常に誰より苦労し、明るく努力をし続けなければならないと説かれています。

二二六事件で決起した青年将校たちの思いは、痛いほどわかります。
彼らの行為のやむにやまれぬ気持ちも、よくわかる。
けれど、それでもなお、人として果たすべき役割を、日頃からきちんと果たして行くことの重要性を説かれたとき、私たち日本人は、ぐうの音もでなくなります。
それは、日本神話から脈々と貫かれている日本人の価値観の背骨に、触れることだからです。

こうした日本人の価値観の源泉となるものが、日本神話といえます。
そして私たち日本の「歴史」は、その「価値観の上に築かれた物語」です。
ですから歴史を学ぶことは、結果として「日本人としての価値観を学ぶ」ことになるのです。

ところが戦後日本の学校教育は、歴史を「単なる暗記科目」にしてしまいました。
年号や事件名、人物名を丸暗記するだけの授業です。
おもしろくもなんともない。
なぜおもしろくないのか。
そこに「人」がいず、価値観という背骨を失っているからです。

戦後の国史教育は、教科書の始めに書かれていた神話の項目を削除しました。
その結果、歴史教科書は、価値観という背骨を持たない、無味乾燥なものとなってしまったのです。

そして神話を知らない世代は、たとえば源義経の物語を観たり読んだりしても、そこに単なる戦いのドラマだけしか見ることができない。
信長、秀吉、家康三代の平和への道筋を読んでも、そこに戦いのドラマしか観ることができない。
日本の歴史の背骨にあたる価値観を持たないからです。
その価値観を持って、それらの歴史を見直すと、単なる戦いのドラマだけではない、もっと深い、人々の感傷を読むことができます。
感動が違ってくるのです。

私たちは、もういちど日本の神話を取り戻すことで、日本の誇りある伝統や歴史を「感じる」ことができるようになるのだと思います。
私達はそのために、価値ある歴史教育を取り戻したいと思っています。


神話を学ぶ意義  

2012-09-12 16:44:16 | 本の話・素敵な話

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■□【1】神話を学ぶ意義

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「歴史は学ぶためにある」というのが、日心会の基本的姿勢です。

そこで今日は「歴史を学ぶには、まずその背骨となる神話を学ばなければならない」ということについて書いてみようと思います。

戦後教育では、日本史は「旧石器時代」「縄文時代」「弥生時代」「古墳時代」から始まり、神話はまったく無視されています。
神話の時代は、記紀よりもむしろ支那の書物に日本がどう書かれているかが問題にされ、卑弥呼や邪馬台国などに注目と関心が集まっています。

このように書くと、多くの方は「神話というのは、物語であって歴史ではない」とお答えになります。
それが間違いなのです。
なぜなら、神話の理解なくして、その後の日本の歴史が「なぜそうなったのか」を知ることができないからです。

一例を申し上げます。
これは上智大学の渡部昇一先生が書かれていることです。
引用します。

~~~~~~~~~
たとえば、藤原氏と天皇家との関係である。

ご存じのように、藤原氏は平安時代に栄華を極め、藤原道長(九六六~一〇二七)のごときは三代の天皇の外祖父(母方の祖父)にもなった。
しかしそれくらいなら「なぜ自分が天皇になってしまわないのか」という疑問が生まれる。
その根拠が神話にあるのだ。

藤原家の先祖は、天児屋根命(あめのこやねのみこと)である。
天児屋根命は、天照大神(あまてらすおおかみ)が天の岩戸にこもってしまったときに、岩戸の前に祝詞(のりと)をあげた神であり、天孫降臨のときには瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に付き従ってきた神でもある。

つまり、神話の時代から藤原氏は天皇に仕える家であると決まっているのである。
その意識があるから、藤原氏の権勢がいかに強大になろうと、自分は天皇になろうとしない。
自分の娘を天皇の后(きさき)にするのが精いっぱいなのである。

また、武家として最初に日本を治め、守護・地頭という日本支配の制度を敷いた源頼朝も、ほかの国ならば当然、新しい帝王として君臨するはずだが、日本の場合、そうはならない。
第五十六代清和天皇(在位八五八~八六七)から分かれた源氏(清和源氏)の嫡流である頼朝には、神話時代から続いている皇室の系図に対し、「自分は天皇家の皇子の子孫であるから本家を侵してはならない」という意識が働くからである。

その後の日本の政治の実権を握った足利幕府にも、豊臣秀吉、徳川家康にも、その意識は脈々と引き継がれていくのである。

このように、神話というものがなければ、日本の歴史の背骨にあたる部分は変わっていたはずだ。
日本では歴史時代の人々も、神話を意識し、その流れにしたがって行動していた。
そのことを忘れてはならない
~~~~~~~~~

神話は「歴史を学ぶ際の背骨」であるというのが、この渡部教授の論説からもわかります。
では、そもそも神話とは、どういう意味を持ったものなのでしょうか。

私は、それは「日本人としての価値観の源泉」であると思っています。
何が正しくて、何が間違っているのか。
人はどうあらなければならないのか。

昔の日本人は、日本の歴史を築きましたが、私達もまた、未来の日本人からみれば「過去の時代を築いた人たち」です。
そしてその日本人の歴史の中心にある価値観の核をなしているのが、私は神話ではないかと思っているのです。

神話は、もともとは口伝です。
親から子へ、子から孫へ、孫からひ孫へと、長い年月をかけて語り継がれてきた物語です。

日本では、いまから1万6500年前という途方もない昔の世界最古の土器が見つかっていますが、土器があるということは、社会的分業があり、集落が存在し、言語があったという証拠です。
縄文時代は、いまから1万8千年前から3千年前までの約1万5千年続いた時代です。

記紀の成立までは約1万7千年。
ひとつの世代が交替するのがおよそ25年とすると、1万7千年は680世代が交替したことになります。
親から子へ、子から孫へ、680世代にわたって語り継がれた物語が神話です。

物語としての神話は、実は私たちが知るより、もっともっと数限りなくたくさんの物語があったかもしれません。
けれどその中で、世代を超え、長い年月を越えて生き残り、ついには成文化されたのが、私たち日本の神話です。
昨日今日できたものではないのです。

そしてその神話という物語が、私たちの日常の全ての活動における価値観の源となっています。
ですから、幼いころに日本神話を学ぶこと、あるいは日本の歴史を学ぶ際の冒頭に神話を学ぶことは、人としての価値観や、日本の歴史における様々な事件や出来事の理解に欠かせないものとなるのです。

スサノオは、地上に降り立ったとき、八岐大蛇を退治して少女とその両親を救いました。
もしこの物語が、少女だけを救う物語だったら、どうでしょうか。
美しい女性を守るために戦うという物語は、世界中に数多くあります。
けれど、日本神話では、少女だけでなく、少女を失いたくない両親までも一緒に助けています。

これは単に、自己の欲望のために女性を助けるということに価値観を見出すのではなく、家そのものを守ることで、その家に受け入れられ、妻を娶(めと)るのが正しい道であることを教えてくれています。
これが日本人の価値観です。
男女の恋を、単に当事者となる男女だけの問題とはせず、家としてのお付き合いまでを含む家族としての交際としているのです。

イザナキは、亡くなった妻を黄泉の国まで連れ戻しに行きました。
けれど黄泉の国で、死んだ妻の腐乱死体を見てしまいます。
恐怖にかられたイザナキは、驚いて逃げ出しました。
ようやく地上に出たイザナキは、比良坂の大穴の前で、妻のイザナミに「私は一日に千五百の産屋を建てよう」と約します。

亡くなった者は、もはや子をつくれません。
生きているから子を産める。
だから生きている者にとって、子供こそ大事だという教えでです。
もし、この比良坂での対話がなければ、単にイザナキ、イザナミだけの愛の物語となってしまう。
子をつくり、育て、子孫の繁栄を願うという価値観と、自分の恋心や異性への欲望の充足だけの物語とは、その背骨になっている価値観がまるで異なります。

大国主は、若い頃はいわゆるパシリでした。
徒党を組んだ兄たちにさんざんイジメられたのです。
けれど、彼は優しい心を失わず、兄たちが笑い者にした因幡の白兎を助け、その後も兄たちに何度も死ぬほどの辛い目にあわされるけれど、「母や女性たちの愛」に支えられることでいくども蘇り、最後には大いなる国の主となります。

この物語は私たちに、世の中には、徒党を組んで人をいじめる馬鹿者がいることをまず、教えてくれています。
そして同時に、どんなにつらいことがあっても、くじけずに生きることを教えてくれます。
もし大国主が、産まれたときから全ての力を持つスーパーマンだったなら、人は身分出自や力さえあれば、どんな欲望でも叶えられる、というまったく異なる筋書きとなります。

けれど日本神話は、一番苦労した者こそが、多くの人の上に立つ資格を持つのだと教えています。
だからこそ、身分の高い者は、常に誰よりも苦労し、いかなる中傷にも耐えて、努力をし続けなければならないという

二二六事件のとき、陸軍幼年学校校長だった阿南惟幾大将は次のように語りました。
~~~~~~~~
どのような忠君愛国の赤誠も、その手段と方法とを誤れば、大御心に反し、ついには大義名分さえも失うこととなる。
本気で憂国の情があるならば、先ずもって自己の本分に邁進しなければならない。
~~~~~~~~

この言葉は、人は誠実に自己の本分に邁進すれば、必ず大御心に赤誠が通じる、という大国主の神話が原点となる思想ということができます。
政治云々をする前に、日頃、自己の本分をしっかりと果たすこと。
どんなに辛いことがあっても、人の上に立つ将校であればなおのこと、常に誰より苦労し、明るく努力をし続けなければならないと説かれています。

二二六事件で決起した青年将校たちの思いは、痛いほどわかります。
彼らの行為のやむにやまれぬ気持ちも、よくわかる。
けれど、それでもなお、人として果たすべき役割を、日頃からきちんと果たして行くことの重要性を説かれたとき、私たち日本人は、ぐうの音もでなくなります。
それは、日本神話から脈々と貫かれている日本人の価値観の背骨に、触れることだからです。

こうした日本人の価値観の源泉となるものが、日本神話といえます。
そして私たち日本の「歴史」は、その「価値観の上に築かれた物語」です。
ですから歴史を学ぶことは、結果として「日本人としての価値観を学ぶ」ことになるのです。

ところが戦後日本の学校教育は、歴史を「単なる暗記科目」にしてしまいました。
年号や事件名、人物名を丸暗記するだけの授業です。
おもしろくもなんともない。
なぜおもしろくないのか。
そこに「人」がいず、価値観という背骨を失っているからです。

戦後の国史教育は、教科書の始めに書かれていた神話の項目を削除しました。
その結果、歴史教科書は、価値観という背骨を持たない、無味乾燥なものとなってしまったのです。

そして神話を知らない世代は、たとえば源義経の物語を観たり読んだりしても、そこに単なる戦いのドラマだけしか見ることができない。
信長、秀吉、家康三代の平和への道筋を読んでも、そこに戦いのドラマしか観ることができない。
日本の歴史の背骨にあたる価値観を持たないからです。
その価値観を持って、それらの歴史を見直すと、単なる戦いのドラマだけではない、もっと深い、人々の感傷を読むことができます。
感動が違ってくるのです。

私たちは、もういちど日本の神話を取り戻すことで、日本の誇りある伝統や歴史を「感じる」ことができるようになるのだと思います。
私達はそのために、価値ある歴史教育を取り戻したいと思っています。



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杉原千畝続報

2012-05-03 06:39:18 | 本の話・素敵な話

杉原千畝続報
────────
日心会メルマガ 転載です。


先日、メルマガNo.469で「杉原千畝の命ビザ」をお届けしたのですが、その続報です。
以下は、大切なポイントともいうべきものです。

まず第一に、杉原領事は、「外務省の訓令に反してビザを発行したのか」という点です。

外務省の命令に違反して発行したビザであれば、この文書は単なる私文書となります。
従ってビザとしての効力はありません。無効です。
無効なビザなら、ユダヤ避難民たちは、ソ連への入国ができません。
当然のことです。

杉原領事は、あくまで公文書としてビザを発行しています。
この発行に日本の外務省が「発行をしてはならない」といった内容の訓令をした事実はありません。

実際にあった話は、単に外務省は、「一度にあまり大量の発行をしては、ソ連に迷惑がかかるのではないか?」程度の話があったにすぎません。
これはどこの国でも同じことです。相手国に配慮するのが外務省の役割でもあるからです。

従って、杉原領事の発行したビザは、日本の外務省の認証を経た有効なものです。

なお、米国は当時、セントルイス号事件で知られているようにビザの発行を全面禁止していました。


つぎに、ビザを出したのは杉原領事だけだったのか、という点です。

ハンブルグの領事館でも800通におよぶビザが日本の領事館で発行されています。
良心をもってビザを発行し続けていたのは、当時、杉原領事だけではなかったのです。

このことは、ソ連経由で上海に逃げてきたユダヤ人たちが、上海で25000人にも上ったことでもわかります。
つまり、杉原領事以外にも日本の領事たちは、多数のビザを発行していたのです。
なぜなら当時の欧州のユダヤ人の外国脱出は、日本経由しかなかったからです。


三つ目に、杉原領事は処罰されたのかという点です。
敗戦前に杉原領事は、勲五等に叙勲されています。
これは罰とはいえません。


四つ目に、杉原領事の退職についてです。
日本がGHQによって占領されたとき、日本は「国」ではなくなりました。
東洋における一エリアというだけの存在になったのです。

当然のことながら、日本国の外国における公館もなくなりました。
このため、日本の外務省の職員で海外にいた者は、全員解雇となっています。

国を失うというのは、こういうことです。
いまの日本は、世界的に認知された「国」です。
いろいろ問題があったにしても、日本人が海外で何かトラブルにあえば、日本の大使館が何かと助けてくれます。
けれど、日本が「国」でなくなれば、こうした日本人への保護は、一切なくなります。

日本人は、名前さえないそこらの野良イヌや野良ネコと同じで、たとえ殺されても、誰も何も助けてくれない。
それが「国」を失うということです。

左翼主義者は、日本なんてなくなったほうがいいようなことを言いますが、実にとんでもない話です。


五つめに、ユダヤ人の満洲国通過についてです。
当時満州国の参謀総長をしていたのは、東條英機です。
彼は、すべて承知の上で、ビザを持ったユダヤ人を通過させています。
だからユダヤ人たちは、敦賀などに上陸し、日本経由で上海に移住できたのです。

日本陸軍がユダヤ人に好意的だったのにも理由があります。
日露戦争当時に、ユダヤ人財閥のシフ氏が戦争資金に困った日本の外債を買ってくれたことを恩に感じていたからです。
外貨が底をつけば大陸の日本陸軍は全滅していました。(高橋是清自伝参照)


※以上は、東近研の落合さんのご意見を参考に掲載させていただきました。



ねずきちさんより 日心会メルマガ が届いていました。
ありがとうございました。

続編として掲載致します。


  

桜えび通信

2012-04-27 16:23:25 | 本の話・素敵な話

我が家の息子が、ある日景品のジャガイモかなんかに釣られて、東日本ハウスの住宅展示場に行った・・と思ってください。

それは、本当に4~5年前のことだったと思うんです。
あれから息子は離婚したり再婚したり・・いろいろありましたが・・

その東日本ハウスの担当者の方が、それから定期的に手作り(たぶん)のハガキを我が家に送って下さる。
息子はすでに家を出ていましたので、読むのは この私。
1枚のハガキに小さな字でびっしりと、日常のあれこれが書かれているの。

どこそこのお店の・・そう 思い浮かぶのは、フルーツパフェ かな。
美味しいお店の紹介とか 彼の周りで起こった事件とか・・それは思い出せないけど

とにかく 読む気にさせてくれる訳です。
何年間も続く彼の根気と情熱みたいなもの 感じていました。

たまたま友人から「人気スィーツ」の話が出て 高いけど美味しいという例の フルーツパフェ

これが大人気ですぐに売り切れてしまう そうで
そこのお店の噂 『知ってる』って思いましたね。・・彼のおかげで。

そのうち、その彼が人事異動で どこそこの部署に 移ることになりました ってハガキが来た。

へええ もう終わっちゃうんだ。 ちょっと残念。


それから またしばらくして 『桜えび通信』が届いた。

彼は出世していました。
なんとかの責任者 になったらしい事は、最後のハガキに書かれていましたが、その桜エビ通信は封書で しかもバージョンアップしている。


★最近の癖のある人・・★ には
・・癖のある人ですぐ思い浮かび、その癖が微笑ましいのが、長嶋茂雄さんです。この人は現役時代、閃きがあると夜中でも素振りに行くそうです。合宿中も同じ大部屋の一番奥から、バットを持って5,6人踏み潰して行くそうです。これがまた憎めない・・・


★お出かけグルメ情報 究極のスイーツ特集!★
・・実は今日一番お勧めしたいスイーツがあります。人生が変わるスイーツがこの世にはあるんです。実はかき氷なんです。まだ時期は早いですが、究極のかき氷が存在します。『かき氷なんてたかがかき氷でしょ』つて誰もが言うと思いますが、まずは食べてみて下さい。人生が変わるほど美味しいんです。たかが氷ですが、まず使っている水が違うんです。そしてその氷で作った氷を日本刀のような刃で細かくきざむと食べたことのないかき氷が誕生します。そのお店は夏のかき氷だけで、御殿が建ちました。食べたら、本当に人生が変わります。○○の○○○にある末永というお店です。隠れた名店で、あまり知られていないんです。冬は焼き芋を売っています。その焼き芋も独自の窯を使って作っているので、ものすごく美味しいです。ぜひ食べてみて下さい。・・・それから写真が3枚
夏のかき氷のれんの玄関と、小さな机と椅子、焼き窯 の写真

それを読んで私がどうしたかというと・・
市内の地図を見て場所を確認したの。

夏になったら 絶対に 食べに行こうと思った。

たぶん、かき氷で建てた御殿は 東日本ハウスさんが建てたんでしょうね。

それから
★ララバイ!こやま・・・★
宴会部長であり芸達者のこやまくんが卒業することになりました。リーマンブリッジの他、数々の伝説を残したこやまくんの卒業は非常に残念ですが、さくらえびのスタッフがアーティストとして活躍することは非常に嬉しいことです。アパレルの世界をこやまブランドで埋め尽くすという野望をぜひ実現して欲しいと思います。

それからこやまくんの写真が5枚・・とっても暖かい気持ちになりました。

我が家は当分家を建てる予定はないけど、建てるなら 彼に頼みたいね!

忘れずにお便りくれて ありがとう~♪



杉原千畝 命のビザ

2012-04-27 15:46:29 | 本の話・素敵な話

■□【1】杉原千畝 命のビザ

日心会メルマガ  転載です。
http://www.nippon-kokoro.com/


杉原千畝(すぎはらちうね)、外務省に訓令違反を問われ辞職を余儀なくされ、生存中その名誉を回復されることなく昭和六十一年(1986)にこの世を去った、リトアニアの元総領事の話です。

平成四年に、加藤剛が杉原千畝を、秋吉久美子が妻の幸子を演じた「命のビザ」がテレビで放送されましたので、ご覧になった方も多いとおもいます。

杉原は、明治三十三年元旦(1900)、岐阜県加茂郡八百津町に生まれました。

第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情し、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ六千人にのぼる避難民を救ったのです。 

その避難民の多くは、ユダヤ人でした。 
独ソ不可侵条約の機密議定書によって、リトアニアが、ヒットラーからスターリンへの贈り物とされたことが、昨今の情報公開で明らかになっています。
リトアニア在住のユダヤ人は逃げ場を失ったのです。

ほとんどの国の領事館は、スターリン支配下になったリトアニアから逃げ出していたため、ビザの発給が出来ませんでした。

そこで、日本を経由して亡命したいユダヤ人は、首都カウナスにあった日本領事館へ殺到したのです。
二百人以上の人々が、領事館の周りに集まってきていました。


杉原は、彼らの中から、英語かロシア語の話せる五人の代表者を館内に招き内情を聞きました。 
領事館の周りは、時間が経つに連れて、さらに避難民が集まってきています。
彼らは、ただ静かに待っているのです、杉原の決断を。

当時の日本は、ドイツと軍事同盟を結んでいました。
日本の外務省は、ユダヤ人に対するビザの発給を拒否するように杉原に訓令したのです。

しかし、彼は、外務省の訓令を人道上の理由から無視することにしました。
一ヶ月間、杉原は朝から晩まで一日三百人を目標に、ビザを発給し続けたのです。
勿論、手書きです。

一人一人に会い、氏名・国籍・住所・年齢、最終目的の国などを聞き、日付を入れ、サインをして、日本領事館の印を押し続けたのです。
途中で万年筆も折れ、ペンにインクをつけて書き続けました。

やがて、リトアニアを併合したスターリンのソ連からも退去命令が届きます。
そのような時、東京の外務省から、「至急リトアニアの領事館を閉鎖してベルリン(ドイツ)の大使館に移れ」という新しい指令が届きました。

彼は、意志を曲げませんでした。
領事館を閉鎖した後は、市内のホテルに移ったのですが、そこでもビザの発給を続けたのです。
退去期限が過ぎ、ベルリン行きの国際列車に乗り込んだ後も、窓から身をのり出し、発車ぎりぎりまでビザの発給を続けたのです。

ついに、列車がベルリンに向けて動き出しました。

杉原 「許して下さい。 私にはもう書けません。皆さんのご無事を祈っています」
杉原は、列車の窓から身をのりだし、涙ながらに人々に言ったのでした。

避難民「ミスタースギハラ、私達はあなたのことを決して忘れません。必ず生きてもう一度お会いしましょう」

列車と並んで泣きながら走ってきた人々も、杉原一行の姿が見えなくなるまでいつまでも叫びつづけていました。

杉原が発行したビザは、2,139通であると言われています。
そして、そのビザを持ったユダヤ人たちは、身動きが出来ないほど詰め込まれた列車で、数週間をかけてロシアを通り日本に到着し、敦賀や神戸で数多くの親切な日本人に助けられ、無事にアメリカやイスラエルなどの安全な国に行くことが出来たのです。

昭和二十二年(1947)、戦争が終わって日本へ帰ってきた杉原は、外務省から辞職の勧告を受けました。
理由は、訓令違反です。
体のよい追放です。

そして、リトアニアでのことをいっさい人に話すことなく年月が過ぎていったのです。
その杉原にイスラエル大使館から電話があったのは、昭和四十三年(1968)八月のことでした。

あの時、リトアニアの領事館内に代表として入れた五人の避難民代表の一人、ニシュリという男性が在日イスラエル大使館に参事官として勤めていたのです。
ユダヤ人たちは二十八年間も杉原を探し、ようやく彼を見つけたのでした。

ニシュリは、杉原に会うと、ぼろぼろになった1枚の紙(杉原が発給したビザ)を見せました。

ニシュリ「ミスター・スギハラ、あなたが私を覚えていなくても、私は1日もあなたを忘れたことがありません」

二人は、手をかたく取り合って涙を流し再会を喜んだのです。
杉原の功績に対して、昭和四十四年(1969)には、イスラエル政府から勲章が授与されました。

昭和六十一年(1986)、杉原は八十六歳でこの世を去りました。
その前年の昭和六十年(1985)にイスラエルから、ヤド・ヴァシェム賞を日本人として初めて受賞し、
「諸国民の中の正義の人賞」を贈られ、その偉大な業績を称えられたのです。

故小室直樹は地団駄踏んで、
「なぜ杉原を戦後イスラエルの大使に任命しなかったんだ」と悔しがっていました。
官僚機構の膠着と出世を妬む輩の中で、訓令違反だけが残り、彼の残した絶大なる業績は全く無視されてしまい闇に葬られてしまっていたのです。
もし、彼がイスラエルの大使に任命されいたら、その後の国際情勢の中でどんなに日本は有利になったかしれません。

ソ連が解体し、リトアニアが独立すると、杉原千畝の快挙を記念したスギハラ通りができ、またイスラエル政府は、杉原氏を顕彰したのです。

こうしてナチスヒットラーに抵抗した杉原千畝の功績を外務省は無視出来ないようになったのです。
杉原の名誉回復は、四十六年後の平成三年(1991)になってやっとおこなわれ、外務省は杉原千畝の遺族に謝罪しました。

外務政務次官の鈴木宗男代議士が、
「領事時代の杉原氏の行為を訓令違反としたのは誤りであった」と。

幸子夫人は「杉原が生きていた時分ならもっとよかった」
当然の思いです。
なぜ、杉原が生きているうちに、外務省は謝罪が出来なかったか。

リトアニアが独立してスギハラ通りが出来ていなかったからです。
世界のマスコミが、まだ、スギハラの功績について騒ぎ立ててはいなかったからです。

杉原の人道的措置を称讃し、彼を厚遇し、戦時中のユダヤ人虐殺計画協力を否認することが、戦後外交の立場をいかに強化するものであるか。
このことに、少しも外務省は気付かなかったのです。

辞職を余儀なくされた杉原は、随分と力を落としたようです。
戦後は、外務省の友人といっさい付き合いませんでした。

辞職後は、幾つかの職を経たあと、得意のロシア語をいかして貿易会社に入り、七十五歳までの十五年間、モスクワに単身赴任。
退職後帰国して、昭和六十一年に八十六歳で亡くなったのです。

必要も無いのに、ドイツのユダヤ人殺戮に協力した外務省。
この協力するという訓令の主旨が無意味になっても、訓令違反だけが厳しく問われたのです。

ドイツと同盟を結んでいたのですが、ユダヤ人殺戮の要請はなかったし、条約もなかったのにです。
ナチス・ドイツは消えてなくなったのに、訓令違反だけが生きていました。

ソ連が解体することがなければ、リトアニアが独立することがなければ、杉原千畝の名誉回復はなされなかったことでしょう。

日本の大きな組織の中では、このように、エリートと呼ばれる以外の傍流を歩く人は、庇われることも無く、無視され続けることがよくあるのです。

真珠湾攻撃における開戦事後通告という史上空前の大失敗をやらかしながら、その張本人である井口貞夫参事官、奥村勝蔵書記官は腹を切ることもなく、その後は出世して勲一等まで貰いました。

一方で、訓令違反の杉原千畝は追放。
エリート畑の身内は、国益を無視して迄も庇います。



参考資料
#1「日米の悲劇」小室直樹(光文社)790円
#2「これでも国家tよべるのか」小室直樹(クレスト社)1,600円
#3「杉原千畝と日本の外務省」杉原誠四郎(大正出版)1,800円
#4「杉原千畝の悲劇」渡辺勝正(大正出版)1,500円
#5「6000人の命のビザ」杉原幸子(大正出版)1,575円



自助の精神

2012-04-27 13:43:04 | 本の話・素敵な話

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■□【1】自助の精神
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ほとんどの日本人は、その意識の中に「自分は中流だ」というのがあるのではないでしょうか。
これは、「中流」の生活程度に関して答えたものですが、実のところその定義ははっきりしていません。

ある種の横並び意識で、経済成長によって、上流階級しか得ることの出来なかった製品/娯楽/趣味/教養などが自分たちにも届くようになったということでしょうか。

「中産階級」という言葉があります。
これは、経済的な状態を表す用語です。

一方「中流」というのは、社会的階級を示す用語なのですといわれています。

つまり、「中産階級」のシンボルを手に入れたというだけでは、
「人に頼らずに計画的に生きてゆける」という「中流」の生き方に届いていない、ということになります。

肝心なことは、
「人に頼らずとも生きてゆける」 という自助の精神です。

本来、日本の「中流」の強みはここにありました。
そしてそれは今でも健在であることを、東日本大地震被災地の人々は示してくれました。

厚労省が発表した平成23年10月のデータによると、生活保護を受け始めた世帯の3月からの累計は、全国で904世帯、4月の323世帯が申請のピークで、以後減少してるといいます。

津波で住居、働き場所、商店、学校など生活をしていくための基盤が根こそぎ破壊されたにも関わらず、生活保護に頼る世帯が減少している。。。。東北人達の強い自助精神を感じないでしょうか。

日本財団は、ボランティア団体に資金援助する一方で、個別に弔慰金/見舞金の支給を実施し、岩手/宮城/福島の各県の遺族に一人当たり五万円を配分しました。

ある福島県の御婦人は、
「主人も、もらっていたので」と返却多層されたといいます。

体育館に避難していた別の御婦人は、
「こうしていると、何でももらえるのでありがたいが、子供に “もらい癖”がつくのではないかと心配です」 と訴えたそうです。

阪神大震災の時、直ちに百円玉入りの封筒をたくさんつくって神戸に行き、
「これで電話をかけなさい」
「これでコンビニに行きなさい」と、預金者でない人にも配った銀行の頭取がいました。

住所/氏名を書くだけで渡したのですが、後日、ほぼ完全に回収されたといいます。
これが、日本の「中流」の持つ自助の精神、互助の精神です。

「人に頼らず計画的に生きてゆける」こと。
これが日本国民のあるべき姿で、これこそが一国が独立する力の源です。
この自助と互助の精神が、失われたら日本が日本でなくなってしまう。

「武士は食わねど高楊枝」 は、日本の美意識でありました。
それは、「人に頼らず」という自助の精神に支えられていたからです。
貧しくとも、それが立派な生き方なのだと思っていたのです。

明治の日本人は、どうであったか。
一つのエピソードがあります。

慶應義塾がまだ出来たばかりの頃、池田成彬らという学生がいました。
ある宣教師が、「奨学金をつけてあげるから」と、米国ハーバード大学への留学をすすめました。

喜んで行ってみると、いきなり、
「支給する奨学金は無い。 まず一年間勉強して良い成績をとってからだ」 というので、
池田は途端に苦学生になってしまいました。

学生食堂で、友人達が食事をしているのに給仕をしたり、先生のために図書館へ行って本を取って来たり、スクールボーイとしての毎日を送っていました。

帰国する金もなく、貧乏のどん底生活をしていると、見るに見かねて援助をしようというアメリカ人が現れたのです。 けれど池田は、飛びつきませんでした。
明治時代の日本人は、根性があったのです。

池田「なぜ、自分に金をくれるのか」
アメリカ人「貧乏で見ていられないからだ」
池田「それでは困る。 頭が良いからだ、と言ってくれ」
アメリカ人「それはまだ分らない。 一年たって試験の成績を見なくては言えない」

池田は、「貧乏が理由で他人から金をもらっては物乞いになる。自分は、米沢藩の家老の息子で、もとはといえば武士である」と、奨学金を断り、結局、日本へ帰ってきました。

福沢諭吉塾長にその旨を報告すると、福沢は、
「それでは慶應で奨学金を出すからここの卒業生になりなさい」と笑って言ってくれました。

池田成彬は、卒業後、三井銀行に入って常務になり、やがて三井合名という持ち株会社の理事になり、昭和12年には日銀総裁、13年には大蔵大臣にも成ったのですから男です。
その根性と気位の高さと頭の良さは、伊達ではなかったのです。

曾野綾子が、著書「揺れる大地に立って/東日本大地震の個人的記録」の中で、敗戦後の貧困の凄まじさについて、
「健康保険も、生活保護も、避難所も、仮設住宅も、ボランティアの支援もなかった時代に、今の八十代/九十代の人々は住む家も焼け、衣服も食糧も日本中になくなった中で、生きなければならなかったのだ」と書いています。

今回の被災地の避難所で暮らす高齢者に供される「上げ膳据え膳」の弊害を説き、「被災者だから、ただでご飯を作ってもらって食べていればいいということはない。 生きるということは、必ず何か仕事を自分で見つけて働くことだ」と述べています。

「自助の精神を失ってはならない」ということなのです。
大東亜戦争で廃墟と化した日本は、アメリカからの無償の「ガリオア・エロア資金」で復興しはじめました。 ところが、アメリカは後年この無償の資金を返却を要求してきたのです。
日本人は、アメリカの変心に恨み顔を見せず、交渉を重ねながら減額を要求し、昭和48年迄に黙々と働いて返したのです。

「他国からの借金は、踏み倒すのが最善であるあたりまえ」とばかり、いっこうに日本に返済をしない国がある中で、日本は、完済したのです。

人々に、自助の精神があったからです。

昨今では、義務教育だからと言って子供の給食費を払わない親がいるそうです。
平成21年だけでも推計26億円の未収金です。
給食費未払い、不正生活保護受給などなど、こういう乞食根性の輩が増えて来ると大変なことになってしまいます。

米国がアフガニスタンから撤退する理由は、財政難でもなく、兵隊の士気の低下でもなく、支援の名の下にアフガニスタン人の人々に「もらい癖」が高まったためだそうです。

日本の周りには、「貰えるものは、歴史や事実を捏造してでももらう」ことを繰り返す国がありますが、自立の精神を失うと、国家として存続することさえ危なくなります。

「自助の精神」「互助の精神」がなければ、いかに経済発展や軍事力の強大さを誇って見せようと、日本の成功と同じ成功は望めるはずがありません。

以下からの引用です。
#1:「超先進国日本が世界を導く」日下 公人(PHP)1,500円
978-4-569-80175-9

#2:「 揺れる大地に立って/東日本大地震の個人的記録 」曾野綾子
1,000円(扶桑社)
978-4-594-06473-0



あるレジ打ちの女性

2012-04-26 06:14:00 | 本の話・素敵な話

日本の心をつたえる会 サイト 転載

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■□【1】あるレジ打ちの女性
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その女性は何をしても続かない人でした。
田舎から東京の大学に来て、部活やサークルに入るのは良いのですが、すぐイヤになって、次々と所属を変えていくような人だったのです。

そんな彼女にも、やがて就職の時期がきました。
最初、彼女はメーカー系の企業に就職します。

ところが仕事が続きません。
勤め始めて3ヶ月もしないうちに上司と衝突し、あっという間にやめてしまいました。

次に選んだ就職先は物流の会社です
しかし入ってみて、自分が予想していた仕事とは違うという理由で、やはり半年ほどでやめてしまいました。

次に入った会社は医療事務の仕事でした。
しかしそれも、「やはりこの仕事じゃない」と言ってやめてしまいました。

そうしたことを繰り返しているうち、いつしか彼女の履歴書には、入社と退社の経歴がズラッと並ぶようになっていました。
すると、そういう内容の履歴書では、正社員に雇ってくれる会社がなくなってきます。

ついに彼女はどこへ行っても正社員として採用してもらえなくなりました。
だからといって生活のためには働かないわけにはいきません。

田舎の両親は早く帰って来いと言ってくれます。
しかし負け犬のようで帰りたくはありません。

結局、彼女は派遣会社に登録しました。
ところが派遣も勤まりません。
すぐに派遣先の社員とトラブルを起こし、イヤなことがあればその仕事をやめてしまうのです。

彼女の履歴書には、やめた派遣先のリストが長々と追加されていきました。

ある日のことです。

例によって「自分には合わない」などと言って派遣先をやめてしまった彼女に、新しい仕事先の紹介が届きました。
スーパーでレジを打つ仕事でした。

当時のレジスターは今のように読み取りセンサーに商品をかざせば値段が入力できるレジスターではありません。
値段をいちいちキーボードに打ち込まなくてはならず、多少はタイピングの訓練を必要とする仕事でした。

ところが勤めて1週間もするうち、彼女はレジ打ちにあきてきました。
ある程度仕事に慣れてきて
「私はこんな単純作業のためにいるのではない」と考え始めたのです。

とはいえ、今までさんざん転職を繰り返し、我慢の続かない自分が彼女自身も嫌いになっていました。
もっとがんばらなければ、もっと耐えなければダメということは本人にもわかっていたのです。
しかしどうがんばってもなぜか続かないのです。

この時、彼女はとりあえず辞表だけ作ってみたものの、決心をつけかねていました。

するとそこへお母さんから電話がかかってきました。
「帰っておいでよ」
受話器の向こうからお母さんのやさしい声が聞こえてきました

これで迷いが吹っ切れました。
彼女はアパートを引き払ったらその足で辞表を出し、田舎に戻るつもりで部屋を片付け始めたのです。

長い東京生活で、荷物の量はかなりのものです。
あれこれ段ボールに詰めていると、机の引き出しの奥から1冊のノートが出てきました。

小さい頃に書きつづった大切な日記でした。
なくなって探していたものでした。

パラパラとめくっているうち、彼女は
「私はピアニストになりたい」と書かれているページを発見したのです。
そう。彼女の高校時代の夢です

「そうだ。あの頃、私はピアニストになりたくて練習をがんばっていたんだ。。。」
彼女は思い出しました。

なぜかピアノの稽古だけは長く続いていたのです。
しかし、いつの間にかピアニストになる夢はあきらめていました。

彼女は心から夢を追いかけていた自分を思い出し、日記を見つめたまま、本当に情けなくなりました。
「あんなに希望に燃えていた自分が今はどうだろうか。履歴書にはやめてきた会社がいくつも並ぶだけ。
自分が悪いのはわかっているけど、なんて情けないんだろう。
そして私は、また今の仕事から逃げようとしている。。。」

そして彼女は日記を閉じ、泣きながらお母さんにこう電話したのです
「お母さん。私 もう少しここでがんばる」

彼女は用意していた辞表を破り、翌日もあの単調なレジ打ちの仕事をするために、スーパーへ出勤していきました。

ところが、「2,3日でいいから」とがんばっていた彼女に、ふとある考えが浮かびます。
「私は昔、ピアノの練習中に何度も何度も弾き間違えたけど、繰り返し弾いているうちに、どのキーがどこにあるかを指が覚えていた。そうなったら鍵盤を見ずに楽譜を見るだけで弾けるようになった」

彼女は昔を思い出し、心に決めたのです。
「そうだ。私は私流にレジ打ちを極めてみよう」と。

レジは商品毎に打つボタンがたくさんあります。
彼女はまずそれらの配置をすべて頭に叩込むことにしました。

覚え込んだらあとは打つ練習です。
彼女はピアノを弾くような気持ちでレジを打ち始めました。

そして数日のうちに、ものすごいスピードでレジが打てるようになったのです。

すると不思議なことに、これまでレジのボタンだけ見ていた彼女が、今まで見もしなかったところへ目がいくようになったのです。

最初に目に映ったのはお客さんの様子でした
「ああ、あのお客さん、昨日も来ていたな」
「ちょうどこの時間になったら子ども連れで来るんだ」とか、いろいろなことが見えるようになったのです
それは彼女のひそかな楽しみにもなりました。

相変わらず指はピアニストのように、ボタンの上を飛び交います。
そうしていろいろなお客さんを見ているうちに、今度はお客さんの行動パターンやクセに気づいていくのです。

「この人は安売りのものを中心に買う」
とか
「この人はいつも店が閉まる間際に来る」
とか
「この人は高いものしか買わない」
とかがわかるのです。

そんなある日、いつも期限切れ間近の安い物ばかり買うおばあちゃんが、5000円もするお頭付きの立派なタイをカゴに入れてレジへ持ってきたのです。

彼女はビックリして、思わずおばあちゃんに話しかけました。
「今日は何かいいことがあったんですか?」

おばあちゃんは彼女ににっこりと顔を向けて言いました。
「孫がね、水泳の賞を取ったんだよ。今日はそのお祝いなんだよ。
いいだろう、このタイ」と話すのです。

「いいですね。おめでとうございます」
嬉しくなった彼女の口から、自然に祝福の言葉が飛び出しました。

お客さんとコミュニケーションをとることが楽しくなったのは、これがきっかけでした。
いつしか彼女はレジに来るお客さんの顔をすっかり覚えてしまい、名前まで一致するようになりました。

「○○さん、今日はこのチョコレートですか。でも今日はあちらにもっと安いチョコレートが出てますよ」
「今日はマグロよりカツオのほうがいいわよ」などと言ってあげるようになったのです。

レジに並んでいたお客さんも応えます。
「いいこと言ってくれたわ。今から換えてくるわ」
そう言ってコミュニケーションをとり始めたのです。

彼女は、だんだんこの仕事が楽しくなってきました。
そんなある日のことでした。

「今日はすごく忙しい」と思いながら、彼女はいつものようにお客さんとの会話を楽しみつつレジを打っていました。

すると、店内放送が響きました。
「本日は大変混み合いまして大変申し訳ございません。どうぞ空いているレジにお回りください」

ところが、わずかな間をおいて、また放送が入ります。
「本日は混み合いまして大変申し訳ありません。重ねて申し上げますが、どうぞ空いているレジのほうへお回りください」

そして3回目。
同じ放送が聞こえてきた時に、初めて彼女はおかしいと気づき。周りを見渡して驚きました。
どうしたことか5つのレジが全部空いているのに、お客さんは自分のレジにしか並んでいなかったのです。

店長があわてて駆け寄ってきます。
そしてお客さんに
「どうぞ空いているあちらのレジへお回りください」と言った、その時です。

お客さんは店長に言いました。
「放っておいてちょうだい。私はここへ買い物に来てるんじゃない。あの人としゃべりに来てるんだ。だからこのレジじゃないとイヤなんだ」

その瞬間、レジ打ちの女性はワッと泣き崩れました

お客さんが店長に言いました。
「そうそう。私たちはこの人と話をするのが楽しみで来てるんだ。今日の特売はほかのスーパーでもやってるよ。
だけど私は、このおねえさんと話をするためにここへ来ているんだ。
だからこのレジに並ばせておくれよ」

彼女はポロポロと泣き崩れたまま、レジを打つことができませんでした

仕事というのはこれほど素晴らしいものなのだと初めて気づきました。
すでに彼女は昔の自分ではなくなっていたのです。

それから、彼女はレジの主任になって、新人教育に携わりました。

彼女から教えられたスタッフは、仕事の素晴らしさを感じながら、お客さんと楽しく会話していることでしょう。

木下晴弘著 涙の数だけ大きくなれる フォレスト出版より
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このお話は、Facebookで拾ったお話です。
http://1minute.raindrop.jp/?p=5100


日本の心を伝える会
<代表者ブログ>
ねずきちの ひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/