昨日5月2日(月)から日本経済新聞朝刊で「新しい日本へ」という連載が始まっています。
まあ通りいっぺんの論調はさておき、2日も本日2日も興味あるところがあったので、メモを残しております。
2日の記事
失敗学で有名な東大名誉教授畑村洋太郎さんが話したこととして
「見たくもないものは見ない。考えたくないことは考えない。米国は考えようと努力する国。日本は考えないままにしておく国」
アメリカのことは知りませんが、日本のことはそうだなとよくわかります。
ではなぜアメリカは考えようとする国なのか・・なぜ日本は考えないままにしておく国なのか・・
畑村教授が書かれた本に何か答えがあるのか・・とすぐ答え探しをしたがりますが、これを自分で考えることに意味があるような気がします。
それからこの記事の最後、
「・・政治家も、官僚も、企業も甘かった。次の世代へ教訓を刻むのは今しかない。」
経済新聞だからこういう書き方になるのかもしれませんが、国民という言葉はないのかな?と。
記事の最初に個人が防塁堤のあたりに家を建ててはいけない話がありますが、昔からの言い伝えに従い、自分の家を建てる場所を選らずことくらいしか、国民が主体的にできることはないのか?
ここでも最近強く感じることを改めて感じました。
それは・・政治家、官僚、企業という前に国民個人は?
これからは(というよりずいぶん前からそうだったかもしれないけれど)、権威あるいは大きな力に頼らず、国民一人ひとりがどうすべきか、個人であっても、地域が、あるいは日本国がどうあるべきかを考えないといけないのではないでしょうか。
それから3日の記事
「井の中」の技術立国として、日本には優れた技術があるものの「その場しのぎの対策」であったり、「組み合わせて実社会の問題解決に活かす力が乏しい」とありました。
庶民が最高峰の知にどうのこうの言えるはずもありませんが、大学どうしが個々の大学のことばかりを考え、日本の知としてどうあるべきという話がないなあとか、研究費が取れて自分の研究が続けられます・・なんて話はよく耳にする話で、
最高の頭脳を与えられた人たちが高所から物を見ずして、日本って誰が天下国家を考えるんだろうって、いつもながらではありますが、寂しくなってしまいます。
それにしてもメディアというもの、問題提起をすれば役割は終わるのかもしれませんが、最近どの記事を読んでも「だから、何?」って感じてしまうのはなぜでしょう?
まあ通りいっぺんの論調はさておき、2日も本日2日も興味あるところがあったので、メモを残しております。
2日の記事
失敗学で有名な東大名誉教授畑村洋太郎さんが話したこととして
「見たくもないものは見ない。考えたくないことは考えない。米国は考えようと努力する国。日本は考えないままにしておく国」
アメリカのことは知りませんが、日本のことはそうだなとよくわかります。
ではなぜアメリカは考えようとする国なのか・・なぜ日本は考えないままにしておく国なのか・・
畑村教授が書かれた本に何か答えがあるのか・・とすぐ答え探しをしたがりますが、これを自分で考えることに意味があるような気がします。
それからこの記事の最後、
「・・政治家も、官僚も、企業も甘かった。次の世代へ教訓を刻むのは今しかない。」
経済新聞だからこういう書き方になるのかもしれませんが、国民という言葉はないのかな?と。
記事の最初に個人が防塁堤のあたりに家を建ててはいけない話がありますが、昔からの言い伝えに従い、自分の家を建てる場所を選らずことくらいしか、国民が主体的にできることはないのか?
ここでも最近強く感じることを改めて感じました。
それは・・政治家、官僚、企業という前に国民個人は?
これからは(というよりずいぶん前からそうだったかもしれないけれど)、権威あるいは大きな力に頼らず、国民一人ひとりがどうすべきか、個人であっても、地域が、あるいは日本国がどうあるべきかを考えないといけないのではないでしょうか。
それから3日の記事
「井の中」の技術立国として、日本には優れた技術があるものの「その場しのぎの対策」であったり、「組み合わせて実社会の問題解決に活かす力が乏しい」とありました。
庶民が最高峰の知にどうのこうの言えるはずもありませんが、大学どうしが個々の大学のことばかりを考え、日本の知としてどうあるべきという話がないなあとか、研究費が取れて自分の研究が続けられます・・なんて話はよく耳にする話で、
最高の頭脳を与えられた人たちが高所から物を見ずして、日本って誰が天下国家を考えるんだろうって、いつもながらではありますが、寂しくなってしまいます。
それにしてもメディアというもの、問題提起をすれば役割は終わるのかもしれませんが、最近どの記事を読んでも「だから、何?」って感じてしまうのはなぜでしょう?