ゆきさんのブログ

元お祭りオヤジの周辺・・・

秩父中近笠鉾

2007年12月08日 14時33分47秒 | 祭人
合併になって二本松市は埼玉県秩父市と人口は同じくらいになった。
ただ、町の中にある施設やお店などのあり方をみる限りにおいては、相当
秩父は都会である。
東京からのアクセスは、当然のことながら、二本松の方が断然よい。
しかし、熊谷と甲府を結ぶ国道140号線沿いにある秩父市には、やはり
産業の底力というものがあるようだ。

秩父夜祭で全国に知られる秩父神社例大祭は300年近い歴史をもつ、国
の有形、無形重要文化財に指定されている。夜祭観光のために多くの観光
客が全国から集まるが、秩父祭りの歴史には、観光協会との摩擦が大分あ
ったようだ。あくまで神社の神事として祭りを維持しようとする屋台保持
町内連合と、多くの観光客に秩父へ来てもらい、祭りを通して経済的恩恵
得たいと考える商工会を中心とする観光協会の間には、考え方の違いによ
ってだいぶもめた時期があったようだ。

秩父夜祭の詳しい内容については中近笠鉾で太鼓係りをしている中村知夫
さんの「秩父夜祭の基礎知識」をご覧下さい。そちらによれば、
屋台曳行ひとつにとっても、時代の流れと秩父社会の変遷が大きく影響し
ているようだ。上町、中町、本町の三台の屋台は町の中心に町内が存在し、
秩父屋台祭りの中心として存在してきた。
明治初期に秩父屋台祭りは整備されて現在の形になったようだが、豪華な
屋台をもてる経済力があった。絹産業は町々を潤したが、その中心となっ
ていたのは、現在の町の中心に位置する前述の町内なのだが、後に、秩父
の中心街を取り巻くように宮地町、中村町・近戸町、下郷にも人口の流入
があって力をつけてゆき、やがては屋台や笠鉾を持つ町内にまで発展して
きた。
しかし、絹産業が化学繊維に押されて衰退すると町の構造や勢力も変化し
てきたようである。現在では、新興勢力の方が活気があり、中心部には、
当然のように住民が少なくなって屋台祭りの維持も容易でないようである。
例えば、曳き手の数の減少は、自分の町内でまかなえなくなっているよう
である。
町の中心部を考えると二本松のそれともオーバーラップして見えてくる。

秩父屋台祭りの先頭を行く中近笠鉾牽引に平成15年と今年の二度参加さ
せてもらった。前回は大綱を曳く曳き手を、今回は笠鉾の周りで写真を
自由に撮らせていただいた。
朝の曳き始めから、仕舞いの収蔵庫収納、そして、翌日の解体まで撮影
させてもらった。
多くの人の温かい対応で秩父祭りの中心が少し見えたように思えている。
秩父・中近笠鉾は三層の花笠をつけ、上部に万灯をもつ江戸屋台の豪華
版である。大正初期の電化により笠鉾の曳行はできなくなってしまった。
本来なら頂点まで20メートルもあるが、現在は、笠をつけずに、替わ
りに大榊をつけて曳行されている。八棟造りという側面にも顔をもつ鉾
だが、明治13年造営のこの笠鉾の豪華さと精密さは筆舌にしがたい。
解体に立ち合わせていただき、そのすごさを正に拝見したところである。
部品の数でいえば、笠鉾を付けない状態でも二本松の太鼓台に比べて
10倍はあるだろう。特に、彫刻のすべてが彩色、部材には打ち金物が
付けられ、それぞれの取り合いには細密な細工が施されている。組み上
げるには全体的な知識と卓越した取扱技術が必要と思われた。彫刻は
組み上げに際して、落下防止のためか裏側で必ず朝紐で縛りつけられて
いる。

部品が多いので、飾り物は収納箱の機能的に収納される。収納に際して
のノウハウも大変参考になった。彫刻や部品はひとつひとつ写真撮影さ
れて木箱のふたの裏側に貼り付けられており、収納に際して間違うこと
はない。また、彫刻の塗装を保護する意味か、薄い絹が収納箱に片側の
み固定されて取り付けられており、彫刻を入れたあとにカーテンのよう
に掛けられる。収納箱の箱書きには明治13年の文字がある。そして、
その箱は傷んではいなかった。何故なら、箱は決して地面にじかに置か
れることはない。4寸角の角材にはコの字型に毛布が巻かれている。
これにより収納箱も傷むことが少ないようだ。
解体の最後は下部の構造部と4つの車輪だけになってRC造の巨大な
収蔵庫にしまわれ、シャッターが下り、防火戸が閉められる。
この収蔵庫は国から保存の為に1町内あたり5千万円の予算がついたそ
うである。それにしても立派な収蔵庫でした。
まだまだ、語ることはあるのですが、とりあえずの見聞録とします。



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