ゆきさんのブログ

元お祭りオヤジの周辺・・・

あなたが居なくても鉾は立つ

2005年09月18日 09時14分12秒 | 祭人
数年前、NHK特集で京都の祇園祭に長年携わってきた人のドキュメンタリーが放映された。
その人は京都の老舗のご主人で、ある町内では中心的に祭りに関わってきた人だった。その
人の口癖は「私が居なければ祭りは成り立たない」であった。
しかし、その人も病気で亡くなった。ご主人をふりかえって「あの人が居なくても鉾は立つ
のですね」と奥さんがしみじみと語った。今年も何も無かったように自宅前を通過する鉾が格
子戸ごしに見える。  千年の歴史・・・。

私も祭りの中心に居たとき「自分が居なければ祭りは成り立たない」という意識で太鼓台の
維持管理について勉強したり、祭りのあり方について妥協のない組織づくりに関わって
きたと思う。しかし、伝統の祭りにとっては、あるいは、長い歴史の中にあっては、そんなこ
となど一瞬のことでしかない。先輩だった人から「あなたが居なくても太鼓台は動く」と
言われたけれど、正に現実はそうなった。

自分が祭りの中心に居ると見えないことがある。近視眼でしか物事を見れないのだ。本人は
さも客観的に見ているようでも、実は非常に保守的で独善的な見方だったのだ。物理的にも、
最近は精神気にも二本松提灯祭りを俯瞰できるようになると別のものが見えてくるものだ。
祭りの中心に居るということ=人から見られる側に居るということだ。格好のよい所を見ら
れるのは気持ちがいい。ハレの舞台ならなおさらだし、それに応えようとする気持ちが祭り
に対する意識、知識、保存方法などの習得などについて自らのスキルを向上させて来たと思う。

だが、それはどんなに本人がそう思っていても、やはり自己満足の域を出てはいなかったのだ。

見る側に自分が立ったとき、後祭りの最後の最後に思う寂しさがいつでも自分の上にあるよう
な気がしてならなかった。「祭りは見るものではなく、祭りはやるものだ」と。
中心から外れた今、祭りを多くの人に本当の祭りを伝えたいという気持ちで出版活動を行って
いる。そして、少なくとも「祭りは自分が居なければ成り立たない」という気持ちを撮影や
執筆などの表現により伝えてゆきたいと思う。

激しく祭りに自己をぶつける若連の諸君を見ている自分が直接太鼓台に触れているような気に
もなってくる。だから、そんな熱いシーンのシャッターを切れる自分の指先が震える。

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