ゆきさんのブログ

元お祭りオヤジの周辺・・・

提案者は誰だ!

2005年05月20日 10時00分42秒 | 祭人
新しい動きを始めるにはエネルギーが要る。
まして、前例がないことや反対者が多い事についての場合ならことさらのことだ。
昔から持論にしてきたことは「池に石を投げる人」になろうである。そして、そういう考え方
は常に間違っていないと考えてきた。
しかし、しかしである。それは、自分自身が石を投げて良い立場にいるかどうかが問題である。
例えば、自分がある組織に属していて、その組織を改革するために一石を投ずるなら、投げて
もいい人間であるかどうかについては問題にはならない。
だが、部外者だったとしたら。他の家の池に石を投げたら「おまえ、何ゆえに投げるんだ」と
言われるだろう。

ポイントはここにある。他の家の池に石を投げて良いかどうか・・・。
それは、池がその家のものなら、間違いなく違反行為と言われるだろう。
世の中、すべてがこのように単純明快なことだけで済むなら世話はない。
その池というものが「万人に共通の問題」という池だったら・・・。これは、その石を投げる
人が誰でであっても「部外者が余計なことをするな」とは言えないだろう。

さて、二本松提灯祭りの話である。
この祭りは誰もものか、ということを考えれば話は分かりやすい。
地元に脈々と続けられて来た祭りは、一個人のものではない。
さらに、祭りを現在催行する当時者だけの祭りではない。地域の人々の心の拠りどころである
祭りなら、それは「みんなの祭りである」と言える。
祭りを私物化してはならない。ややもすると、祭りの中心にいる人達だけのもののような錯覚
をすることがある。それは間違いだ。
一年を地域の人たちが心待ちにしている大切な年中行事なのだ。特にこの地方の人達にとって
は暦の重要な部分を担っている。もしかすると、盆や正月以上の存在かも知れない。


さて、休日開催の提案や祭礼のあり方について提案するのは誰がするべきなのだろうか。
祭りは時代とともに進化し、時の流れに乗りながら変化して来た。だから、今現在にその形と
存在を許されているのだと思う。
私が流れを作ろうと言っているのではない。朝祭りが時代にそぐわない形式であったから、中
止されて今の形に変化してきた。朝まで祭りをやれない時代背景になったのだ。
同じような意味で、今の時代にあう形を考えなくてはならないのではないか、と言っているの
である。

新しい動きにはエネルギーが要る。
歴史がある祭りだからこそ、個人で変えられるようなものではない。皆がしっかりと議論を
重ね尽くし、そして、必要なら今ある形から進化させる意味で変化して行かなくてはならない
のではないだろうか・・・。
今、それを継続的に話し合う場所がない。何度も繰り返して言っているが「若連は単年度制で
継続審議をする役目は重過ぎる」のだ。

せめて、それを話し合う場所を作らないか!