ゆいもあ亭【非】日常

映画や小説などのフィクション(非・日常)に関するブログ

古いメモから② 『〔完本〕黒衣伝説』 または 文学のデモン。

2007-02-22 | 読書
 文系、殊に文学の方法というのは実に「借り物」と「パッチワーク」で出来上がっているという感じがある。論の着想は、あたかも子どもが初めてことばを獲得する際にそうであるように、ある時、爆発的に意味をもってつながり、姿を見せる。一見して直感的ではあるものの、複数の概念や、複数の論説が蓄積されたときに「不意に形を得て立ち上がるもの」に、論理性を与えるという方法を、文学という学問は意識的・無意識的に使ってきたという気がするのである。

 つまりは、それ自体が「関係妄想」的方法とでもいうべきものだと気が付いた。結局、「文学」は実質上の学問にはならないな。方法が既にして神憑りなのだから。そう、常にデモンの囁きなんだ。

 ささやき声は、みだりに発してはならないそうな。ささやきとは「笹焼く神事」に関係するという。火にくべた笹はパチパチと幽かな声を発する。それが神の啓示であるという。真実や未来を、告げる声であるという。(昔、講義中の私語を、そういって戒めた石上堅先生の、仰ったことだ。民俗の常識みたいにお話になったのが今でも思い出される。)

 六条戻り橋。その下には鬼神がいる。辻神の一種だ。人々の口に上すことばの端々に、真理を載せるそうな。ただひとりが神憑りになるのでなく、複数の人が無意識に、各々にばらばらに語ることが聞き手に伝わったときに聞き手の中で意味を為す、安部清明の逸話にもあるな。

 それが、陰謀であるという。悪意ある、作為ある「ささやき」で、不都合な思想を持つ人間を狂気に追い込もうとするという。たとえばそういう話なのだ、朝松健の『〔完本〕黒衣伝説』などは。

 それは、怖ろしい。実に怖ろしいことなのだ……。

 ……と、まあ、怖ろしさの意味が伝わっただろうか?

*今日は「親指さがし」を鑑賞した。この感想も先送りです。*