現在、SNSの普及により、デマや簡単にヒトを陥れる動画が満ちあふれています。そんな中でも人間に希望を見いだして、明るい未来を模索できるでしょうか。実はそういう人間観を持つことは大切です。絶対的肯定感ですね。もちろん、SNSの使い方の真善美は存在します。偽悪醜で使っている人も多くいます。しかし、どうも平気でそういう使い方のできる人にもその人たちなりの理由があるようです。そういう人らをただ一蹴するのではなくきちんと分析してあげることが必要でしょう。大体、こうかくと、「左」「リベラル」「共産党」とかレッテルを貼り付けて来る人が多いです。そして、輪を掛けて事実を正確に把握して批判する態度が悪のように言ってきます。また、それに賛同してしまう人の如何に多いことか。
残念ですが、ヒトの世を正確に批判できないようになってしまってはいけませんが、でたらめに抗議し脅迫をすれば人の道に叛きます。しかし、そういうことをしてしまうのもヒトなのです。実はこの事を我々の前に明らかにした人でありまた、神であるキリストという存在を忘れてはなりません。ヒトは浅はかです。しかし、それもまたヒトです。そういうヒトへの関心を愛を持って持ち続けることの必要性をこのカリタスカウンセリングの学びを通して気づいていただけるとよいと思います。
ねっと SNS による選挙を始めとする様々な活用が巷間喧しいですが、皆様はいかがですか。長い長い人類史の99%は狩猟生活らしいので、こんなものはたいした問題でもありません。どうせ私もあと20年ぐらいでこの世ともおさらばですし。
そう言われては何もかも面白くないよ と言われそうですがね。長い長い人類史の歴史から語れば、大変つまらないことですよ、ということです。溌剌として生きていくためには様々なことを取捨選択して日々を過ごすことが必要です。しかも、その選択は自分にとって有意義な物であるのが幸福に繋がります。人は理想と現実のギャップで悩んでいくわけですが、瞬間瞬間の選択ミスをできるだけなくしたいですね。誰しも「失敗」だったと思って後悔する選択は持っています。失敗やマイナスの感情はとても大切な「宝」ものです。決して卑下したり絶望することなく、幾度となく繰り返す失敗を大切な物として経験として蓄積してほしいと思います。
所詮、いつか死ぬのです。そのとき私の魂は愛に包まれて、幸せなのです。ランダースの犬のネロはかわいそうでしょうか、それとも幸せだったのでしょうか。つまりこういうことです。
『生き甲斐の心理学』6頁
私達は心優しい「神様」ではありませんので、「愛」とは何か、愛を実践するにはどうしたらよいのかは日々の生活体験の中で、感じ、後悔、反省を繰り返して「訓練」するしかないようです。それが、6頁 第1章で書かれている最大のテーマかなと思います。
象徴的な「カウンセリング」の場面としてのイエスがサマリアの女と交わす会話。そこには愛による洞察があり、意識下にしまい込まれていた女の「愛の孤独」感をえぐり出します。もちろん、女自らが気が付くことになって行くのですが。
傾聴の大切さと「愛」の実践には訓練が必要だということ。そこで必要なことは、先ずは自分にとっての「愛の原型」えお考察する必要があるということです。皆さんにとっての愛の原型は?自分が最初に「愛されていたなぁ」と感じた事や時っていつですか?他人に関心が向かって、他者の分析も必要ではありますが、その前に自分の分析を確実なものにしておくことが必要です。まず御自分の「愛の原型」を突き止めてみようではありませんか。
愛の国 2
利己主義、賄賂や収賄、こどもの権利や社会的弱者への援助は後回しにされています。古来宗教はこういう人間の陥る邪悪な行動への警鐘を鳴らし続けています。愚かな我々は、どうしても己の快楽を追求します。そして、そのことに何の疑問も持たずに死んでいくのですが、私を含めて少なからずの人たちは気が付いています。しかし、それが運動体として集団化すると「権力欲」という欲望に囚われてしまいます。聖書ではそういう現象を「悪魔の誘惑」として聖書で記しています。預言者たちはエデンの園に代表される愛の国の理念に立ち返るように絶えず諭しますが、なかなかそうはなりません。国連憲章、日本国憲法に表現されている理念です。残念ながら私利私欲だけの信仰や生き方が横行してしまいます。
さて、お盆の日本ですが、オリンピックから何を学びましたでしょうか。今回も私はいろいろな学びがありました。
私も60歳となり、改めて自分の来し方を見つめる機会をもちました。カウンセリング理論の学びの師U先生に「真善美」に基づいたここ37年の仕事と共にあった人生を振り返る機会を与えていただきました。
50頁にわたって論文を作成したのです。いろいろな気づきがありました。
20代からの人生で60歳になって「自分が統合されている」という自覚が持てました。悲喜こもごもの人生ですが、無駄なこと、無意味なことは全くなかったと確認できました。「真善美」に照らしますと、醜いできごと、悪い事、正しくない行いなど「負」の要素を多く行ってきたのも事実です。しかし、それも私の生き様なわけです。ショックを受けたり、事業で成功したり、身内の不幸に見舞われたり、様々なことを統合していけるのが今のような気がします。それができるのは、死が近いからだと思っています。今更ジタバタできな
い。ならば、悪い事も醜いことも一切合切引き受けて死んでいこう、とも取れます。
残り20年が面白い。そう思えるかどうか。人生を楽しむ智慧がためされていますね。