威風堂々

晴れ晴れと、伸びやかに日々を過ごすために。
「心」と向き合うことで、日々の健康を大切にしましょう!

漱石先生 10

2015年07月31日 | 文学・評論(現代・近代)


ユーモア小説

英国文学のジャンルにありますが、漱石先生は『我が輩は猫である』というユーモア小説の金字塔を打ち立てています。もともとあった諧謔趣味に起因はしていると思いますが、俳諧というか俳句というか、本来の諧謔的趣味の俳諧が好きであったような気がします。それは、友人正岡子規との出会いは大きかったと思います。私は、漱石が東京外大だったか、師範学校だったかの教職の職を擲って松山中学に入ったというのは、正岡子規の影響だったと思っています。多分肺病を患っていた正岡子規、その友人と語り合う機会を持ちたかったのではないかと思っています。(勝手な独断ですが)

「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」これは正岡子規の辞世ですが、死に及んでも、この句が生み出せる子規の感性。受け取り方は人様々ですが、これは漱石の気持ちをつかんだことだと思います。子規と軍人との結びつきを小説にしてベストセラーになったりしていますが、果たして子規が日清戦争で従軍記者をして得たこととはどんなことだったのでしょう。おっと、脱線、、、。私は松山まで行った漱石はいろんな意味で東京から親友のいる松山へと勤め先を変えたと思っています。まだ、30歳前ですからね。

と、「ホトトギス」に我が輩は猫であるを掲載して、好評を得てゆくわけですが、彼のユーモアセンスは、正岡子規の楽天的かつ地方的感覚から大きな影響を受けていると思われます。





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漱石先生 9

2015年07月30日 | 文学・評論(現代・近代)
 
『こころ』のKはなぜKなのか。調べていますが分かりません。Kは非常に真面目な生き方をする青年として登場し、自分の意気地なさに自死してしまうのですが、それを後押ししてしまったと思う「先生」は重い罪の意識にさいなまれて生涯を送ります。

私は、ドストエフスキーの『罪と罰』と此の作品を読み比べます。漱石は、ニーチェ、キルゲゴール、ドストエフスキーは読んだらしい。英語訳でしょう。で、『罪と罰』での主問題、「自分の正義は他人を殺してまでも達成することは義なのか」という問いかけを『こころ』で行っているというのが私の仮説です。漱石の場合、自己本位を押し通す時に他人を蹴落としても構わないのか、ということになるのですが、Kの自殺にいたる過程が非常に計算されていて面白い。このテーマは僕にとっても普遍的テーマなのです。自分の目的を達成するためには他人の人生を犠牲にしても仕方がない?なぜならば自分が行うことは正義なのだから。これは、いろんな犯罪、オウム事件、宗教問題、戦争、政治、商売など様々なシーンで出てきますよね。そこで生き抜くことが出来ないKと神を信じることで復活を希望し、シベリヤ流刑を受け入れるラスコーリニコフ。クニが違い、作家の生い立ちや編集者の意図も違ったと思われますが、大変興味深いのです。皆さんももう一度『こころ』を読み直すと今の日本が見えてきますよ。きっと。これが、なぜ高校生の国語の教科書に必ず出ているのかも分かると思います。






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漱石先生8

2015年07月28日 | 文学・評論(現代・近代)


「田舎の高等学校を卒業して東京の大学に入った三四郎が新しい空気に触れる、そうして同輩だの先輩だの若い女だのに接触して色々に動いてくる、手間は此の空気のうちに是等の人間を放すだけである、あとは勝手に泳いで、自ら波瀾が出来るだらうと思ふ、さうしてゐるうちに讀者も作者も此の空気にかぶれて是等の人間を知るようになる事と信ずる、もしかぶれ甲斐のしない空気で、知り栄えのしない人間であったら御互に不運と諦めるより仕方がない、ただ尋常である、摩訶不思議はかけない。」

明治41年8月19日 『東京朝日新聞』 これは、『三四郎』の予告文。漱石が新聞連載作品について最初にコメントした記事である。


熊本、第五高等学校で英語教授をしていた漱石。その途中で英国留学を命じられた。第五高等学校時代の教え子も有名人が沢山いるが、寺田寅彦先生などは代表格。『吾輩は猫である』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八のモデルとも目されているかたです。この方の文章力はたいしたものです。是非何か随筆をお読み下さい。まずは青空文庫、キンドルで無料で読める「コーヒー哲学序説」なんかは如何でしょう。

天災は忘れた頃にやってくる ってやはりこの人の言なのだろうか? 然もありなんと思えるぐらいの筆致です。




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カリタスカウンセリング72

2015年07月22日 | 第九章 愛


『生き甲斐の心理学』  112頁


 「愛すべき親がどんなに変な人でも、子どもは天使のような美しい心を持つ場合が多いので、子どもは親のせいにしないで自分が全て悪いから、と思う傾向があります。子どもには生き抜く知恵もお金もない。頼るのは親しかいないことを子どもは本能的に知っています。食べてゆくには親に従う、と生存本能が教えてます。」

 子どもが何故親に逆らえないのか?  このことの基本原則の答えは上に書いてあるとおりで、これは「生物学の基本本能」のようです。

 幼児虐待のニュースがある度にこのことを考えます。愛着障害とかいろんな要因もあるのでしょうが、人類長い歴史の中で「遺伝」ほど大きなものはないでしょう。生物は大きなライフスタイルで動いています。地球の寒暖も、生物の存亡も、大きなダイナミズムの中で動いているわけです。 

 大きな流れの中で漂うようにあっちに行ったりこっちに来たりしているのが人間ですから日々生き甲斐なんて感じて生きるのは難しいかも知れません。また、日本人の変な美意識で、率直に感じる感情を受け入れたり、表面にわき出る感情を表すのを避ける傾向があります。例えば、幾ら旅の恥は掻き捨てといっても、店に備え付けられている水のポットから平気で自分の水筒に水を移すなんてことには抵抗感があるのですよね。ま、多分に民族性と言うよりパーソナルな問題が大きいかも知れませんが、、、。僕はこういうことを気にせず海外旅行先ではやるタイプの日本人ですが、、、。

 ま、広い視点で眺めましょう。





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漱石先生6 再録

2015年07月17日 | 文学・評論(現代・近代)

最近つらつら鑑みるにもう一度過去に書いた記事を載せたく思いました。


漱石の言いたかった「個人主義」とは何だろうか。

 金力、体力に勝る西欧に対等に渡り合うことを真剣に、あるときには諧謔的に思索していた漱石は徳力に力点を置いた時期があったように思う。肉体の力では負けるし、経済力で、科学技術で劣勢の日本がどうやって生き延びるのか。ま、世界史の中であるが、断っておくが私は右翼でも左翼でもない。愛国者ということは認めるが、それ以上でもそれ以下でもない。漱石は世界の中で日本が生き延びる方法は「個人が独立」した精神を持つべきであると考えたと私は思っている。

 よく、戦後日本人の精神性は「母子社会」「甘えの構造」と言われる。その通りだ。日本の古代史からずっとそうだ。漱石は明治維新を経て大正に向かう日本が、真に独立近代国家として良い国になるには、しっかりとした個人を打ち立てるべきだとかんがえたのではないだろうか。留学先のロンドンで、大英博物館の奥にある図書館で何を考えただろう。少ない官費で大学に入学することをあきらめた彼は、元大学教授を家庭教師に迎えシャークスピアを初めとする英文学者の文献を読みあさる。明治国家の意思は「英語教師」育成。漱石の意志は「英文学研究」。

 いつの時代も、国家は目先を考えて「学力」しか計らないし、多少外語ができて、理数ができると安心するようだ。だが、じつはそれでは何時まで経っても個人は独立しない幼稚な国家しか生み出せないのだ。この国は全くこの連鎖から抜けきれないようだ。大化の改新も外圧を感じて政治の刷新を試みたが、壬申の内乱後、外国から本格的に攻め込まれなかった日本。それはそれで幸せなことであるが、江戸末期は違っていたようだ。鴎外、漱石といった実に文豪と言うにふさわしい小説家も誕生している。

 これからのキーワードは個人主義だと思っている。もう組織に殉職する時代ではないと断ずるがいかが?





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