威風堂々

晴れ晴れと、伸びやかに日々を過ごすために。
「心」と向き合うことで、日々の健康を大切にしましょう!

2015年大晦日

2015年12月31日 | 文学(古典)

かげろふの あるかなきかにほのめきて あるはあるとも 思はざらなむ

『宇津保物語』に出てくる 短歌である。

自分の存在が 「はかない」ものであると云うことを言っている。

蜻蛉、陽炎、蜉蝣 と様々に漢字も意味もあるのだが、『蜻蛉日記』の場合、「陽炎」のニュアンスの方が正しいとされているようだ。いずれにせよ存在が「はかない」わけだ。

兼家という、風貌はどうかは知らないが、政治家として、男として後に、道隆、道長、詮子といった藤原一門の栄華の礎を固めてゆく御仁の妻となった、嬉しさと悲哀が込められた日記である。兼家のことが大好きで愛していたということがうかがい知れる。夫を思う悩みから、唐崎でのお祓い、初瀬詣で、石山詣でと信心に彼女の心は向かうわけだ。

「思へば、かうながらへ、今日になりけるもあさましう、御魂など見るにも、例の尽きせぬことにおぼれてぞはてにける。」
(思えば、こうやって生きながらえて、京になってしまったのも、意外なことで驚きで、御霊祭りなどを見るにつけても、いつものように付き無い物思いにふけっているうちに、今年も終わってしまった)   小学館「日本の古典」を参考に、

我が家も、家内と娘が料理をし、息子と私が洗濯、掃除で大晦日を迎えている。別に逆でも良いのだが、家内はどちらも上手く完璧。僕は料理をしようとしないからなぁ、、、。

皆様。よいお年を。



人気ブログランキングへ よろしくお願いします。 お読み頂きましてありがとう存じます。

蜻蛉日記はご存じですか

2015年12月30日 | 第五章 和解と平和


父は戦争体験者だ。父から慰安所のことは聞いている。こういった施設はなかった、とか占領地の人や、日本人のそういう商売の人、朝鮮人の人が食うに困って慰安婦になった、とか戦場にこういった施設は必要だとか、公的メディアで平然と言ってしまう男女のメンタリティー及び心理状態というのを分析するのは興味深い事ではある。結構人間としての根幹部分をどう捉えているかが分かる部分だからだ。

『蜻蛉日記』に描かれる日本女性の心理的原型から考察すると面白い。この日記は言わずと知れた「道綱の母」という兼家の妻が書き記したと言われる、世界に日本が誇る日記文学の最高峰の女流文学だ。900年代日本社会の支配階級に身を置く女性の”はかなき身の上”が表出されていることは周知の事実であろう。男が社会の構成上、上部を占めて、女性が隷属せざるを得なくなってしまってからずっと引きずっている人権上の欠陥が全世界にはある。で、その末端に位置しているのが、この「慰安婦問題」だと私は感じている。

こういった普遍的問題を顧慮せず、ただただ「日本だけが悪いのではない」「朝鮮に謝罪する必要はない」と言っているだけではいかがなものか。そう思いたい心情には同情は出来るが。歴史に”たられば”はないが、もしあれば立場が変わっていたかも知れない現象である。普遍的な主題を頭に入れて根本的な「平和」「人権」「理想」と云うことを強く人類に訴えるべきではないかといつも思っている。決して日本と韓国等の謝罪や補償といった問題ではないのだ。

『蜻蛉日記』の作者に本名はない。古来日本女性の名前は「無かった」のかと思うぐらい名前は伝わっていない。中宮、皇后クラスは別にして、、、。紫式部、清少納言、等。

道綱の母が夫兼家の通いを待つ姿。何を長谷寺にまで行って「観音」に祈ったのか。昔、長谷寺の牡丹を観賞しながら「はかなさ」に思いを致したことを思い出す。




人気ブログランキングへ よろしくお願いします。 お読み頂きましてありがとう存じます。

物語る 18

2015年12月29日 | 私のなりたかったもの
 生活のリズムみたいなものがあって年齢と共にそのリズムは幽かに変化する。変化に自分の心と身体が合わせていっているのか、肉体と精神の成長というか、衰えというかが、生活のリズム、質感を回転させて行くのかは知れないが、劇的な何か、それは人の生き方、死に方に関係することが圧倒的に多いのだが、が「私のリズム」を狂わせる。きっと実子の誕生は親の死よりも、自分の人生の調子を動かすに違いないのだ。





人気ブログランキングへ よろしくお願いします。 お読み頂きましてありがとう存じます。





悪夢

2015年12月28日 | 第三章 無意識の世界


私は夜よく夢を見ます。内容はあまり覚えていませんが、たまに覚えているときもある。誰かが家に侵入してくる状況があって「必ずうなされて」います。果たしてこれは無意識の状態がそうさせているんでしょうか?若い頃は、上から落っこちるって感覚の夢を見て「あーー」って感じで目覚めたり、金平糖の巨大な岩のようなものに追いかけられて「あーー」って感じで目覚めたり。最近それはとんと見なくなりましたが、誰かが家に侵入してくる状況がよくあります。不安感の表れだとは思うのですが、どうでしょう。

皆さんは、恐い夢と言えば、どのような夢をご覧になりますか?




人気ブログランキングへ よろしくお願いします。 お読み頂きましてありがとう存じます。

カタルシス

2015年12月27日 | 第二章 五感と体感


クリスマス

暖かいクリスマスであった。家族で教会に行った。私はミサ聖祭で心が洗われるのをいつも体感する。浄化されるという感じになるのだ。日頃自分が犯した罪を心に留めて、他人を許し、神様に救いを求めて、祈る。僕は人間がちいさいので日々、誰かを羨み、嫉み、悪口を言い、他人を責めている。決していつも善行を行っているわけではない。特に強いのは「嫉み」のような気がする。皆さんはどうだろうか。

最近はそんな自分を「認めている」。イイのだ。人を悪く思っている自分がいても。結構、嫌な奴とか、仕事をさぼる奴とか、意地の悪い奴とかがいるので、そんな奴のことを、「ま、あの人も可哀想だけどね」とか「可哀想だからフォローしてあげよう」とか思ってはいたが、もう疲れるので、当座感情的には率直に「腹の立つ」輩だと思うようにしている。一旦そう感じてから、また捉え直すようにしている。

心を健康に保つ秘訣として私は、祈る という所作を挙げておきたい。今年のクリスマスは家族でミサ聖祭に与ることが出来たので幸せであった。




人気ブログランキングへ よろしくお願いします。 お読み頂きましてありがとう存じます。