かげろふの あるかなきかにほのめきて あるはあるとも 思はざらなむ
『宇津保物語』に出てくる 短歌である。
自分の存在が 「はかない」ものであると云うことを言っている。
蜻蛉、陽炎、蜉蝣 と様々に漢字も意味もあるのだが、『蜻蛉日記』の場合、「陽炎」のニュアンスの方が正しいとされているようだ。いずれにせよ存在が「はかない」わけだ。
兼家という、風貌はどうかは知らないが、政治家として、男として後に、道隆、道長、詮子といった藤原一門の栄華の礎を固めてゆく御仁の妻となった、嬉しさと悲哀が込められた日記である。兼家のことが大好きで愛していたということがうかがい知れる。夫を思う悩みから、唐崎でのお祓い、初瀬詣で、石山詣でと信心に彼女の心は向かうわけだ。
「思へば、かうながらへ、今日になりけるもあさましう、御魂など見るにも、例の尽きせぬことにおぼれてぞはてにける。」
(思えば、こうやって生きながらえて、京になってしまったのも、意外なことで驚きで、御霊祭りなどを見るにつけても、いつものように付き無い物思いにふけっているうちに、今年も終わってしまった) 小学館「日本の古典」を参考に、
我が家も、家内と娘が料理をし、息子と私が洗濯、掃除で大晦日を迎えている。別に逆でも良いのだが、家内はどちらも上手く完璧。僕は料理をしようとしないからなぁ、、、。
皆様。よいお年を。
よろしくお願いします。 お読み頂きましてありがとう存じます。