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威風堂々

晴れ晴れと、伸びやかに日々を過ごすために。
「心」と向き合うことで、日々の健康を大切にしましょう!

高校生ならわかって欲しい 9

2024年03月17日 | 甘えの構造
そろそろ、小学校で道徳の授業を受けてきた高校生が生まれることだと思います。

パン屋さんを和菓子屋さんに変えろとか政治家から横やりがきて、そう変わったテキストです。儒教で言う『修身・斉国・平天下』がバックボーンにある。今の安部派・清和会の裏金騒動をどう考えるのでしょうか。道徳のテキスト、及び道徳の科目か(評価対象にする)を強く文科省に働きかけたのは清和会の政治家達です。きっと自分が行っているようなことを国民にして欲しいのでしょう。実に傲慢です。道徳を押しつけて、それを評価させる。自分たちのことは棚に上げています。だまされないで欲しいですね。では、何のために、儒教で言う『修身・斉国・平天下』という概念を利用するのでしょうか。家康や林羅山に聞いてみたいところですが、権力者が自分の利益を増やし、守るために利用します。それは、世界的なコンセンサスよりも自国の利益を優先するという保守の権化です。残念ですが、痩せたソクラテスには誰もなりたくない。かといって、教育で痩せたソクラテスにならず、自己利益を追求しなさいと道徳で教えるのでしょうか?少なくとも「阿部派」とは言わないでという人がいる限り、どうしようもないですね。

哲学を学んでほしいです

ネガティブなものとどうつきあうか

2019年11月30日 | 甘えの構造

君は仕事に行かなきゃいけないんじゃない。仕事をしに行くだけだ

何かの本で、記憶に残ったフレーズである。

「All work and no play makes Jack a dull boy」


どう解釈するかだが、月曜日には仕事でストレスがなくても出勤したくなくなるものである。通学も同じ。ストレスが重なっていようものなら尚更である。自分でもがいていてもどうにもならないことはたくさんある。だからといって他人は自分の困難を肩代わりしてくれない。精々声をかけてくれるだけだ。

「いつかはそんな苦労はなくなる」
「そういう役回りになったんだから仕方がない」
「いつでも言ってくれ、協力するから」

別になんの助力にもなりはしない。早くこの困難を取りのけて下さいと神様に祈るしかない。罪悪感、恥辱感、孤立感、停滞感、劣等感、やっかみ、嫉妬、なんで俺だけがうまく行かないのかと思う日が続くのである。結局戦うのは一人なので、無理なく、前向きに出来る範囲で戦うのである。


さて、明日もまた、サボりながら目の前の試練と闘おう





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甘えてばかりでいいのかしら

2018年11月18日 | 甘えの構造

優生保護法、水俣病、

高度経済成長を支えた日本人が背負うべき負の遺産をどれほどの日本人が認知しているのだろうか。

公害問題をおざなりにして、バブル崩壊が、ゆとり世代がと喧しいが、50年代から70年万博と、浮かれた面ばかりを強調して、またぞろ万博だ、オリンピックだと騒いでいるが、日本人はどうも昔から自分自身を反省するということが嫌いなようで、負の過去との清算をおざなりにして「戦後の総決算」を安売りしている。

本来、60歳を過ぎたら年金をもらって悠々自適に老後が送れる制度、それが日本国の年金制度だったはずだ。しかるに「70歳までは働きましょう」キャンペーンがはられているような気がしてならない。そして、こんなことを言っているのは僕だけのような気がする。孤立感がある。これも、優生保護法を、生産性を上げるためには、障害者を増やすのは得策ではない。障害者の面倒は見られない。何も身体障害者に限らない。精神疾患者に関しても同じだ。結局、犯罪者は即死刑、という極論にまで行き着く思考経路がずっと日本人の、自分を健常児だと信じて疑わない人たちに多く働くわけだ。残念ながら国の根幹を占める「保守派」層に多い。良識派の保守(僕のような)迄もが「あか」(これも、極端な決めつけだが)呼ばわりされる風潮が非常に困ったものといわざるを得ない。何時までも経済発展が人に幸せをもたらすという短絡思考の人が多いので絶望しかないが。

『無常といふこと』の小林秀雄が生きていたら、何と言うであろうか。彼の洞察は鋭く、分析ばかりでは答えは出ない、とあっさりいいそうだ。譲って、江藤淳でもよい。渡辺昇一では下品すぎるので駄目だ。保守思想は「世界」と繋がらないといけない。皇族のこともそうだが世界史的に俯瞰しておかないと、結局何時までも、日本語を国語と呼び、日本の歴史を国史といって平気な「井の中の蛙大海を知らず」で終わってしましそうで嫌だ。


明日ありと思ふこころの仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

これは親鸞上人の歌と言われているが、まぁ、誰かが作って親鸞のものだとして、ああなるほど、親鸞ならこういうだろうということで巷間広まったと思わる。

これには「油断せず、日々たゆまぬ努力を怠るな」という意味もあると確信している。自らの過去を反省するところから現在を生き抜き、未来に希望を託さないといけない。実にまともなことだと思うがそうはなっていない気がする。

               険呑なる哉






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いろんな誘惑

2018年11月03日 | 甘えの構造


私たちは、様々な事象に対して、日々怒りや悲しみや悔しさを感じてその日を生き抜いている。親愛なる人の死。財産を失う。大いなる裏切りに出会い信頼関係を失う。

なぜこんなことをあれこれと考えたかというと、『文藝春秋』9月号を読んで感じた感情なのだ。特に、清原和博氏の手記を読んで。ご存じあのPL出身のスラッガー。読売巨人軍に入った人だ。最も、FAして阪神の吉田義男氏に自分は絶対阪神に入る気もないのに面談した人だ。(^_^)

個人的な好き嫌いでいえば、桑田氏も含めて好きなタイプではない。だが、薬物依存症患者としてみると悲痛な叫びを感じて同情を禁じ得ない。薬物依存に至る経緯はいろいろとあると思われる。現実的には、そこを掘り下げるよりは、如何に薬物に頼らずに生活できるかに重点が置かれる。

私も煙草を吸っていた。切っ掛けはある。

今は止めて3年。だが、吸いたい気持ちは今でも感じる。だから、一本に手を出せばなし崩しに喫煙が復活してしまうと思う。

人間は何かに依存して生きる必要もあるかも知れない。よく心が強いとか弱いとか表現されるが、依存がすべて悪いという分けではない。上手にコントロールを、自分の精神をコントロール出来るかどうかというところが肝心だ。

清原氏の完全復帰は相当に難しそうな気が手記を読んで感じた。そこに私は「甘え」の構造を垣間見たからだ。







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