シニア花井の韓国余話

韓国交流50年の会社経営を引退しソウル定住の日本人が写真とともに韓国の案内をします。

韓国の道徳性は本当に日本より優れているのか【コラム】 

2015年06月27日 10時24分54秒 | Weblog
(投稿者注)
「韓国の方が日本よりも道徳的に絶対優位」に関しては???でしかない。
長年韓国に住んでいてそれを感じたことが無い。
何を根拠の話しなのかが???だ。
韓国人の「何でも一番」の迷信?のようだ。
「韓流ドラマ・携帯電話・半導体・自動車などで日本をしのぐ成果を挙げてきた」も???だろう。
特に携帯電話・半導体・自動車などは、今でも日本の部品や技術が無ければ作れない。
重要部品は殆んどが日本に頼っている。


「三島由紀夫作品盗作」指摘に韓国大手出版社「申京淑の描写の方が上」!?
どんな盗作も本物は超えられない
韓国の著名な女性小説家・申京淑(シン・ギョンスク)氏(52)の盗作問題を、韓国文学界のごく一部の問題として受け流すには時期が良くなかった。韓国は今、歴史問題で日本と激しく対立している状況だからだ。韓日国交正常化50周年にもかかわらず、韓国が批判をやめないのは、韓国の方が日本よりも道徳的に絶対優位だと信じる気持ちがベースにあるためだ。しかし、韓国の看板作家が日本を代表する作家の作品を盗作したという騒動は、そう信じる気持ちを揺るがす。しかも、「申京淑氏の描写の方が(日本の作家の作品より)比較的優位にあると評価する」という大手出版社「創批」の反論は、韓国が主張する道徳的優越性がどれだけお粗末な基盤の上にあるのかをありのままに示している。
 「まねるにしてもなぜ、よりによってあの作家のあの作品なのか」ということから考えなければならない。「天皇万歳」と叫んで切腹した右翼作家・三島由紀夫の猟奇的な性向を語ろうというのではない。三島は日本の現代文学において「日本の美学」を最も見事に表現した小説家だと評されている。日本語の観念性を守るため、自然の音をそのまま表現する擬音語さえ「言語の堕落」だとして排撃した日本文化の純血主義者だ。申京淑氏が書き写した小説『憂国』は彼の美学的な執着と屈折した右翼思想が一語一句に凝縮された作品だ。今ではソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)上の冗談で使われるありさまとなってしまった「喜びを知る体」という表現だが、こうした背景や歴史を踏まえ、どのような重層的な意味を持つかを考えたとしたら、申京淑氏はあえて三島の文章を性愛表現のツールとして盗用できなかっただろう。
事実、韓国文化界による日本の作品からの盗作・模倣は昨日今日の話ではない。歴史学者イ・グァンリン氏は、1895年に出版された朝鮮時代末期の政治家・兪吉濬(ユ・ギルジュン)の著書『西遊見聞』について、主要部分に該当する2章分の文章の半分が福沢諭吉の『西洋事情』を書き写したものだと指摘した。韓国初の近代化書籍は盗作だったのだ。もちろん、知的所有権の概念が希薄で、近代文明の吸収が切実に求められていた時代背景を考えると、事情は十分に理解できる。福沢が自身の出版社を通じて『西遊見聞』を出版・配布したことも考慮すれば、兪吉濬が書き写すのを理解・承諾していたものと思われる。
 近代以降、韓国にとって日本は西欧文明を吸収するのに便利な経路だった。チェ・ギョンオク教授が書いた『翻訳と日本の近代』によると、英語の「society」という単語が日本に紹介されたのは1796年だった。この単語が日本で「社会(しゃかい)」と翻訳され使われるようになったのは1870年代だ。「society」に込められた近代的な意味を日本は70年間にわたり考え続け、最も近い単語を定着させたのだ。この言葉はその20年後、特に検討されることもなく韓国で「社会(サフェ)」として使われるようになった。もし日本が漢字を使っていなかったら、韓国も70年間、同じことで悩んだかもしれない。憲法第1条に出てくる「共和」「主権」「国民」「権力」も日本で作られた訳語をそのまま受け入れたものだ。いや、そもそも「憲法」がそうした単語だ。
これは幸いなのか、それとも不幸なのか。近代西欧文明の概念を大して苦労することなく理解できたのは幸運だ。だが、近代的な単語が似てしまい、日本をまねするのにだんだんと慣れていったのは不幸だった。1980年代まで韓国のタレントたちはアイデアが尽きると釜山に行き、電波を受信できる日本の番組を見てまねた。そのようにして日本のアニメ『マジンガーZ』は韓国アニメ『テコンV』に、日本のドラマ『おしん』は韓国戦争(朝鮮戦争)後の貧しさを描いたドラマ『カンナニ』に、日本全国をめぐる視聴者参加番組『NHKのど自慢』はKBS放送の『全国歌自慢』になった。各大手企業グループの会長たちが日本に長期滞在した後、「日本構想」という名で新事業を展開し、学界を代表する権威ある学者たちでさえ、日本の書籍を自身の著作物だとして盗作した。もちろん、みんなそうだったというわけではない。だが、一部のごく少数の話でもない。少なくとも1980年代まで「日本」というキーワードなくして韓国経済史・韓国文化史を語るのは困難だ。今の40-50代たちにとって、子どものころの思い出は、かなりの部分で日本の子ども文化の思い出をそっくりコピーしたようなものだ。
 韓国人は「日本を超えた」と言っている。1990年代から韓流ドラマ・携帯電話・半導体・自動車などで日本をしのぐ成果を挙げてきたのは事実だ。しかし、他人が真剣に悩んで生み出した結果物を恥じることなくまねる習慣、問題が発生したら外国のシステムから拝借する習慣は大して変わらない。「まじめな努力と蓄積」という一流の条件がまだ不十分なのだ。「日本に比べ優位」と自慢している分野のほとんどが今、中国に追い付かれ、追い越されているのもこのためではないだろうか。渦中の出版社「創批」による「日本に比べ優位」という反論を聞くと、韓日国交正常化50周年を迎えた韓国の現実と内実を素直に省みずにはいられない。
国際部=鮮于鉦(ソンウ・ジョン)部長
韓国大手新聞 朝鮮日報15年6月26日記事抜粋


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