地遊人

日常のことごと、出来事を、気ままに書き記していく。
62歳からの自己整理・自己満足策とボケ防止挑戦プログ。

中山道を歩くー資料編⑦ー守山宿~大津宿

2009年04月09日 |    ・中山道資料編

09-4-5(日 )~7日(火)
中山道18(最終回)見る所
5日(日)新幹線 
  東京駅発 8:33(ひかり405号)
  米原駅着10:49
     発11;00
    (東海道・山陽本線快速(網干行)(快速))
  野洲駅着11:34
■守山宿(江戸から67番目の宿場)
守山宿は、「東下り」の場合に「京発ち守山泊まり」が一般的で、なかなかの賑わいを見せていたそうだ。
【八幡道(朝鮮人来朝道)】
【蓮照寺】
【近江富士(三上山)】俵藤太の百足退治で有名
【慈眼寺】伝教大師の創建と伝えられる古刹
【山中油店】清浄生掛の看板 
和ろうそくはハゼの木の実の油(木蝋)を固めて作る。清浄生掛(しょうじょうきがけ)というのは、一本一本手で作ることをいうのだと。記念に和ろうそくを買うか。  
【東門院守山寺】
守山の地名はこの寺によるといわれるが、この寺の名は、桓武天皇が「わが山を守り給う寺」という意味で名付けたという。東門院は延暦寺の東門の意で、「比叡山の東門として山を守る」ということになるそうだ。不動明王像と石造五重塔は、国重要文化財
【今宿一里塚】滋賀県唯一の一里塚
■草津宿(江戸から68番目の宿場)
中山道、東海道合流地。本陣2、脇本陣2、旅籠70軒の規模があったそうだ。
【伊佐佐神社】
【本陣(田中七左衛門)】(現存する本陣としては最大級)
大名などの休泊所で、草津に2軒あったうちのひとつで田中七左衛門本陣と称す。約4,800平方メートルという広大な敷地に、畳敷268畳部屋数39室あまりを数え、本陣としては最大のクラスを誇る。書院造りで、表門、御除ヶ門、敷台のある玄関、上段の間、庭と一定の型を示し、東海道筋の本陣で、ほぼ完全に残るのは、ここだけである。建物のほかに、多数の関札、182冊にものぼる宿帳など、貴重な資料が数多くあり、一部は展示されている。大福帳には、浅野内匠頭、吉良上野介、新選(撰)組、皇女和宮、シーボルト一行、徳川慶喜などの休泊がしるされている。 
【立木神社】
【野路 萩の玉川】
本日の宿泊
 ニューびわこホテル 大津市月輪1-9-18 TEL 077-545-0101
■大津宿(江戸から69番目-中山道最終の宿場)
【近江国一ノ宮・建部大社】
近江一ノ宮といわれ、滋賀県では一番古いお宮さんということになっている。「日本武尊」(ヤマトタケルノミコト)が祭神。 源頼朝が京都から伊豆へ流される途中、武運を祈り、後年それが成就したことから、「出世開運」の神様として知られる。なぜか、商売繁盛、縁結び、医薬品、醸造の神様としても、人々の崇敬を受けている。
【瀬田の唐橋】
日本史に関わりが深い橋として、日本三名橋の一つになっている。天武天皇元年( 672)の壬申の乱に際して、大海人皇子軍と大友皇子軍の決戦場となった橋で、“唐橋を制するものは天下を制す”と言われ、京へ通じる軍事・交通の要衝として幾多の戦乱の舞台になった。橋は幾度となく破却・新設・架替を繰り返し、天正3年(1575)には、織田信長が幅四間・長さ百八十間余りで欄干付きの物を建設している。現在の橋は昭和54年に架け替えられたもので、鉄筋コンクリート製、欄干には擬宝珠をつけ、情緒豊かな外観となっている。琵琶湖の排水川は、湖南端から流れ出る瀬田川のみで、橋の付近は近江八景“瀬田の夕照り”として古くから知らている。
○瀬田の唐橋を渡り、京阪石山坂本線「唐橋前駅」から、「石山駅」(1駅)へ
石山駅から徒歩10分で石山寺へ(往復なので、荷物は駅に預けよう)
【石山寺】(境内図添付)
西国三十三カ所観音霊場の第13番札所。奈良時代後期に、聖武天皇の発願により、良弁によって開かれた。広大な境内には、寺名の由来となった天然記念物の硅灰石(けいかいせき)がそびえている。国宝の本堂・多宝塔を始め漢書、仏像、絵巻など多くの国宝、重要文化財がある。
石山寺多宝塔
建久5年(1194年)に源頼朝が寄進したと伝えられる日本最古の多宝塔で国宝に指定されている。 均整のとれた優美な建築で、内部の柱や天井の廻りなどには仏像や草花などの絵が描かれている。
月見亭
近江八景「石山の秋月」のシンボルとなっている月見亭は、瀬田川の清流を見下ろす高台に設け られ、後白川天皇以下歴代天皇の玉座とされた。
石山寺豊浄殿
多宝塔の北西、石山寺の最も高いところに新設された宝物館。毎年春と秋の2回、石山寺に残されている宝物を紫式部などのテーマ別に一般に公開する。
石山寺(いしやまでら)は、滋賀県大津市石山寺1丁目にある東寺真言宗の寺院。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は良弁(ろうべん)である。石山寺は、京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場で、西国三十三箇所観音霊場第13番札所となっている。石山寺は『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。
平安時代には、宮廷の女人たちのあいだで、観音堂に参籠し読経しながら一夜を過ごすのが流行りました。紫式部はここに参籠して「源氏物語」の想を練り、また、清少納言、和泉式部、『蜻蛉日記』の藤原道綱の母、『更級日記』の菅原孝標の女なども石山寺のことを日記や随筆に記しています。石山寺は、芸術家や文人たちに深い感応を引き起こし、女流文学の開花の舞台となりました。その後も、松尾芭蕉や島崎藤村をはじめ、石山寺を慕う文人たちを多く集めています。
【義仲寺】
寿永4年(1185)木曽義仲は、源頼朝が遣わした源範頼・義経の軍勢とこの地で戦って敗死した。寺は義仲の菩提を弔って、愛妾の巴御前が建てた草庵が始まりとされている。のちの天文22年(1553)、近江源氏の流れをくむ佐々木高頼が、諸堂を建てて寺観を整えた。
日では埋め立てにより琵琶湖が遠のいたが、昔の寺域は粟津ヶ原と呼ばれ、湖畔をさざ波が洗う景勝地であった。この風光を愛した芭蕉は、大坂本願寺南御堂前の花屋仁左衛門の別宅で客死したが、遺言によりこの寺に葬られた。
境内には、本堂(朝日堂)・翁堂・無名庵・義仲墓・芭蕉墓・芭蕉句碑などがあり、全体が史跡指定になっている。
「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」芭蕉
○義仲寺を過ぎ、京阪石山坂本線「石場駅」から、「三井寺駅」へ(3つ目)へ
 三井寺駅から徒歩10分で三井寺へ(荷物は石場駅か三井寺駅で預けよう)
【三井寺(みいでら)】
天台寺門宗の総本山。境内には天智・天武・持統の3帝の御産湯に用いられた閼伽井(あかい)と呼ぶ井戸があり、「御井(みい)の寺」と呼ばれており、後に「三井寺」と通称されるようになった。国宝の金堂を始め、釈迦堂、三重塔、唐院など諸堂が建ち並び、国宝、重要文化財は100余点を数える。三井寺は、正式名は長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)といい、近江八景の一つ「三井の晩鐘」でも有名。 奈良時代、壬申の乱に敗れた大友皇子の霊を弔うために創建された古刹で、大津に都があった時代からの歴史を誇る。(平安時代、第五代天台座主・智証大師円珍和尚の卓越した個性によって天台別院として中興された)。勧学院は学問所として、1312(正和元)年に創立されたもので、火災や秀吉の破却にあったが、慶長5年に再建。南列の一之間と広い二之間には、 狩野光信による華麗な障壁画が部屋を飾っている。
【琵琶湖疏水(びわこそすい)】
琵琶湖から京都へ続く人工水路。着工から約4年8カ月かけて、1890年(明治23)に完成した。流通経路として活躍しただけでなく、水力発電や上下水道も整備したことで京都の都市機能は著しく発展した。春になると、大津港近くの取水口からトンネルまでの疏水沿いに桜が咲き乱れ、多くの花見客で賑わう。
○「三井寺駅」から「石場駅」に戻り、街道を宿泊地に向け歩く。
【大津事件】
明治24年(1891年)5月11日、日本を訪問中のロシア皇太子ニコライが、滋賀県大津市で警備の巡査・津田三蔵に突然斬りかかられました。幸いなことに津田巡査はすぐに取り押さえられ、皇太子も額に2ヶ所傷を負っただけで命に別状はありませんでしたが、一応大事をとり、そのあとの日程をキャンセルして数日後帰国の途に付きます。当時日本はまだ国際舞台に登場してから30年の弱小国、相手は大ロシア帝国ということで政府は震え上がり、明治天皇が事件の2日後には京都に駆けつけて皇太子の宿舎を訪問しお見舞いをするとともに、全国に鳴り物自粛の通達が出るなど、日本中が大騒ぎになります。全国からのニコライ皇太子へのお見舞いの手紙も1万通に及びました。政府は更にロシアに対して謝罪の意を明らかにするため、津田巡査を死刑にすべく裁判所に圧力を掛けます。しかし、法的に見ると被害者が日本の皇族であれば死刑を宣告することが可能でしたが、相手は外国の皇族であり、法律上は一般人と同じ扱いになります。従って怪我を負わせただけなのに死刑を宣告することは法的には無理がありました。このため裁判を担当した大審院(現在の最高裁判所)院長の児島惟謙は法治主義遵守の立場から政府の圧力をはねつけ、法定刑内で「無期懲役」の判決を下します。この事件はこのことにより、児島が司法の独立を守った事件として語り継がれることになりました。なお、このニコライ皇太子はこのあと悲惨な運命を背負っていました。この事件の3年後即位してニコライ2世となりますが、その10年後1904年にはこの日本と日露戦争を戦い、この戦争で、この地の果ての小さな島国に負けてしまいます。その戦争のさなか革命(ロシア第一革命)が起き、国内の舵取りに苦心することになり、宮廷内は怪僧ラスプーチンに荒され、最後1917年にロシア2月革命が起きると退位させられ、翌年家族ともどもレーニンらの革命政府に処刑されてしまいます。
本日の宿泊
  スーパーホテル大津駅前 大津市京町3-2-7  
             TEL 077-522-9000
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