SORA KAZE 

日々の暮らしでのデキゴトを綴ります。
女子大生満喫中の娘と高校球児な息子。
仕事と趣味と。そんなつれづれブログです。

女川と石巻へ。

2013-04-29 10:42:44 | 日記
女川と石巻。

落ち着いたら 自分の足でいこう と思っていた場所。
女川は娘がバスケ部で 何回も試合にいった場所。
石巻は昔2年、住んだ場所。
ラジオで聞いてテレビでみて。写真でみても。わかってはいたつもりだったけれど。
ダンナは仕事でその土地でその仕事をしているので聞いてはいたけれど。
実際にきて 見て。

とてつもない破壊力に茫然とするばかりでした。

その震災前の姿をよく知っているだけに…



石巻女子商業がとちゅう 跡形もなくなくなってるのに気づく。
あれっ。ここに高校あったよね? と夫に聞くと、もう完全解体しちゃったんだよ とのこと。

そして万石浦のあたりは 閉じた湾になっていたため 津波の被害がなく。ちょっとほっとしていたところ。

通り抜けて 女川の町にはいるあたり。

私の記憶。


両脇に家や店がたちならぶ 昔ながらの街並みを抜けると 左にいけば 女川病院にあがっていく道があって。 そっちにはあがらずに まっすぐいって 左折すると女川駅。右手は海。近くは銀行などが並ぶ中心地。コンビニが港近くにあって アイスをバスケ母たちや妹ちゃんたちと食べて。喫茶店で冷やし中華とかき氷を食べたこともあったな。 マリンパル女川という物産観光センターがあって・・・・

駅をとおりすぎ、ごちゃごちゃしてる街をぬけ。左側の山のほうにはいり、急な坂をのぼっていくと 女川一中に到着。
こんな高いところにあって 朝学校にくるの大変だよねぇ と雑談してたのが2011年 3月前のこと。


・・・・見渡すかぎり、女川病院、学校以外は、なにもない。

高台にある病院駐車場からの景色。360度。
海と更地、重機、土の山 だけ。




まるで 広大な埋め立て地の工事現場みたい。









 

こうやって 鉄筋コンクリートのビルが横倒しになって残されているのが 2つだけあるから。

ここが もと街 だったんだ とかろうじてわかる。





高さ20Mはあると思う処に立っている、女川病院。

ここの駐車場から ながめる景色に言葉がでない。

こんなに高いところにあるのに。ここの1階にまで津波は押し寄せ 数人亡くなったそうだ。

本当に信じられない。海がそこにあるのはわかるけれど。
まさか ここまで大きな津波がくるとは。

3階建ての自社ビルに避難との判断をとり、そこにとどまり13人中12人の行員を亡くした銀行の跡地を通ったとき。
お花がたくさんあったから 手を合わせたところ
署名をお願いされる。
避難の指示がおかしかったのではないか とわたしたち遺族は 会社側と交渉をしているところなんです と。
ニュースでなんども聞いたけれど。
「あの病院まで上がれば助かったはずなんです、周りの信金さんや企業さんはそうしているんです」と肩を落とす ご遺族の方のお気持ちを考えると、この2年 どれほどの想いをして過ごしてきたんだろうと胸がつまった。


喫茶店も。駅も。コンビニも。どこにあったのかわからないくらいに更地になっていた。
想像もつかないくらいの町の残骸を 処理していくのを指揮するのが今の夫の仕事。
きっと 瓦礫が残っていればここに町があったことは 忘れないのに。忘れられることもないのに。
思い出のかけらを拾いに 捜しにこられるのに。

あぁ 違うか。
いつまでも 町が壊れたままの姿をみるなんて 胸がつぶれそうだ って
息子の友達の おばあちゃんが ご主人と長男を亡くし、 仮設にはいっているけれどそう言ってたと聞いたっけ・・・
仮設住宅にいれば あの怖さと悲しさを毎日目にしなくてすむ って言ってるって。

町は 倒れたコンクリートの建物いがい 本当になにもなく。重機と 嵩上げ処理をするための 用意が進んでいた 工事現場になっていた。




右側に土嚢(黒い塊)が並んでるでしょう。
この高さ分、堤防や地面が陥没してしまい(土嚢の左側に堤防が下がってるのがわかる)。
満潮になると町に海が流れ込んでくるので、
急いで 堤防道路を作ったんだそう(人がたっているところ)。


町全体を嵩上げして。
そして 居住制限をかけて 復興をはかるそうなんだけれど。

走れども走れども 更地になっている中で。
そして 娘たちがバスケをした 中学校と 町の体育施設のあたりには仮設住宅がひしめく中。


あと何年したら いわゆる普通の街並みが戻るのだろう。

ここに住んでいた人たちの希望はいつ形になるんだろう。



移転して仮設店舗で営業している 海鮮丼を食べていくつもりだったけれど
(夫がおいしいんだよ ってよく言うから)
GWだからか 小さいお店が とっても混んでた。

あきらめて 仮設店舗で営業してる 物産展で しおから、海産物などを買って、石巻やきそばたべて、たこやきたべて、 ホタテの炭火焼きをたべてきた。


帰りには石巻の 沿岸地区を夫にまわってもらう。




テレビに何回もでてくる 門脇小。紅白で長淵剛が ライトを照らして歌った学校。 夫がうちの現場から 5分くらいのところだよと紅白をみたとき言ってたところ。

校庭のなごりは、たぶん これ バックネットの基礎。ここ 正門前の階段。それだけ。





津波が3階まできたうえに、火災になってしまって。それでも屋上に避難した人を助けた学校。
なんて悲しい悲鳴を上げ続けてきた学校なんだろう。
もう悲鳴をだすことはやめて 静かにたってた。
この学校に通っていたこどもたち。卒業生の人たち。
どんな気持ちでここを通るんだろう。


近くの住宅地は 私が石巻にいたころ、人気の住宅地だったのよね・・・
門脇かぁ 便利でいいとこね 今 おうちがどんどん建ってるわよねって母親学級などで関わったひとたちがいってたもの。

いまは
ぽつん ぽつん と今風のかわいいおうちがあって。
でも1階のドアも窓もわれてるか 板止めされてあって。

居住制限がかかっていため リフォームもできずにそのまま 残ってる。
すめそうなのに。直せばまだまだ 新しいおうちだろうに・・・

ほかのおうちは 解体されていて、もう更地。

基礎部分だけ のこってるとこもあるけど
草がはえてて目をこらさないとわからない。

田舎にはよくある  まだまだ発展してない田舎町の光景に変わってしまってた。


ミニバスの会場だった 野蒜近くの町の体育館はもう取り壊されて あとかたもなかった。

海岸線ぞい、ずっと広大な 計画がたてようもない工事現場のような風景が続いてた。


沿岸被災地の人たちも
希望をもって笑顔で ずいぶんみんな新しい場所で動き出しているけれど。

ここに戻ってきたとき。
ここが わが町だったのよ と思い返すことすら切ないだろうな。。


夫の職場の 広域震災廃棄物処理場を みて。
広大すぎる敷地と 莫大すぎる処理物の山をみて。
おおきくて 映画のような焼却炉の場で
災害の残骸を最後はもやして灰にすることしかできない
無常さに なんとも言えない気持ちになった。

毎日ここで働き。暮らし。生活して 再建していこうと頑張る人たち。応援する人たち。
この町を 大事におもっている人たち。


テレビの中じゃなくて
想像じゃなくて ここにいる。
抱えるものを人それぞれ持ちながら。進むしかない。
そういうことなんだ。





車で家にもどってきて。
いつもどおりの我が家。わが町にほっとして。
そしてやっぱり ふっと考える。私にできることはなにかな って。

同じ県。あのときの絶望感、喪失感。
いつも覚えていようとは思わないけれど 心の中で風化させないでいよう 
小さなことを続けよう と
思った連休のおでかけでした。


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