Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

賛美する喜び

2021年09月04日 | 日記
 先日、「賛美する喜び」というオンラインによる教会音楽ワークショップに参加しました。私は普段、教会の礼拝で賛美歌の奏楽をしているのですが、なかなかただ弾くだけで技術的なことはもとより、奏楽をする上で教会音楽の基礎的なことを少しでも学べればと願い、またコロナ禍における賛美を他教会がどのように工夫しているか等も知る良い機会だと思い、2日間にわたる講座に参加することにしました。ほとんどがすでに録画されたものを聞く形でしたが、Zoomによる奏楽相談室では、一人一人礼拝で奏楽する時の質疑応答の時間がもたれ、非常に参考になりました。前の教会で、パイプオルガンの奏楽を少しだけ学ばせていただき、実際礼拝で奏楽する機会があった時も、先輩に色々教えていただいたのですが、今回は私にとって技術的なことよりも、大事なことは、会衆が神様に賛美を心を込めて歌えるように、奏楽者はどのように仕えるかという点で、私にはレベルの高い話ですが、とてもチャレンジを受けました。また、録画の場所のチャペルを見て、懐かしい思いに駆られましたが、何十年も前、自分の学生時代に、身近にパイプオルガンやチャペル・礼拝があったのに、自身がほとんど関わることをしなかったことが非常に残念に思います。
 賛美の歴史を見ると、時代によってスタイルは変わっていきます。しかし、神様を讃美する歌詞は変わらずに何千年も歌い続けられていることが神様の業によるものだと改めて思わされました。時代や教派によって異なる賛美の多様性があることを受け止めつつ、自分の出来る範囲で奏楽を続けていこうと、モチベーションが上げられ、感謝でした。
 使徒パウロとシラスは、キリストを伝える中で迫害を受け、獄に入れられることがありましたが、権力者たちは彼らを物理的に閉じ込めることはできても、彼らの賛美と祈りを妨げることはできませんでした。彼らは獄中でも賛美を歌い、それを他の囚人たちが聞いていたと聖書に記されています*1。獄中ですから、もちろんアカペラで歌っていたでしょう。究極的には楽器の奏楽がなくとも、たとい音程が違っていても、賛美は歌えるのであり、その讃美を神様が喜んで受けて下さるということが大切だと思います。
 私は、時々頭の中で賛美を歌い、その演奏の音まで頭の中で思い返し、時には仕事中、廊下を歩きながら頭の中で歌っています。仕事をしていると9-10時間があっという間に流れますし、その間づっと神様のことを意識できないのですが、それでもほんのひと時でも頭の中に賛美というBGMを流しながら、神様に助けを求め、そして実際職場でいつも助けられているので本当に感謝です。賛美の喜びは、奏楽する時も、歌う時も豊かに与えられる、神様からの恵であります。神様は、日曜の礼拝の時だけでなく、仕事中でも、家でも私の主であり、全てをコントロールして下さる方、共にいて下さる方です。それを私が意識すればするほど、神様への感謝が賛美となり、祈りともなり、神様とのコミュニケーションが増えます。賛美の内容は、主に聖書のみことばからとられていますので、みことばが自然と頭の中に蓄積されて、折にかなってそれを思い起こし、困難な状況の時にそのみことばによって力を受け、励まされて、日々生活していきたいと願います。
 
「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」 エフェソ信徒への手紙5章18-20節 (新共同訳聖書引用)

*1 使徒言行録16章25節