Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

映画「僕はイエス様が嫌い」を見て

2019年06月10日 | 日記
 2019年の5月末から劇場公開となった邦画「僕はイエス様が嫌い」を観ました。この映画はサン・セバスティアン国際映画祭で、最優秀新人監督賞を史上最年少で受賞した実力のある監督の作品でしたので、期待して劇場に足を運びました。あらましは、おじいちゃんが亡くなり、雪深い地方で独り暮らしとなったおばあちゃんと一緒に暮らすため、両親と東京から引っ越して来た小学生が主人公。この小学校はキリスト教系の学校のため毎日礼拝が行われており、彼はいつもキリスト教の神様(イエス様)にお祈りするという環境に戸惑いを感じつつも、友達も出来、次第に慣れていきます。ある日、目の前に小さなイエス様が現れ、願いを叶えてくれるという経験をし、イエス様の存在を信じるようになりますが、その後、思いがけない悲劇が起こります。

とても良い映画だと思いましたが、最後の場面をどう受けとめるか、この映画のテーマは何かは、個々人の想像・解釈に任せるように出来ているようでした。その鍵の一つは、映画のエンディングの讃美歌の歌詞:

♪主イエスとともに 歩きましょう いつも
 うれしい時も 悲しい時も
  歩きましょう どこまでも ♪

にあるのではないかと思いましたが、実際この歌詞を聞いていた人はどれだけいたのかとも思いました。夫は映画の最初と最後に出てくるシーン「障子に開ける穴がポイントでは?」と言いました。私が「その穴は何なの?」と聞くと、「ーーーーじゃないかな」(これから観る方に先入観を与えないために)と夫の意見。人それぞれに解釈ができる映画で、興味深かったです。

聖書では、神を見た人はひとりもいないと記されています。神の幻を見た人々、神のイメージを見た人々、神の現れを見た人々はいますが、完全な神を見た人はひとりもいない、もし直に見たら生きていられないというのです*。イエス様が2千年前に地上に人となって現れましたが、この状態は神でも人でもあり、天にいる状態の神としては人の前に現れていないからでしょう。つまりキリスト教の信仰とは、この映画のような目に見えるイエス様が出てきて、お祈りしたことを叶えてくれる神様を信じることではないのです。むしろ、下記の聖書の箇所が示すように、見えないけれどもその存在を信じ、また自分の願いがその通りに叶えられなくても、祈りは必ず聞かれていて、神様に事の沙汰を任せるのがベストだという確証を得ていることではないでしょうか。

一般的に、目に見えるものしか信じられないという方が多いと思います。一方で、例えば「心」は目に見えないものですが、「心」の存在を前提として人は生きていて、どの民族にもどの時代にも言葉の表し方が異なっても「心」の概念を持っています。この映画の讃美歌のように、嬉しい時、願い通りになる時だけ見えて、ともに歩いてくれるイエス様を信じるのではなく、悲しい時、イエス様なんかいないじゃないか!と絶望のうちにいる時も、見えなくても共に歩いてくれていたことを信じることが信仰ではないかと、そのような信仰が与えられ、希望を持って、イエス様に感謝して日々生活をしていきたいと、この映画を観て思わされました。

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。 」ヘブル人への手紙11章1節

*「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」出エジプト記33章20節