Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

一緒に歩く

2019年06月21日 | 日記
 ご高齢の方と共に歩く際は、歩くペースを相手に合わせ、色々気を遣う必要があります。このことは他人に対してだと覚えているのですが、身内に対してだとつい忘れてしまいがちです。少し前に、私は母と共に電車とバスで初めての場所へ行こうとした時、駅でバス停を探さねばなりませんでした。私はちょっと先に歩いてそのバス停の場所まで行き、確認して戻ろうとすると、母の姿が見えません。驚いて駅のロータリーを探しましたが、どこにもいない。さほど広い場所ではなく、見通しも良いので、ついてくるものかと思ったのです。携帯をならしても出ない。するとまもなく、駅の改札に向かう階段から母が下りてきました。母は私の姿を見失い、私が階段を上がっていったと思って、上に行ったのでした。一緒に目的地に向かうには、時間がかかっても、乗り遅れそうになったとしても相手のペースに合わせて歩かなければと反省させられます。

 聖書には「神と共に歩く」という表現が、クリスチャン生き方としてよく使われています。「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。 」*1、「主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。」*2 具体的に、「神と共に歩く」とはどういう意味なのでしょうか。ここで記されているように、不正なことをせず、慈しみの心を他者に持ち、謙遜な思いと態度で日常生活を過ごす、つまりキリスト・イエスに倣って日々歩むということだと思います。

 しかし私たち人間は、このような神の基準には到底達しえません。それでも神様の愛を受け、感謝し、神様のなさることが人にとってベストだと同意するからこそ*3、一緒に歩んで行きたいと願い、そう求めるうのではないでしょうか。自分の力や性格でキリストのように出来なくても、祈って神様からその愛を注いで頂き、出来る力を与えてもらう、素直な心に変えてもらうことは可能なはずです。

 「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」*4 イエス・キリストの歩まれたように歩もうとする人は、神のうちにとどまり続ける、つまり神様と繋がっている状況においてそれが可能となります。ブドウの枝がその木に繋がっていさえすれば、栄養分が送られ、実を結べるように。いつも、イエス様に繋がっていられるよう、日々祈り求めていきたいと思います。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 」ヨハネ福音書15章5節


*1 コロサイ人へ手の手紙2章6節
*2 ミカ書6章8節
*3「二人のものは、同意していないのに、一緒に歩くだろうか」アモス書3章3節
*4 第一ヨハネの手紙2章6節