権利の主張
権利。もともと権利という概念はどこから来たのか、ふと考えてみました。私は哲学者ではないし、知識もないので専門的なことは考えられません。単純に思ったことは、権利というのは例えば人の命や生活がないがしろにされている状態が生じ、それから人を守るために生まれた概念だと思います。ですから、もし生活している環境に何の脅かされる要因がなければ、生まれてこない発想ではないかと。権利の主張は、歴史的に人が人を虐げる、命を大切にしない社会の構造に対して、例えば政治家、雇用主、もしくは立場的に人を支配してしまう者に対抗する、法的な根拠として発達してきたのだと思います。一方、いざ権利が確立されると、今度はそれを乱用したり、必要以上に振りかざす者がでてくるという皮肉な状況も生まれます。全て、人の自己中心的な思いが根本にあるかもしれませんが、これが世の中というものでしょうか。
神様は人や自然界を創造された時、全てが良かったと言われたと聖書に記されています*1。それが人の罪により、悪いものへと変わってしまい、人の集合体である世の中全体に及び、今日に至っています。もちろん、感謝なことに人にも自然にも全てが失われたわけではなく、良い部分も残っています。しかし初めに神様が創造された世界においては、人権の主張をする必要がない程、人間同士も、人間と自然との関係も調和していて平和だったのです。「互に愛し合いなさい」*2というイエス様が弟子達に言われたことばがあります。もし、これが出来ていれば、人を虐げたり、争ったり、妬んだりしないので、権利の主張をしなくとも平和に暮らせるのではないでしょうか。つまり権利とは、神様の存在を抜きにして、人間の力で暴力や虐待、争いから人を守るためのものと私は思うのです。
クリスチャンにとって、人権の主張がいつのまにか、神様の創られたもともとの秩序や概念より優先してしまう、つまり人道主義(ヒューマニズム)、人間中心にとって代わってしまう場合があります。一方で、「聖書にこう書いてあるのだから、それはいけない!」と、他者を糾弾しがちでもあります。しかし、一体誰が、聖書の言葉を全ての状況へ正しく適用することが出来るのでしょうか。神様の想いに従って歩もうとすれば、他者を裁くべきではないと思います。裁くことができるお方は神様だけであり、私たちは相手を裁くのではなく愛する、これが神様の御心だからです。また、神様の愛は情け深く、憐み深い面だけでなく、厳しい面もあります。愛を持って相手に助言をすることは裁くことではないのですが、言い方やタイミングが難しく、言われた側は裁かれたと思うかもしれません。いずれの側にしても、感情的に捕らわれるのではなく、神様の視点からするとどうなのだろうと、冷静に自分自身をみ言葉と照らし合わせ、見つめ直す必要があると思います。人から何か指摘されると、自分のプライドは傷つくし、言い訳をするか相手に対して矛先を向けたりしがちです。しかし、そんなプライドなどなくなるべきだと思います。謙遜になって、指摘されたことを受け止め、神様が一人一人を大切にするように、私たちもお互いが尊敬できればと願います。これは、私にとって非常に耳が痛い言葉です。そうしたくても感情的に出来ていない事が多いので、プライドが砕かれて、低くなりたいと思います。
今在る、不公平や不条理、差別、貧困は人間が作り出したものです。神様の視点からすると私たち人間は皆平等であり、神様はわけ隔てなく、ご自分が造られた大切な命として一人一人を見て下さっています。その愛の表れは、神様の御子イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの罪全てに対する罰を負って死んでくださったことにあります。そして、死んで終わりではなく復活され今も生きておられる、そこに私たちの生きる希望が与えられるのです。私たち皆が神様から赦された者、愛されている者として自分の存在を受け止められた時、どんな状況にあっても相手を思いやることが可能になると思います。平和で良い関係を保つことは、人間の想いだけでは不可能でしょう。しかし、神様にあっては不可能はなく*3、この十字架の愛を信じ、神様の支配される国(領域)では可能であると私は信じます。たとえこの世的には正しいことと認められる事項であっても、もしくは、相手にも非があり、自分のプライドが傷つこうとも、神様の御心という視点ではどうなんだろう?と見極める力を与えてくださいと、祈っていこうと思わされます。
「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。」 第一ヨハネの手紙2章15-17節
*1 「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった 」創世記1章31節
*2 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 ヨハネによる福音書15章12節
*3 「イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない』」。マタイによる福音書19章26節 (引用:口語訳聖書)
権利。もともと権利という概念はどこから来たのか、ふと考えてみました。私は哲学者ではないし、知識もないので専門的なことは考えられません。単純に思ったことは、権利というのは例えば人の命や生活がないがしろにされている状態が生じ、それから人を守るために生まれた概念だと思います。ですから、もし生活している環境に何の脅かされる要因がなければ、生まれてこない発想ではないかと。権利の主張は、歴史的に人が人を虐げる、命を大切にしない社会の構造に対して、例えば政治家、雇用主、もしくは立場的に人を支配してしまう者に対抗する、法的な根拠として発達してきたのだと思います。一方、いざ権利が確立されると、今度はそれを乱用したり、必要以上に振りかざす者がでてくるという皮肉な状況も生まれます。全て、人の自己中心的な思いが根本にあるかもしれませんが、これが世の中というものでしょうか。
神様は人や自然界を創造された時、全てが良かったと言われたと聖書に記されています*1。それが人の罪により、悪いものへと変わってしまい、人の集合体である世の中全体に及び、今日に至っています。もちろん、感謝なことに人にも自然にも全てが失われたわけではなく、良い部分も残っています。しかし初めに神様が創造された世界においては、人権の主張をする必要がない程、人間同士も、人間と自然との関係も調和していて平和だったのです。「互に愛し合いなさい」*2というイエス様が弟子達に言われたことばがあります。もし、これが出来ていれば、人を虐げたり、争ったり、妬んだりしないので、権利の主張をしなくとも平和に暮らせるのではないでしょうか。つまり権利とは、神様の存在を抜きにして、人間の力で暴力や虐待、争いから人を守るためのものと私は思うのです。
クリスチャンにとって、人権の主張がいつのまにか、神様の創られたもともとの秩序や概念より優先してしまう、つまり人道主義(ヒューマニズム)、人間中心にとって代わってしまう場合があります。一方で、「聖書にこう書いてあるのだから、それはいけない!」と、他者を糾弾しがちでもあります。しかし、一体誰が、聖書の言葉を全ての状況へ正しく適用することが出来るのでしょうか。神様の想いに従って歩もうとすれば、他者を裁くべきではないと思います。裁くことができるお方は神様だけであり、私たちは相手を裁くのではなく愛する、これが神様の御心だからです。また、神様の愛は情け深く、憐み深い面だけでなく、厳しい面もあります。愛を持って相手に助言をすることは裁くことではないのですが、言い方やタイミングが難しく、言われた側は裁かれたと思うかもしれません。いずれの側にしても、感情的に捕らわれるのではなく、神様の視点からするとどうなのだろうと、冷静に自分自身をみ言葉と照らし合わせ、見つめ直す必要があると思います。人から何か指摘されると、自分のプライドは傷つくし、言い訳をするか相手に対して矛先を向けたりしがちです。しかし、そんなプライドなどなくなるべきだと思います。謙遜になって、指摘されたことを受け止め、神様が一人一人を大切にするように、私たちもお互いが尊敬できればと願います。これは、私にとって非常に耳が痛い言葉です。そうしたくても感情的に出来ていない事が多いので、プライドが砕かれて、低くなりたいと思います。
今在る、不公平や不条理、差別、貧困は人間が作り出したものです。神様の視点からすると私たち人間は皆平等であり、神様はわけ隔てなく、ご自分が造られた大切な命として一人一人を見て下さっています。その愛の表れは、神様の御子イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの罪全てに対する罰を負って死んでくださったことにあります。そして、死んで終わりではなく復活され今も生きておられる、そこに私たちの生きる希望が与えられるのです。私たち皆が神様から赦された者、愛されている者として自分の存在を受け止められた時、どんな状況にあっても相手を思いやることが可能になると思います。平和で良い関係を保つことは、人間の想いだけでは不可能でしょう。しかし、神様にあっては不可能はなく*3、この十字架の愛を信じ、神様の支配される国(領域)では可能であると私は信じます。たとえこの世的には正しいことと認められる事項であっても、もしくは、相手にも非があり、自分のプライドが傷つこうとも、神様の御心という視点ではどうなんだろう?と見極める力を与えてくださいと、祈っていこうと思わされます。
「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。」 第一ヨハネの手紙2章15-17節
*1 「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった 」創世記1章31節
*2 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 ヨハネによる福音書15章12節
*3 「イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない』」。マタイによる福音書19章26節 (引用:口語訳聖書)