Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

益子教会でのメッセージ 「主は御目を注2022/3/133/13

2022年03月13日 | 日記
この詩編33編は他の詩編のように誰が書いたかと最初に記されていませんが、その直前の32編の続きとして、70人訳という旧約聖書には「ダビデによる」と記されています。よってダビデによる詩と思われます。33編を読むと、繰り返されているフレーズがあります。「主は御目を注がれる」 とか 「主は天から見渡し 人の子らをひとりひとり御覧になり 御座を置かれた所から 地に住むすべての人に目を留められる。」(13-14節) 主、つまり神様が私たちを見ているということが何度も記されています。

私が以前幼児のベビーシッターをしていた時、その男の子はいつも、自分の方を見ていてほしい、注目してほしいと要求していました。何をするにも「見てて」と言います。なぜでしょうか、それは自分が見られていること、自分は受け入れられているという幼児ながらの安心感を得るためでしょう。また何かしたことに対して「すごいね!」と言ってもらいたい、自分を認めてもらいたいという要求が幼いころから人にはあるものです。しかし、現実の世界では、親でさえ忙しくて、自分の子を見ていられる時間が限られています。ある人はスマホを見ていて、子供にタブレットを私、ほおっておくかもしれません。そうすると、幼い子供は年を重ねるにつけ、だんだん周りの対応でわかってきますので、いつも誰かに見てもらうことはできないのだと知るようになり、もはや「見てみて」といわなくなるのかもしれません。  確かに常時見てくれている人、見守っていてくれる人は周りにいません。しかし、目に見えなくとも、天の神様は天から見て下さっているということを信じられれば幸いです。ああ、自分には誰も助けになる人がいないと思ったとしても、神様の目がその人に注がれていて、心の内側までご存じです。私たちの神様は、みことばを通して語られ、そして一人一人を見ていてくださる方です。

モーセは、エジプトから脱出し、荒野の道をイスラエルの民と歩むとき、どうしても神様の臨在が必要で、導いてくださるよう神様に願いました。「どうかこの国民があなたの民であることも目にお留めてください」すると、出エジプト記33:13 「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と主なる神様はモーセの願いにこたえて言われました。

しかし、悪いことをしている人、本当の神様を信じていない人にとって、いつも神という存在が自分の心の内側や行動を全て見ていると言われると恐れるでしょう。罰をうけるのではないか、悪いことがおこるのではないかと、恐れることはあっても安心できないのです。お祓いをしもらわないと、賽銭を払わないと、おみくじをかわないと、お経を唱えないとと悪いことが起こると、実際存在しない偶像の神に対して何かすることで一時的な安心を得るだけです。

13節にあるように 主はすべての人を見ておられますが、特に、目を注がれるのは、「主の目は特に 主を畏れる人に注がれる。」主を畏れる(この恐れは恐怖の恐れではなく、畏敬の念 という恐れ敬うという意味のほうです。

33:10主は国々の計らいを砕き 諸国の民の企てを挫かれる。

人はどうしても目に見えるもので、自分のおかれた状況を判断してしまいます。しかし、主なる神様は、10-11節にあるように主は国々の計らいを砕き 諸国の民の企てを挫かれます。ロシアが核兵器を持とうとも、どんなに軍事力があろうとも、いつか神様は彼らの企てを砕かれます。

一方 神様の計画、御心の計らいは、永遠に続くと11節 あります。 「主の企てはとこしえに立ち 御心の計らいは代々に続く。」

今、ロシアとウクライナが戦争をしています。この戦争が早く終わることを世界の多くの人が望み、祈っています。ロシアもアメリカという大国も、NATO、EUという同盟もいつまでも続きません。主の計画だけが代々続きます。一般的にはどちらが勝つかは、軍事力をどれだけ持つかで判断され、他国から兵器の供給の申し出や、また義勇兵の投入など、戦略的に見えるもので勝敗が左右されます。

しかし、勝利は王や軍隊によるのではなく、主の目が注がれているかどうかにあると33:16-18に記されています。

16王の勝利は兵の数によらず 勇士を救うのも力の強さではない。
17馬は勝利をもたらすものとはならず 兵の数によって救われるのでもない。
18見よ、主は御目を注がれる 主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。

救いは 力によらないこと。これは、旧約聖書を読んでいると、イスラエルの国々が軍事力がなくとも、主により頼んだ時勝利を収めた。士師のギデオンは兵力を減らされて(3万2千人→3百人 あなたの率いる民は多すぎる・・・自分の手で救いを勝ち取ったというであろう7:2)ミデヤン人と戦い勝利(士師記7))、ヒゼキア王の時、18万5千人のアッシリア帝国が攻めてきたときは主に祈ると、その夜主の使いが討ち、セナケリブ王は自国に帰り、殺され、アッシリア帝国の侵略を免れた(列王記下19章)

ダビデ自身も若いとき ペリシテ人のゴリアテを戦った時、彼の力によらずにゴリアテを倒した。1サムエル17:45-47
「45だが、ダビデもこのペリシテ人に言った。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。 46今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。わたしは、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。 47主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」

ゼカリヤ書4:6 でも 「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。」と記されています。

この詩編は神様への賛美から始まっています。なぜ私たちは賛美をするのでしょうか? 33:4-5にその理由が記されています。 For (なぜならという接続詞が訳されている) 「主の御言葉は正しく 御業はすべて真実。 主は恵みの業と裁きを愛し  (正義と公正という訳) 地は主の慈しみに満ちている。」   正義と公正、慈しみは神のご性質です。

 この神様のご性質が表されている、神のみことば、業、慈愛に対しての 私たちの応答として、 主において喜び、賛美を捧げたいと思うわけです。たとえ今の状況がよくなくとも、悲しいことが起ころうとも、それらに関わらず、いつも感謝できることが一つだけあります。それは、イエス・キリストを通して私たちを救ってくださったことに対してであり、変わらぬ真理であり、そのことに対していつも感謝し、賛美できます。そして賛美をすることで、自分が囚われている悲しい思い、苦しみにばかり目を留めるのではなく、自分は神様に守られている、愛されていることを思い出すことができ、立ち直る力が与えられます。

  最後に、神様の御業とみ言葉の力は、イエス様の十字架において 全て現わされています。神様の豊かな恵みにより、御子イエスキリストによって、その十字架の犠牲により、神様に敵対していたのに、その罪が赦され、神様との和解が与えられ、さらに神の子供という身分まで与えてくださっています。 エフェソ信徒への手紙1:3-5 にこう記されています。

「3わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。 4天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 5イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」

とあるように、私たちを世界の基が置かれる前から、神様は私たち一人一人を愛し、イエス・キリストにあって神の子供にしようと選んでくださっていたのです。これが神様の御心による計画であり、この計画は、人間の歴史で様々なことが起ころうとも、どんな大国が興亡しようとも、変わらず、11節にあるように永遠に続くのです。この詩編の著者も、12節にて「いかに幸いなことか・・・主が嗣業として選ばれた民は」と記しているのも、神様がご自分の民として選び、いつも天から見渡し、見ていてくださることの幸せ、平安に対して感謝を記しているのだと思います。

私たちもこの約束を信じて、日々私たちに目を留めて下さる主に様々な問題、困難を祈って委ね、神様の最善の導きを待ち望み、そして感謝の賛美を捧げていきましょう。お祈りします。

 (引用:新共同訳聖書)
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