今日は教会暦でキリストが死んで3日後に甦られた日曜日を祝うイースターの日です。西洋諸国では、うさぎ、卵などをシンボルに用いて、新しい命が芽生える春のお祭りと掛け合わせて、子供達にエッグ・ハンティング(卵を庭のどこかに隠して、それを探すゲーム)をさせたり、ウサギのぬいぐるみがたくさん店頭に売られてたりしています。つまり、世俗化され、ディズニーランドなどを通して日本でさえも、イースターがうさぎや卵といった春の祭りとされ、本来のキリストの復活を祝う日ということが薄れてしまっているのが残念です。
ある方から聖書に関する質問をされたことで、聖書の中に「希望」という単語がいくつあるか検索してみました。英語の聖書の検索ですと、180箇所*1ありました。聖書の中で文脈的に「希望」を含む文章は二種類に分けられると個人的に思います。一つは、人が主体の(もしくは神様抜きに人の視点における)希望と、もう一つは神様が主体もしくは、「主にあって」のように、神様にあっての希望とに分けられるのではないかと考察します。
最近、ある若い作家の方が「押し」をテーマにした小説で、2021年芥川賞を受賞したというニュースを観ました。その作家は主人公が「押し」という応援する対象の存在に希望をおいて、辛い世の中でも生きていこうとする姿を描いたものだと語っていました。その「押し」という対象を多くの若い人たちは多かれ少なかれ持っていると。芸能人に限らず、その憧れの存在が彼らにとってアイドル(原語は”偶像”という意味もあり)になるのでしょう。その作家いわく、必ずしも「押し」の相手と直接触れ合ったり話したりという双方向性コミュニケーションの必要はないとのことでした。自分の中で満足し、完結していればそれにすがっていられて、それは逃避でもなく依存でないというのです。しかし、その片思い的なアイドルがどれだけその人を励まし続けられるのか、またいつまで、自己完結にすぎない思い、結局は逃避であるという虚しさから目を背け続けられるのでしょうか。それらの若い人たちが、中高年、高齢になったとき、別のアイドルをみつけて、明日に希望を持って、励まされて生きていけるのでしょうか。
希望とは先のことについて、まだ目に見えない、不確実な事柄に関して、こうなってほしいとの願いであり、人は何かしらに希望をおいて、それを信じて生きていこうとするものです。聖書の文章の中で、「明日」と「希望」のセットで検索してみると、一つだけありました。それはコリントという町の信徒たち向けに書かれた、キリストの使徒パウロの手紙ですが*2、概略は 「人間のもつ希望だけで、危険を冒して何かをしたとしても、何の役にも立たないし、同様に、死人が(キリストが)よみがえられたという信仰がなかったのであれば、どうせ明日死ぬかもしれないのだったら、飲んで食べよう! という刹那的な生き方になるしかない、つまり希望がないとパウロは言っています。
私は、何かに生きがいをつくること、または人の思いの中での自己完結的なアイドルが、全て悪いことだとは思いませんが、それらはあくまでも一時的で、その人の生活や人生に確かな励ましや希望を与えるものだとは思いません。一方で、問題にたった一人で向き合い、自分の力で、自分の想いでなんとか解決しようと悩み、頑張り続けることにも限界があると思います。誰であっても、本当の神様の存在、私たちを創られ、大切に思って下さっている愛の神様がいるということを信じる信仰が必要だと思います。
イースターには喜びと希望があります。なぜなら、上記で使徒パウロが言うように、クリスチャンはキリストが十字架に架かって死なれ、3日後によみがえられ、今も天国で生きておられることを信じているから、明日に希望が持てるのです。この復活を信じれなければ、自分の力を信じて、自分の設定したアイドルを励みするか、どうせ死ぬんだから今を楽しく生きよう的な人生かにならざるを得ません。復活を信じないのであれば、聖書に書かれていることは、ただの道徳的な教えとしてとらえるにすぎないでしょう。キリストが経験された十字架は、本当にむごたらしい苦難と死、そして天の父なる神様ととづっと一つであった子なるイエス様がその時だけ神様と断絶され、見捨てられた時でした。それは私の罪に対する神様の怒りを代わりに受けるために必要であった、神様の救いの計画でした。このイエス様の死が、死んで終わっただけであれば、そこに喜びはなく、申し訳ないで終わってしまいます。しかしそのキリストの十字架の死が、死で終わらず、死を克服された最初の方がイエス・キリストとなられました。そしてその復活がキリストだけでなく、信じる者にも将来起こるという約束が下記の聖書に記されてあり、そこに喜びと希望があります。
生きていれば、仕事のこと、家族のこと、人間関係のこと、病気や災害等辛いことや問題は必ずあります。しかし、それでもなお、私たちはキリストにあって、希望をもって生き続けられることは本当に感謝です。クリスチャンは日々の思い煩い、心配ごとについて、目を背けたり、他のことでごまかしてその場その場を生きる生き方ではなく、神様が何とかしてくださる、神様に任せられるという信仰をもとに希望が持つ生き方をすることができるはずです。つまり問題を神様に祈って、助けて下さい、道を開いて下さい、導きを与えて下さいと日々祈ることが出来るのです。神様は天国に行けるという先のことだけに対する希望だけでなく、明日のこと、身近な日々の問題に対する希望を与えてくださいます。イースターの主イエス・キリストにある希望を、この時期だけでなく、いつも心に覚えていきたいと願っています。
「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。」第一コリント15章19-21節
*1 Bible Gateway. 検索 Hopeは旧約で97、新約で83箇所。NIV訳
*2 第一コリント人への手紙15:23 ”If I fought wild beasts in Ephesus with no more than human hopes, what have I gained? If the dead are not raised,“Let us eat and drink, for tomorrow we die.” 日本語の聖書の訳では 「希望」が「動機」 と訳されています。