清の乾隆四十年(1775)ごろから乾隆帝が死ぬまでの二十三年間、
権力をほしいままにした和[王申](わしん)(満州語名ヘシェン)という人物がいる。
和[王申]の登場辺りから、清朝は後半の斜陽の時代を迎える。
和[王申]の専横は、清朝の「斜陽の始まり」の象徴としても捉えられている。
私にはなぜかひどく気になる人物であり続けた。
最後に処刑される時には、国家予算15年分の財産が没収されたと言われ、
その汚職の規模は桁外れというか、聞いただけであごがはずれそうになる・・・・。
ただ単純に巨額の汚職をした悪徳官僚と一言で片づけるのではなく、
どのような背景から、そのような怪物が登場したのか・・・。
その時代背景に興味が沸いた。
まずはその少年時代から探っていきたいと思う・・・。
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和[王申]の登場は、ひどく唐突な印象を受ける。
乾隆四十年(1775)、突如として彗星のごとく現れ、次の年には国政の中枢を動かす軍機大臣に就任した。
この年、和[王申]若干二十六歳、周りもいぶかしむ異様な出世である。
支配階級である満州族の出ではあるものの、建国に貢献した有力部族の出でもなく、
理由がよくわからぬごぼう抜き人事となった。
その後はどんな汚職をしようが、乾隆帝はまったく取り締まる様子もない。
---なぜ和[王申]にだけここまで甘いのか・・・。
周りは能力があるからとは、決して見なかったようである。
その突如の出世について、伝わる野史(民間伝説)がある。
和[王申]が乾隆帝の初恋の人に瓜二つだったから、というのである。
権力の座にあった人物らしく、乾隆帝の人生に登場する女性は数多いが、
どうもその存在があやふやなのが、この初恋女性と言われる馬佳(マージャ)氏である。
父・雍正帝が在位していた乾隆帝の皇子時代、
雍正帝の妃らの中に馬佳氏という見目麗しき女性がおり、心を寄せていたというのである。
--余談になるが、清代女性の名前になんとか佳氏というのは、つまりは漢人女である。
漢人が満州貴族に嫁入りする場合に満人に帰化する必要があったからだという。
「佳」は満州語の「ギヤ(家)」を表現。
「馬佳氏」は「馬家の者」の意となる。
加えて満州族の姓にも瓜爾佳(グワルギャ)氏など、「佳」がついたものがあり、
もとの姓に「佳」とつけたら、満人に帰化したことになる。

元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。
・・・・つまりは馬氏という漢人(または回族か)女性である。
若き日の乾隆帝(当時の呼び名は宝親王)は、父帝の妃の一人である馬佳氏に密かに思いを寄せた。
宮廷ですれ違うときがあると、密かに秋波を送り、いつしか人目をしのんで逢引きする関係となる・・・。
ある日、これを乾隆帝の生母ニウフル氏に見られる。
母は激怒、夫である雍正帝に訴えて馬佳氏を処刑させた。
宝親王は父親の女性に手を出したと表沙汰になるような擁護をできるはずもなく、
馬佳氏が処刑されるがままになす術もなかった。
---以来、後悔の念が消えることはなかったのだが、
和[王申]がこの馬佳氏に瓜二つだったというのである--。
老いた乾隆帝が一目惚れし、これを重用するようになったというのである。
・・・・以上、なんともふざけた伝説だが、和[王申]を憎む人々が中傷をこめて広げた話に違いない。
まことしやかに語られているからには、和[王申]が確かに眉目秀麗な美男子だったことは確かだろう。
何しろ初恋の美女にそっくりとは。
この伝説を客観的に分析すると、いくらか見えてくるものがある。
まず乾隆帝の初恋の相手が漢族女性だったという設定である。
満州族の和[王申]が漢族の女性にそっくりで、和[王申]がその恩恵を蒙り出世できた、という設定は、
漢族の願いを反映している部分が透けて見える。
この手の伝説は多くは満州族の支配力が弱ってきた清末、あるいはすでに滅びてしまった民国初期に成立した場合が多く、
この野史が成立した時期も意外と新しいのではないか、と思われる。
ただ和が女性と見まがうばかりの美少年だった、という点だけは当時から伝わっていた可能性が高く、
これはある程度事実を反映しているといえるのではないだろうか。
現在出回っている和[王申]の唯一の肖像画(ぼけていてはっきりしないが)を見ても、
ぱちくりと大きな瞳に卵型の輪郭、鼻筋が通っており、確かに美しい。

和[王申]像と伝わる肖像画。

元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。
地方からの団体さんと思しき人々の列がすごいです・・・。
和[王申]が、乾隆帝の初恋の女性に瓜二つだったという野史---。
この話にはいぶかしむべき点がいくつかある。
大真面目に細部を検討していきたい(笑)。
まず皇子たちが皇帝たる父親の後宮にいる女性らに思いを寄せるほど顔を合わせる機会があったか、ということである。
父親の若い妾と息子らが顔をあわせれば、間違いが起こりやすいことは古来より枚挙に遑がない。
このため制度上、完備されている。
女性たちは後宮からむやみに出ることはできないし、宦官以外の男性が後宮に入ることもできない。
式典などで妃たちが参列すれば、御簾がかけられ、男性に顔を見られないように工夫されている。
ちらりと顔や姿を見ることはできたかもしれないが、
母親が危ぶんで相手を殺すためには、それ以上の接触があり、より深い愛情を抱かねばその必要もない。
少なくとも二人きりで会話を交わし、相手の人となりに心惹かれる機会はなければならないが、
果たして厳しい宮廷制度の中でそんな機会があったかどうか。
次に乾隆帝の生母の立場である。
諡(おくりな)を孝憲皇后というが、身分が微賎(びせん)だったことで有名だ。
乾隆帝の父親である雍正帝がまだあまたいる皇子の一人でしかなかった頃、
彼女は「格(ゴー)格(ゴ)」と言われる雍王府の女中の一人でしかなかった。
容姿も骨太ながっちりした少女であまり美人とは言えず、老年に入ってからの肖像画を見ても、
ごつい骨ばった輪郭はどちらかというと男性のような顔つきである。

元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。
見取り図。
以前は、北側の花園部分しか公開されていなかった。
今、入口になっている手前の部分は、音楽学院という大学が占拠しており、対外的には開放されていなかった。
それが10年ほど前に音楽学院をほかに移転させ、建物を整備・修復して拡張したとは聞いていたので、
ずっと行きたいと思っていたのである。
念願の訪問!
でも人だらけ!
乾隆帝の生母というのは、どう考えても若い頃、男を虜にするフェロモンを発していた種類の女性には見えない(失礼)。
・・・・どうやら何かの偶然で閨に召された時に乾隆帝を身ごもったらしい。
しかしその後はとんと寵愛を受けず、
男児を産み落としても子供はほかにもたくさん生まれているため、相変わらず部屋住まいが続いた。
雍正帝には寵姫がほかに数人おり、乾隆帝の生母の発言権は吹けば飛ぶくらい軽かったのである。
そんな女中上がりの彼女が夫の他の女性を死に追いやることなど、できる状況にはなかった。
その意味でもこの伝説は乾隆帝の死後かなりたってから作られたものと想像できる。
のちに即位した乾隆帝が有名な孝行息子となるため、母親には頭が上がらないというイメージが出来上がったが、実はそうでもない。
乾隆帝は生母に孝を尽くす一方、母親の実家にはほとんど触れないようにしている。
通常、皇帝の生母や皇后の一家は、いくらなんでも何かしら中央で重要なポストにありつけるものである。
たとえば、乾隆帝自身の愛妻・孝賢皇后の父親はあまり高い地位にはなかったが、
皇后の弟・傅恆(フヘン)は軍機大臣になり、
その子供たちの福霊安(フリンガー)、福隆安(フロンガー)、福康安(フカンガー)、福長安(フチャンガー)らは、
全員軍機大臣や前線の将軍となどの重要な地位につき、栄華を極めた。
これに比べると生母に孝行を尽くしたわりには実家の人は歴史にまったく名前が上がらない。
どうやら何か分けありな匂いがする。
乾隆帝の生母の出自については、また別途書く機会もあるかと思うが、
どうも名目上の出自「四品典儀官・凌柱の娘」というのも、信用できない風でもある。
ここでは詳しくは触れないが、とにかく生母に発言権があったようには思えない、という話である。

元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。
見取り図その二。
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「王府」というのは小節にもよく出てくるのですが、こんなに大きなものだったのですか。王府って、いつの時代にもあったのですか?金の時代にはあったようですね。
それから、王ってたくさんいるから、王府も大中小といろいろだったのですか?
>王府って、いつの時代にもあったのですか
それぞれの時代の皇族はいたと思いますー。
北京であれば、清代のものが一番新しいので、
あちこちに残っていますねー。
王さまも親王、群王、といろいろなランクがあったようです。