さて。
次はどこのデータをアップしていこうか、と物色していたら、
ある記事を読んで、おおお!と、思い出したことがある。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20121105/239069/
私が友人らの一団にくっついてこの旅に参加したのは、2011年の春節明けなのだが、
その時に話されていた内容を思い出したのである。
先日、「燕翼堂義塾」の記事にも書いたとおり、この旅は、
一団のメンバーの一人、画家の孫大立氏の下方先の里帰りに同行したものである。
北京出身の孫氏は、まさに文革の下方世代。
十代の後半にえんあん郊外、今では車で30-40分行ったところの何家村に下方された。
そこで2-3年を過ごした後、今度はえんあん文工団に美術係として職を求めて数年。
そのあたりですでに文革は終わり、知識青年らは、それぞれに伝手を求めたり、
運動をしたりして、何とか北京に職を求め、北京戸籍を取り戻して帰って行ったが、彼はそれでも帰れなかった。
今度は邯鄲(河北省、北京の南)に配属され、ついに最後まで北京戸籍をもらえず、外地戸籍のまま帰還。
90年代も後半になり、ようやく北京戸籍を取得した、というかくめい的な経歴の人である。
その孫氏が、30年以上ぶりに下方先に「里帰り」する、というのが、
今回の旅の大きな目的であった。
我々は、それに野次馬的に同行したということである。
その際、皆の会話の中に、今回のたいかいで新たにリーダーとなったしゅう氏も当時の北京ちしき青年の仲間であり、
彼が下方されていた村は、数kmしか離れていないところだった、という内容があり、皆で沸き立った記憶があった。
上記の記事には、これからのリーダーは、せんせい閥--つまり、内陸部に下方された経験をもつ世代がけん引する、というようなことが書かれており、
「おお。まさにあの村のような環境で青春時代を送った都会の青年ら」
と印象深かったのである。
そのせんせい閥が、青春をどういう場所で過ごしたのか。
村は違えど、おそらくよく似たようなものだろう。
この一群の写真が、その想像に少しでも役立つのではないか、と私は信じる。
北京からちしき青年らが帰ってくるということで、村人らが村の入り口に集まる。
孫氏。まずは記憶の確認。
あなたは、どこどこのばあさまの誰で、と自分が当時、知っていた人とつながりがあるかどうかを確認していく。
村人たちが、わさわさと集まってきます。
何家村は、かくめいの聖地えんあんからどうやっていくかというと、
まずはえんあん市内を出て、国道を一路北に進んでいく。
車で15-20分ほど走った後、国道からごく小さな道を西側に入っていく。
ここからがすごい。
山の谷間沿いの道は舗装なく、がたがたぼこぼこの壮絶な路面だ。
これを延々と谷間を縫うこと20分近く。
谷沿いにいくつかの村が現れるが、何家村は、そのいくつか目の村だった。
2月。河はまだ凍っている。
ちしき青年らが、この土地を離れ、30年以上がたった。
北京といわずとも、わずか20-30kmほど離れただけのえんあんは、ビルの建設ラッシュ真っ盛りだ。
石油・石炭などの地下資源景気で、陝西では大量の成金がマンションを買いあさり、高級ジープを乗り回す。
そんな下界の喧騒から、この村は完全に無縁だ。
唯一、変わったことといえば、若者らが都会に出ていき、村には婦女子・老人・子供・障碍者しか残っていないことだけだ。
村の風景は、おそらく孫氏らがここにいた時と何らかわらないだろう。
鶏たちに人間が飼料をやることはない。
鶏らはその辺を自分でかけまわり、勝手にわらや虫を食べて自力で生活する。
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予算がかかりませんね。
またまたおおぼけ!
この辺は燕になるのですか?
夏の様子も知りたくなりました。