いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

胡同トイレ物語1、糞道 --仁義なき戦い  4、石炭の燃えカスはとにかく「かさばる」

2011年03月04日 13時26分42秒 | 北京胡同トイレ物語1、糞道 仁義なき戦い
人糞を利用した農業施肥は、中国を発祥とする世界に誇る偉大なる文明システムだろう。
人糞は立派な財産であり、商品となる。

糞は各家庭、公共トイレから回収される。
・・・ここまでは日本や他のアジアの国でも行われていただろうが、ここからが違う。
「本格加工、「規格商品化」が待っている。


糞は「糞廠」に運ばれた上、そこで「糞干」(乾燥糞ブロック)に加工し、大きさ、形状、重さを統一する。
水分を抜くことにより運搬などの取り扱いもしやすくなり、規格品として農民に販売するのである。農民はこれを買い、肥料にした。


「糞干」作りには、回収された糞だけでなく、ストーブの燃えカス灰、枯れ葉、紙くず、動物/人間の毛、
川底のヘドロ、土、草、動物の糞などを大量に混ぜ込んだ。
この作業は「カサ増し」と同時に、「粘度」のまちまちな糞を一定の数値に統一する役割もある。


良心的な糞干で「四成」(人糞4割、混ぜ物6割)、
鬼のごとき悪徳業者になると「一成(人糞1割のみ!)」の血も涙もない「劣悪品」を生産したという。

農民はそんな糞干を買うしかなく、劣悪な肥料を長年使用し続けたがために土地が硬化して使い物にならなくなるケースもあったという。



混ぜ物が有機物である場合は完全な「粗悪品」とも言えない。
現代でも有機農業に使う「コンポスト」作りを見ると、窒素系物と炭素系物の量を比率に沿って混ぜており、
野菜の生ごみ、緑の草、枯れ草なども加えている。

ただ比率が適切でない場合は堆肥になった段階で完熟しておらず、
土にまかれた後で土中にアンモニアを発生させたり、土中の酸素を大量消費したり、作物の生長の障害になることが考えられる。



日本では人糞を熟成させないでそのまま撒くと、作物が枯れてしまうので、
1-3年の長い期間をかけて肥溜めで熟成させ、ようやく撒いていた。
しかも液体のままなので、運搬の利便性は圧倒的に悪い。


これに対して中国の「糞廠」では、1年も熟成させているという記述はなく、
どうやらそのまま混ぜ物をして、ブロック状に乾かしてしまうようである。


・・・となれば、糞の未熟成はすでに大前提となっており、農民側もそれを承知で早めに土に混ぜ込み、
しばらく寝かせるなどの使い方をしていたのではないだろうか。

有機物の未分解だけなら、そのために「土地が硬化」することはない。
未分解のものは、時間をかけてでも分解され、土の養分となり、作物の生長を助けるはずだからだ。



「土地硬化」の犯人は、石炭の燃えカスではないだろうか。

つい数年前のオリンピック前まで、北京市内でも各家庭で練炭を燃やしていたことは前述のとおりだが、
石炭そのものであっても豆炭であってもその燃えカスほど「かさばる」ごみはない。


蜂の巣のように穴が開いている練炭が登場したのは、民国も後半になってからであり、
これが日本で発明され、大陸でも普及規格となったことは
、「雑居長屋の人々」
の中で述べたとおりである。

それまでは石炭そのものを固まりで燃やすか、「豆炭(中国語:煤球meiqiu)」を使っていた。


今でもそうだが、石炭の原石は高い。

豆炭は石炭の運搬などの取り扱いの際にぼろぼろと崩れてしまった石炭の粉を黄土に混ぜ込み、
ぼた餅くらいの大きさに固めたものだ。

黄土を混ぜ込んである分だけ値段も安く、北京ではこちらの方が普及している。

「石炭どころ」である山西省などに行くと、一般家庭でも石炭の原石をがんがん燃やしているのを見て、
私などは、「贅沢でええなああ」と涎が出るほど羨ましい。


今でも北京の郊外にいけば、豆炭を自家製で作っているのをよく見かける。
特にこの数年は石炭価格の高騰が激しく、零下20度にまでなる北京の冬の猛威は、一気に寿命が縮むような殺傷力があり、
燃料の高騰は死活問題だ。

人々は値段が安くて手に入る石炭の粉末を買ってきて、そこらへんの土と混ぜて水でこねてペースト状にし、
スプーンですくってぼた餅型に地面に並べ、日干しにする。


しかし石炭も豆炭も形状が不均一なので、くべ方が下手だと空気の通路をふさいでしまってうまく燃えない。
その上、燃えた後はもろくなって崩れ、余計に空気の通り道をふさいでしまい、練炭と比べると熟練した経験が必要だ。



閑話休題。

とにかく石炭にしても豆炭にしても、燃え尽きた後でもその容積はあまり減らない。
木炭や薪なら灰の容積はもとの数十分の一になってしまうが、前者の場合、燃える前の形状そのままにどんと鎮座ましましている。


筆者も農村で暮らしていた時期、石炭や練炭の燃えカスの始末は頭の痛い問題だった。
練炭が燃え尽きた後に残った黄土は、立派に土の重さがあり、
数個入れただけでプラスチックのバケツの底がバコッと抜けるほど重かった。

ビニール袋にだって、数個入れただけで袋も破れてしまう。


ゴミ棄て場に運ぶだけでも重労働であり、燃えカスは一日に10個以上も出るのだ。
ごみ棄てだけでも腰が抜けそうになる。

石炭の燃えカスはこれよりやや軽いが、やはり似たり寄ったりである。


そこで庭に畑があると、燃えカスをそこに持っていき、足で踏み崩して土に返してしまうこともあるが、
毎日10個以上も出る燃えカスをすべて土に返すと、夏になると畑の作物が育たなくなる。

どういう科学成分の関係でそうなるかは、わからないが、
とにかく石炭の燃えカスがあまりに多い土は野菜が育たない。

「土地の硬化」とは、このことを言っているのではないだろうか。



北京城内のごみ掃除は、清代からかなり問題になっていたらしい。
当時は行政が予算を組んでゴミ回収したわけではなく、
城内からのごみの運び出しは、完全に市民の自由意志に任せられている。

そうなると皆、わざわざ遠く城外までごみを運び出さないため、城内のごみの堆積はかなり深刻な問題であった。

・・・最も当時のごみはほとんどが有機物であれば、生ごみなら少々の悪臭がしたとしても何年もそこに留まったままということはない。
再生可能なものは、すべて拾っていく人がいる。


実はその点は、今の中国でも変わらない。
ゴミ回収を生業にしている人は、
鉄などの金属物、ガラス瓶、ペットボトルや石油化学加工品類、ぼろ布、ダンボールなどの紙製品などを
すべてきれいに仕分けして拾っていき、品種ごとに重さを計り、回収業者に売り渡す。


清朝から民国時代にかけての北京城内でも基本は同じことであり、
ほとんどの生活ごみは勝手に拾っていく人がいた。

・・・・・その中で唯一、誰も見向きもしなかったごみが石炭の燃えカスだったことは、想像に難くない。



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写真: 明瑞府のつづき。奥に進んでいくと、いきなり庭園のような広い場所に出た。





太湖石の上に家が建っている!
昔はかなりの規模の庭園だったのだろう。

           

市内の一等地にゆったりとした空間の残るところが唯一、往年の面影を残している。




写真: 2003年。東綿花胡同の石彫刻の美しい四合院。


   


 


 




写真: 2003年。前門の南、楊竹梅胡同。胡同、老人のひなたぼっこ、鳥かごのアイテムをしつこく三連発。









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