いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

胡同トイレ物語1、糞道 --仁義なき戦い  2、人口増加と「糞業」の発展

2011年03月02日 11時05分26秒 | 北京胡同トイレ物語1、糞道 仁義なき戦い

北京城内の人間の「生理現象」の始末は、
中国の他地域同様、一連の汲み取りから肥料加工、販売にいたるまでの「糞業」に支えられていた。

北京では明代あたりから始まったと思われる。
金、元代の北京はまだ強固な城壁もなく、人口もまばらだった。
大通りの両脇には溝があり、朝晩におまるの中身を捨てても問題になるほどの人口もなかったのである。


その後、明の永楽帝が首都を北京に置いてから人口が急増し、道端に垂れ流しにするわけには行かなくなる。
加えて、古来より人糞を肥料とする習慣が定着する中国文化圏においては、
大量の糞の集まる都会を「宝の山」と見る農民がこれを放っておかなかったのも、自然の摂理である。


北京から近い山東の農民が、徐々に糞尿の回収・汲み取りを始めるようになり、「糞業」なる業種が成立した。


「糞」をめぐるトラブルが続出するのは、清代も半ばを過ぎた乾隆年間となってからだ。

遠因は人口の増加である。


周知のとおり清の康熙年間から乾隆年間にかけての100年(1662よりの100年)で中国全体の人口が大爆発する。
それまで二億だった人口が一気に四億に倍増、アヘンが蔓延していく根源にもなったと言われる。
そんな時代背景の中、北京の人口が急増したこともうなずける。


人口は増えたが、すべての人が豊かに暮らせるほど生産力は上がらず、
その需要を満たすことができるまでには、数百年の時間がかかる。


大航海時代の到来後、ゆっくりと時間をかけて新大陸から寒冷・乾燥に強い新種穀物(じゃがいも、とうもろこしなど)が普及し、
それまで狩猟か遊牧しかできなかった万里の長城の外、東北地方での農業が始まる。
これにより大量の人口を養い、大きく受け皿を広げたが、東北一つだけでは根本の解決にはならない。


抜本的な解決は第二次大戦以後、電気・石油で動く自動車・各種機械の普及によりあらゆる生産の効率が上がり、
情報の共有が実現、生産力が革命的に向上するようになるまで待たねばならない。
それまでの数百年の間、人々はひしめく群集の波の中、
壮絶な競争社会に耐え抜き、生きる道を探すしかなかったということだろう。


「糞」という世界の他地域では見向きもされない「資源」をめぐり(東アジアは別ながら、ここまで壮絶ではない)、
一つの独立した「業界」が成立したのもかかる厳しい競争のためでもあった。


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写真: 内務府胡同の「明瑞府」看板のかかった雑居四合院。
明瑞は乾隆時代の功臣、乾隆帝の愛妻・孝賢皇后の甥である。

乾隆時代のことを調べていると、よく登場する人だ。
四路四進院の合計16個もの四合院で構成される大豪邸だが、2003年に訪れた当時は典型的な大・大雑居四合院になっていた。

今はどういう状態になっているのか、いずれまた再訪したい場所である。
乾隆時代、清朝の発展に尽くした満州貴族らの重鎮の一人として、いずれは書いてみたい人物である。



入り口の保護文化財の看板。


      


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