いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

胡同トイレ物語1、糞道 ーー仁義なき戦い  3、  4億人口を支えたシステム

2011年03月03日 12時08分06秒 | 北京胡同トイレ物語1、糞道 仁義なき戦い

清代の康熙年間から乾隆年間にかけて中国を訪れたイエズス会宣教師の書簡を読んでいると、
彼らは中国の大地で見る人々の貧しさに驚き、繰り返しそのことについて言及している。


その辺りはヨーロッパ史に詳しくないため、その究明は今後のテーマでもあるが、
中世の終わりに差し掛かり、大航海時代が幕開けたばかりのヨーロッパと比べ、
当時の中国の生産力が劣っていたとは思えない。


そこはやはり「人口密度」の問題であろう。


さらに中国の人口が多いのは、ヨーロッパ人の生殖能力が中国人より低いために人口が増えないわけではなく、
人口が増えぬ何かの要素が働いていたことになる。

乳児死亡率が高いとか、昔の日本のように生まれた子供を間引きするとか、
成人できてもペストなどの流行病、または戦争で大量に死ぬなどの調整機能があったと思われる。

ここではあくまでも主題は「糞業」のため、これ以上の詳しい論証は避ける。



中国では以上の要素がなまじ相対的に低かったために人口が増えすぎ、食べ物は少なく、
就業・雇用機会、生きるための道は少なしという事態となった。
その矛盾、努力が効果を上げぬ絶望感の中でアヘンが普及して行ったことは、よく知られる。



前文で触れたとおり日本では同じ時代(江戸時代)、
人口を増やさないために間引きなどを行い、産児制限していたが、
中国の民はその方向に発想を向けなかった。



儒教の伝統では子孫繁栄は、一族繁栄の象徴だからといわれるが、
要するに日本ほど切迫していなかったと見ることもできる。
四億の人口がその実力の何よりもの証明である。

それでも生きるための競争の熾烈な社会だったことには、ちがいない。




「糞業」なる強大な産業レーンが築き上げられたのは、眩暈を覚えるほど壮観な図であり、
「たかが糞のために何もそこまで」といいたくなるような命がけの戦いが繰り広げられたのも、
アヘンの普及と同じく、生存空間があまりに小さく厳しい、当時の社会の縮図といえるのではないか。


逆に4億の人口の胃袋を支えることができたのは、人糞回収システムだったとも見ることができる。
繰り返し作物を植えてもざくざくと収穫できる永遠に肥えた田畑がなければ、これだけの人口を養うことはできない。



人間食えなくなってくると、他国に奪いに行くようになり、小規模なら略奪、大規模なら戦争が起こる。
短絡的にわかりやすい例でいえば、ローマ帝国時代のゲルマン民族の南下であり、
中国史における騎馬民族の南下である。


モンゴル人が万里の長城を越えて攻め入ってくる時は、雪害や家畜の疫病の流行で食糧危機となった時が多い。


日本では飢饉が起きても簡単に海を渡れず、食べ物を求めて行く場所もなく、大量餓死するしかない。
そしてその反省として人口制限が行われた。


明治になり、鎖国が解かれると、飢饉で人が死ななくなったという。
中国の江南地方から米を緊急輸入したからだ。

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写真: 明瑞府の大雑居四合院のつづき。



入り口を入ると、自転車置き場が出現。
この自転車の多さを見ても、中にどれくらいたくさんの人々が住み込んでいるかが想像できる。
しかし私が見せてもらえたのは、東端の一本だけだった。


       


       

如何にもこの前立てたばかりのような簡易住宅が並ぶ。
想像するに、当初は庭園のような場所だったのではなかろうか。
そして空地を残しておく優雅さを維持できなくなり、長屋に改造した。。。。







入れなかったエリアの建物の屋根の部分から、かろうじて往年の格式が偲ばれる。


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