やおよろずの神々の棲む国でⅡ

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【中学歴史教科書8社を比べる】57 ~⑾ 天皇 ② 「仁徳天皇陵」の描き方のちがい<その1>基礎知識~

2017年01月12日 | 中学歴史教科書8社を比べる(h28-令和2年度使用)

② 「仁徳天皇陵」の描き方のちがい

■基礎知識 

<ウィキペデア:大仙陵古墳
2017.1.9>より

・「大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)または大山古墳(だいせんこふん)は、大阪府堺市堺区大仙町にある古墳。形状は前方後円墳。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。

 実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」として第16代仁徳天皇の陵に治定されている。名称は「仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)」や「仁徳陵古墳」とも

 全国で第1位の規模の巨大古墳である。クフ王ピラミッドや秦の始皇帝墓陵にならぶ「世界三大墳墓」ともいわれ、墳丘の平面規模は秦の始皇帝陵を凌いで世界最大値に達している。」


・「治定について[編集]

 『記紀』『延喜式』などの記述によれば、百舌鳥の地には仁徳天皇、反正天皇、履中天皇の3陵が築造されたことになっている。しかし、それぞれの3陵として現在宮内庁が治定している古墳は、考古学的には履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)→仁徳天皇陵(大仙陵古墳)→反正天皇陵(田出井山古墳)の順で築造されたと想定されており、大きく矛盾が生じている。このことから、百舌鳥の巨大古墳の中で最も古く位置づけられる伝履中天皇陵を伝仁徳天皇陵にあてる見解もある。しかし、この場合は後述する『延喜式』の記述と大きく食い違うことになる。」


・「延喜式[編集]

平安時代の法令集である『延喜式』には、仁徳天皇の陵は「百舌鳥耳原中陵」という名前で和泉国大鳥郡にあり、「兆域東西八町。南北八町。五烟。」と記述されている。なお、「兆域東西八町。南北八町。」という敷地が他の陵墓と比較すると群を抜いて広大であることから、ここに記される「百舌鳥耳原中陵」が当古墳を指していることは間違いないと考えられる。「中陵」というのは、この古墳の北と南にも大古墳があるからで、北側は反正陵、南側は履中陵であると記されている。」


・「名称の変遷と混乱[編集]

 形状を現す大山・大仙、被葬者を表す仁徳、これに続けるものに学術的な古墳、陵墓としての陵・天皇陵・御陵・帝陵と多数の組み合わせが生じ、混乱している

 また、併記する場合も多いため、より多種に渡ってしまっている。江戸時代の絵図等では「仁徳天皇陵」「大山陵」の表記が見られる[要出典]。

 主因は仁徳天皇の墓かどうかの論争にあり、1971年(昭和46年)以降「仁徳陵」の名称で呼ぶことが提唱された。しかし、これでは仁徳天皇の墓であることを否定したことにはならないため、1976年(昭和51年)以降、より学術的な遺跡の命名法に則り「大仙陵古墳」の使用が始まった。

 宮内庁は仁徳天皇の墓に比定しており、地図上では「仁徳天皇陵」が採用されている(かつては「仁徳帝陵」を採用したものが多かった)。
 また、国民的にも(近畿地方、中でも地元大阪府では、大仙古墳よりも仁徳天皇陵のほうが広く認知されている)国際的にも定着した名称を重んずる意見も多数あり、学術用語としては流動的でいまだに確定しておらず、いずれもが正式名称として使用可能である。」


・「現状
 考古学的には仁徳天皇の陵であることに否定的な見解が唱えられているが、築造時期が5世紀前半~中頃との見方が確定することによって、文献史学上で想定される仁徳天皇の活動時期に近づくとする見解もある。
 ただし、宮内庁が調査のための発掘を認めていない現状において、学術上ここが仁徳天皇陵であると確定することは不可能であることにより、現在では教科書などを含めて「仁徳天皇陵」との呼び名は用いられなくなっている。」

 ※松永注:「仁徳天皇陵」も使われている教科書あり。次回実物コピー提示。


・「「世界三大墳墓」[編集]

 堺市文化観光局や公益社団法人堺観光コンベンション協会観光ガイドなどでは大仙陵古墳を、クフ王ピラミッドや秦の始皇帝墓陵にならぶ「世界三大墳墓」としている。また堺市広報誌Sakaist 2014年第3号では「世界最大の古墳」としているこの他、育鵬社教科書では「世界最大の墓」としたり、Z会の参考書でも「世界最大級の墓」としている。

 考古学者の白井久美子も、大仙古墳の平面規模は秦の始皇帝陵を凌いで世界最大値に達していると述べている。「世界三大墳墓」の平面規模以外の比較では、体積では始皇帝墓が300万m³で世界一位、260万m³のクフ王ピラミッドが二位、大仙古墳は140万m³で世界三位となる。また、高さ別比較では、クフ王ピラミッドが146.6mで一位、始皇帝墓は76mで二位、大仙古墳は35mで、中国の武帝茂陵(高さ46.5m)よりも低い。

 一方、琉球大学名誉教授の地理学者・歴史研究家高嶋伸欣は育鵬社教科書が大仙古墳を「世界最大の墓」と記載した件につき、この古墳は「ピラミッドや始皇帝墓のような立体的な構造物を築く技術が未熟で、平面の規模を大きくするしかなかった」ものにすぎず、「世界一長い海苔巻を作ってギネス登録に成功した日本はスゴイ!と自慢しているようなもの」と批判している。」


 高嶋伸欣氏はかなりいかがわしそうな感じがするので、調べてみましょう。

<参考 ウィキペデア:高嶋伸欣2017.1.9>より

・「1942年(昭和17年)、東京に生まれる。1964年(昭和39年)、東京教育大学文学部卒業。1968年(昭和43年)、同大学院文学研究科地理学専攻修士課程修了。大学院では家永三郎らに師事した。1968年(昭和43年)4月より東京教育大学附属高等学校(現・筑波大学附属高等学校)社会科教員に着任。
この間、日本の近現代史に関する教材研究をきっかけとして、1975年(昭和50年)より主に日本教職員組合の組合員教師を対象とした東南アジアの近代史をたずねる「マレー半島戦争追体験の旅」などを主宰した。マレーシアにおける日本軍の住民弾圧を体験者と主張する者の証言を集めたとし、それを交えて記録に残した
 また、こうした活動に関連して1992年(平成4年)に執筆を担当した高校教科書に対する検定意見をめぐり、10年以上に及ぶ教科書裁判を国と争った
1996年(平成8年)、附属高校教員を退職し、琉球大学教育学部教授に就任。2008年(平成20年)、同大を定年退職、同大名誉教授、非常勤講師。」


・「教科書裁判[編集]

 ・・・。翌1993年(平成5年)、高嶋は検定官の行為を不服として横浜地方裁判所に提訴。以後、一連の裁判は「横浜(高嶋)教科書訴訟」と呼称される。1995年(平成7年)3月、一審の横浜地裁は被告である国に対し「検定意見には裁量権の逸脱・乱用がある」として、20万円の損害賠償を命じる判決を下した。被告の国は即時抗告し、同年10月二審の東京高裁は地裁の判決を覆して一転、高嶋の訴えを全面的に退けた。続く最高裁でも2005年(平成17年)12月、上告を棄却した。」


・「教科書採択問題について[編集]

 『新しい歴史教科書』や育鵬社の歴史教科書の不採択運動をしており、採択される可能性のある教育委員会に対し、「全国の教科書採択関係者の皆さんに 沖縄からの怒りの声をお届けします」などとし、もし採択した場合は「責任は専らその教育委員会 にある」として裁判も有り得るという内容の手紙を送っている。」

 
 ※注:これは明らかな脅迫。彼ら(=一部の悪質な共産党関係者や反日外国の手先など)は、《自分たちの目的は絶対正義だ》という理屈や信念で、《正義の目的のためにはどんな手段も正当化されるという、ソ連共産党や毛沢東発祥の「りっぱな実践理論」》をもっているので、違法な、あるいは反道徳的な犯罪行為を平気で実行する傾向が強いのです。中国共産党や朝鮮半島人の無法ぶりもその表れ。
 また、「自分たちだけが正義」なので、同じようなことを反対勢力が行うと、「正義の味方」として、まるで気が違ったかのように攻撃します。


・「教科書の竹島記述についての主張[編集]

 1974年(昭和49年)、文部省検定を通過した付図について、「尖閣諸島は沖縄返還で話題になったから意識的に表記された」とし、「しかし、竹島は当時問題になっていないし、日本人はずっと関心がなかったので、目立たない程度に表示されているだけだった」と韓国マスコミのインタビューに答えている(しかし日本は竹島問題について1952年(昭和27年)から韓国に対して国際司法裁判所への付託を韓国側に提案してきており、1965年(昭和40年)の日韓基本条約で日本側は竹島問題は紛争処理事項であるとしている)。

 そしてこれまで竹島を問題としていなかった日本が、近年竹島を領土問題として浮上させた理由は、安倍晋三を中心とした自民党勢力が、票田のために、領土紛争を引き起こしてナショナリズムを拡散させるように島根県をけしかけたものであると主張している(しかし1977年(昭和52年)2月5日には、すでに福田赳夫首相が「竹島は一点疑う余地のない日本固有の領土」と公言している)。
 民主党政権になっても竹島問題は同じく浮上し続けている点については、「民主党自体が半分は隠れた自民党だから」と主張している。」

 ※高嶋伸欣氏は《まるで韓国や共産党の代弁者》のようにしかみえません。《日本が大嫌いな人々》の仲間であることはまちがいないようですね。
 

~次回、実物コピー~

<全リンク⇒> 天皇<55・①索引など56・②仁徳天皇陵575859・③系図606162 ④聖徳太子6364656667/68/⑤明治697071727374/⑥昭和75767778798081/⑦今上天皇+天皇総まとめ82(この項完)>