やおよろずの神々の棲む国でⅡ

〝世界に貢献する誇りある日本″の実現を願いつつ、生きること、ことば、子育て、政治・経済などについて考えつづけます。

【中学歴史教科書8社を比べる】69 ~⑾ 天皇 ⑤明治天皇の描き方のちがい<その1 基礎知識>~

2017年01月23日 | 中学歴史教科書8社を比べる(h28-令和2年度使用)

 ※私は高校で世界史を選択したため、また、大学での小学校教諭と中学国語教諭の免許取得単位の中にもなかったため、明治天皇のことについてほとんど知りませんでした。ですから、まず、ウィキペデアよりたくさん引用して学びなおします。


ⅰ 基礎知識 <ウィキペデア:明治天皇>より

・「明治天皇(めいじてんのう、1852年11月3日(嘉永5年9月22日)- 1912年(明治45年)7月30日)は、日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は、永(えい)。
 倒幕・攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれた。
 その盛名により明治大帝 (Meiji the Great) 、明治聖帝、睦仁大帝 (Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。」


・「明治6年(1873年)に征韓論を巡って政府部内が紛糾した明治六年政変では、勅旨をもって西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させてこれを収め、明治7年(1874年)から同8年(1875年)にかけて続いた自由民権運動では、立憲政体の詔(漸次立憲政体樹立の詔)を発して政体改革を進めるなど、天皇は政府内部の政治的対立を調停する役割を果たした
 この自由民権運動への対応として、明治14年(1881年)には、国会開設の勅諭を発して議会創設の時期を明示し、運動の沈静化を図った。」


・「天皇は即位以後、外国の要人とも頻繁に会談した。」


・「明治15年(1882年)、軍隊を「天皇の軍隊」と規定した軍人勅諭を発し、大元帥として軍隊の統率にあたり、軍備の増強に努めた。」


・「明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法を公布した。この憲法は、日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記しており、立憲君主制国家確立の基礎となった。
 翌明治23年(1890年)10月30日には教育ニ関スル勅語を発し、近代天皇制国家を支える臣民(国民)道徳の涵養に努めた。
 帝国議会開設当初は、超然主義を唱える藩閥政府と衆議院に依拠する政党勢力が鋭く対立衝突したが、天皇はしばしば詔勅を発し、調停者的機能を発揮した。また、藩閥政府内の元勲間にあった政策や感情の上での対立においても、天皇は宥和に努めた。共和演説事件では、文部大臣の尾崎行雄に辞表を提出させた。」

 

・「列強への道[編集]

 日本が初めて直面した近代戦争である日清戦争と日露戦争では、天皇は大本営で直接戦争指導に当たった
 また、外交上は日英同盟を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な国力の増強を図った。
 日露戦争後は、韓国併合や満州経営を進め、日本をイギリスやフランス、ドイツなど他の列強のような植民帝国へと膨張させる政策を採用した。
 明治44年(1911年)には、開国以来の懸案であったイギリスやアメリカなどの各国との不平等条約の改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となった。」
 

 

・「世界における天皇崩御[編集]

 明治天皇の崩御は世界各国で報道された。これは、維新によって世界に窓を開いた日本が、わずか四十五年の間に世界列強としての地位を確立し始めたことを意味する。
 天皇崩御の代表的論調は、望月小太郎が、明治天皇の一年祭に際して編纂刊行された『世界に於ける明治天皇』にまとめられた。各国別全二十八章二十余国からなり・・・

 ・・・そして、トルコ、インド、ペルシャ、アフリカなどのいわゆる「有色人種」の間では、「明治大帝は亜細亜全州の覚醒を促し給いたる救世主」と賞賛し、「侵略に対してきことして之を防遏」、「土民に事由制度を許した」と明治天皇を高く評価したことを特記した。
 日露戦争がその背景にはあったのだが、当時日本に併合されていた朝鮮などの論調は敢えて掲載されていない。またこれは、1926年(大正15年)12月の大正時代の終わりにあたっても再刊されており、明治という時代がいかに誇りであり、明治天皇の影響がいかに甚大であったかが分かる。」


・「人柄と影響[編集]

 明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴として国民から畏敬された。
 日常生活は質素を旨とし、どんなに寒い日でも暖房は火鉢1つだけ、暑中も軍服(御服)を脱がずに執務するなど、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。・・・

 伊藤は、初代内閣総理大臣就任とともに引き続き初代宮内大臣を兼ねて、天皇の意向を内閣に伝えることで天皇の内閣への不信感を和らげ、伊藤の目指す立憲国家建設への理解を求めた。

 その結果、明治19年(1886年)6月23日に宮中で皇后以下の婦人が洋装することを許可し、9月7日には天皇と内閣の間で「機務六条」という契約を交わして、天皇は内閣の要請がない限り閣議に出席しないことなどを約束(「明治天皇紀」)して天皇が親政の可能性を自ら放棄したのである。」


・「和歌を好み、多くの御製(天皇の自作和歌)を遺している。その数は、 九万三千首余りといわれる。

 よきをとり あしきをすてて外国(とつくに)に おとらぬ国となすよしもがな

 よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ

 しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける

 わが國は神のすゑなり神まつる昔の手ぶり忘るなよゆめ

 目に見えぬ神にむかひてはぢざるは人の心のまことなりけり 」

 

~次回、明治天皇1/2:即位、五箇条の御誓文の描き方~

<全リンク⇒> 天皇<55・①索引など56・②仁徳天皇陵575859・③系図606162 ④聖徳太子6364656667/68/⑤明治697071727374/⑥昭和75767778798081/⑦今上天皇+天皇総まとめ82(この項完)