車椅子での入店拒否の一件、どっちが正しいかでなく、こういったことがあるという事実を広く知られ、それについて多くの人が考えるいい機会であったと思う。誰かが声をあげなければ、色々な障害者が同じような体験してる現実に対して世間はそんなことがあるとも知らないままだろう。
ずっと前の話。幼児たちが騒ぎまくる某チェーン飲食店で、店内はいつも騒がしいからとぼーずを連れていくようになった。ぼーずはそこで騒いだことはないが明らかに知的障害には映っていた。何度目かの来店時、飯喰ってる最中に店長が出てきて、うちに来られると困ると言われた。(続
続)その時は全く騒いでもなかったので吃驚して理由を訊いた。そしたら他の客が知的障害を嫌がる人もいるからと言われた。騒いではないが何か迷惑かけてたか丁重に訊き直した。店にいるのを嫌がる客もいるから、と素っ気なく返された。俺はまだ若くて怒りよりショックが強くて黙って従った。続
続)帰りはショックで震えてた。翌日になって少し冷静になり、そのチェーンの本部に店名出さずに知的障害の利用は迷惑か尋ねた。勿論そんなことはない、そんな理由をあげることなどあってならない、と丁重な謝罪の言葉を貰った。謝罪が欲しかったのでなく、利用することが「迷惑」か知りたかった。続
社会の仕組みが障害者を拒むのでなくて、障害者を拒みたい人の心が障害者を拒む社会を作っていく。障害者にとって理不尽と思う経験は障害者の日常に色々ある。だがそれを声にしなければ、障害者にとって理不尽な事実があることに誰も気づいてくれない。
どちらが正しいか裁判官になる必要はなくて、そういう事実が自分の生きる社会にあって、自分がどちらかの立場ならどうするか考えるきっかけとなれば、その問題は共有出来る。障害者の問題は障害者ではない人にとって他人事でなく、自分の生きてる同じ社会で起きてること。

