出会い系サイトへの馬鹿げた勧誘spamを晒しているうちに、なんだかふと厭世観に陥ってしまっている。
spamの存在に対してということではない。そんなものに厭世観を抱くような初心な感覚はとっくの昔に吹っ飛んでいるって\(^0^)/
ではなにか、というと、世の中に数多ある出会いと別れのありようについて、だ。
これらのことに、人は徒な幻想を抱き美化しすぎている。もちろん、現在恋愛の真っ最中にある人々にとってはそれらは幻想でもなんでもなく、極めてリアルなものだと考えていることだろう。その思い込みまで否定するつもりは毛頭ないが。
「愛した人はあなただけ」なんていう言葉がどれほど信憑性のない嘘八百であるかということなど、わざわざここに記す必要もないほど自明の理なのであるが、人間は忘却する生き物であることから、そういうクサい台詞が吐ける相手方を現物として所有している場合は、何となくそんなふうに思い込んでしまうものなのだろう。
だが、冷静に考えてみれば、人には様々な愛の遍歴があるものだ。
人がまず第一に感ずる愛は、恐らく、その胸に抱かれ乳を含ませ温もりを与えてくれる母親に対してのものだろう。これは男女の別なくそうであると考える。
だが、同性を愛することは生殖行為においてアブノーマルであることを本能的に知るであろう女の子が、まず性的な恋愛対象としての母親から離れていく。女の子は次に、そうした問題のない父親の方に愛情を求め「大きくなったらパパのお嫁さんになる」などと言い出す。やがてそれは近親相姦という、制度上はもちろん古事記の仲哀でも「親子たはけ(オヤコタワケ)」などの記述があるように親子間の不倫は「国つ罪」として忌むべき行いとされていることによって、この愛からも離れていかざるを得なくなる。
そうしてやっと目を外に向けていくことになるわけだ。
男の子の場合、最初の異性が母親であることから、母性との分かれ目が見えにくく、女の子以上に依存する傾向が強そうだが、これは母親の方が自分の息子を「小さな恋人」みたいに思う部分もあることから、しばしば母親の方が息子から離れられずにマザコンみたいな形でこじれることがあるわけだ。
むしろ普通は、母親が自分に対して依存の度合いを強めてくるに従って自然と距離を置き、他に女性を求める方向に行くのだろう。
そうやって男の子も目を外に向け始めていく。
いずれにしても、そんな身近なところから既に愛は始まっているのにもかかわらず、「愛するということと好きということは違う」とか「今までのものは本当の愛ではなかった」などと御託を並べる輩がごまんといるわけだが、何かに感ずる愛情に本物も偽物も大きいも小さいもない。
こんなものはつまり、如何に今の自分が今現在の恋愛に夢中になっているかということを自分自身に言い聞かせているだけのことなのだ。
目が眩んでいる者には、全てが美しく見える。つまり、彼(彼女)は具体的な相手に対して愛情を抱いているというよりも、恋している自分を愛おしんでいるわけだな。一種のナルシシズムってか。
そんなふうだから、いざ別れ、みたいなときにも一筋縄ではいかない(と思い込んでしまう)。
「次に生まれ変わったらきっと一緒になろうね(by seiko)」「私が愛した人はあなただけなの、それだけは忘れないで」「体はあの人のところに行ってしまうけれども心はあなたのところに置いていくから」などなど、百曼陀羅の繰言が展開される。
ここに書いた例が女の方からであることに、特段の理由はない(まあ、強いて言えば、オレが男であるから、宣告される対象は必然的に女だということかな)。
しかし、いくつかの事例を聞いていると、大抵は女の方から先に熱が冷め、別れる機会を窺っている、ということになっているみたいだから、これは必然かもしれない。
つまり別れは、その恋愛に興味を失ったから別なヤツに乗り換えよう、という実にわかりやすくてビジネスライクなものに何らかの感情を塗布して飾り立て、自己満足に浸ろうという「儀式」なわけだな。
実際、別れなとどいうものには、特段の語らいの余地もお互いの関係性からの話し合いもない。単に「終わる」だけのことなのだ。
連絡が来なくなる、あるいは遠く離れてしまう、そんなきっかけで疎遠になり、そのうちにそんなことがあったことすら忘れてしまう。
それが正しい別れであるし、そうであるからこそ人は前を向いて歩いていけるのだ。
それにそんなふうに別れることができれば、次にまたあったとき、もう一度付き合うことのできる可能性だって残されるわけで。
別れを辛いと感じ、その葛藤に泣くのは、自分の心の中だけにしておく。
それが賢い人間関係の構築というものだろう。
愛情に限らず、この世に「永遠」などというものはない。存在するものは必ず時間によって抹殺されるわけだから。
つまり、「永遠」は「存在しないこと」と同義なわけだ。
まして、愛情なんて不確かなものに、「永遠」だなどと戯けた憧れを持つのはやめた方がいい。
そんなものに幻想を抱いているから、spamに引っかかってアヤしい出会い系サイトなどに登録するなどという軽挙妄動に及んじゃうんですよ。気をつけましょうね。
そうそう、今時は「ソーシャルネットワークサービス(SNS)」あたりにも、デリヘル嬢が徘徊しているらしい。仲間内のネットだからと気を赦していると、プチ恋愛のつもりで付き合って、カネを巻き上げられるという物心両面でのダメージを受けることにもなりかねない。「恋愛」ってのはつくづく恐ろしいね。くわばらくわばら。
spamの存在に対してということではない。そんなものに厭世観を抱くような初心な感覚はとっくの昔に吹っ飛んでいるって\(^0^)/
ではなにか、というと、世の中に数多ある出会いと別れのありようについて、だ。
これらのことに、人は徒な幻想を抱き美化しすぎている。もちろん、現在恋愛の真っ最中にある人々にとってはそれらは幻想でもなんでもなく、極めてリアルなものだと考えていることだろう。その思い込みまで否定するつもりは毛頭ないが。
「愛した人はあなただけ」なんていう言葉がどれほど信憑性のない嘘八百であるかということなど、わざわざここに記す必要もないほど自明の理なのであるが、人間は忘却する生き物であることから、そういうクサい台詞が吐ける相手方を現物として所有している場合は、何となくそんなふうに思い込んでしまうものなのだろう。
だが、冷静に考えてみれば、人には様々な愛の遍歴があるものだ。
人がまず第一に感ずる愛は、恐らく、その胸に抱かれ乳を含ませ温もりを与えてくれる母親に対してのものだろう。これは男女の別なくそうであると考える。
だが、同性を愛することは生殖行為においてアブノーマルであることを本能的に知るであろう女の子が、まず性的な恋愛対象としての母親から離れていく。女の子は次に、そうした問題のない父親の方に愛情を求め「大きくなったらパパのお嫁さんになる」などと言い出す。やがてそれは近親相姦という、制度上はもちろん古事記の仲哀でも「親子たはけ(オヤコタワケ)」などの記述があるように親子間の不倫は「国つ罪」として忌むべき行いとされていることによって、この愛からも離れていかざるを得なくなる。
そうしてやっと目を外に向けていくことになるわけだ。
男の子の場合、最初の異性が母親であることから、母性との分かれ目が見えにくく、女の子以上に依存する傾向が強そうだが、これは母親の方が自分の息子を「小さな恋人」みたいに思う部分もあることから、しばしば母親の方が息子から離れられずにマザコンみたいな形でこじれることがあるわけだ。
むしろ普通は、母親が自分に対して依存の度合いを強めてくるに従って自然と距離を置き、他に女性を求める方向に行くのだろう。
そうやって男の子も目を外に向け始めていく。
いずれにしても、そんな身近なところから既に愛は始まっているのにもかかわらず、「愛するということと好きということは違う」とか「今までのものは本当の愛ではなかった」などと御託を並べる輩がごまんといるわけだが、何かに感ずる愛情に本物も偽物も大きいも小さいもない。
こんなものはつまり、如何に今の自分が今現在の恋愛に夢中になっているかということを自分自身に言い聞かせているだけのことなのだ。
目が眩んでいる者には、全てが美しく見える。つまり、彼(彼女)は具体的な相手に対して愛情を抱いているというよりも、恋している自分を愛おしんでいるわけだな。一種のナルシシズムってか。
そんなふうだから、いざ別れ、みたいなときにも一筋縄ではいかない(と思い込んでしまう)。
「次に生まれ変わったらきっと一緒になろうね(by seiko)」「私が愛した人はあなただけなの、それだけは忘れないで」「体はあの人のところに行ってしまうけれども心はあなたのところに置いていくから」などなど、百曼陀羅の繰言が展開される。
ここに書いた例が女の方からであることに、特段の理由はない(まあ、強いて言えば、オレが男であるから、宣告される対象は必然的に女だということかな)。
しかし、いくつかの事例を聞いていると、大抵は女の方から先に熱が冷め、別れる機会を窺っている、ということになっているみたいだから、これは必然かもしれない。
つまり別れは、その恋愛に興味を失ったから別なヤツに乗り換えよう、という実にわかりやすくてビジネスライクなものに何らかの感情を塗布して飾り立て、自己満足に浸ろうという「儀式」なわけだな。
実際、別れなとどいうものには、特段の語らいの余地もお互いの関係性からの話し合いもない。単に「終わる」だけのことなのだ。
連絡が来なくなる、あるいは遠く離れてしまう、そんなきっかけで疎遠になり、そのうちにそんなことがあったことすら忘れてしまう。
それが正しい別れであるし、そうであるからこそ人は前を向いて歩いていけるのだ。
それにそんなふうに別れることができれば、次にまたあったとき、もう一度付き合うことのできる可能性だって残されるわけで。
別れを辛いと感じ、その葛藤に泣くのは、自分の心の中だけにしておく。
それが賢い人間関係の構築というものだろう。
愛情に限らず、この世に「永遠」などというものはない。存在するものは必ず時間によって抹殺されるわけだから。
つまり、「永遠」は「存在しないこと」と同義なわけだ。
まして、愛情なんて不確かなものに、「永遠」だなどと戯けた憧れを持つのはやめた方がいい。
そんなものに幻想を抱いているから、spamに引っかかってアヤしい出会い系サイトなどに登録するなどという軽挙妄動に及んじゃうんですよ。気をつけましょうね。
そうそう、今時は「ソーシャルネットワークサービス(SNS)」あたりにも、デリヘル嬢が徘徊しているらしい。仲間内のネットだからと気を赦していると、プチ恋愛のつもりで付き合って、カネを巻き上げられるという物心両面でのダメージを受けることにもなりかねない。「恋愛」ってのはつくづく恐ろしいね。くわばらくわばら。