たそがれ縁側日記

ボケ老人の独り言

河村ウォッチング

2009-05-17 21:22:30 | Weblog
 河村市長は突然、徳山ダム導水路事業から撤退すると表明した。
 治水と利水を目的とした徳山ダムは既に完成し稼動している。しかし愛知県や名古屋市に水を送る導水路の建設はこれからだ。本来治水や利水事業は百年の大計であり、かつ広域であるため県の枠を超えて利害関係が生ずる。そのため愛知、岐阜、三重の3県と名古屋市が長年にわたる協議の結果今日に至っている。
 もともと河村たかし氏は衆議員のときから徳山ダム事業には反対のようだが、立場の異なる名古屋市長になって間もないこの時期に、関係機関との事前の話合いもなく突如一方的に撤退を表明し、この負担金も出さないとするのはいかにも身勝手ではないか。
 将来の水需要に関し、河村市長としての予測判断があるのだろうが、長年にわたる3県1市の協議を無視した一方的なやり方は尋常とは思えない。
 これでは名古屋市に対する関係団体からの信頼は失墜する。報道によれば内部の担当幹部すら新聞を見て初めて知ったようだ。
 河村市長はメディアの注目を浴び、庶民を湧かせることがたいへんお好きなようだ。

河村ウォッチング

2009-05-14 09:44:30 | Weblog
 連休が明けて河村市政も本格的に稼動し始めたようだ。連日マニフェスト実現のための会議が開かれており、会議の様子はマスコミに全面公開されている。
 まずは市民税の10%減税と、各区の中学校区に設ける議会(地域委員会)が最大のテーマのようだ。配下の担当幹部に対し、何が何でも実施するとの強い意気込みで指示を与えている様子が報道されている。
 先の日曜日に放映された、読売テレビの番組(たかじんのそこまで言って委員会)に出演した河村市長は名古屋市は市民税を10%減税すると盛んに宣伝していた。隣にいた政治評論家の三宅氏が「この不況で名古屋市の税収は300億円程度落ち込むと聞いているが、そこへ更に250億円も減税できるのか」と疑問を呈していた。
 市民税を10%減税するとの方針を河村市長は総務省に出向いて伝えているが、減税自体は法で許されていることでもあり、総務大臣としては文句を言う筋合いではないが、その後に控えている市債発行の許可申請や補助金の申請などがどう扱われるかが今後最大の課題だ。

河村ウォッチング

2009-05-13 11:34:03 | Weblog
 河村市長のバス通勤の効果がじわじわと効いてきている。
 従来から公用車で通勤していた副市長も、市長がバス通勤とあっては従来どおり公用車での通勤とはいかず、連休明けからは徒歩や自転車通勤に切り替えるようだ(中日新聞)。
 ところで河村市長は自分の給与を年800万円とすることにしている。市の幹部職員のほとんどはその額を上回っている。市長が800万円なのに自分が900万円も1000万円ももらっていていいのか。そんなことを内心思って悩む職員も出てくるだろう。それを狙っているとは言わないが、市民から批判の声として出てくる可能性は大いに考えられる。庶民の声を外圧としてことを進める。そんな構図が浮かんでくる。

河村ウォッチング

2009-05-10 06:14:40 | Weblog
 半田市の亀崎潮干祭りを訪れた河村市長、6月の半田市長選に出馬する新人候補に「わしが年収800万だで、あんたは500万円くらいでやらなあかん」と言った(中日新聞)。
 助言のつもりではあろうがいらぬお世話ではないか。自分が800万円にしたからといって、さも当然の如く新人候補に向って、それも額まで具体的に明示して言うとは何たる傲慢。それも大都市の名古屋市長が800万円だから、半田市なら500万円で十分だと言っているようなものだ。
 先日愛知県知事に会った際にも、市民税を10%下げることを公約している河村市長は「県も税金を下げたらどうか」と言ったようだが、知事は即座に「今、県にそんな余裕はありません」と答えた(中日新聞)という。自信過剰なのか傲慢なのか分からないがこのような態度はいただけない。

河村ウォッチング

2009-05-08 07:43:12 | Weblog
 東海TV「スーパーサンデー」に出演した河村市長は、司会の峰竜太さんに市長の給与を「500万円にしないの」と突っ込まれると、「そりゃ勘弁して。焼酎一杯も飲めない」と答えた。500万円では焼酎一杯も飲めないのだ。
 河村市長は公約で市長の給与を800万円にするとしている。彼は年齢的にも定年を迎える歳で、お子さんは既に社会人になっており、住宅ローンの返済もないようだ。一般のサラリーマンなら200万円ちょっとの年金生活が待っている年代だ。
 年収800万円程度の職員は職場の中堅で、住宅ローンの返済に追われ、息子や娘の進学などで出費が一番かさむ世代だ。生活に余裕など全くない。しかし河村市長の公約では職員の給与を10%減らすとしている。

河村ウォッチング

2009-05-07 09:22:10 | Weblog
 どうも河村市長の政治手腕はなかなか巧みで、市の幹部はなかなかものの言える状態にはないように思われる。というのは、これからは毎週開かれる幹部会(市長、副市長、局長など幹部が出席して開催する会議)をマスコミに全面公開する、それも会議の最初から最後まですべて公開するとのこと。
 公開自体は悪いことではないが、マスコミが注視する中で、河村市長の政策に異議を唱えたり、反対意見を述べたりすることはなかなか難しいのではないか。河村市長はそんなことは承知の上で全面公開することにしたのではないか。
 会議を非公開にするのは議論が自由闊達になされることを期待するためだ。幹部の忌憚のない意見を十分聴き、議論した結果結論を出すのが王道だ。多くの市民の支持得たとは言っても実施するに当たっては論議はとことんすべきではないか。

河村ウォッチング

2009-05-06 13:27:11 | Weblog
 河村新市長の初日。市の幹部との会合の席で、「公約は絶対やってもらわなあかんでね。嫌だと言う人は辞めてもらった方がええ」と先制パンチ(中日新聞)。政策は内部で十分議論し、そのメリット、デメリットをよく見極めたうえで結論を出すのではないのか。はじめから有無を言わさず結論ありきで、それが嫌なら辞めよとは何たる暴言。自説の「民主主義発祥の地ナゴヤ」ではなかったか。

河村ウォッチング

2009-05-05 20:01:19 | Weblog
 名古屋市長に当選した庶民派の河村さん、初出勤は満員バスで。本人は送迎車を断って得意満面。だがこの時節、大都市の名古屋市長ともなればバスの中で何が起こるかわかりません。
 危機管理は大丈夫か。気をもむのは県警だ。きっと一人や二人の私服警官を紛れ込ませているのかも知れない。もしそうだとしたら送迎車を使うのと経費はどちらが高くつくのか。どうせ送迎車は一日の仕事の一部として稼動しているに過ぎない。庶民派のパフォーマンスが高くつくとしたら本末転倒だ。

辞世の句

2008-12-31 15:58:51 | Weblog
 うらをみせ おもてもみせて 散るもみぢ
良寛辞世の句といわれている。
 天保2年の正月、先年から重い病に伏していた良寛はいよいよ死期の訪れを覚悟した。最後まで師である良寛を看病し、見守った貞心尼は、師が遠からず逝ってしまわれるのだと思うと悲しくなって、
 いきしにの さかいはなれて すむみにも さらぬわかれの あるぞかなしき
と呼びかけた。その返句が冒頭の句である。生き死にを超越した世界に住んでいる身ではあるが避けられない別れがあるのは悲しいことだ、と貞心尼は嘆いている。
 出家した良寛ではあったが、諸国行脚で修業に出向く先々で権力闘争に明け暮れる堕落した教団に嫌気が差し、妻子や弟子も持たず、生まれ故郷の越後の山中に粗末な庵を結んで乞食をして生涯を過ごした。詩歌に優れ、脱俗至純の人柄は多くの人々から親しまれたといわれている。
 良寛は辞世の句のごとく裏も表もありのままに見せてきた生涯であった。時に74歳。多くの人に見とられた最期であった。

辞世のことば(その4)

2008-12-03 11:15:21 | Weblog
   風さそふ花よりもなお我はまた 春の名残をいかにとやせん
 毎年師走に入るとTVなどで忠臣蔵が放映される。元禄15年12月14日主君浅野内匠頭の仇を討つため、大石内蔵助以下四十七士が吉良義央(上野介)の屋敷に討ち入り、みごとその首級を挙げたお馴染みの忠臣蔵である。
 赤穂の藩主浅野内匠頭は勅使下向の接待役を命じられたが、彼は心の狭い性格から典礼指導の吉良上野介に賄賂を贈らなかった。上野介も強欲であったためこれを恨み、しばしば恥辱を与えたといわれている。内匠頭はこの侮辱に耐えかね、殿中松の廊下で上野介に小刀をもって切りつけたため、即日切腹、領地没収の処分を受けた。有名な松の廊下の刃傷事件である。
 冒頭の歌は切腹の際、辞世の歌として詠まれたものである。切腹したのは3月14日。春爛漫、桜の季節である。風に誘われて散る桜の花も名残惜しいが、それよりもなお春が名残惜しい私はどうしたらいいのか、と切々と詠っている。彼にとっては無念の極みであったことだろう。時に35歳であった。
 ところでこの秋に吉良吉田を訪れた。渥美湾に面した温暖な土地である。人生劇場の作家尾崎士郎や清水次郎長一家の吉良仁吉で有名である。しかしそれ以上にここが吉良上野介の領地で、彼が善政を施し、領民から数百年にわたり慕われてきていることで有名だ。吉良家代々の墓所はいまでも線香と花が絶えない。12月14日の吉良公命日には毎年忌法要が行われ多くの参拝客が訪れる。
 忠臣蔵で四十七士による一連の仇討ちの経緯があまりにも大衆の共感と同情を得ているため、吉良上野介が実際より悪人として描かれてしまっているきらいがある。彼は辞世のことばを残す間もなく討たれてしまった。