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山形県手をつなぐ育成会 日々徒然なること

育成会の事、関係ないことも勝手につぶやきます

#地震発生から1年と15日目「若き地域福祉のリーダー」

2012年03月25日 | 災害
 平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から1年と15日目(平成24年3月25日、日曜日)。
 また、大震災発生から1年と15日目の新しい朝を迎えた。

山形市内、朝ちらほら雪が降る。
 この程度だったら許せるか。それにしても毎日降るねえ。
 小川の向こうの二階家は屋根の雪も真ん中辺に5分の1程度残っている。ようやくここまで減った感じ。川岸の雪も解けて土の部分がかなり拡がってきている。
 うちの南側の空き地も雪より土の部分が多くなった。

 さて、昨日(3月24日・土曜日)は「地域福祉フォーラムinみやぎ」(平成23年度地域支えあい体制づくり事業)に参加してきた。
 110人以上もの参加者で会議室は満席大盛況。
 人が集まらなくてと聞いていたので、予想に反して熱気ある会だった。

 会場は、TKP仙台カンファレンスセンター4階(仙台駅前)
 主催は、社団法人 宮城県手をつなぐ育成会

 中身の濃い充実した内容の研修会だった。

 午前中のフォーラム1「若手起業家の考える地域福祉とは」(10:00~12:30)

 シンポジスト
 大橋一之氏(NPO法人あーるど理事長・青森県)
 小田泰久氏(NPO法人楽笑理事長・愛知県)
 河内崇典氏(NPO法人み・らいず代表理事・大阪府)

 コーディネーター
 大原裕介氏(NPO法人ゆうゆう理事長・北海道)

 今の福祉を変えてやろうとする意欲満々のシンポジストをそろえた。
 30歳前半のNPO法人で地域福祉サービスを運営している人たちを集めたシンポジユム。
 地域のニーズをうまくすくいとって適切なサービスを提供している。
 必要に応じて臨機応変な対応をしていることに感心した。
 困っている障がい者やその家族に適切なサービスを自らつくりだしているバイタリティは、とても頼もしい。
 制度上できませんというのでなく、できることはなんだろうと、果敢に挑戦する姿勢がすごい。
 これだけできることを証明している。
 さらに、福祉が自立している感じを受ける。
 福祉をビジネスとして成り立たたせようとしている。
 そうでないと、いつまでも独り立ちできないひよっこ扱いは免れない。福祉のイメージを明るく元気なものにかえてくれそうと思うほどだ。

 大阪の河内氏は、大学生に対してガイドヘルパー資格講座を開設して人材育成に努め、それをボランティアとしてうまく活用している。
 愛知の小田氏は、地域の主婦の力を福祉現場に活用している。
 青森の大橋氏は、強度行動障害者の育成に挑戦している。

 こうした若い力が地域福祉のリーダーとして活躍し始めている。
 今まで考えられなかったサービスを次々と生み出している。

 それに今回の大震災被災地にたびたび足運んで、積極的な支援を行った。

 この行動力、調整力、経営力に期待する。

 大げさな言い方になるが、福祉に革命を起こす坂本龍馬となり、福祉の新たなビジネスモデルをもたらす松下幸之助や本田宗一郎をめざすくらいに今後とも活躍して欲しい。 

 (ケー)

#地震発生から1年と14日目「道路にひび割れ」

2012年03月24日 | 災害
 平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から1年と14日目(平成24年3月24日、土曜日)。
 また、大震災発生から1年と14日目の新しい朝を迎えた。

 早朝目覚めて窓の外見る。あーまた雪。夜中に積もった雪で今まで解けて黒い土が見えていたのにうっすらと雪で覆われる。またも山形市内は雪化粧。
 湿った雪のよう。

 さて、日テレNEWS24(3月22日、山形放送)によれば、山形県内では雪解けになり道路のひび割れが目立つと次のような報道をしている。それも今冬の大雪と低温が原因というのだ。

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【引用始め】

http://news24.jp/nnn/news8872124.html

道路にひび割れ、大雪と低温が原因か(山形県)

■雪解けが進む中県内の道路にはひび割れなどの破損が多くみられることが県の調べでわかった。この冬の記録的な大雪や低温が原因ではないかとみられ、県が詳しく調査している。

 山辺町の県道山辺船町線。路面には亀の甲羅のようなひび割れ=クラックが目立つ。これはこの冬の寒さで舗装の下の地盤に含まれる水分が凍って膨張し、地面を隆起させる「凍上現象」によるものではないかと、みられている。

 県や各市町村は雪解けが進み始めた今月から、ひび割れなど道路破損の被害状況の調査を行なっている。県は全体の被害状況の把握は途中としているが、亀裂や道路の歪みか所は例年より多いのではないか話している。

 国は、低温が原因で損傷した道路について「凍上災」として認定し補修費の補助を行なっている。2006年には、県が管理する国道や県道、一般道路あわせて、621カ所でおよそ90億円の復旧事業が採択された。

 ことしは、県内に18カ所ある気象観測地点のすべてで国が凍上災と認定する際の目安となる寒さの基準を超えた。県は今後、破損道路についてこの冬の寒さの影響かを詳しく調査した上で国に災害申請を行う方針。

[ 3/22 20:13 山形放送]

【引用終わり】

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 車で走っていても、穴が目立つ。除雪時の損傷もあるのだろう。
 穴を避けて運転している。いつになったら補修工事が始まるのだろう。
 予算が付かないと難しい。国の予算査定待ちか。国道は国独自でやるのかなあ。県道や市道の損傷補修については各自治体が責任持った対応することか。国の補助金を当てにしているか。
 損傷した道路で事故が起きないようにしないとな。
  
 さて、本日も「明けない夜はない」となって、新しい朝を迎えた。今日一日いい日にしたい。
 (ケー)

#地震発生から1年と13日目「東日本大震災における山形県内の被害」

2012年03月23日 | 災害
 平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から1年と13日目(平成24年3月23日、金曜日)。
 また、大震災発生から1年と13日目の新しい朝を迎えた。

 山形市内も今冬の雪は多かった。窓から見える家々の屋根にもまだ雪が残っている。北側の屋根の真ん中辺が真っ白で、その周りのトタン屋根が黒々としていてコントラストがはっきりしている。
 いつも今の時期は屋根に雪が残っていることなんてほとんどないのだが。寒い日が続き、雪解けも遅い。
 窓からのぞくと小川の岸辺は雪で真っ白。枯れ草のひょろひょろと背の高いのがぽつんぼつんと雪野原に立ち尽くしている。
 
 ところで山形地方気象台がホームページ上に「山形県内に被害を及ぼした主な地震」を発表している。
 その中で、今回の東日本大震災(3月11日)、及びその後の余震と見られる宮城沖を震源とするマグニチュード7.1の地震(4月7日)について、以下に引用する。

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【引用始め】

http://www.jma-net.go.jp/yamagata/ji_kazan/higaijisin/higaijisin.html

2011(平成23).3.11 平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震 9.0

○人的被害

死者2(山形市2)、
重傷者6(山形市1・天童市1・尾花沢市1・新庄市2・南陽市1)
軽傷者12(上山市1・天童市1・尾花沢市1・中山町1・新庄市7・川西町1)
その他:人工呼吸器バッテリー低下により救急搬送(山形市6・上山市1・東根市3)、停電による呼吸困難により救急搬送(山形市1)

○住家

一部損壊21(山形市2・上山市1・村山市1・尾花沢市2・中山町2・朝日町1・舟形町2・戸沢村3・米沢市6・南陽市1)

○小屋、倉庫等の非住家

全壊・半壊(上山市・東根市・中山町・大石田町・米沢市・高畠町・川西町)

○教育施設

公立(小学校31校・中学校17校・高校28校(県立27校、市立1校))

2011(平成23).4.7 宮城県沖 7.1

○人的被害

死者1(尾花沢市1)、
重傷者2(上山市1・河北町1)
軽傷者9(山形市1・尾花沢市2・大石田町1・金山町2・酒田市2・庄内町1)
その他:人工呼吸器バッテリー低下により救急搬送(河北町1・上山市3・川西町1・高畠町1)、気分悪く救急搬送(大江町1)

○住家

半壊1(尾花沢市1)
一部損壊16(尾花沢市16)

○小屋、倉庫等の非住家

全壊・半壊(尾花沢市)

【引用終わり】

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 以上、山形県内の被害がどの程度だったか、その詳細が分かる。
 私はこうしたことを知らなかった。
 大震災にもかかわらず、震源域から比較的遠かったこともあってこの程度の被害で済んだのだろう。
 どうも県民には、山形は大災害少ないという安心感がある。被災県からくらべれば雲泥の差である。揺れによる損壊も少ないし、津波、原発事故等がなかった。
 しかし、被害が皆無とはいえない。
 被害は起きている。お気の毒なことに死んだ方もいる。
 4月7日にあった余震による被害だって起きている。蔵王温泉のある旅館は、その余震のため損壊がひどく、再建をあきらめたという話を聞いた。
 山形だって他人事でない。
 備えを万全にしておく必要がある。

 今冬の雪による被害だって農作物中心にかなりのものになるだろう。
 雪解けが進まず、農作業の遅れが心配されている。
 大雪のせいで道路の傷みもひどい。その修復にも多額の経費を要する。
 雪にはそれなりの備えがあるとはいえ、例年以上の雪の量となると限界を超えた分いろんな支障をきたしている。

 さて、いざとなっても「明けない夜はない」と積極的な対応で臨んでいくことだ。
 解決の道はそれしかない。
 (ケー)

#地震発生から1年と12日目「障害者の兄弟姉妹に支援を」

2012年03月22日 | 災害
 平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から1年と12日目(平成24年3月22日、木曜日)。
 また、大震災発生から1年と12日目の新しい朝を迎えた。

 被災地における仮設住宅での孤立死、孤独死が心配されている。一人暮らしの高齢者が心配である。
 さらに都会における障がい者家族の孤立死が次々と報道されている。
 特に札幌の姉妹がガス・電気が止められ、食うや食わずで暖房もない中、姉が病死で先立ち、その後知的障がいのある妹は餓死した問題は、あまりにも悲惨で衝撃的であった。
 その波紋が拡がっている。

 特に、障がい者のいる兄弟姉妹に対する支援の必要性が指摘されている。
 それを、毎日jp北海道版(2012年3月21日)の記事が次のように伝えている。
  
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【引用始め】

http://mainichi.jp/hokkaido/shakai/news/20120321ddlk01040124000c.html

ニュースプラス:札幌の姉妹孤立死2カ月 障害者の兄弟姉妹に支援を /北海道

 札幌市白石区のマンションで知的障害のある女性(40)と、世話をしていた姉の女性(42)の遺体が発見されてから20日で2カ月。同様の孤立死を防ごうと、道内各地で障害者の見守り体制を強化する動きが進んでいるが、一方で障害者本人だけでなく、同居する家族、特に兄弟姉妹への支援充実を求める声も出ている。専門家が訴えるのは、ネットワーク作りの大切さだ。【中川紗矢子】

 ◇負担重く「悩みを話せる場が必要」

 札幌市南区の女性(27)は、25歳と19歳の弟がともに自閉症で、上の弟には知的障害もある。5人家族で、家計を支えるのは両親。弟が通う作業所への送迎や家事など、弟たちの日常のケアは、姉が一手に担う。

 女性は小学4年から中学3年までの6年間、弟の障害を理由にいじめに遭った。見知らぬ子から弟の悪口を言われたり、石を投げられたりした。飼育していた動物が死んだ責任をなすりつけられもしたという。弟が普通学級に通ったのは1年間だけだったが、いじめはその後も続いた。

 女性は今も「自分より弟のことが一番」。経済的な問題など将来は見通せないことも多いが「姉弟だから、一緒にいて私が守ってあげたい」と話す。

 財団法人「国際障害者年記念ナイスハート基金」(東京都港区)は07~08年、全国の18歳以上の障害者の兄弟姉妹424人にアンケートをした。それによると「小学生の頃、(きょうだいの)面倒を将来見なければいけないと感じていた」と答えたのは、「すごく」が30%、「少し」が42%。中でもその意識が高かったのは姉で、「すごく」が38%、「少し」が41%と、兄や弟妹より高かった。

 病気の子供や家族をサポートする「チャイルド・ライフ・スペシャリスト」の資格を持つ藤井あけみ・北大病院助教(発達心理学)によると、病気や障害を持つ兄弟姉妹がいる人は、両親の注目が自分よりきょうだいに向いてしまうことで、自尊心が低くなる傾向があるという。成長するにつれて、うつ病や摂食障害、統合失調症などを患うケースも多く「支援が急務だ」と訴える。

 妹(39)に重い知的障害がある同市南区の女性(48)は「周囲に理解者がいるかどうかが大きい」と話す。彼女の場合、デパートで働いている時に隣の売り場の年長の女性が励ましてくれ、勇気付けられたという。妹の存在が後押しになり、今は障害者福祉の仕事に就く。

 川名紀美・日本福祉大客員教授(社会福祉)は「障害者のきょうだいは子供の時から家庭の内外で我慢しながら育ち、負担を背負って大きくなる」と指摘。「白石区のケースを教訓に、同じような立場の人たちが悩みを打ち明け合える場を作るべきだ。兄弟姉妹への支援体制が整えば、困った時に助けも求めやすくなる」と提案している。

 ◇道内にも交流組織

 障害者の兄弟姉妹を支援するグループは、道内に「きょうだい会さっぽろ」「全国障害者とともに歩む兄弟姉妹の会」などがある。

 98年に発足した「きょうだい会さっぽろ」は、小中学生が対象。仲間作りを目的に、年に数回、遊びや泊まりがけのイベントがある。代表の中学教諭、本間尚史さん(38)は「困ったり、助けが必要な時は、会の存在を思い出して」と話す。

 約半世紀の歴史を持つ「ともに歩む会」は、主に大人を対象に交流や学習活動などに取り組み、機関誌も発行している。本部は東京だが、道地区事務所が苫小牧市にある。

 問い合わせは、きょうだい会さっぽろがメール(kyodaisapporo@yahoo.co.jp)、ともに歩む会は電話(03・5634・8790)かメール(kyodainokai@yahoo.co.jp)。

毎日新聞 2012年3月21日 地方版

【引用終わり】

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 障がい者のいる兄弟姉妹も多くの悩みをかかえている。その悩みを一人で抱え込んでしまう傾向が強い。
 障がいのない兄弟姉妹は、家族の中において、良い子になることを期待されるし、その期待に応えようと無理してしまう。
 そうした無理が心理的なひずみを生ずる。
 兄弟姉妹にも目を向けて支援の手をさしのべようとする動きが始まっている。
 互いの悩みを打ち明ける場があれば、かなり助けとなる。
 兄弟姉妹の安定が、障がい者の安定になり、家族の安定につながる。
 兄弟姉妹の問題がもっともっと注目されていい。
 
 悲惨な問題を生じさせない。問題が生ずる前になんとか解決の方向を見出す。事前の対策には互いにざっくばらんな情報交換できる場が必要なのだろう。
 そうした場づくりによって、「明けない夜はない」ことを実感できる。
 (ケー)

#地震発生から1年と11日目「個人情報保護の壁」

2012年03月21日 | 災害
 平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から1年と11日目(平成24年3月21日、水曜日)。
 また、大震災発生から1年と11日目の新しい朝を迎えた。

 山形市内、朝ふわふわ雪が降り続く。昨日も午前中雪降りだった。このところずっと雪降っているという印象。春も近いようでまだまだ遠い。
 昨日は庭の山のようになった雪をだいぶ崩して片づけたのだが。きっとうっすら積もっただろう。

 さて、東日本大震災で障がい者支援するあたり、個人情報保護法の壁に阻まれてボランティア活動に支障をきたしたという話をかなり耳にした。
 災害時において、日常的な感覚がぬけきれず、柔軟な対応に踏み切れない行政の問題が浮き彫りにされた。

 その問題を、読売新聞(2012年3月20日)の医療サイトyomiDr.ヨミドクターが次のように取り上げている。
 
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【引用始め】

http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=56251

災害時の障害者支援…安否確認、個人情報の壁

 東日本大震災では、自治体による安否確認が遅れ、多くの障害者が孤立した。民間の障害者団体も安否確認に乗り出したが、個人情報保護が壁になり、ほとんど実を結ばなかった。災害時に素早く障害者を支援するための課題を検証した。(社会保障部 梅崎正直)


自治体、開示に消極的

 「後ろを見るな!」。祖父の言葉を聞かず、男性(26)は振り向いた。一家5人を乗せて逃げる車の窓から見えたのは、我が家が大津波にのみ込まれる瞬間だった。福島県南相馬市で漁業を手伝っていた男性はその日から誰とも話さず、布団の上で座ったままになった。

 避難所を転々とした後、新潟県で3か月過ごした。子供の頃、学習に遅れがあったものの、社会生活に問題はなかった。しかし、被災のダメージは深刻で、精神科を受診しても状態は変わらなかった。南相馬の仮設住宅に入居した昨年7月以降も部屋にこもった。そんな状態の男性を見つけたのは、市と障害者団体による安否確認チームだった。

 震災後、南相馬市は、障害者団体「日本障害フォーラム」(東京)の協力で、障害がある市民825人の安否確認を行っていた。男性の病状を知った市は、同フォーラムに生活支援を依頼。男性は11月から市内の作業所に週5日通いはじめた。仲間と缶バッジ作りをし、最近は大きな声であいさつができるようになった。

 震災後、被災市町村では行政機能も被災し、障害者の安否確認は難航。それに協力しようと、障害者団体が障害者手帳などを持つ住民の個人情報の開示を求めた。しかし、読売新聞が6月に行った調査では、津波を受けた沿岸や福島第一原発からの避難をした地域で開示の要望を受けた8市町村のうち、応じたのは南相馬市のみ。多くは、個人情報保護を理由に開示を拒んだ。

 岩手県宮古市もその一つ。支援活動をする「ゆめ風基金」(大阪)は昨夏、市街地に遠い仮設住宅で、通院手段に困る人工透析患者3人を見つけた。震災から半年後、ようやく3人は送迎の支援を受けられるようになった。同基金の八幡隆司理事は「今も新たに支援を求める人が多く、安否確認は十分ではない」とする。

9市町「把握できず」

 孤立が生命の危機にもつながる障害者の安否確認を早く行えば、適切な支援が可能になる。福島県三春町の山あいに立つ仮設住宅。身体、知的障害がある葛尾村の松本雄太さん(21)が入居したのは昨年7月だ。同村は、避難所にいた障害者が仮設住宅に入居する際、もとの地域住民のつながりを保つよう配慮した。顔を見れば声をかけ、家を訪ねる人も多い。

 1000戸以上の応急仮設住宅を設ける20市町を対象に、読売新聞が2月末に実施した調査では、身体、知的、精神障害の合計で、応急仮設住宅には3041人、借り上げのみなし仮設には1061人の障害者がいた。しかし、岩手県陸前高田市、山田町、宮城県仙台市、石巻市、女川町、山元町、亘理町、福島県南相馬市、大熊町の9市町は、仮設住宅などに住む障害者を十分に把握できていないと回答した。うち4市町はすべての人数が不明だった。5市町が人手不足を、調査が行き届かない理由にあげた。女川町は「コミュニティーができていない地区が多く、見守りができていない」とする。

体制作りへ

 教訓を生かすには、災害時の安否確認に障害者団体などが速やかに協力できる新しい仕組みが必要となる。今年2月には、日本障害フォーラムが体制整備を国に要望した。

 まず必要なのが個人情報開示のルール作りだ。自治体の個人情報保護条例は、情報を本来の目的以外に利用することを禁じているが、公共目的の場合は例外で、災害時はこれにあたると考えられる。さらに、障害者団体と行政の協力関係も欠かせない。岩手県の担当者は「名刺1枚では開示の決断はしにくい」と話す。遠方から来た見ず知らずの団体に、すぐには開示しにくい。自治体と団体の協定など事前の体制作りも重要だ。

 国も動き始めた。内閣府は来年度、開示のルール、民間団体との協力のあり方を議論し、「災害時要援護者の避難支援ガイドライン」に盛り込む意向だ。東京都も、災害時には本人の同意がなくても、個人情報を利用できることを示したパンフレットを作成している。障害者支援とプライバシー保護のはざまで、市町村独自の判断が難しい問題だけに、国や都道府県が明確な方向性を示す必要がある。

ルール決めて備えを

 個人情報保護に詳しい一橋大学の堀部政男名誉教授の話「今はどの自治体でも個人情報保護条例が作られているが、保護にこだわるあまり、個人情報が有効に利用できなくなる傾向がある。災害時の障害者支援などに利用することは、むしろ法の趣旨に沿っている。条例などを設けて開示のルールを決め、他の目的に利用しないよう歯止めを設けたうえで、緊急時に素早く対応できるようにすべきだ」

(2012年3月20日 読売新聞)

【引用終わり】

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 個人情報保護法が東日本大震災という緊急時にかなり手脚をしばってしまった。
 この法律によって「絆」なるものを断ち切ってきたことは否めない。
 四角四面にとらえ、この法律の運用を明らかに誤ってきた。余りに厳格にとらえすぎた。良しと思って制定した法律や条例だったが、場合によっては手枷足枷になった典型である。
 行政側も安否確認しなくてもいいとサポタージュする言い訳になった。
 一つの法律によって今までの社会習慣を大きく変化させてしまっていた。
 それに気づくのが遅かった。
 新たなルール形成に動き出している。
 ただ、より良いルールができても、それを運用するのは人間。
 緊急時には命を救うことが最優先される。個人情報がどうのこうのと屁理屈こねているヒマがあったら障がい者の所在を確認するほうが大事。
 多少のリスクがあってもそれ以上のリスクをかかえている状況を認識すべきなのだ。
 緊急時に臨機応変な動き方が可能なルールをつくっておくというのも矛盾しているような気がするが、それもやむを得ないか。

 いざとなっても「明けない夜はない」とすべき対応ができるようにしておかなければ。
 (ケー)

#地震発生から1年と10日目「母の絶望の犠牲になった息子」

2012年03月20日 | 災害
 平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から1年と10日目(平成24年3月20日、火曜日)。
 また、大震災発生から1年と10日目の新しい朝を迎えた。

 本日は、彼岸の中日。春分の日。
 山形市内、早朝から細かい雪が降り続いている。この雪見るとうんざり。まだ雪降るんだ。春なんだからもういい加減にしてと思ってしまう。
 悪態ついても何も変わるわけでない。血圧上げるのみ。何もいいことなし。

 太平洋岸の東日本大震災被災地の天気はどうだろう。
 雪が降ってなくても、寒いことは確か。
 犠牲者の墓参りに行くんだろう。でも、墓も寺も津波で流された所もある。東京電力福島第一原子力発電所事故で避難区域にある墓には、手を合わせることもできない人たちもいる。
 復興に向けた取り組みが多くなされている。しかし、まだまだ道半ば。いや、10分1も進んでない地域もある。がれき処理なんて、処分量の5%しか片付いていないというのだから。

 最近、悲劇的な孤立死の問題が報道される。札幌で姉と妹、立川市で母と幼児、今度は横浜市で母と44歳になる息子が誰にも看取られることなく、何日間も時間たってから発見された。いずれも知的障がい者をかかえた家族の苦悩の背景がある。

 毎日jp神奈川版の記事(2012年3月18日)を次に引用する。

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【引用始め】

http://mainichi.jp/area/kanagawa/news/20120318ddlk14040152000c.html

横浜の孤立死:母子、町内会入らず 近隣との交流浅く /神奈川

 横浜市旭区の住宅で2人暮らしの母親と息子が病死していたことが17日、明らかになった。周囲が気づかないままの「孤立死」とみられる。東京都立川市やさいたま市で相次いで孤立死が見つかったばかり。近隣住民は「近くで親子が死んだままだったなんて」と驚き、連絡を取ろうとしていた福祉施設は「身寄りのない親子で心配していたところだった」と声を落とした。【宗岡敬介、倉岡一樹】

 旭区中希望が丘にある母子方は2階建てで、2級の身体障害者手帳を持つ息子(44)が使っていたとみられる車椅子がガレージに置かれていた。区内にある障害者福祉施設に向かう送迎車へ息子を乗せる母親(77)を近所の住民が見かけることもあった。

 新聞販売店の従業員(25)が昨年11月25日、集金に訪れると母親に変わった様子はなく、従業員は「28日ごろから新聞がたまるようになり、夜中も電気が付いたまま。おかしいと思いインターホンを押したが応答がなかった」と振り返る。

 中希望が丘地区は相鉄線希望ケ丘駅の南側で、古くからの住民と、引っ越して来た若い世代が混在する住宅地。近所の70代男性は「2人とも死んでいたなんて」と驚く。母子方は町内会に入っていなかったため、回覧板なども回らず、昨年夏に父親が死んだことさえ知らない住民もいた。

 町内会では餅つき大会や盆踊りなどで活発に交流しているといい、男性は「この地区も高齢化して明日は我が身。付き合いの輪を少しずつ広げていくしかない」と話した。

 近くに住む民生委員(65)によると、昨年6月から70歳以上の1人暮らし世帯のほか、70歳以上の夫婦も訪問対象に加えた。要請があれば他の世帯も様子を見に回るという。

 息子が通っていた施設によると、1987年から通所し、他の障害者と食事などをともにしていた。息子の障害の程度が重く、母親も高齢で2人に身寄りがないため、昨年9月に息子が通うのをやめると、施設長が「何かあったら大変。通い続けて」と電話などで母親に翻意を促していた。

 2人の死亡が確認された昨年12月6日は、施設職員が「せめて緊急連絡先を教えてほしい」と書いた手紙を郵便受けに入れるため、母子方を訪問していた。施設長は「手を尽くしたが、なかなか理解してもらえなかった。亡くなったと聞き残念です」と困惑していた。

毎日新聞 2012年3月18日 地方版

【引用終わり】

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 病気がちな母親にとって夫に先立たれ、障がいのある息子と二人きりで生活することに疲れ果ててしまった。その支援を周囲に求めようとしなかった。心中に近い悲劇といっていい。周りから世話やかれること事態うっとしさを感じていたのかもしれない。周りがどこまで踏み込んで良いか迷っている間に最悪の悲劇を招いた。
 この家族にとって「明けない夜はない」と言えなくなってしまった。
 もっと前向きな生活をできるようにする生き方をして欲しかった。
 死者にむち打つきつい言い方だが、この息子は母の絶望の犠牲になってしまった。
 (ケー)

#地震発生から1年と9日目「全員参加の卒園式」

2012年03月19日 | 災害
 平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から1年と9日目(平成24年3月19日、月曜日)。
 また、大震災発生から1年と9日目の新しい朝を迎えた。

 昨日(3月18日、日曜日)、地域の幼稚園の卒園式。
 地域代表として招待された。
 今までも入園式、運動会といった行事に招待状をいただいていた。
 しかし、勤務の関係で日程調整できず、いずれも欠席だった。
 今回、休日にあたったこともあって都合つけて出席した。
 
 47名の卒園生。4年保育、3年保育、2年保育と幼稚園で過ごした期間は違っていてもみな同じ幼稚園で生活した園児たち。
 3年間皆勤、2年間皆勤で表彰された園児が各1名いた。
 1年間皆勤児が5名。

 園長先生の話では今までインフルエンザでなかなか園児たちそろわなかったが、今日の卒園式には47名全員がそろってうれしいと感激していた。
 一人でもかけると、一生一度の卒園式が経験できなくなるという思いである。

 私も何十年も前の話になるが、小学校の入学式を経験することができなかった。
 私が小学校へ初登校したのはみんなより1か月も遅い5月になってからである。
 それは幼児の時、腸閉塞を患い、1か月も入院していたからである。
 腸閉塞の前は、盲腸の手術をしていた。その合併症により腸閉塞になったのだ。
 これは2月、3月にかけてのことである。
 そのことを考えると、私は幼稚園の卒園式も記憶していないので、多分欠席したことになる。
 さらに、入園式も私は出席していない。
 幼稚園の入園は4月当初からでなく、途中からだったからである。
 私はいずれも肝心な行事を経験していないことになる。

 ところで、小学校1年生の時在籍したのは虚弱学級である。
 要は1か月以上も入院していたので、体が弱いという判断だった。
 私は虚弱学級の中で体がでかくデブであったのだが。

 昔話はここでおしまい。
 
 幼稚園の卒園式の話に戻ろう。
 一人一人に対する修了証書授与では、園長先生が「○○さん、おめでとう」に対して、園児が「ありがとう」と元気にこたえる。
 そして、担任が「○○さんは、マーチングバンドの太鼓練習で手にまめがでるほどがんばりました」などと一人一人のがんばりをほめる言葉を贈る。
 そして、お別れのことばを卒園時が一言一言述べていく。「みんなといっしょに寝た蔵王合宿が楽しかった」と幼稚園での思い出を歌と共に語った。
 それに感動して涙をぼろぼろこぼす園児。
 保護者も目頭をおさえている。
 最後、一人一人自分の夢を述べて退場してゆく。
 「ピアノの先生になっていろんな楽しい曲を弾きたいです」と語った女の子は、一番涙流していた園児だった。
 
 この園児たちが大人になるのが14年後。
 園児一人一人が抱いた夢を実現できていることを祈るばかりだ。
 それまで、日本は大震災、原発事故を克服して新生日本としてよみがえっていなければと思う。
 
 この園児たちがどんなことがあっても「明けない夜はない」と前向きに生活できるようにしたい。

 被災地においては、昨年の3.11の東日本大震災で卒園式をはじめ行事のことごとく中止せざるを得なかった。
 今年はいろんな制約があったかもしれないが、なんとか予定どおり卒園式や卒業式が被災地でも滞りなく実施されただろう。
 被災地の卒園生、卒業生のみなさん、「おめでとう」。
 地域の復興と復旧がスピーディに進むことを祈っています。
 それを支えるのはみなさんの明るく元気な活動にかかっています。
 そしてオールジャパンで支援しないと。まず、各自治体のがれき引き受けが先決だ。 
 (ケー)

#地震発生から1年と8日目「防災ポスターづくり読売の記事に」

2012年03月18日 | 災害
 平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から1年と8日目(平成24年3月18日、日曜日)。
 また、大震災発生から1年と8日目の新しい朝を迎えた。

 山形市内の早朝の天気は、どんより鉛色の空。

 山形市手をつなぐ育成会が中心になって作成した「本人のための本人による防災ポスター」について、読売新聞(2012年3月16日、山形版)が記事にしてくれた。
 次のように記事である。 

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【引用始め】

 知的障害者が防災ポスター

 震災を受け、作成に参加

 東日本大震災を受け、障害者自身も防災意識を高めようと、県内の知的障害者が参加して作った防災ポスターが完成した。障害者の目線を生かし、A1版1枚に短文とイラストを多用してまとめたわかりやすい内容で、今後、知的障害者の家庭や特別支援学校になどに配布される。

 作成を支援した知的障害者団体「県手をつなぐ育成会」によると、知的障害がある人は、緊急時に周りの状況把握ができなかったり、助けを求めるといったコミュニケーションが難しかったりすることが多い。また、県内の障害者が通う学校や作業所では防災訓練は行われているものの、障害者向けに災害時の対応を記したパンフレットなどはなかったという。

 だが、今回の震災では、実際に津波に流された障害者施設があると聞き、同会の黒木仁事務局長は、「障害者自身の防災意識を高める教材が必要」と実感。そこで同会は、日頃から災害に備えるため、いつでも目に触れることができるポスターを作成することにした。

 ただ、既存の防災教材では言葉が難解で、理解できないこともある。そこで昨年6月から、障害者約10人が集まり、障害者の立場に立ったポスター作りを進めてきた。

 「地震とは?地面が大きく揺れ動きます」「薬を飲む人は、3日分の薬をいつも持っておきましょう」―。想定される災害を地震に絞り、「『内服薬』という言葉は難しい」などの障害者たちの意見を取り入れながら、ポスターを作り上げた。

 さらに、常時携帯できる名刺サイズの「防災カード」も作成。緊急連絡先や障害の種類・等級、かかりつけ医師を記載し、「家族へ私が安全でいることを連絡してください」などと、災害時に必要な支援を事前に書き込んでおく欄も設けた。

 ポスター作りに参加した、知的障害を持つ山形市の男性(28)は、「会議には毎回出席し、地震の時、どう逃げたらいいのかが分かるようになった」と話した。

 読売新聞山形版 2012年(平成24年)3月16日(金曜日)

【引用終わり】

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 この防災ポスターまでたどり着くのに色々試行錯誤があった。
 いろんなところで作成している資料も参考にした。
 自閉症協会、高知県、東京都、横浜市緑区などのものを参考文献として活用させてもらった。
 ただ、最初はハンドブックの様式でと考えた。しかし、本人たちによる防災会議をやっているうちに、ハンドブックといってもいつの間にか机の引き出しにしまわれて、よっぽどのことでないとそのままになってしまう可能性がある。
 それでは、防災行動が身につくわけない。
 それだったら、いつも目につくところに貼ってもらうポスターではどうかとなった。
 こうしたものを他では作っていない。
 それが私たちのオリジナルでもある。
 だからこそ、知的障害のある人たちがいる施設や学校で、防災訓練時などに、防災ポスターを見ながら地震来たら、周りの人の指示に従って行動しようといったことを学習してもらいたい。
 家庭では壁に貼った防災ポスターを使って、地震のことを話し合うきっかけにもなる。
 そんな使い方をしてくれるところがあったら、作ったかいもある。

 いざとなったら「明けない夜はない」と前向きになってもらいたいから。
 (ケー)

#地震発生から1年と7日目「防災ポスターの活用」

2012年03月17日 | 災害
 平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から1年と7日目(平成24年3月17日、土曜日)。
 また、大震災発生から1年と7日目の新しい朝を迎えた。

 山形市内どんよりした天気。窓からのぞくと向こう岸にいくつも並ぶ家々の屋根にも雪がなくなってきている。春の気配を感じる。ただ、北側の屋根には結構雪残っている。平屋の家には屋根の雪がない。二階建てだと屋根の雪結構ある。
 窓から外ちょっとのぞいたら、キジが雪の上をとことこ歩き回っている。
 こうした光景は、まさしく土曜日の朝というのんびりした感じである。
 
 知的障がい者本人たちによる防災にかかわるポスターができあがった。

 本人たちによる防災会議を継続的に開催してきた。
 その大きな成果である。
 昨年6月から9回にわたる会議や被災地訪問(仙台市、平成23年7月28日)、第51回東北ブロック大会(平成23年10月15日~16日)本人大会などをへて、ようやく防災ポスターという形にすることができた。

 平成23年度第2回山形県手をつなぐ育成会支部会長・事務担当者等研修会(3月15日)で配布した。

 今後どう活用してもらうかが課題である。
 まず、家庭や事業所、学校などの壁に貼ってもらう。
 ポスターを見ながら防災にかかわる話をする。
 防災訓練の時、ポスターを使って話し合う。
 育成会会員の家族、知的障がい者の通所施設、特別支援学校や学級で活用してもらうことを期待している。

 ポスターA1判。でかい。貼る場所も限られるかなあ。
 トイレなんかに貼っておくと、いつも見ることができていいのかもしれない。ただ、大きすぎる心配がある。
 でも目立つからいいか。

 防災ポスターをみて、いざとなったら何とかできるし、何とかする。
 そうなればと願う。

 どんなときでも「明けない夜はない」と前向きになってもらうためにも。
 (ケー)


#地震発生から1年と6日目「『地震発生から何日目』のタイトルで始めたブログ」

2012年03月16日 | 災害
 平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から1年と6日目(平成24年3月16日、金曜日)。
 また、大震災発生から1年と6日目の新しい朝を迎えた。

 「地震発生から何日目」というタイトルで始めたブログは、昨年の「地震発生から5日目=節電呼びかけ」(平成23年3月15日)が最初である。
 それを1年以上続けてきたことになる。
 それを読むと当時の生々しい状況を再び思い起こす。山形でもこんな異変が起きているというレポートだ。千年に一度の大規模災害が被災地からだいぶ離れたこの山形の地にも、大きな影響を与え、みんな右往左往している様子がうかがえる。
 以下に、その文章を引用する。
         
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【引用始め】

3月11日(金)14時46分の東北地方太平洋沖地震発生から5日目(3月15日、火曜日)。

被害者の方々へ

 被害にあわれた育成会の会員みなさん、当事者のみなさん、そして亡くなられた方々に心よりお見舞い申し上げます。
 避難所で不安な日々を過ごされているかもしれませんね。
 不自由で不便な生活を強いられているでしょう。
 消息不明になっている人々を探しておられる方もいるはずです。
 また、自分たちの家、学校、施設等失くした方々も多いでしょうね。
 原発事故で避難している人たちの不安は、想像を絶するものがあるかもしれません。

ケーによる間接的影響に関するレポート

 以下のレポートは、大した被害にあっていないが、間接的にいろいろ影響を受けていることについてです。
 大災害は、被災地だけでなく、それ以外にもいろんな影響を与えるということの実証です。

ガソリン詰めに殺到

 早朝出勤時の光景は、昨日(3月14日、月曜日)よりなんかすごくなっている。
 ガソリンスタンドのガソリン給油のために車の列が2キロ近く並んでいる。
 それも、スタンドがまだ開店していないのに、開店待ちのため。
 そのおかげでどんどん車がふえる。
 普段だと、そのスタンドは7時前に開店しているのに、8時近いのにまだ開店していない
 あるスタンドは「売り切れ」と段ボールに書いた文字が寒々しい。
 事前の準備ができてなかったとみえて、その段ボールの表示がみすぼらしい。
 他のスタンドは「閉店」としているところもある。

 コンビニも開いている方が少ない。

 しかし、意外にもいつも渋滞する場所が渋滞してない。
 通勤もスムーズなのだ。
 それだけガソリン詰めで並んでいる車が多いためか。
 不思議と言えば、不思議。

事務局ビルでも制約

 山形県手をつなぐ育成会事務局の入っているビルも、エレベーターのドアに「節電のため階段をご利用ください」の表示が貼ってある。

 ビル内の食堂からもチラシがまわってきた。
 「~お客様へお願い~ この度の地震の影響により、食材の確保が難しいために、当面の間、日替弁当メニューの変更、または販売数によっては、売切れにさせていただく場合がございますので、ご了承ください。
 また、店内メニューも一部、減らさせていただきますので、よろしくお願いします。」

 そして、本日より暖房13時まで。午後から暖房なしで仕事することになる。
 ボイラーの重油の供給に見通しがたたないという。
 設定も常時「弱」でというお達しもきている。

ラジオで節電呼びかけ

 ラジオでも、東北電力からお知らせということで、発電所も被害にあって、電力の供給がおいつかない状態なので、節電にご協力くださいと、繰り返し呼びかけている。
 今、必死で発電所の復旧に努めているので、しばらくご不便をおかけしますが、ご協力くださいということだ。

 ライフライン復旧のため、電力会社、ガス会社、水道の担当者は昼夜問わず働いてくれているのだろう。
 自衛隊、警察、消防、役所の職員たちが一丸となって救援活動に取り組んでいる。
 会社の皆さんだって、がれきの除去、飲料水・食料の確保、情報インフラの復旧に力を発揮してくれている。

山形空港24時間体制

 家の上空を早朝から、盛んに飛行機やらヘリが飛び交っている。
 「大震災の救援物資や人員の被災地への迅速な輸送に対応するため、山形空港(山形県東根市)の運用を24時間化した」せいかなあと思う。
 仙台空港の津波で浸水したあの状況をテレビで見せられると、とてもじゃないがなんにも使えないだろうなあということがわかる。
 仙台空港というのは、こうした大災害に備えて、その発着基地として機能するように想定されていた。
 それが想定以上の大災害によって役立たなくなった。
 海岸線から2キロも離れていて、伊達家によって400年前に植林されていた防潮林も何重にもわたってあったというのに、それを越えて津波が押し寄せてきたのだ。
 
 宮城県に入る太平洋側からの交通路が遮断されていて、山形方面からしか入れないみたいだ。
 笹谷峠、関山峠、二位宿峠、国道47号北羽前街道中山峠といったルートになるのだろう。

 それにしても、余震が続いている。

 「明けない夜明けはない」ことを信じて。

 (ケー)


【引用終わり】

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 以上、山形は東日本大震災1年以上経過して、何事もなかったように動いている。
 朝の渋滞は再び戻ってきている。特に、今冬は豪雪で通勤にも苦労した。
 ガソリンの値段が急激に上がってきている。国際価格の高騰のせいだろうか。1リットル当たり150円をはるかにオーバーしている。イラン情勢が不安定なのでこの値上げはまだまだ続く気配だ。
 節電は大震災発災時にくらべて気がゆるんできている。ちょっと寒いと暖房を『強』に調節するのもためらわない。
 山形空港は、発着便も元に戻った。仙台空港が津波被害で使用不能になっていたときはその代行していたので、発着も何十便とあった。
 米軍も山形空港を使って支援活動にあたっていた。被災地支援のための発着が頻繁にあった。その当時、山形空港も開港以来最大の活用になった。
 発災によって被災地に近い山形はそれなりのバックアップ機能を果たすことができた。
 今も1万人余りの自主避難者が山形に来ている。
 被災地のがれきも引き受けている。
 被災地は東北の隣県だから、支援するのは当然と言えば当然である。
 被災地に「明けない夜はない」と前向きになってもらうためにも。
 (ケー)


#地震発生から1年と5日目「新しい朝になったら半半元気に動き出す」

2012年03月15日 | 災害
 平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から1年と5日目(平成24年3月15日、木曜日)。
 また、大震災発生から1年と5日目の新しい朝を迎えた。

 朝を話題にした評判の本がある。
 ひすいこたろう著「朝にキク言葉」(2011年8月刊)サンマーク出版。
 
 「新しい朝を迎えた」の決まり文句でブログを書き続けてきた私としてはすごく気になる本であった。
 ただ、本屋で見つけられなくて購入してない。
 アマゾンドットコムで紹介されている一部を以下に引用する。
       
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【引用始め】

http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%9D%E3%81%AB%E3%82%AD%E3%82%AF%E8%A8%80%E8%91%89-%E3%81%B2%E3%81%99%E3%81%84%E3%81%93%E3%81%9F%E3%82%8D%E3%81%86/dp/4763131664

p.23~p.25
 
 日本でお昼ごはんを食べているとき、ロシアのモスクワでは朝を迎えています。
 日本で3時のおやつを食べているとき、イギリスのロンドンでは朝を迎えています。
 日本で夕飯を食べているとき、ブラジルのサンパウロでは朝を迎えています。

 あなたが生まれた時刻、「オギャー」と泣いたあの瞬間も、どこかで朝日は差し込んでいた。
 いま、この瞬間も、どこかで朝が差し込んでいる。

 忘れないでね。
 忘れないでね。
 どんなときにも、希望はあるから。

 忘れないでね。
 忘れないでね。
 明けない夜はないから。


 いまからおよそ160年前、未曾有の大地震と大津波が続けざまに日本を襲いました。翌年に起こった安政江戸地震と合わせて、「安政三大地震」と呼ばれています。
 新しい時代の幕開けに、黒船来航と大地震と大津波が、いっぺんに押し寄せたのです。日本、大混乱、しかし、それでも、希望はあったのです。
 どこに?
 ----心の中に。

 未曾有の大ピンチのまっただなか、当時19歳だった坂本龍馬は、新しい日本を生み出すんだと心静かに誓っていた。彼の心の中にあった希望は、約10年かけて芽吹き、新しい社会をつくりだす原動力になるのです。
 日本人は見事に逆境を乗り越えて、ザ・レポリューション!
 約800年続いた武家社会に終止符を打ち、アジアの中で、いち早く近代化を成し遂げました。

 歴史は教えてくれます。
 いま、あなたの心の中に芽生えたものが、人と人とのつながりのなかで芽吹いていき、10年後、いまとは違う、全く新しい社会として出現すると。

 今度は僕らの番です。
 グッドモーニング。いま、まさに新たな革命のときです。
 ニューモーニング。いま、まさに新たな日本の夜明けです。

 新しい朝を迎えよう。

【引用終わり】

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 取り上げる話題は的確で説得力がある。多くの人が納得してしまう。
 私もその口である。「名調子」と静かに声かけたくなる。大向こうを張ると場違いなので。
 ひすいこたろう氏の言うとおり、「明けない夜はない」。私の言葉だけでは半信半疑だったろうから。
 確かに「明けない夜はない」。だから、明けた朝には、元気に動き出す。元気までいかないとしたら、半元気でいいから動く。半元気も無理な人は、半半元気で。
 要は、いま自分ができそうなことをやり始める。
 じっとしていては物事が変わらない。
 じっと考えているだけでも変わらない。
 動くこと、歩み出すこと。
 みんなと力合わせること。
 今の問題を少しでいいから変えること。
 そのためにも、ひすいこたろう氏の言葉は、クスリみたいな効用がある。
 漢方薬のようにじんわり効いてくる。
 (ケー)


#地震発生から1年と4日目「災害時拠り所となる空間・時間・仲間を確保」

2012年03月14日 | 災害
 平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から1年4日目(平成24年3月14日、水曜日)。
 また、大震災発生から1年と4日目の新しい朝を迎えた。

 大震災の発災によって今までの行動のありようが変わっただろうか。
 確かに発災直後は、誰もが被災地に思いを寄せ、ボランティア活動や寄付金集めが盛んに行われた。
 原発事故の行方にも一喜一憂した。
 さて、1年が過ぎ、がれき処分や放射能汚染に対する過剰なまでの拒否反応。それに対して政府や自治体は有効な手立てをもたず、右往左往している。マスコミだってはっきりと主張しているようには見えない。
 今もまだ平時には戻っていないことを認識すべきだ。有事の対応が必要である。
 岩手、宮城、福島3県を除く日本全国1615自治体が全てがれきを引き受けるくらいの風を引きおこす必要がある。
 みんなで被害を分かち合う。みんなでがれきを分かち合う。
  
 さて、障害保健福祉研究情報システム DINF Disability Information Resourcesによれば、知的障がい者を災害から守るための留意点を次のように述べている。
 特に、避難生活を余儀なくされた場合の対応である。
      
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【引用始め】

http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/resource/disaster/2007seminar_houkoku/01_07.html

必要な支援

1)災害の状況、救援の提供、避難所生活に関する情報を知的障害者にも理解できるように伝達する必要があります。

2)グループホームなどから避難所へ直接移動した知的障害者の安全確認・安否確認を家庭や利用施設などに迅速・確実に伝える必要があります。

3)災害発生時の「いの一番」=「医の一番」でしょう。危険や痛みを正確に意思表示することに困難を覚える知的障害者は多いことを銘記すべきです。

4)知的障害者が安心して避難生活を送るためには、「3間=空間・時間・仲間」が不可欠です。

避難所生活の場合、

空間=世帯・家族・グループホーム単位の空間が確保されているかは、当事者だけでなく、他の人たちのためにも求められるでしょう。

時間=多動や自閉症傾向の知的障害者にとって、避難所においても付き添い・見守り・世話・介助の人との時間の共有を必要とするでしょう。また自由な時間帯においても、ボランティアによる健康維持や余暇活用の支援も必要でしょう。 

仲間=安全・安心・安定の確保には、日ごろからの顔見知りや、支援者の存在、声がけと時間の共有が大切です。このためには地域(近所の人・町内会・自治会)と職域(サービス事業者・利用施設の職員)の協働支援が期待されます。

災害時に知的障害児者のこころの拠り所となり得る空間・時間・仲間を常に確保することが望まれます。

5)災害発生後の第一段階は、発生から3日間くらいのサバイバル(生存・医療・食・住の確保)ですが、知的障害者等はこのサバイバルに困難が伴う可能性が高く、より細やかな配慮と対応が求められます。その第二段階は長期化による衣食住やこころのケアなど“QOL”(生活の質)の向上への配慮と対応が望まれます。

6)災害発生にあたって最も困難の多い季節や時間帯は、地域により異なるでしょう。その地域に適した、実行可能な防災対策が必要です。

7)“First Aid”(救急)=“Fast Aid”(急救)迅速な対応が望まれます。

【引用終わり】

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 災害発生直後は誰しも困難に陥る。知的障がい者はなおさらである。そして、避難生活が長引いてくれば、著しい不適応症状も生じかねない。
 東日本大震災により多くを学んだ。この教訓を今後に生かすことである。
 身近な人の協力が一番有効である。
 ふだんのお付き合いがものをいう。もっと近所の人に頼っていい。家族だけでなんとかしょうと思っても限界がある。今はいいかもしれない。でも、将来何が起きるかわからない。遠くの親戚より、近くの他人の方が頼りになる。
 
 私たち育成会の組織もみんなが力合わせて知的障がい者の福祉向上をめざすためにできたものである。
 さらに、身近な困ったことや問題を相談し合う役割も担っている。しかし、今そうした機能が十分果たすことができているか。
 小さい単位でなんでも気軽に話し合う仲間づくりが必要だ。悩みをざっくばらんに語り合うようなお茶飲み会は濃いつながりをつくる。
 いざというときのセイフティネットにもなり得るつながりを育成会の中につくっていく必要がある。

 そうなっていればどんなことがあっても「明けない夜はない」と信じられる。
 (ケー)


#地震発生から1年と3日目「知的障害の特性に配慮した空間の確保」

2012年03月13日 | 災害
 平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から1年と3日目(平成24年3月13日、火曜日)。
 また、大震災発生から1年と3日目の新しい朝を迎えた。
  
 さて、障害保健福祉研究情報システム DINF Disability Information Resourcesによれば、知的障がい者を災害から守るための留意点を次のように述べている。
 特に、避難生活を余儀なくされた場合の対応である。
      
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【引用始め】

http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/resource/disaster/2007seminar_houkoku/01_07.html

避難しているとき(避難行動・避難生活)

必要な対応

1)体育館などで数百人が仕切りなしの一体的な避難所ではなく、知的障害の特性に配慮して、各家庭あるいはグループホームなどの生活単位ごとに仕切られた空間の確保が望まれます。可能であれば、専用の福祉避難所の設置が望ましいところです。「新潟県中越地震」の際、養護学校の一部では知的障害生徒と家族のために校舎の一部を避難所として開放したとのことです。障害特性を考慮した支援でした。

2)自身の必要とする支援を避難所担当者に正確に伝えるためには、療育手帳・ヘルプカードなどを携帯していると役立ちます。また常用薬を携帯していることが有効でしょう。

3)障害児者の男性でも家庭で母親からの見守り・世話・介助(例:入浴)を受けていることが多いですが、避難所では入浴や洗面所などは性別利用になり、父親・兄弟の介入が求められます。普段からの工夫として、母親離れや、父母協働の共育、男性の介入が必要です。

4)障害があっても、積極的に声を出して、必要な支援を求めた人たちには相応する支援が提供されていました。避難所では「沈黙は金ではない」ようです。

5)避難所にいても、地域(近所・町内会・自治会)の援助と、職域〔福祉事業者・利用施設〕の支援の両方を確保できた障害者は、物質面・精神面の双方でより良い状況にありました。

【引用終わり】

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 広い体育館に避難した自閉症の子が跳びはねた。その瞬間、避難者全員の突き刺すような目を感じた。そう証言する母親がいた。東日本大震災ではこうしたことが起きている。自閉症児にとって体育館は遊ぶ場所なのである。たくさんの人がいても静かにしていなければならないと本人が理解するのは難しい。
 いざという時のために、障がい者用の福祉避難所の設置を今から市町村に対して要望していることが必要だ。
 そうした働きかけがなされていれば、いざという時も「明けない夜はない」とすることができる。
 (ケー)


#地震発生から1年と2日目「千年和鐘打鐘で鎮魂を祈る」

2012年03月12日 | 災害
 平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から1年と2日目(平成24年3月12日、月曜日)。
 また、大震災発生から1年と2日目の新しい朝を迎えた。

 昨日の早朝は山形市西部地区は濃いもやに包まれ、あたり雪と相まって真っ白だった。
 日中、青空がでて良い天気になった。
 東日本大震災から1年がたった日。
 山形県・山形市主催、「東日本大震災一周年 追悼・復興祈願式」に昨日(3月11日)出席した。
 山形市役所「千年和鐘」前で開催された。
 テントが張られ、椅子席も準備されていた。
 寒かった。
 14時半開始。
 国主催による東日本大震災一周年追悼式の中継放送が、まず大型テレビジョンで映し出された。天皇皇后陛下がご臨席になられ、国歌斉唱、黙祷と続く。
 その後、山形市で行われた行事では、吉村美栄子山形県知事、市川昭男山形市長が主催者挨拶。
 来賓として、県議会議長、市議会議長の挨拶。
 福島市から自主避難している山田えつこさんから挨拶があった。
 県議、市議、自治会の代表者、そして一般市民合わせて200名ぐらいの参加者だった。
 さらに、参加者一人一人が「千年和鐘」の鐘をついて、犠牲になられた方々の鎮魂を祈った。
 
 さて、障害保健福祉研究情報システム DINF Disability Information Resourcesによれば、知的障がい者を災害から守るための留意点を次のように述べている。
      
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【引用始め】

http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/resource/disaster/2007seminar_houkoku/01_07.html

災害が起きたとき

必要な支援

1)ひとりでいる場合、あるいはグループホームにいる場合、家族や利用施設、支援者、緊急連絡先などに自分で電話連絡を取れない人も多いです。「ヘルプカード」や連絡先が記載された身分証明書などの情報から連絡が可能になり、安心や安全をかなり確保できるでしょう。

2)知的障害者の中には、定時的に服薬している人もいますので、その薬の確認も必要でしょう。また発作やてんかんのある人もいるので、その確認も必要でしょう。

3)多動性や徘徊的傾向のある知的障害児者には、その行動に合わせた付き添い・見守りが緊急時の危険回避のために不可欠でしょう。

4)個々人の知的障害の特性を把握することは困難な場合があり、初めて接する人には労を要しますが、近隣の住民や自治会の人が、その知的障害者のことを知っていてくれることは大きな手助けとなりますので、日ごろからの交流が防災にも役立つでしょう。また知的障害について知識を有する人の存在や、その人の付き添い・見守り・支援は緊急時において大きな役割を果たすことでしょう。

【引用終わり】

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 知的障がい者が地域にとけ込み、常日ごろから隣近所とお付き合いを続けていることが不可欠。みんなの理解と協力が日常的にしておく努力が必要である。
 何があってもふだんからのお付き合いによって、「明けない夜はない」とすることができる。
 (ケー)


#地震発生から367日目「防災カードの活用で支援求める」

2012年03月11日 | 災害
 平成23年(2011年)3月11日(金)14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュード9.0)から367日目(平成24年3月11日、日曜日)。
 また、大震災発生から367日目の新しい朝を迎えた。

 東日本大震災が発災してからちょうど1年。
 山形市西部地区、濃いもやがかかって辺り一面真っ白。雪が地面をおおっている。
 被災地は今もって濃いもやにおおわれて、先行きが見えない状況が続いている。
 昨年の朝、東日本大震災が起きるなんて誰もが予想できなかった。
 誰もが初春のいつもの朝をむかえていたはずだ。
 朝食をかっこみ、テレビの時間表示を見ながら、出勤前の朝支度に余念がなかった。
 今日の予定に思い巡らせながら、平成23年3月11日、金曜日の朝をむかえていた。
 1年前の朝、マグニチュード9.0の大震災が起きる予兆を誰もが感じてなかった。
 14時46分突然大震災が起きた。
 なすすべなく2万人もの犠牲者が出た。
 津波はあらゆるものを破壊し、持ち去った。全てをがれきと化した。
 東京電力福島第一原子力発電所が全電源が使用不能となり、原子炉が暴走し放射能をまき散らした。
 3月11日の朝とは、まるっきり違う世界になってしまった。
 誰もが無力さを感じた。
 あのおごり高ぶりがうそのようだった。
 あれから1年、犠牲になられた人に対して厳かな鎮魂の日にしなくては。
 そして、復興に向けた誓いの日にしなくては。
 被災地のがれきをどこの自治体も引き受けなくては。

 さて、障害保健福祉研究情報システム DINF Disability Information Resourcesによれば、知的障がい者を災害から守るための留意点を次のように述べている。
      
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【引用始め】

http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/resource/disaster/2007seminar_houkoku/01_07.html

災害が起きたとき

必要な対応

1)グループホームや自宅にいる場合、特にひとりでいる場合は、その所在を速やかに周囲の人に伝えることが大切です。知っている人が近くにいてくれることは、安心・安全・安定が得られる一つの要素です。周囲の知人に支援を求めることは、危険を防ぐ手だてとなります。「向こう三軒・両隣り」の存在が大きいです。
「新潟県中越地震」の際も、近隣の人たち、町内会の人たちによる協力や支援が大きかったです。

2)外出中、あるいは通学・通勤途中の場合、自らが知的障害者であることを周囲の人に伝えることがまず第一でしょう。そのためには、そのことを声に出すことが望まれますが、困難な人も多いため、「防災カード(ヘルプカード)」を携帯し、有効活用しましょう。

【引用終わり】

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 知的障がい者が積極的に隣近所とつながっておくことが災害時においても威力を発揮する。隣近所の人たちもふだんから声がけしてくれるような関係づくりに努力してほしい。それが安心安全な街づくりということになる。
 今日のもやはなかなか晴れない。でもだんだんと晴れてくるはず。
 「明けない夜はない」と同じように。
 被災地の復興の足音が目に見える形にしないと。
 (ケー)