ソバの花
帯に短し襷に長し
=帯には短くて使えない、襷には長すぎてじゃまになる
ことから、中途半端で使い物にならないことのたとえ=
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「花のように」
砂漠に見いだす清らかな泉は、旅行く人の喜びであり憩いであり、そして励ましである。荒涼たる山野に、毅然として咲き誇る一輪の花は、また旅人へのこよなき慰めとなり励ましとなる。
今の世の中が、荒野の如く荒れ果てているとは敢えて言わないが、それでもこのおかしな時代に、人びとの心は次第に落ち着きを失って、索然たる気配が感ぜられぬこともない。
おたがいに手をつなぎ、助け助けられながら生きねばならぬこの世の中である。人の心が砂漠の如く荒れ果ててはたまらない。せめてわれわれでけでも、清らかな泉のように、毅然たる一輪の花のように、強く正しく働いてゆこうではないか。
むつかしいことかもしれないが、自分の仕事に誇りを持ち、自分の働きに意義を感じるならば、わが身の処し方もおのずから見いだされてくるであろう。
どんな世に中になっても、あわてす、うろたえず、淡々として社会への奉仕を心がけてゆこう。その姿自体が、人びとにとってすでに大きな励ましとなり、憩いとなるのである。
花のように。泉のように。そこにわれわれの喜びもある。
松下幸之助「道をひらく」
写真:阿蘇に秋に咲く花
ツクシフウロ ツルニンジン コウライモエソウ キツリフネ
「ウソのような本当の話 その4」
これは、決して作り話ではありません。私が実際にこの目で見た話です。
今日はちょっと食欲もないし、うどんかそばを、簡単なものが食べたいねと友人とうどん屋さんに入って・・・何にしようかと迷っていました。
そこに老夫婦のところに丁度ザルソバが運ばれて・・・{あぁ~ザルソバも美味しいそうだね・・・}ザルソバを注文しようと考えて、何気なく・・・老夫婦の食べる様子をぼんやりと・・意味もなく眺めていました。
その時です。おばあさんがうどんを美味しそうに食べ始め、ザルソバを注文したおじいさん、な・・な・・なんと。。。おつゆをザルソバに直接かけたはじめたのです。オゥー・ビックリ・・・あいた口がふさがらない・・・NO NO ノォー
アッと言う間に・・・・・・・・・おつゆはテーブルの上にこぼれ
これには・・おばあさんも・・ビックリ「あんたは・・・ほんなこつ・・・なんば・しよとかいた!ウゥーモォー」熊本弁。
思わず私、見てはいけないものを見てしまった・・と・・・老夫婦の方から目をそらしながらも・・・・笑ちゃいけないと・・・笑いをこらえているのに・・・・馬鹿な友人が「ケラっ」と笑うもんだから、もう私も笑いを堪えられないクスクス・・・
皆さん、決して、ザルソバを食べるときは、おつゆは直接かけないでね!
あの、おじいさん、家でザルソバを食べるときは器がきっとお皿に盛られていて、直接おつゆをかけてたべていたんだなぁ~て思う今日この頃です。