3月20日 その2
鶴岡天満宮の次に向かったのは・・・閑静な住宅街の小路を進んで
源頼朝墓
(鎌倉市西御門2-6)
お墓は大倉山の中腹にあり階段が延びています。階段の上り口には
白旗神社 があります。
(鎌倉市西御門2-6)
正治元年(1199)、頼朝は53歳で亡くなりました。
この場所は頼朝の屋敷の北隅にあたり、持仏堂がありました。
頼朝はこの持仏堂に葬られ、法華堂と呼ばれるようにまりました。
安永8(1779)年に頼朝の子孫を自称する薩摩藩主・島津重豪が石段を
設けてその上に建てたのが、この石塔です。
法華堂は、明治維新時の廃仏毀釈運動により壊されてしまいました。
白旗神社は、頼朝を祭神として明治5(1872)年に建立されました。
※持仏・・・守り本尊として常に身近において信仰する仏像
※廃仏毀釈・・・明治維新期の神仏分離令にともなって生じた、仏教を排斥し寺院・仏像などを
破壊するような考え・行動。
次に向かったのが 荏柄天神社 (えがらてんじんじゃ)
(鎌倉市二階堂74)
長治元年(1104) 晴天の空が突如暗くなり、雷雨とともに黒装束姿の天神の
姿絵が降りてきたのを敬い、里人が神殿を建立したのが縁起です。
境内には、樹齢900年といわれている大銀杏があります。
雨に濡れる三椏の花
次に訪れたのが 鎌倉宮 (かまくらぐう)
(鎌倉市二階堂154)
後醍醐天皇の皇子 護良親王(もりながしんのう)を祭神として祀っています。
鎌倉幕府を倒し、天皇親政(建武の親政)が復活し護良親王は征夷大将軍と
なられますが、足利尊氏と対立して捕らえられ幽閉されました。建武2(1335)年
7月23日に28歳で非業の最期を遂げられました。
明治天皇は、武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした、建武
中興に尽力した親王の功を賛え、神社の造営を命じました。宮号を「鎌倉宮」と
自ら名づけられました。こうして創建されたのが鎌倉宮です。
鎌倉宮の参道「お宮通りと金沢街道が合流する場所
「岐れ路」 (わかれみち)
次に向かったのが、宝戒寺 (ほうかいじ) (天台宗)
(鎌倉市小町3-5)
「萩の寺」との別名があります。
この場所には鎌倉幕府執権の北条氏(北条義時以来)の屋敷がありました。
鎌倉幕府最後の執権・北条高時は、元弘3(1333)5月22日に屋敷裏にあった
東勝寺で自害、一族郎党870余名も運命を共にしました。
滅亡した北条氏一族を弔うために、後醍醐天皇が足利尊氏に命じて北条氏
の屋敷跡に建武2(1335)年に建立されたのが宝戒寺です。
椿や木蓮の花が咲いていました。
次に向かったのが 東勝寺跡 (とうしょうじあと)
(鎌倉市小町3丁目)
東勝寺は、鎌倉幕府の第三代執権 北条泰時が母の追善と北条宗家の菩提寺
として嘉禎3(1237)年に建てられたとされています。
宝戒寺の紹介にも書きましたが、元弘3(1333)5月22日、新田義貞が率いる
軍勢が一挙に鎌倉へと攻め入り、北条高時とその一族は東勝寺に立てこもり
火をかけて自刃しました。言わば、鎌倉幕府最後の地です。
焼失後、再建されましたが、元亀4(1573)年頃には廃寺になったと考えられて
います。
高時 腹切りやぐら
小町大路に面した場所にあるのが
日蓮辻説法跡 (にちれんつじせっぽうあと)
(鎌倉市小町2丁目)
日蓮は建長5(1253)年に、安房(千葉県)から鎌倉に来て、松葉ヶ谷(現在の
安国論寺付近)に草庵を結びます。草庵から毎日この場所に来て、法華経の
功徳を説いたそうです。ここは当時、武家屋敷と商家町が混在する場所だった
そうです。
若宮大路を横切り、鎌倉駅近くのケンタッキーフライドチキンにて昼食を。
続きます。