これが失われた30年の起点(日米半導体協定)
日米半導体協定(にちべいはんどうたいきょうてい)は、1986年9月2日に半導体に関する日米貿易摩擦を解決する目的で締結された条約である。 第一次日米半導体協定(1986年~1991年)と第二次日米半導体協定(1991年~1996年)の合計10年間にわたって有効であった。
以下は日米半導体戦争より転載
https://www.senkensoi.net/column/2809/
実に驚くべきことに、半導体をめぐっては、1980年代から1990年代にかけて、日米で巨大戦争が闘われていた。日米半導体戦争である。このことを知っている人は意外に少ない。大負けに負けたので、政府広報も手を抜いたのかもしれない。
仕掛け人はアメリカ・レーガン大統領、迎え撃つのは日本・中曽根首相である。ロン・ヤスコンビであった。
アメリカは、半導体が軍事製品に利用されるので、安全保障上の問題とのこじつけまで持ち出し、不平等な日米半導体協定が結ばれた。その背景は、やっかみである。1986年ぐらいまで、日本の半導体ビジネスは栄華を極めていた。
日本は半導体デバイスのうち、読み出し/書き込み向けのDRAMという半導体メモリに圧倒的な技術優位を持っていた。メーカーランキングは1位がNEC、2位東芝、3位日立であった。
それに比べてアメリカのメーカーはさえず、撤退が相次いでいた。そこでアメリカ政府に目をつけられたのが日本である。レーガン流の脅しで日本に半導体戦争をしかけた。その手段は次の2点を骨子とする日米半導体協定である。
・日本の半導体市場の海外メーカーへの開放
(1991年以降は20%以上という数値目標までつけられた。)
・日本の半導体メーカーによるダンピングの防止
売値の制限と敵に塩を遅れのダブル制裁は、相当に厳しい。
不運なことに1991年からは、バブルの崩壊が始まった。
3.内乱
バブルの崩壊に伴い、日本企業で半導体技術者のリストラが始まった。
ここを狙っていたのがサムスンに代表される韓国の半導体メーカー。
日本の技術者のヘッドハンティングに乗り出したのである。これが奏功し日本人技術者の「土日のソウル通い」という現象まで起こった。報酬の相場は1回の土日で1ヶ月分のサラリーであったという。
このサラリーマンの反乱を通じて、日本企業からサムスンへの技術の移転は急速に進み、1992年には世界のDRAM市場ではサムスン電子がシェア1位となった。日本メーカーは抜き去られた。日本人技術者の内乱の影響は大きかった。
その間日本政府の対応はどうだったのだろうか。防戦一方である。
1987年にはアメリカからパソコン、カラーテレビ、電子工具等に合計3億ドルの100%の関税を課された。それにもかかわらず何の手も打てなかった。
1992年は米国のインテルが世界シェア1位の会社となった。
1993年にはアメリカが国別シェアで1位になった。
1996年の半導体協定の終了をもって日米半導体戦争は終了した。
太平洋戦争を思わせるみじめな敗戦であった。
終わってみると半導体をめぐる景色は大きく変わっていた。世の中はインターネットの時代となり、ファブレス(設計と製造の分離)の時代に突入していた。日本企業は設計・製造一体型であった。
4.その後の半導体産業
戦争のほとぼりのさめた1999年にエルピーダメモリが設立された。経済産業省の音頭で、NECや日立製作所など昔の名前で出ている各社の半導体部門を糾合した。
旧時代のやり方が通ずるはずもなく、敢え無く2012年に破綻した。
その後も国家プロジェクトは目白押しだ。2001年の「あすかプロジェクト」「HALCAプロジェクト」「先端SoC基盤技術開発(ASPLA)」などである。しかしことごとく失敗する。
官の体質である天下り作戦と大企業のご都合主義がうまくかみ合わなかった。
それから30年、今度は米国は中国と同じ様なことをやり始めたのだが、ファーウェイはとりあえず潰したが、そこは腰抜けの日本と違い中国は強かだ。ファブレス工場基地である台湾を取り込もうという中国の動きとなり、台湾を巡る緊張関係が高まり、30年前のおんぼろ巡航ミサイルトマホークを400本買わされるなど、またまた我が国に影響を与えている。
長期的に見れば、日本は米国とある程度離れつつ自国防衛を高めるべきなのであろうが、戦前の天皇の代わりに米大統領が位置するがのごとく、日米関係の従属関係は何ら変わりそうもない。
日米半導体協定(にちべいはんどうたいきょうてい)は、1986年9月2日に半導体に関する日米貿易摩擦を解決する目的で締結された条約である。 第一次日米半導体協定(1986年~1991年)と第二次日米半導体協定(1991年~1996年)の合計10年間にわたって有効であった。
以下は日米半導体戦争より転載
https://www.senkensoi.net/column/2809/
実に驚くべきことに、半導体をめぐっては、1980年代から1990年代にかけて、日米で巨大戦争が闘われていた。日米半導体戦争である。このことを知っている人は意外に少ない。大負けに負けたので、政府広報も手を抜いたのかもしれない。
仕掛け人はアメリカ・レーガン大統領、迎え撃つのは日本・中曽根首相である。ロン・ヤスコンビであった。
アメリカは、半導体が軍事製品に利用されるので、安全保障上の問題とのこじつけまで持ち出し、不平等な日米半導体協定が結ばれた。その背景は、やっかみである。1986年ぐらいまで、日本の半導体ビジネスは栄華を極めていた。
日本は半導体デバイスのうち、読み出し/書き込み向けのDRAMという半導体メモリに圧倒的な技術優位を持っていた。メーカーランキングは1位がNEC、2位東芝、3位日立であった。
それに比べてアメリカのメーカーはさえず、撤退が相次いでいた。そこでアメリカ政府に目をつけられたのが日本である。レーガン流の脅しで日本に半導体戦争をしかけた。その手段は次の2点を骨子とする日米半導体協定である。
・日本の半導体市場の海外メーカーへの開放
(1991年以降は20%以上という数値目標までつけられた。)
・日本の半導体メーカーによるダンピングの防止
売値の制限と敵に塩を遅れのダブル制裁は、相当に厳しい。
不運なことに1991年からは、バブルの崩壊が始まった。
3.内乱
バブルの崩壊に伴い、日本企業で半導体技術者のリストラが始まった。
ここを狙っていたのがサムスンに代表される韓国の半導体メーカー。
日本の技術者のヘッドハンティングに乗り出したのである。これが奏功し日本人技術者の「土日のソウル通い」という現象まで起こった。報酬の相場は1回の土日で1ヶ月分のサラリーであったという。
このサラリーマンの反乱を通じて、日本企業からサムスンへの技術の移転は急速に進み、1992年には世界のDRAM市場ではサムスン電子がシェア1位となった。日本メーカーは抜き去られた。日本人技術者の内乱の影響は大きかった。
その間日本政府の対応はどうだったのだろうか。防戦一方である。
1987年にはアメリカからパソコン、カラーテレビ、電子工具等に合計3億ドルの100%の関税を課された。それにもかかわらず何の手も打てなかった。
1992年は米国のインテルが世界シェア1位の会社となった。
1993年にはアメリカが国別シェアで1位になった。
1996年の半導体協定の終了をもって日米半導体戦争は終了した。
太平洋戦争を思わせるみじめな敗戦であった。
終わってみると半導体をめぐる景色は大きく変わっていた。世の中はインターネットの時代となり、ファブレス(設計と製造の分離)の時代に突入していた。日本企業は設計・製造一体型であった。
4.その後の半導体産業
戦争のほとぼりのさめた1999年にエルピーダメモリが設立された。経済産業省の音頭で、NECや日立製作所など昔の名前で出ている各社の半導体部門を糾合した。
旧時代のやり方が通ずるはずもなく、敢え無く2012年に破綻した。
その後も国家プロジェクトは目白押しだ。2001年の「あすかプロジェクト」「HALCAプロジェクト」「先端SoC基盤技術開発(ASPLA)」などである。しかしことごとく失敗する。
官の体質である天下り作戦と大企業のご都合主義がうまくかみ合わなかった。
それから30年、今度は米国は中国と同じ様なことをやり始めたのだが、ファーウェイはとりあえず潰したが、そこは腰抜けの日本と違い中国は強かだ。ファブレス工場基地である台湾を取り込もうという中国の動きとなり、台湾を巡る緊張関係が高まり、30年前のおんぼろ巡航ミサイルトマホークを400本買わされるなど、またまた我が国に影響を与えている。
長期的に見れば、日本は米国とある程度離れつつ自国防衛を高めるべきなのであろうが、戦前の天皇の代わりに米大統領が位置するがのごとく、日米関係の従属関係は何ら変わりそうもない。
中国と結託して儲ける欲深い道を選ばず日本と仲良くしておけば良かった物を。
わざわざWTOで日本にトドメを刺して今日の中国を起動させた米国がその中国から追い込まれてる惨めな姿こそ滑稽の極みです。