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野生生物を調査研究する会活動記録

特定非営利活動法人 野生生物を調査研究する会の会員による活動記録です。

ニホンジカ

2018-07-27 | フィールドガイド--その他の生き物--

バンビをつれた母ジカ

ほほえましい1枚の写真だが...

シカは一時は絶滅近いほど数を減らしていた時期がある
しかし、数はふえつづけ農業被害も深刻になっている

資料を見てみよう

兵庫県においても、両種による農業被害は深刻な問題であり、
2008 年度の被害額はシカで 1.9 億円、イノシシで 2.2 億円に上り、
2 種の被害の合計額は県下の獣類による農業被害の 7 割以上を占める。
(兵庫県森林動物研究センター兵庫 ワイルドライフモノグラフ 2 号より)
シカは6月に被害のピークがあるのに対して、イノシシは9月がピークになっている(図 4-3)。
これはシカが田植え後の若いイネを食害することが多いのに対して、
イノシシは乳熟期以降の穂を食害することが多いためである。(同上)

ニホンジカやイノシシのなどの中・大型哺乳類の個体数の増加や分布域の拡大は、
農業被害問題の深刻化や被害地域の拡大に加え、自然植生への影響をはじめとする様々な問題を引き起こしている。
シカの過密地域で報告されているヤマビル(Haemadipsa zeylanica japonica)の増加もその一つである(山中 2007)。 (同上)

ヤマビルの範囲は驚くほど
シカやイノシシがつれてくるのは間違いない。


生きている猪名川改訂版 2008年

2018-07-27 | 野生生物を調査研究する会の紹介

猪名川も改訂版を含めて3回模様替え

特徴は以前の「生きている猪名川(増補版)」よりも内容を精選しました。
新たにカタツムリのなかなどの新しい項目も付け加え、写真等の大幅な入れ替えを行いました。

おなじく流域の学校に配布

学習によく利用されていると聞いています

残部あります

興味のある方は連絡を


国際協力--マラジョー島の生き物1--

2018-07-27 | 野生生物を調査研究する会の紹介

私たちが訪れたマラジョーのカルモ牧場の周辺で見た生き物はマラジョー島のほんの一部にしかすぎない。カルモ周辺にはたくさんの小さな川が流れている。ここでは川岸から50mは伐採禁止で川岸にはジャングルが残っている。でもたくさんの小さな川が蛇行しているためか森は豊かに見えた。しかし実際どうなっているか空から見たいものだ。

ナマケモノにはフタユビナマケモノとミツユビナマケモノの2種類がいる。このナマエケモノはミツユビナマケモノ。英語では「Three toed sloth」と言う。草食性でインバウーバという植物の実を好む。動作はゆっくりで、のそーとした人間みたいだ。このナマケモノはカルモのオーナーが朝発見して、我々を特別に連れていってくれた。ちょっと暗かったのが残念だった。
 右上はホエザルだ。川沿いの高い樹木の上の所々に見える。黒い塊があるので、よく見るとホエザルだとわかる。早朝にホエザルが数匹、縄張りを張り合うために一斉に吼えている場面(声だけが聞こえる)に遭遇した。野生動物の凄さには感動した。できれば音声をここで聞けるようにしたい。
 左はナイトツアーで行ったときに見たワニだ。真っ暗闇にライトを照らせば目が反射して、ワニがいることがすぐにわかる。ワニはそれほど大きくなく1m~2mぐらい。 

 オマキザル科のリズザル。食べ物は果実や昆虫を好む。熱帯雨林やマングローブ林などに群れで生息している。早朝川沿いのあちらこちらの樹木の枝の上で群れを見かけた。
 右上のリズザルはアサイというヤシの仲間の実の上にいる所を撮影。アサイはトメアスやマラジョーなどのアマゾン東部にしかないようで、マナウスでは見かけなかった。


多田銀銅山

2018-07-27 | 資料を読む

江戸時代の銀山金山といえば
佐渡(相川)金山(新潟県佐渡市)
石見(大森)銀山(島根県太田市大森
生野銀山(兵庫県朝来市生野町)
が有名だが、兵庫県猪名川町にも有名な銀銅山がある。
多田銀山である。

2015(平成27)年に多田銀銅山遺跡が国史跡に指定された。
銀山地区(旧銀山町)の歴史を中心に紹介する施設として多田銀銅山悠久の館がある。

2014年に作成された資料

多田銀銅山 井澤英二(九州大学名誉教授) 猪名川町教育委員会 2014年

江戸時代の絵図があるので当時の様子から、銀山の様子をわかる
また、どのようにして銀や銅を精錬したのかは展示物とともにこの資料でうかがい知ることができた
猪名川流域には、銅山がおおく、小さな坑道がたくさん残っている。
見学できる坑道もある、その中で鉱脈も見られる。

鉱物マニアはズリあとから鉱物採取をたのしむことができた。

パンフより

地質と鉱床
 今からおよそ7千万年前(白亜紀後期)に、西日本の広い範囲で花高岩マグマが上昇しました。
 これによって、大規模な火山活動があり、銀や銅の鉱床がつくられました。なかでも猪名川町の
銀山とその周辺に、たくさんの鉱脈が生成しました。鉱脈は火山岩(有馬層群)と堆積岩(丹波帯。
超丹波帯)の中あるいは境界部などにみられます。

多田銀銅山の範囲
 多田銀銅山は猪名川町、川西市、宝塚市、大阪府池田市、箕面市、能勢町、豊能町一帯に広がる鉱床群の総称
です。
 「多田」という地名は源満仲が開いた「多田荘」に因んでいると考えられており、豊臣秀吉の財産目録である
慶長3年(1598)の『伏見蔵納目録』には「多田荘銀山」と記されています。
 江戸時代には、「多田銀山」「多田銅山」「多田銀銅山」などと呼ばれるようになります。
 「多田銀銅山」は場所を示すとともに、生産体制、鉱山などの管理を含めた江戸時代の支配体制の中でうまれ
た地域の総称です。

多田銀銅山の主な歴史
奈良時代
  奇妙山(川西市国崎周辺、現在の一庫ダム付近)から採れた銅を奈良東大寺の大仏鋳造に献上したという伝承があります。
平安時代
 天禄元年(970)、源満仲に金瀬五郎が銀山地区の金懸間歩で採れた銀を献上した伝説があります。また、長暦元年(1037)
に摂津国から銅の献上が行われた(『壬生家文書』)と記され、この時期の前後に能勢採銅所(大阪府能勢町付近)が設置され
たと考えられています。
 猪名川町域での採掘開始年代については明らかではありませんが、能勢採銅所の管理のもと槻並(つきなみ)では採掘が行われていたこ
と、鎌倉時代には多田院御家人の管理のもと銀山を含む広根地域で採掘が行われていたと考えられます。

戦国時代~安土桃山時代
 豊臣秀吉|こより銀山地区の鉱山が開発され、瓢箪間歩、台所間歩を中心に銀銅を産出しました。付近の紺青(こんじょう)間歩では、岩
絵具の顔料となる紺青を産出しました。
江戸時代
 江戸時代前半から幕府の直轄地でしたが、寛文元年(1661)に銀山地区の大口間歩で銀を含む良質な鉱脈が発見された
のを契機として、翌年の寛文2年(1662)に代官所が置かれ、幕府から代官が派遣されました。しかし、20年後の天和2
年(1682)に代官が追放された後、代官は派遣されず役人のみが詰める役所として明治2年(1869)に廃止されるまで
の約200年間、多田銀銅山の鉱山管理と支配にあたりました。
明治時代
 山師が実業家の援助のもと、鉱山経営をしました。明治10年代には神戸の実業家閏戸慶治、明治20年(1887)には三
菱へと経営が変わります。明治26年(1893)に島根県の鉱山家堀藤十郎の手に渡り、採鉱量の増加に伴い明治40年(1907)
に西洋技術を取り入れた機械選鉱場の建設を計画し言工しましたが、完成をみないうちに休止します。
昭和時代
 昭和36年(1961)に日本鉱業(株)が「多田鉱業所」を設置し、昭和41年(1966)に本格的に採掘を開始しますが、
採算量に見合わず、昭和48年(1973)に閉山しました。」

夏も川沿いは涼しい。おすすめスポットだ。