江戸時代の銀山金山といえば
佐渡(相川)金山(新潟県佐渡市)
石見(大森)銀山(島根県太田市大森
生野銀山(兵庫県朝来市生野町)
が有名だが、兵庫県猪名川町にも有名な銀銅山がある。
多田銀山である。
2015(平成27)年に多田銀銅山遺跡が国史跡に指定された。
銀山地区(旧銀山町)の歴史を中心に紹介する施設として多田銀銅山悠久の館がある。
2014年に作成された資料
多田銀銅山 井澤英二(九州大学名誉教授) 猪名川町教育委員会 2014年
江戸時代の絵図があるので当時の様子から、銀山の様子をわかる
また、どのようにして銀や銅を精錬したのかは展示物とともにこの資料でうかがい知ることができた
猪名川流域には、銅山がおおく、小さな坑道がたくさん残っている。
見学できる坑道もある、その中で鉱脈も見られる。
鉱物マニアはズリあとから鉱物採取をたのしむことができた。
パンフより
「
地質と鉱床
今からおよそ7千万年前(白亜紀後期)に、西日本の広い範囲で花高岩マグマが上昇しました。
これによって、大規模な火山活動があり、銀や銅の鉱床がつくられました。なかでも猪名川町の
銀山とその周辺に、たくさんの鉱脈が生成しました。鉱脈は火山岩(有馬層群)と堆積岩(丹波帯。
超丹波帯)の中あるいは境界部などにみられます。
多田銀銅山の範囲
多田銀銅山は猪名川町、川西市、宝塚市、大阪府池田市、箕面市、能勢町、豊能町一帯に広がる鉱床群の総称
です。
「多田」という地名は源満仲が開いた「多田荘」に因んでいると考えられており、豊臣秀吉の財産目録である
慶長3年(1598)の『伏見蔵納目録』には「多田荘銀山」と記されています。
江戸時代には、「多田銀山」「多田銅山」「多田銀銅山」などと呼ばれるようになります。
「多田銀銅山」は場所を示すとともに、生産体制、鉱山などの管理を含めた江戸時代の支配体制の中でうまれ
た地域の総称です。
多田銀銅山の主な歴史
奈良時代
奇妙山(川西市国崎周辺、現在の一庫ダム付近)から採れた銅を奈良東大寺の大仏鋳造に献上したという伝承があります。
平安時代
天禄元年(970)、源満仲に金瀬五郎が銀山地区の金懸間歩で採れた銀を献上した伝説があります。また、長暦元年(1037)
に摂津国から銅の献上が行われた(『壬生家文書』)と記され、この時期の前後に能勢採銅所(大阪府能勢町付近)が設置され
たと考えられています。
猪名川町域での採掘開始年代については明らかではありませんが、能勢採銅所の管理のもと槻並(つきなみ)では採掘が行われていたこ
と、鎌倉時代には多田院御家人の管理のもと銀山を含む広根地域で採掘が行われていたと考えられます。
戦国時代~安土桃山時代
豊臣秀吉|こより銀山地区の鉱山が開発され、瓢箪間歩、台所間歩を中心に銀銅を産出しました。付近の紺青(こんじょう)間歩では、岩
絵具の顔料となる紺青を産出しました。
江戸時代
江戸時代前半から幕府の直轄地でしたが、寛文元年(1661)に銀山地区の大口間歩で銀を含む良質な鉱脈が発見された
のを契機として、翌年の寛文2年(1662)に代官所が置かれ、幕府から代官が派遣されました。しかし、20年後の天和2
年(1682)に代官が追放された後、代官は派遣されず役人のみが詰める役所として明治2年(1869)に廃止されるまで
の約200年間、多田銀銅山の鉱山管理と支配にあたりました。
明治時代
山師が実業家の援助のもと、鉱山経営をしました。明治10年代には神戸の実業家閏戸慶治、明治20年(1887)には三
菱へと経営が変わります。明治26年(1893)に島根県の鉱山家堀藤十郎の手に渡り、採鉱量の増加に伴い明治40年(1907)
に西洋技術を取り入れた機械選鉱場の建設を計画し言工しましたが、完成をみないうちに休止します。
昭和時代
昭和36年(1961)に日本鉱業(株)が「多田鉱業所」を設置し、昭和41年(1966)に本格的に採掘を開始しますが、
採算量に見合わず、昭和48年(1973)に閉山しました。」
夏も川沿いは涼しい。おすすめスポットだ。