思考の7割と収入の3割を旅に注ぐ旅人の日々

一般的には遊び(趣味)と見下されがちな「旅」も、人生のなかでやるべき「仕事」である、という気概で旅する旅人の主張と報告。

北海道ちほく高原鉄道・ふるさと銀河線廃線に思うこと(前)   

2006-04-21 07:37:21 | 交通・地理
4月20日、北海道の池田駅-北見駅間を結ぶ第3セクター鉄道、「北海道ちほく高原鉄道・ふるさと銀河線」が廃線となった。僕はこれには2003年9月と2004年2月の2回乗りに行っていて、そこそこの思い入れがある。またひとつ趣のある鉄道がなくなってしまい、非常に残念に思う。
僕は基本的に徒歩や自転車のような人力移動による旅を好んでいるが、鉄道、特に先日挙げた青春18きっぷを利用してJRの普通列車で移動しながらの旅も好んでいる。これは一応動力利用になるが、各駅に停車したり、沿線の景色が各種車両のなかでも比較的人力に近い(遅い)速度で見られるということから、好んでよく利用している。クルマを運転しない僕としては、現在住んでいる地元の実家を起終点とする旅以外の、起点も終点も他所の土地になる旅をするさいの旅先への往復移動ではよく鉄道を利用していて、日常でも非日常でも超重要な交通手段である。そのため、JRでも私鉄でも第3セクターの鉄道でもなんでも、マニアと呼ばれるくらいに鉄道に精通した“鉄ちゃん”同様に、僕も鉄道については人並み以上の興味と関心と思い入れはある。
この路線が運行していた当時の状況や土地の歴史背景云々については、僕なんかよりももっと詳しい“鉄ちゃん”や沿線住民の開設するウェブサイトやブログや各種媒体を覗いてもらったほうがわかりやすい。この項では「基本的には人力移動を好んでいる旅人」の目線からの、この路線と鉄道への想いを記す。

近年、鉄道の廃線が相次いでいる。まあその大半はJRではなく、それよりも経営努力を必要とされる私鉄や、JR以前の国鉄が6社に分割(東日本・東海・西日本・四国・九州・北海道)して民営化されてJRになるさいに第3セクター化された路線なのだが、この「北海道ちほく高原鉄道・ふるさと銀河線」は後者にあたる。明治43年に池田-陸別間、翌44年に陸別-北見間の鉄路が建設され、大正元年に国鉄「網走本線」として開通以降、昭和36年に名称が「池北線」に変わり、国鉄のJRへの分割民営化によって平成元年からは第3セクターの「ふるさと銀河線」として再出発したりしながらも、今月まで100年近く走り続けてきた。国や地元自治体の力添えも少々ある第3セクター鉄道が廃線、しかも営業していた全区間のうちの一部分だけではなく、これは全区間、営業距離140kmがいっぺんに廃線になるのは全国初だそうで、そこまで追い詰められていたのか、とそれを聞いてさらに落胆した。重ね重ね残念に思う。

この路線の場合は、僕が最初に乗りに行った2003年の数年前から毎年3、4億円の赤字が出て経営が苦しくなってきたということは以前から少々聞いてはいた。だから2005年に4月に廃線が決定するまで、「ふるさと銀河線友の会」の結成、SLの特別運行、2002年からのマンガ家・松本零士によるラッピング列車(『銀河鉄道999』仕様)の運行、ウェブサイトによる沿線や時刻表などの情報提供、絵ハガキやキーホルダーのようなオリジナルグッズの販売などによって、第3セクター鉄道にしては長いあいだ苦しみながらも結構健闘していたほうなのかもしれない。
それに、沿線の足寄(あしょろ)町が地元の、数年前に「ムネオハウス」などの疑惑で物議を醸して一躍有名になった鈴木宗男(衆議院議員、新党大地現代表)や、現在は北見市が選挙地盤になっている武部勤(衆議院議員、自由民主党現幹事長)のような大物の力もそこそこ効いていたのかもしれない。特に武部に関しては、ある鉄道駅の待合室に置いてあった旅人のための旅ノートの記述で、
「(ちほく高原鉄道が赤字路線なのにいまだに存続しているのは)武部の子どもが沿線の高校に通うために残していたからだ」
というネット上の掲示板の匿名投稿のような暴論!? もあったが、北海道民が書いたとするとあながち大ウソというわけでもないらしい。だから、武部にとってはそれ以降は息子も育って、孫も数人いる現在では鉄道なんかもう要らないね、次はかねてから計画のある高速道路建設、具体的には新直轄方式(開通後は無料化される)で国税も7割以上投入される一大事業である、道東自動車道(北海道横断自動車道の一部)の足寄-北見間の延伸に力を入れてやるぞ、そのほうがお金になるし、という感覚なのだろうか。

こういった鉄道廃線を惜しむ人の声でその理由としてよく聞かれる、「やはり、時代の流れかねぇー」のような、鉄道の利用者の減少によってそれが廃線に追い込まれる理由としては、親会社の経営不振による鉄道事業の規模縮小および撤退、クルマ社会化、少子化(特に通学で利用する高校生の減少)が挙げられやすいが、僕個人的には特に高度経済期のクルマの増加による鉄道からクルマへの移動手段の転換が気になっている。
ドアトゥドアで移動できる現代の交通の主流になっているクルマは、たしかに自分の行きたい場所に行くためにある意味わがままな移動をするにはとても便利な道具ではある。
だが、それを走らせるぶんだけ排気ガスは余計増えるし、多くのクルマが寄り集まって渋滞すれば移動に時間がかかって思いどおりの移動がしにくくなり、自分の不注意によるもの以外にも他人からもらうような交通事故も多い。
反対に鉄道であれば、電気またはディーゼルエンジンで動くためにクルマよりは大気の環境に負荷はかけずに済むし、専用の線路があるために移動時間がある程度読めるし、事故も(いくらかは起こってしまっているが)確率的には道路上のクルマの交通よりは圧倒的に少ない。それにクルマよりも多くの人や物資を運ぶことができる。ただ、郵便や宅配便のような現代的なきめ細やかな物資輸送になるとどうしても鉄道よりはクルマに主役の座を明け渡すことになり、そういう生活の身近な部分に直結している緑や黒ナンバーの営業用車両がガンガン走るのであればまあ許せる。

だが現代で問題視しなければならないのは、それ以外の白ナンバーの一般自家用車がやたらめったら多いことだ。日常の生活の移動をこれに移行しすぎたために、鉄道利用者が大に減少してしまっている。多くの人は鉄道廃線の理由をクルマの普及という「時代」の流れのせいにしているが、(おそらく日常でクルマを毎日頻繁に利用している)そういうことを言う人たちが鉄道を利用しなくなった、つまり(クルマを頻繁に利用して)鉄道が廃れてしまうような流れを作ってしまったこともその大きな原因のひとつとして挙げられると思う。元々クルマを日常でも非日常でもそんなに利用しておらず、それよりは鉄道のような公共交通機関の利用を好んでいる僕と僕の家庭のような“アンチクルマ派”とも言える人々から見ると、「時代」の流れのせいにしているそういう人たちはその時間の流れに責任転嫁して、街づくりというか沿線の経済不振の責任逃れをしているとしか思えない。運転免許を取得してクルマに乗り始める以前と同様に鉄道を利用しながら地域経済にわずかながらでも貢献し続けていれば、廃線なんていう最悪の事態には陥らなかったのではないか。

現代社会でクルマを好き勝手に活用して自分の便利さを追求することも大事なのはわかるが、地元住民や自治体が鉄道を維持し続けられる沿線の活性化を怠ったことも反省して見直していくべきことで、クルマの便利さを少々手放してでも地域自治体が機能するような、住民全体で鉄道による交通を支えていくべきだったのではないかと思う。例えば、幼児を遠くの幼稚園や保育園にクルマで送り迎えせずに済むように身近な地域のそれに入園させられるように努めるとか、最寄駅やバス停から病院や養護施設への送迎バスやコミュニティバスを充実させるとか、企業は最寄り駅にクルマを停めて鉄道利用で通勤できる「パークアンドライド」に交通手当で便宜を図るとか。こういうことは自治体によってはすでにやっているところはやっているが、現状では全国を見渡すとどちらかと言うとやっていないところのほうがまだまだ多いように思う。
まあこれらは廃線後に言ってもあとの祭だし、赤字の鉄道なんて早く潰してクルマに転換しようよ、という廃線賛成およびクルマ利用推進派の人も少なからずいるのだろうが、そういう人たちも若かりし頃はその鉄道にお世話になったんぢゃないの? よくそんな恩を仇で返すようなことを平気で口走れるよね? と思ってしまう。日本人的な義理人情というか、心がないそういう人たちはその地域にとって恥ずかしい存在であるな、ニセモノの住民だよな、と僕は他所者という立場であってもついそう思ってしまう。
現在、JRよりは小規模の鉄道がまだなんとか残っている他地域では、鉄道利用について今一度見直して踏ん張ってもらいたいな、とにかく沿線住民もそれがある都道府県民ももっと鉄道に目を向けてほしいよな、と切望する。

まあ以上のようなことは、今回の「ちほく高原鉄道」に限らず、鉄道廃線の報道を聞くたびに毎回思っている。石川県の能登半島東側を走る「のと鉄道」では2005年3月に穴水-蛸島間が部分廃線になったのだが、僕はこの廃線間際に乗りに行き、そこでも今回と同様のことを考えていた。また、僕は全国各地、鉄道駅の待合室などによくある、そこへの訪問者のために置かれた旅ノートなんかにも、
「クルマばかり乗っていないで鉄道にも乗ろうよ」
という論旨のことを、「時代」のせいにしてこれ以上その地域の情緒が失われていってもよいのか? 廃線には追い込まずに、諦めることなくなんとか踏ん張ってくれ! と応援する意味でよく書いているのだが、現代社会ではそんな僕の意に反してどんどんクルマ社会化が進んでしまっている。人やモノの移動の速度はすべてが速けりゃいいってもんぢゃない。遅ければ遅いほうが善い、そして楽しいこともあるのだ。


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