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アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 其の五

2013年08月21日 | 近世の歴史の裏側

 

○島村伊三郎との関わり

 

 上州無宿の本場、境町地方において、早くから組織的な

博徒の親分と称されたのは、島村伊三郎であった。

無宿者ではあったが、生涯一度も人をあやめたり、

非道の行動のなかった伊三郎は、いま敵役の国定忠治のために

誤り伝えられるところが多い。講談に映画に、伊三郎は

ほとんど悪玉の張本のように伝えられてしまったのである。

 島村伊三郎は境町島村字立作(りうさく)の人で、

本姓町田氏、家は代々船問屋を営んだいわば村の名家である。

歿年から逆算すれば寛政元年に生れた。

若いころの事績について伝えるものはないが、

家業をついで船問屋の主人となったが、ところが遊侠の風がさかんで、

自分から船問屋をすてて無宿になったといわれる。

文化の末か、文政のはじめ頃であろう。

隣村の武州牧西に兵馬がいて、兄弟分として遊侠の群れに投じた。

伊三郎は身丈が六尺あったそうで、非常に腕力がすぐれていた。

そのため自ら島村一家をなし、その親分におさまったのである。

 島村一家の縄張りは境町から新田一円で、例幣使街道を通じる

この地方は、ことに養蚕、織物がさかんで、

上州においてももっともよい賭場とされた。

文政年間に間八州取締御出役が定められて、いわゆる八州さまと呼ばれた

役人が関八州を廻村して治安に当ったが、伊三郎は御用聞きの

鑑札をさずけられ、道案内を勤めるようになった。

道案内ははじめ村役人が勤めたのであるが、

いずれ村役人がこれをきらったので、

間もなく博徒がきそって道案内を勤めるようになった。

いわゆる、二足の草鞋である。

時代劇でもお馴染みの『目明し、岡つ引き』で正式には、道案内人ある。

八州役人も土地の事情に通じた博徒などを使う方が都合がよく、

無頼の徒や諸種の犯人を召捕る仕事をしたのである。

生涯凶状のなかった伊三郎は、かようにして八州役人の

手下を勤めたが、

赤城下の三室の勘助も、博徒の親分であり、道案内人であった。

 天保五年春、境町を通りかかった伊三郎は、桐屋という

呑屋で三ツ木文蔵が暴れているのを見た。

主人の金次郎は香具師不流一家の身内であったががどうすることも

出来ないので、無法者であるから、

伊三郎は暴れる文蔵を大道に引き出して十分に打擲したのである。

こうして伊三郎は文蔵、忠治らの恨みを買ったしまったのである。

 

                   つづく



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