4月16日(日)は東京区議選の公示日であった。わたしの姪、加藤木桜子ちゃんが練馬区議選に出る。
桜子ちゃんは、福祉の仕事をする中で、福祉を必要としている社会的弱者を、行政に携わることによって、大きくとらえ直していきたい…との決意で区議へ出馬する決意を固めたようだ。
昨年の5月、わたしの弟である父親の雅義に、自分の意向を話して直ちに行動に入った。6月からは、勤めの合間をぬっては紹介された方々を巡り歩き、駅頭でのアピールもやり始めた。
そして、いよいよ公示を迎えたのである。過酷なスケジュールの中で、いとこである加藤木朗が主宰する、日本芸能「和力」の公演が6月15日(金)「練馬文化センター」であることを知って、自分の住む大泉学園でもやろうと計画してくれた。
彼女は落語では、小三冶・志ん朝が大好きで志ん朝の葬儀にも参列したという。和力も気に入ってくれ、昨年の東京公演ではサポーターとして、力を発揮してくれた。
「4月に選挙が終わるから6月には和力を呼ぼう」と、「練馬文化センター」公演の前日、6月14日(木)に「大泉学園ゆめりあホール」でやることになった。
選挙期間中の桜子ちゃん
「いとこの桜子ちゃんが和力を呼んでくれる」と朗は喜んだ。「大泉学園で和力を知っている人はいないだろうから、桜子ちゃんの身近な人たちに先ず知ってもらおう」…。そのためには人が集まる場所で、和力の宣伝をして6月14日「ゆめりあホール」への参加をアピールしよう。それで選挙初日に「和力宣伝」が計画された。
スケジュールは、午前9時半、12時半に「桜子事務所」横で、14時半にはお風呂屋さんの駐車場で、17時には大泉学園駅前で演奏をすると計画された。
心配していた空模様だったが、幸いに今日は晴れ渡っている。わたしが9時ぎりぎりに大泉学園の目白道路沿いにある「桜子事務所」に到着したら、朗・木村俊介さんが太鼓などを車から降ろして準備にとりかかっていた。
事務所横の歩道に沿って、欅が3本生えている三角形の空き地がある。シートを敷いて二人が座ればいっぱいの敷地に、締め太鼓を2台ならべた。
「鶏舞」の衣装をつけ朗が立つ。野外のそれも道路での演奏だから、衣装は略式であると思っていたら、舞台で使うそのままの衣装を身にまとっている。通りすがりの人たちはそのあでやかな色彩に目を凝らす。
太鼓は中学に入りたての朗の長女・慧(けい)が叩き、木村さんがその傍で笛を奏でる。磊也は修学旅行で来られなかった。
萌え出たケヤキの新芽の下で、伸びやかに重厚に「鶏舞」がすすむ。扇子が柔らかな春の日差しを反射する。観客は、目白通りの向こう側でも観てくれている。
木村さんの「津軽三味線曲引き」がしっとりと響きわたる。次には「だんじり囃子」の勇壮な大太鼓が響いた。
演奏は無事におわった。道路に車を停めて窓を全開にして観ていたのは、子ども連れの親子だった。
「次は12時半ですね」と念押しをして帰る人たちもいる。朗・俊介・慧は休憩して次の出番に備える。
11時半頃、警察から警告が入る。「選挙事務所横での演奏はやめるように」とのことだ。急遽、場所の移動を検討する。100メートルほど先の交差点に、少しの空き地があるのでそこでやろうとなった。
12時半の第2回目を心待ちに、集まってくれた方々は7名もいた。この方々も移動してくれて荷物を降ろし始めた。
朗から「道路使用許可をとっているのか」との問いがある。「そうでないとこんな大きな交叉点での演奏は違法行為になる」…。ここは目白通りの終着点になる、かなり広い交叉点であり、普段から車の渋滞が激しい所でもある。
「桜子ちゃんにも迷惑をかけることになりかねない」…との危惧を朗からしめされ、集まった方々にお詫びをしてここからは撤収した。
選挙の微妙な状況の中だから、違法と思われる事はやめようとなり17時の駅前の和力宣伝演奏も取りやめとなった。お風呂屋さんの駐車場での演奏は大成功だったということだ。
予定していた4回の公演が2回しか出来なかったが、事務所前での宣伝演奏とお風呂屋さんでの演奏が成功したことに、今回は満足しなければなるまいと思った。
中止した駅前での演奏も、今から考えればかなり危険だったように思われる。わたしは確認していなかったが、朗が「駅前を下見しておいた。チラシの配布・宣伝・演奏などを禁止するとの標示があった」と言っていた。
強行すれば多分、パトカーが何台も駆けつけ、取り巻かれるような事態になったかも知れないと今更ながら背筋が寒くなる。「道路交通法違反」・「迷惑条例違反」などという大義名分が取り締まる側にはある。
わたしはかってわらび座に在籍していた。わらび座公演が近づくと、実行委員のメンバーと営業のわたしたちは、豆絞りに半纏を着込んで、スーパーの前・駅前・公園など人の集まる所に出かけて、太鼓を打ち鳴らし踊りをして「宣伝」したものだ。
この頃は今よりのんびりしていた時代だったのだろう。人も集まり、チケットがどれほど伸びたかは分からなかったが、取り組むメンバーの熱気は盛り上がった。
でも25年以上も昔のことである。交通事情も変わり、生活も忙しくなっている。多分、人だかりがして通るのに不便を感じたら、即、携帯電話で110番する人もなきにしもあらずだ。
交番から自転車で警官が駆けつけ、やっさもっさ話をしている内にパトカーが馳せ参じる。それが2台も3台も赤色燈をつける騒ぎになって「道交法違反の疑いがある。暑まで同行をお願いしたい」となれば、事であった。
わたしは、昔のイメージがあったものだから、「大丈夫・大丈夫…」との気安い思いしかなかったのだ。
朗が長野から来たその足で、演奏予定の場所を下見していたのに、わたしは「空間があればできるもの」と思いこんで、下見もしていなかったことの迂闊さを、今では悔やんでいる。
桜子ちゃんは、福祉の仕事をする中で、福祉を必要としている社会的弱者を、行政に携わることによって、大きくとらえ直していきたい…との決意で区議へ出馬する決意を固めたようだ。
昨年の5月、わたしの弟である父親の雅義に、自分の意向を話して直ちに行動に入った。6月からは、勤めの合間をぬっては紹介された方々を巡り歩き、駅頭でのアピールもやり始めた。
そして、いよいよ公示を迎えたのである。過酷なスケジュールの中で、いとこである加藤木朗が主宰する、日本芸能「和力」の公演が6月15日(金)「練馬文化センター」であることを知って、自分の住む大泉学園でもやろうと計画してくれた。
彼女は落語では、小三冶・志ん朝が大好きで志ん朝の葬儀にも参列したという。和力も気に入ってくれ、昨年の東京公演ではサポーターとして、力を発揮してくれた。
「4月に選挙が終わるから6月には和力を呼ぼう」と、「練馬文化センター」公演の前日、6月14日(木)に「大泉学園ゆめりあホール」でやることになった。
選挙期間中の桜子ちゃん
「いとこの桜子ちゃんが和力を呼んでくれる」と朗は喜んだ。「大泉学園で和力を知っている人はいないだろうから、桜子ちゃんの身近な人たちに先ず知ってもらおう」…。そのためには人が集まる場所で、和力の宣伝をして6月14日「ゆめりあホール」への参加をアピールしよう。それで選挙初日に「和力宣伝」が計画された。
スケジュールは、午前9時半、12時半に「桜子事務所」横で、14時半にはお風呂屋さんの駐車場で、17時には大泉学園駅前で演奏をすると計画された。
心配していた空模様だったが、幸いに今日は晴れ渡っている。わたしが9時ぎりぎりに大泉学園の目白道路沿いにある「桜子事務所」に到着したら、朗・木村俊介さんが太鼓などを車から降ろして準備にとりかかっていた。
事務所横の歩道に沿って、欅が3本生えている三角形の空き地がある。シートを敷いて二人が座ればいっぱいの敷地に、締め太鼓を2台ならべた。
「鶏舞」の衣装をつけ朗が立つ。野外のそれも道路での演奏だから、衣装は略式であると思っていたら、舞台で使うそのままの衣装を身にまとっている。通りすがりの人たちはそのあでやかな色彩に目を凝らす。
太鼓は中学に入りたての朗の長女・慧(けい)が叩き、木村さんがその傍で笛を奏でる。磊也は修学旅行で来られなかった。
萌え出たケヤキの新芽の下で、伸びやかに重厚に「鶏舞」がすすむ。扇子が柔らかな春の日差しを反射する。観客は、目白通りの向こう側でも観てくれている。
木村さんの「津軽三味線曲引き」がしっとりと響きわたる。次には「だんじり囃子」の勇壮な大太鼓が響いた。
演奏は無事におわった。道路に車を停めて窓を全開にして観ていたのは、子ども連れの親子だった。
「次は12時半ですね」と念押しをして帰る人たちもいる。朗・俊介・慧は休憩して次の出番に備える。
11時半頃、警察から警告が入る。「選挙事務所横での演奏はやめるように」とのことだ。急遽、場所の移動を検討する。100メートルほど先の交差点に、少しの空き地があるのでそこでやろうとなった。
12時半の第2回目を心待ちに、集まってくれた方々は7名もいた。この方々も移動してくれて荷物を降ろし始めた。
朗から「道路使用許可をとっているのか」との問いがある。「そうでないとこんな大きな交叉点での演奏は違法行為になる」…。ここは目白通りの終着点になる、かなり広い交叉点であり、普段から車の渋滞が激しい所でもある。
「桜子ちゃんにも迷惑をかけることになりかねない」…との危惧を朗からしめされ、集まった方々にお詫びをしてここからは撤収した。
選挙の微妙な状況の中だから、違法と思われる事はやめようとなり17時の駅前の和力宣伝演奏も取りやめとなった。お風呂屋さんの駐車場での演奏は大成功だったということだ。
予定していた4回の公演が2回しか出来なかったが、事務所前での宣伝演奏とお風呂屋さんでの演奏が成功したことに、今回は満足しなければなるまいと思った。
中止した駅前での演奏も、今から考えればかなり危険だったように思われる。わたしは確認していなかったが、朗が「駅前を下見しておいた。チラシの配布・宣伝・演奏などを禁止するとの標示があった」と言っていた。
強行すれば多分、パトカーが何台も駆けつけ、取り巻かれるような事態になったかも知れないと今更ながら背筋が寒くなる。「道路交通法違反」・「迷惑条例違反」などという大義名分が取り締まる側にはある。
わたしはかってわらび座に在籍していた。わらび座公演が近づくと、実行委員のメンバーと営業のわたしたちは、豆絞りに半纏を着込んで、スーパーの前・駅前・公園など人の集まる所に出かけて、太鼓を打ち鳴らし踊りをして「宣伝」したものだ。
この頃は今よりのんびりしていた時代だったのだろう。人も集まり、チケットがどれほど伸びたかは分からなかったが、取り組むメンバーの熱気は盛り上がった。
でも25年以上も昔のことである。交通事情も変わり、生活も忙しくなっている。多分、人だかりがして通るのに不便を感じたら、即、携帯電話で110番する人もなきにしもあらずだ。
交番から自転車で警官が駆けつけ、やっさもっさ話をしている内にパトカーが馳せ参じる。それが2台も3台も赤色燈をつける騒ぎになって「道交法違反の疑いがある。暑まで同行をお願いしたい」となれば、事であった。
わたしは、昔のイメージがあったものだから、「大丈夫・大丈夫…」との気安い思いしかなかったのだ。
朗が長野から来たその足で、演奏予定の場所を下見していたのに、わたしは「空間があればできるもの」と思いこんで、下見もしていなかったことの迂闊さを、今では悔やんでいる。