「東葛合唱団はるかぜ」30周年記念レセプション

2019年09月30日 | Weblog

 

「文化のシャワーを存分に浴び、爽やかな一日になった」と、帰りの車中妻がふと口ずさむ。車の前方を眺めやりながら、まだその余韻に浸っているようである。

9月15日(日)、松戸市森のホール・レセプションホールで「東葛合唱団はるかぜ」30周年記念レセプションが催された。

わたしたち夫婦は、ご案内の栄を賜り参加させていただいた。

 

 わたしは、昔から歌うことに面映ゆさを感じる性格の上、いざ歌うと高い音につられて、自分のパートが保てずあやふやになる。

人の迷惑になるとの思いがあるから、はるかぜの団員にはならなかった。

でもはるかぜの歩みと同じ軌跡を辿ってはいたのだ。

 

はるかぜの創立は1989年3月である。わたしはその誕生のいきさつは知らない。

ある日、ある集会の開幕に「景気づけの太鼓を叩いてほしい」と依頼され、「八丈島太鼓囃子」の下拍子を披露した。

叩き終わると、「はるかぜ合唱団の荒巻ですが」と、初代団長の荒巻忠男さんが駈けよって来た。

「どうでしょう。合唱団に郷土部をつくりたいのですが力を貸してくれませんか」との申し入れである。

わたしは、わらび座の営業活動で全国を行脚していた頃、各地のうたごえ合唱団の皆さんの厚い支援を受けていたから、ご恩返しの気持ちで即座にOKした。

「わたしはわらび座で演技者の訓練を受け、舞台に立っていたこともある。その期間は短く、お伝えできるのは少ない…」、「基本だけなら」と断りをいれ、講師として手ほどきをすることになった。わたしが50才、わらび座を辞し5年目のことである。

月に二回の[郷土部」レッスンをT小学校の体育館で始めたのは1989年9月であった。合唱団はるかぜの誕生から半年たっていた。

参加者は、はるかぜ団員そしてT小学校の在校生数人、父母など15人ほどが集まった。

 

 太鼓を叩くバチも肝心の太鼓もない。

バチはモップの柄をてきとうな長さに切り、太鼓の代わりは車の古タイヤを用意した。

古タイヤを叩くからバチはたちまち真っ黒に変色する。

黒く変色したバチを太鼓に見立てた古タイヤで叩きつづけて数ヶ月、見かねて当時の郷土部部長だった田中真一さん(現はるかぜ副団長)が、私費を立て替えて大胴太鼓一基を購入してくれ、みんなは大喜びした(数十万円もするこの太鼓代金は、1991年第一回はるかぜ合唱団のコンサート収益で補てんされた)。

「バチを左右交互に振り下ろす」、これがなかなか大変であった。

常日頃、リズムよく歌に慣れ親しんでいる合唱団の人たちであっても、右と左のリズムが狂うのだ。

なんとなれば、利き腕はきちんとリズムを刻めるのだが、そうでない手は速かったり仰け反ったりして均等に打つことができない。

「交互打ち」、「二拍子」、「右2回、左2回」、訓練をかさね、秋田の「西馬音内寄せ太鼓」の上拍子・下拍子で演目として完成したのは、どのくらい時間がかかっただろうか。

あわせて踊りでは「ソーラン節」、「秩父音頭」・「常磐炭坑節」・「壁塗り甚句」などを始めた。

基本が身に付くとみるみる上達し、田楽座などの「講習会」に参加、「豊年太鼓」・「銚子の早打ち」などを部員たちは会得していく。

月々の会費を積み立て、時おり入る「演奏依頼」の謝礼金で、締め太鼓、大胴・そして法被(ハッピ)などつぎつぎに揃えていったのだ。

 

 わたしが在籍したのは、7年ほどだったように思う。

思い出深いのは、岩手の「さんさ踊り」を仕上げたことである。

わたしは「わらび座」を初めて観て圧倒されたのは、この「さんさ踊り」だった。「日本にもこんなに躍動的な舞がある」とびっくりした。

わらび座に入って「さんさ踊り」を習い覚えて、舞台でも小集会でも踊る機会はたくさんあった。

郷土部の人たちに伝授したいと、太鼓の叩き方や所作、踊りの構成を少しづつ思い出し、何回目だったかの「はるかぜコンサート」で舞台に上げ、踊りきったときは万感胸にせまる心地がした。

次には、わたしが舞台で演じて大好きだった、福島県の「念仏じゃんがら踊り」を…と願ったが、会社勤めの繁忙が重なりレッスンから遠ざかってしまう。

 

 レッスンに通えなくなったが、郷土部との縁はつづく。

二年に一回開催される「はるかぜコンサート」の度ごとに、郷土部は演目の強化につとめ、その講師として、加藤木朗を呼んでくださるのだ。

わたしはその講習会に、「和力」の記録係としてカメラをもって常々参加している。

その上わたしは、「はるかぜコンサート」で、ここ何回か「表方」の責任者として指名を受け出張る。

なにせ二千名を超える座席をもつ「森のホール・大ホール」だ。開場前には長蛇の列が渦巻く。

「受付」、「精算」、「会場」などのスタッフは30名を超える人員だ。

それを支障なくさばくのに、わらび座や和力での経験がおおいに役立つ。

今年5月の森のホールでの「30周年記念コンサート」は、1500人以上の観客だった。

 

 そしてこの9月の「レセプション」には、ゲストとして「和力」をよんでくださっている。

わたしたち夫婦は勇躍して会場に向かったのである。

そうではあるが、わたしはひとつの懸念を抱える出席でもあった。

「乾杯の音頭をおねがいしますね」と、前もって太田幸子団長から仰せつかっていた。

わたしは、文章を書くのは好きだが、人前でしゃべるのは苦手なのだ。

話している内に辻褄が合わなくなる。文章だと消したり加えたりして直せるが、言葉に出すとそうはいかない。

乾杯の音頭などは、苦手中の最たるものである。

しかし指名された以上は、成し遂げねばなるまい。依頼されて開会まで一月以上、どのように乾杯の発声するか、いつも気持ちに突き刺さっていた。

原稿に書いて大筋を記憶しいよいよ当日がやって来た。

プログラムには、「団長挨拶」、「指揮者・ピアニスト」など講師のあいさつの後「乾杯」となる。

わたしは「郷に入れば郷に従え」と、みなさんのあいさつに身を浸す。それでずいぶんと気分が楽になったばかりか、お祝いの雰囲気が身の内から沸いてきた。

「合唱団はるかぜの誕生から半年ほど経って『郷土部』を設立しました。太鼓がないから古タイヤを叩いてバチはまっ黒け」……。

原稿になかった『郷土部』設立のいきさつを冒頭にはさんで、「合唱団はるかぜそして郷土部が、両輪の花としてこれからも地域に根ざして咲きつづけることを祝い乾杯」。

 

 会食・歓談をはさんでⅡ部にうつる。

「はるかぜの演奏」、「郷土部の演舞・太鼓演奏」、ゲストの「ダンス」・「バリトン独唱」、「ピアノ演奏」など座が盛り上がる。

そして「和力」の「獅子舞」・「三味線独奏」・「だんじり囃子」が披露された。

「和力の演奏をようやく観れたよ」と、お祝いに駆け付けた都内の合唱団が喜んでいたと、太田幸子団長が後に語ってくれた。加藤木朗が「うたごえ新聞」に連載している「とっぴんぱらりのぷう」を愛読してくれている方であろう。

いろんな出会いがあり、和・洋の文化が混然一体となり、多彩な文化の厚みを感じられ、「文化のシャワー」を浴びることができた、「東葛合唱団はるかぜ」30周年記念パーティであった。。

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