馬と人間の仲介役に…手付かずの地を独力で開拓
「馬森牧場」を開いた女性の思い
2022年4月23日(土)
長く続くコロナ禍がきっかけで住まいや仕事を変えた……という人も多いのではないでしょうか。
変化を求める時には何事も覚悟を必要としますが、導かれるままに千葉県南房総市へ移住し、自らの手で牧場を開いた女性がいます。
さまざまな分野で活躍する女性たちにスポットライトを当て、その人生を紐解く連載「私のビハインドストーリー」。
今回は南房総市で馬森牧場をたった1人で運営している菅野奈保美さんの前編です。
馬とは無縁だった菅野さんが、なぜ女手一つで手付かずの地を開拓して牧場を始めたのか。じっくりとお話を伺いました。
「馬森牧場」を経営している菅野奈保美さん【写真提供:菅野奈保美】
◇ ◇ ◇
◆未開の地だったこの場所になぜ馬森牧場を作ったのか
「気持ちが良いってことですね」
菅野奈保美さんが緑豊かな千葉県南房総市に移住したのは今から15年前、2007年夏のことでした。
「景色もすごくいいし、立っているだけで気持ちが良い。連なった山の峰が発するエネルギーのようなものを直感的に感じ、心地よさを覚えました。 『ずっとここにいられるな』と。そこで『次の物件はいいから、ここで決めちゃってください』と不動産会社さんに話し、即決したんです」
そうして、当時で築3年だった新しい家を購入。
ただ、牧場を始めるためには、目の前に広がる手付かずの森を開拓する必要がありました。
「元々真っ暗で不健康な森でした。一年中葉っぱが落ちない常緑樹が生い茂った風通しの悪い森だったので、落葉樹を残して増えすぎたヤブニッケイなどの常緑樹を伐採。秋になると葉が落ちる落葉樹の多い森を目指して管理しています。年に2回くらいは専門の業者さんにお願いしますが、後はすべて自分で」
それまでの菅野さんは、木を切り倒したことも、土地を整備したこともありませんでした。
何のスキルも持っていませんでしたが、「自分で経験しながら学べるのはいいチャンス」と前向きだったのだそう。
約5年かけて土地を開拓して整備し、2012年には「馬森牧場」をプレオープンしました。
その後も土地を購入して拡張を重ね、10年以上にわたって整備と管理を続けています。
菅野さん自ら重機を扱い、整備している【写真提供:菅野奈保美】
◆「馬がどういう動物であるのかをお伝えするのが私の仕事」
馬森牧場は単なる乗馬体験の施設ではありません。
菅野さんは「皆さんに馬という動物がどういうものであるのかをお伝えするのが、私の仕事」という使命感を抱いているそうです。
「人間と馬との歴史は、まずは馬を食べることから始まりました。馬はずっと人間の食糧だったわけで、今でもほとんどがそうです。しかし、畜力を必要としなくなった現代にも馬の命がつながっているのは、人間に『馬が好き』という熱い思いがあったから。 でも、馬たちは人間の言葉を話すことができません。そのため、物言わぬ馬たちが何をどう思っているのか、今どんな感じ方をしているのか、どういう感情を持っているのかという、馬の本能や感情を皆さんに伝えられたらと思い、牧場を運営しています」
旅先で馬とのふれあいや乗馬を体験する観光客も多いですが、初対面で馬とコミュニケーションを取るのは意外と難しいものです。
馬の頭を撫でようと手を出してみたものの、嫌がられた経験を持つ方もいるのではないでしょうか?
でも、菅野さんによると「それは当たり前」なのだそう。
「いきなり知らない人がやってきて頭を撫でようとしたら、人間だって嫌ですよね? 目の前にパッと手が伸びてきたらびっくりするし、圧が強い。それに馬は人間と違って目が横に付いているので、距離感が掴みにくく、ピントが合うまで時間がかかります。だから後ろにのけぞったり、離れたりして嫌がる個体がいる。急に近寄って驚かせるよりも、静かに何もしない人の方が馬にとってはスマートでありがたいのです」
言われてみればその通りですが、意外と気付かない方も多いのだそう。
そこで菅野さんは「馬のものの見方が人間と違うこと、人間との仲介役になれたら」と思っています。
畜舎の掃除も菅野さんが行う【写真提供:菅野奈保美】
◆実際に馬を飼うことで見つけた知識だからこそ「発言力が強い」
そんな思いからスタートした馬森牧場。
始めた当初は馬に会いに来てくれる方なら誰でも受け入れていましたが、個人宅に見知らぬ人を招くのはリスクが大きく、さらには怪我や事故、トラブルに見舞われることもありました。
1人での牧場経営は菅野さん自身が振り回されることも多く、あらゆる面で無理があったのです。
「例えば、お客様の対応中に電話を取ることも難しい。電話が突然かかってきて『駅まで迎えに来てください』と言われても、対応ができませんでした」
そこで現在は、予約制のプライベート型牧場という形で運営しています。
「現在は予約制にして見学も受け入れていないので、馬に対する熱い思いと熱意を本当に持っているお客様しかお見えになりません。とても礼儀正しく、丁寧な対応をしてくださる方が多いですね。繰り返し来ていただくリピーターのお客様が多い印象ですが、初めての方でも“考える力”のある方でしたら積極的にお迎えしたいです」
この数年はコロナ禍の影響もあり、お客様の質も変化してきたといいます。
「お客様の考え方の質といいますか、馬のことをじっくりと考える方が増えたように感じています。今までは世界中どこへでも飛んで行けましたが、皆さんがコロナ禍によって自宅で過ごす時間が増え、出かけたとしても住んでいる地域にとどまることが多かったのではないでしょうか。 そんな時、うちのウェブサイトやYouTubeチャンネルをたまたま見ていただき、『馬の視点ってどういうものなんだろう?』と興味を持ってくださる方が多かった。そのため。じっくりと馬について考える方が一気に増えたようです。そういったことは今までになかったことですが、私にとってはありがたい波でした」
菅野さんから感じられる馬への熱い思い。
とはいえ、これまで馬に関わるお仕事を一切していないため、すべて独学でした。
その間には危険なこともあったそうで、「3回骨折しました」と苦笑混じりに語ります。
「現在は日本語に翻訳された優れた馬の本があり、セミナーを開く方もいらっしゃいます。また、インターネットを検索すればある程度の情報が得られるんです。でも、15年前は『お金を払いますので教えてください』とお願いしても門前払い。誰も教えてはくれませんでした。だからまずは馬を飼って、扱い方も知らないまま怪我をしながら、手探りで学んできました」
誰にも教わらず、実際に馬を飼うことで身につけてきた知識だからこそ語ることができると、菅野さんは語気を強めます。
「すべて自分のもの。だから発言力が強いんです」
そうは言っても、3度の骨折は菅野さんに馬への恐怖心を植え付けました。
「しばらくは馬に乗れなかったし、近寄ることもできない」状態だったそうですが、定期的なトレーニングが必要になるため「行くぜ!」と気合を入れ、時間をかけて丁寧に根気よく馬と向き合ってきました。
それもすべて馬のためです。
「何もできずに年を取った馬というのは、肉になる以外の道がない。人間でいうと、最低限の人と生きる上でのマナー、そして仕事ができる能力を馬にもつけてあげないといけない。犬や猫と違い、生きるだけで多額の維持管理費と場所を必要とする馬は、持ち主に何かあった時にそうそうもらい手が現れないのです」
「『怖いからやめておこう』という選択肢はこれっぽっちもなかった」とも語る菅野さん。
それこそが、自身ならではの馬に対する愛情表現なのです。
菅野さんの愛馬のドウ(写真左)とシャイン【写真提供:菅野奈保美】
【写真】2007年に移住した当時と現在の美しい姿 ビフォーアフターにびっくり! うっそうとした未開拓の土地だったが菅野さん自らが整備した
◇菅野奈保美(かんの・なおみ)
幼少期に各地を転々とし、社会人になってからは美容外科のビフォーアフターをネット上で公開する仕事に就く。30代の時に訪れた府中競馬場で“音が聞こえなくなる”という不思議な体験をしたことから、馬とともに生きていく人生を選択。1年も待たずして当時住んでいた神奈川県から千葉県へ移住した。2012年に「馬森牧場」をプレオープン。現在までに多くの来場者に乗馬体験だけでは得られない馬の生き方や感性を伝えている。同牧場はテレビ番組のロケで使用されることもしばしばある。
Hint-Pot編集部・出口夏奈子